SGRAかわらばん

  • 2009.06.03

    エッセイ208:趙 長祥「零落黄泥碾作塵、惟有香如故」

    ―キャンパスにアカシア花の香りが漂う季節への寄語― (キャンパス生活シリーズ①)   光陰矢のごとし。今勤めている大学のキャンパスに来てから、まもなく1年間半になる。このキャンパスは、青島市のダウンタウンより約20キロ離れたところで、中国道教一の名山―崂山の近くにある。青島市の東に位置し、海からそう遠くないためか空気がわりときれいなところで、まだ自然がかなり残っている。現在開発が進んでおり、開発につれて将来はどうなるか分からないが、今のところはこの土地の空気に満足している。キャンパスは標高約100メートルの山に囲まれた盆地のような所にある。キャンパスの面積はかなり広く、2002年から建設がはじまり現在も続いているが、広々としたオープンな感じである。赤い瓦屋根の建物と緑溢れる木々と交錯に輝き、キャンパスのメインの色調となっている。    キャンパス南東の一隅には約50メートルの高さの丘がある。その丘は住んでいるところから近いので、私の休憩地にもなっている。夕食後に散歩しながら、よくこの丘の頂上まで登り、キャンパスの全景と周りの景色を見下ろしている。特に春から夏に移り変わる時、無名の小さな花がいっぱい咲き、木々の緑が溢れる季節に、頂上の岩に座り、野鳥の鳴き声と少し遠い村からの犬吠を耳にし、空が夕日に赤く染められて、一偶には薄い霧が立ちこもって悠々とした雲のように映り、一日の仕事の疲れやストレスも忘れて、なんとも言えない気分となる。    私が好きな季節は5月と10月である。5月は、溢れる緑とキャンパスに漂うアカシアの花の香り。10月は、黄色と赤の葉に染まる豊かな季節である。その中でも、ベストは春から夏へ変わる今の季節であろう。丘の半分を覆うアカシアは、緑の葉の間に稲穂のような白い花をたくさん着け、近くにいけば馥郁たる香り、遠くてもキャンパスに淡く清らかな香りが漂う。私にとって、その香りは大きな癒しである。淡く、淡く、体中に深く。   つい最近、ある満月の夜に頂上に登ってみると、心の底まで響くような景色を脳裏に刻むこととなった。丘には草が茂り、木々は点在し、或いは偏って茂っていた。白い月の光が丘全体に清く輝き、木々の枝がそよ風とともに舞い始め、揺れている枝葉が月の光を様々な形に切り込み、岩や草に小さなシャドウを与えていた。昼には見えないユニークな景色。夜遅いせいか、近くの川から蛙の鳴き声、少し遠い村からの犬吠、グラウンドから学生達のバスケットボールの音、天空に静かに光っている星、眠りに入っていきそうなキャンパスの街路灯、空気に漂うアカシア花の香り、木々の枝葉を揺する微風、とても詩的な絵のようであった。    アカシアの原産地は北アメリカであり、平均気温8-14℃、年間降水量500-900ミリのところを好む。1877年に中国に導入され、その強い適性、速い成長性、容易な繁殖性、広い使い道などの特徴があるため、華北、西北、東北南部の広い地域に植えられている。   私がアカシアの花を好む理由は幼いときの経験に由来する。あの頃、中国全体が現在と違って、貧しい時代であった。特に、農村部では都市部の発展より一段遅れて、一日三食のために懸命に生きていた時代であった。たとえ一日三食は満足できたとしても、現在の豊かな三食とは全く異なる時代であった。我が家の裏庭には、母が植えた大きなアカシアと棗の木があった。春と夏の変わり目にはアカシアの花の香り、夏に入ると棗の花の香りが庭中に漂っていた。我が家の生活も豊かになり、少年時代の私にとっては楽しいシーズンであった。稲穂のようなアカシアの花が満開になって枝々から垂れ下がる頃、私はいつも背に籠を背負い、高いアカシアの木に登って、アカシアの花をいっぱい摘んだ。その花を使って、母は様々な形で(炒めたり、蒸したり、饅頭にしたりなど)我が家の食卓を豊かにした。どんな形にしても、その特別な香りは部屋中に漂う。その香りを伴って少年の私は成長していた。30年が経った現在でも、脳裏に刻んでいたように、この季節になるとその香りは記憶として頭に浮かび、写真のように目の前に写ってくるのである。アカシアの花の香りは私にとって特別な香りであり、特別な記憶でもある。   時を経て、生活が豊かになった現在では、都市部でも農村部でもアカシアの花は人々の主食ではなくなり、天然の緑色野菜として人々の食卓を豊かにし、人々の舌の味わいを調節する役目に変わっている。しかし、どのような時代に切り替わっても、私にとっては、アカシアの花の香りは相変わらず特別な香りであり、依然として特別な記憶である。私はこのような詩でアカシアの花を歌う「零落黄泥碾作塵、惟有香如故」。すなわち、泥に陥っても、塵に変わっても、依然としてその香りが漂う。   今、ちょうど、アカシアの花の香りがキャンパスを漂うシーズンである。心の底に沈んでいた感触を甦えらせて、このエッセイに書き入れた。   *キャンパスと丘の写真   ----------------------------------  <趙 長祥(チョウ・チョウショウ)☆ Zhao Changxiang> 2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士取得。現在、中国海洋大学法政学院で講師を務め、専門分野はストラテジックマネジメントとイノベーション。SGRA研究員。 ----------------------------------   2009年6月3日配信
  • 2009.05.27

    エッセイ207:包聯群「ノモンハンの戦跡を訪ねて」

           1.シンポジウムの開催と田中先生のモンゴル関係の著書   来る7月3~4日にモンゴル国の首都ウランバートルにてSGRA、モンゴル国家文書局、歴史アカデミーの共催によるノモンハン事件70周年を記念する国際シンポジウムが開催されます。シンポジウムでは、一橋大学の田中克彦名誉教授が基調講演をされるということを伺っております。   田中克彦先生の著書は数多くあります。言語学、社会言語学以外に、モンゴル関係のものもあります。例えば:『草原と革命―モンゴル革命50年』(晶文社, 1971年)、『モンゴル革命史』(未來社, 1971年)、『草原の革命家たち―モンゴル独立への道』(中央公論社, 1973年)、『モンゴル―民族と自由』(岩波書店, 1992年)等があり、翻訳書には、『モンゴルの歴史と文化』(ワルター・ハイシッヒ著)(岩波書店, 1967年)、『ノモンハンの戦い シーシキン他』(ワルター・ハイシッヒ著)(岩波書店,2006年)等があります。   さらには、ノモンハン事件70周年を迎え、6月19日に著書が発売されます。実は、出版予定のこの本は5年前からすでに準備段階に入っていました。それは田中先生の「ノモンハン事件70周年を迎えるまでに本を書きたい」という会話から始まったと考えられます。    2.田中先生と一緒にノモンハン戦跡へ出発   2005年9月の初めごろ、私は案内役として田中先生と一緒に成田空港から北京経由で大草原にあるフルンベール市に到着しました。そして、事前に知人を通じて連絡を取ったフルンベール大学の先生と一緒に、嘗て戦場の一つであった中国内モンゴルのフルンベール新バルガ左旗を見学する旅が始まりました。   新バルガ左旗は地理的にフルンベール市より約200キロメトール離れており、汽車は運行しておりません。旅では、安全性や時間の節約等を考えなければなりません。長距離バスより、タクシーで移動したほうが便利であると田中先生より指示があったため、フルンベール大学の先生が知人の運転手さんを紹介してくれました。その運転手さんは20代後半の若者で、真面目な人でした。   9月4日の朝、フルンベール市から目的地へ出発しました。車は、まもなく都市を後にし、青空のもとで、大草原を走り始めました。草原を吹き抜ける風、野生の花々等、自然の美しさを改めて感じた旅でもありました。   3.“大変”な道路状況と宿泊条件   車をしばらく走らせた後、休憩を取って皆で昼食をし、午後の旅が始まりました。実はこれが“大変な旅”の始まりであったことは事前に知るよしもありませんでした。黒竜江省のハルビン市までの国道は整備されていたのですが、それ以後は、舗装がなかったり、あるいは道自体がないところを走ることになったりで、それは想像以上に大変なことでした。   幸いなことに運転手さんは自己管理がうまく出来る方で、2時間走るたびに休憩をとり、集中力を維持し続けることができました。夕方になる頃、やっと目的地の新バルガ左旗の政府所在地に到着しました。そこで、フルンベール大学の先生の知人である新バルガ左旗文物管理委員会の責任者が加わり、運転手さんもいれて総勢5人で、ノモンハンの戦跡から近いところにある観光用のモンゴル「ゲル」(家)に泊まることにしました。   私にとっては、初めての野外宿泊の体験でした。しかも「ゲル」と地面の間は下から10センチほど布も何もない。夜は蚊が喜んで飛んで入ってきました。そのため、夜はなかなか眠れませんでした。   4.嘗ての戦場を訪ねて   翌日は早朝からノモンハン戦争が激しく行われた現場(ノモンハンブルド地区)へ車で向かいました。一時間以上走ったところで、中国とモンゴルの国境線が見えてきました。皆車から降りて、文物館の責任者の案内で、当時の戦争で使用していた実物などを展示してあるゲルや、野外にある「平和」モニュメントなどを見学しました。後者は、国境線付近にあり、戦争時の鉄砲の弾頭で円形をつくり、真ん中に弾頭で“和平”という文字が組み立てられていました。   その後、戦場の休憩所跡、中国国境内を流れるフルスタイ河(蘆がある河という意味)、「ブルドオボー)」(清朝のとき、境界線として設置されたが、後に犠牲者を祭るようになった。コンクリートで作られた「台」、縦と横の長さが1メートル以上、高さ1.3メートル以上もある)等を訪れ、戦争の残酷さを改めて実感し、世界がいつまでも平和であるようお祈りを捧げました。   田中先生は日本酒とノモンハン桜を戦争犠牲者に捧げ、冥福をお祈りされました。ノモンハン桜というのは、フルンベール草原の植物類の一種です。高さが40cmくらいで、そこに咲く花の色や形は桜ととても似ています。当時、故郷を偲ぶ人々がそれを“ノモンハン桜”と名付けたそうです。   午後は、現地から離れ、その日の夜に約130キロ以上も離れている満洲里市に着きました。翌朝、中国とロシアの国境線に行き、そこにある貿易城を見学し、午後にはフルンベール市に戻りました。   5.あとがき    この旅で田中先生をご案内させていただき、無事に旅を終えることができてよかったです。現場を訪れているときに、先生は「数年前に私は、モンゴル国側のほうからこちらを眺めていたよ。私にとって双方から戦場を訪れることができたのは大変意義のある旅でした」と話されていました。この旅が先生が出版されるノモンハン事件の本に少しでもお役に立ったのであれば、私にとってそれが何よりうれしいことです。   ノモンハン戦跡の写真   ------------------------------------ <包聯群(ボウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、内モンゴル大学を卒業。東京大学から博士号取得。東北大学東北アジア研究センターの客員研究員/教育研究支援者。現在モンゴル語と中国語の接触によるモンゴル語の変容について研究をしている。SGRA会員。 ------------------------------------   2009年5月27日配信
  • 2009.05.20

    エッセイ206:葉 文昌「パリ」

    3月に国際学会でパリへ行った。夜の12時に台北を出発した飛行機はパリ現地時間の6時頃に到着した。パリは緯度的にはサハリンと同じなので、台湾では少し暖かくなっていた時期でも東京の真冬のように寒かった。     パリといえばファッションとデザインである。あえてもう一つ言うならば映画の”Taxi”だろうか。登場人物のいい加減さが印象的だ。これが本当ならなぜそのいい加減さでTGV(高速列車)や三角翼戦闘機のような素晴らしい工業製品が作れるのか不思議になる。だからどのような姿を見せてくれるか胸は高まる。飛行機を降りてシャルルドゴール空港内の丸みのある起伏がある連絡通路を通ったとき、シンプルながらとても綺麗に思った。ターミナル間連絡無人運転電車に乗って市内への地下鉄駅に行く。台北の都市電車もフランス製の無人運転システムだ。なかなかの技術だ。     しかし地下鉄駅へ入ったとたんにパリの華やかな印象が崩れそうになる。構内のいろいろなところに落書き。そしてそれは電車が走る沿線の壁面のすべてにあった。電車内もあまり綺麗ではなく、窓にはひびがはいっていた。途中で老婦人が空いている椅子すべてに紙切れを置いていった。そしてしばらくしてなにやら言ってそれらの紙切れを回収した。しばらくたつと10歳ほどの少年が車両に入ってきた。最初になにか全員に話した後に乗客一人一人に手を出してくる。1997年ごろにニューヨークへ行ったときも見た光景だ。物乞いなのだろうか。     1時間ほど乗って、電車はポリテクニック大学がある駅に到着した。着いたはいいが、どこにも英語らしき標識が見当たらない。パリ滞在中ずっと感じたことであるが、パリは外国人にとても不親切な場所である。英語がグローバルスタンダードになったことを未だに拒んでいるようにも見える。それはそれで気骨あるとは認める。しかし世界のほとんどの国が英語を公用語と認める現在となっては、それは単なる意地にしか見えなくもない。また同じく地下鉄での経験であるが、泊まるホテルの最寄り駅では改札口にあった唯一の自動発券機が故障したままなんの注意書きもなく放置されていた。だからそれを知らない人々が改札の前で試しては諦める光景を翌日も、翌々日も見ることになった。やむなく地上へ上がって有人窓口で乗車券を買うことになるのだが、駅員もやる気がなく、どことなく役所的雰囲気を漂わせていた。これに関してはアジアの方が(と言ってもよく知ってるのは日本と台湾であるが)、ハキハキとして顧客のことを考えてくれる気がした。     なんとかしてポリテクニック大学にたどり着く。大学はとても広くゆったりとしており、建物は高くても3階建てであった。何よりも印象に残ったのがあちこちの建物の壁いっぱいに描かれた壁画であった。立派なアートが構内の隋所に散らばっているんだなと思ったのだが、その中で一つ気になる壁画を見つけた。それはちょっと前の、人の影がipodを持って踊る広告の壁画で、しかし持っているのはipodではなくAbsolute Vodkaであった。そこで気付いた。これらはすべて落書きだったのである。建物に入ると真っ白な壁面にも、階段の裏にも、至る所に落書きがある。ちょっと驚いた。どういうメッセージが込められているのかとても興味あったが、残念なことに言葉がわからない。それにしてもこれらの"壁画"は大学がアートと認めて描かせているのか、それとも大学が取り締まっても取り締まりようがないから放置したのか。フランス滞在経験のある人たちに聞いてみたが、この疑問は最後まで氷解することはなかった。     僕はキャンパスを歩き回るのが好きだ。どこの社会でも若い人達の独特の雰囲気を感じることができるからだ。台湾を出て初めて日本のキャンパスに入った頃のことを思い出した。早稲田のような大学では、大学の入り口近くに政府や大学当局への批判のポスターがある。目上の人に対して批判的でも自分の意見を言ってもいいんだな、と自由を感じた瞬間だった。アメリカのキャンパスも髄所に貼られたポスターからして学生の自己主張は強かったし、学生活動がバラエティーに富んでエネルギッシュであることを感じる。韓国もそうだった。それに比べると台湾のキャンパスは限りなくおとなしい。ポスターを貼るには許可が必要だし、規定の場所にしか張れない。もっとも部活動も盛んではないが…。修士課程へ入学するための受験勉強でもしてるのだろうか。逆に台湾の将来が不安になる。因みに日本の人は自分を儒教の国と言うことがあるが、儒教の教えでは目上の人に異論を唱えてはならない。だから台湾の僕から見ると日本はもはや儒教の国とは言えず、かなり西洋文化を取り入れてる国のように思えるのだ。     学会を終えた後の週末はパリの街へでた。二年前にローマへ行ったのでまだその印象が残っていたので、それに比べるとパリの建物は華麗ではあるが、どこかインパクトが足りないし、街も人工的すぎて面白さに欠ける。やはりローマが格別だったのだ。パリではノートルダム寺院から凱旋門まで歩いた。途中で公衆トイレを探したがなかなか見つからず、シャンセリゼ通りの近くでやっと一つ見つけた。トイレは小さいながらも管理人が一人居て、チップを渡すことになっている。しかも洗面台はなく、用後に手を洗えなかった。僕も含めて大抵のアジア人はこれを見てアジアの方が住みやすいと思うに違いない。しかしチップを渡すことも、洗面台がないことも、ひょっとしたら環境への配慮かもしれない。利便性はときとして代償を伴うものだから。だとしたらフランス人はアジア人よりも思慮が進んでいることになる。     最後にもう一つパリが世界に誇るものがある。それは美食である。ステーキを極めてみた。それは見てわかるメニューが”Beef”しかなかったという理由もある。フランスでは好みの焼き加減を聞かれず、出る牛肉は全部半生だった。健康的な牛肉でとても美味しかったけど、でも東京で食べる不健康な霜降り牛の方が感動した。同じ不健康な食品といえばフォアグラがある。帰り際の空港でフォアグラを買って帰った。おかげでパリの余韻は帰国後1週間残った。   ----------------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。 国立台湾科技大学電子工学科で今年になってやっと副教授に昇進。現在薄膜半導体デバイスについて研究をしている。 -----------------------------------------   2009年5月20日配信
  • 2009.05.13

    エッセイ205:今西淳子「我家の新型インフルエンザ物語」エッセイ205:今西淳子「我家の新型インフルエンザ物語」

    第一幕:ドラマのはじまり   4月22日、交換留学中の末娘から「自分は丈夫だと思って油断してました。昨日は、インターンシップをしている会社にいって、寒気と体の痛みがひどかったので、早退させてもらって、一日休養。よくなったと思って、普通に会社と授業に行って、21時すぎに帰宅したら、また悪化。今日も早く寝て、明日よくなってもらわないと」とのメールが届いた。病気などめったにしないのに、鬼の霍乱!しかし、23日には「午後いっぱい寝て、体を温めていたので、調子良くなった気がする」というので一安心。問題は、娘の留学先がメキシコ市の大学だったこと。   第二幕:偶然の一致   4月25日夜、出張中のソウルのホテルでメールチェックをすると、米国アトランタ市の疾病予防管理センター(CDC)にインターンシップで行っていた長女から「CDCは予想以上におもしろい。部署によっては50%以上のプロジェクトがインターナショナル。何よりも疫学の質はきっと世界一。Outbreakがあればどんどんスタッフを現場に送り出してるし、すごくダイナミック」と非常に満足した様子。ところが次のメールを見て驚いた。「妹はまだメキシコに居るよね。豚インフルエンザに気を付けて。相当深刻みたい」。   え?豚インフルエンザ?何それ?次のメールは、ヤフー・ニュースの記事。「メキシコで豚インフルエンザによって何十人も死んだ疑い。懸念されるグローバルな感染拡大を防ぐため、首都の学校や博物館や図書館を閉鎖」。そして、テレビでも同じニュースが始まった。まず最初に思ったこと・・・メキシコ留学中の娘の風邪が治った後でよかった!だけど、まさか、豚インフルエンザじゃないよね。誰にもうつしていないよね。そして、もうひとつ、何故、長女がCDCで末娘がメキシコに居る時に、こういうことが起こるの!   メキシコに電話。娘は、ちょうどスーパーで買い物をしているところだった。「突然学校が休みになっちゃった。皆がマスクをしている。私はもう大丈夫。会社の人にも、ルームメートにもうつってないから豚インフルエンザじゃないよ。インターンもボランティアもお休みで、やることがなくなっちゃった。せっかく留学の最後の1ヵ月、いろいろやろうと思っていたのに。ぺルーやアルゼンチンにも行こうと思っていたのに。」   第三幕:パニック   4月26日のソウルから東京への帰途はそんなにひどくなかった。成田に着いた時の検疫も韓国便は普通通り。検疫官がマスクをしていたけど。 だけど、それから社会がパニックになった。主にテレビ。そして新聞。それに大臣も?WHOが危険度レベルを連続してひきあげた。   第四幕:感染症危険情報(外務省海外安全ホームページ)4月28日    《渡航者向け》:「不要不急の渡航は延期してください。」 《在留邦人向け》:「不要不急の外出は控え、十分な食料・飲料水の備蓄とともに、安全な場所にとどまり、感染防止対策を徹底してください。」「今後、出国制限が行われる可能性又は現地で十分な医療が受けられなくなる可能性がありますので、メキシコからの退避が可能な方は、早めの退避を検討してください。」   第五幕:国際電話   娘「メキシコの大学からメールがきて、5月21日の学期が終わる前に帰国しても単位をとれるようにします。帰国する人は連絡くださいって。留学生や地方に住んでいる人たちは帰った人も多い。でも、こっちの日本企業の人たちは、家族を帰しても、自分たちは帰らないみたいだよ。」 母「日本国政府が退避するように言っているよ。」 娘「もう!なんでこんなことになるの!まったく厭になっちゃう。。。」 母「CDCのお姉さんが、1~2週間でおさまるOutbreakじゃないし、検査すれば検査するだけ患者はみつかるだろうから、もし出られなくなっては困るから早めにメキシコを出る方法を見つけたほうがいいと思うって言っているよ。」 娘「う~ん。それじゃ帰った方がいいかなあ。」 母「出発前にその咳を治してね。みんなに嫌がられるし、成田で隔離されちゃうから。」   第六幕:日本の大学から娘へ   こんにちは。豚インフルエンザについて大学でも話し合いが行われ、「現在メキシコへ交換留学している学生はすみやかに帰国するように」という大学の結論になりました。今西さんには至急帰国を検討していただき、改めて帰国日をお知らせ下さい。なお、6月までこのまま留学を継続したいとのことであれば、自己の責任において留学継続を希望するということをご理解下さい。帰国するか、6月まで継続するのか一度国際交流センターまで連絡してください。 (その後、日本の大学からは、帰国後10日間は自宅待機するようにという指示があった。)   第七幕:帰国   5月6日午後5時成田着。連休の最終日だったけど、空港は意外と空いていた。機内検疫もあるからさぞかし時間がかかるだろうと覚悟を決めて迎えにいった。夕方は北米から到着する便が多いためか、税関からでてくる人が皆マスクをしているのに異様な感じを受けた。大きなカメラをかまえた報道関係の人もいた。しかしながら、思ったよりも早く、到着から1時間くらいで、マスクをした娘がでてきた。「飛行機はがらがら。駐在員の家族ばかりだったよ。」「帰ってきちゃったって感じ。だって、今日からメキシコでは学校が始まったんだし、帰らなくてよかったかなあ。皆、日本に帰ったらパニックだと話している。メキシコの人々の生活は普通ですよ、と言っても、メディアはとりあげてくれないんだって。」「でも、メキシコの人たちに、また帰ってくるって約束したんだ。これから就活して、就職を決めて、秋にまた行く!」 (豚インフルエンザはこれから夏にむけておさまるけど、秋にはまたぶり返すかもと言われているんですけど。。。)   第八幕:電話   保健所「成田の保健所から、今西さんが5月6日に海外から帰国されたとの連絡がありました。どこからお帰りになったのですか。」 娘「メキシコです。」 保健所「いつからいらっしゃっていましたか。」 娘「昨年の8月からです。」 保健所「帰国してから体調が変わったことはありませんか?熱がでたとか、呼吸器の障害がでたとか」 娘「特にありません。元気です。」 保健所「それはよかったですね。でもご存知だとは思いますが、新型インフルエンザは潜伏期間が10日ほどありますので、5月16日までは、なるべく外出は避けて人と接触なさらないようにしてください。」 娘「はい。わかりました。」 保健所「お手紙もだしましたが、もし熱がでたりしたら、昼間ならば保健所へ、夜ならば発熱相談センターに連絡してください。」 娘「わかりました。ご苦労さまです。」   終わらない終幕:   私の所属するCISVという異文化理解と平和教育のグローバル組織では、この夏、メキシコで5つのキャンプの開催が予定されている。それぞれが11歳から18歳までの青少年を対象としたプログラムで、メキシコでは約200人を受け入れて同数を派遣する予定。お隣のアメリカでは660人以上を受け入れて同数を派遣する。この組織では、毎年、世界各地でキャンプを開催し、約8000人の青少年が参加するが、参加者の親たちから各国の協会事務局やボランティアへ問い合わせが殺到している。メキシコで開催するかどうかを何時どうやって決めるのか。スペインで感染者がでたけど、スペインのキャンプへ子供たちを送るのか。アメリカでもたくさん感染しているけど、アメリカからの参加者を受け入れて大丈夫か。。。。まだ様子を見ているところであるが、いつかは決めなければならない。あるいは参加者(保護者)に「自己の責任において」決めてもらわなければならない。全く頭が痛い問題である。   私たちはいつも、「噂話やメディアにふりまわされず、必ず世界保健機構(WHO)や疾病予防管理センター(CDC)のホームページから正しい情報を得るようにしてください」とお願いする。だから、最後にWHOのホームページからの一節を引用したい。   WHOでは、新型インフルエンザの大流行に関連する旅行制限を推奨しません。今日、海外旅行は日常のことであり、無数の人々が仕事やレジャーで世界中を移動しています。旅行を自粛したり、強制的に制限したりしても、感染拡大をとめることには殆ど役立ちません。しかしながら、グローバル社会に与えるダメージは甚大になります。 新型インフルエンザは、すでに世界各地で確認されています。今や世界的な対応策としては、国際的な感染拡大を阻止することより、早期発見によってウィルスの影響を最小限に抑えること、感染者に適切な治療を受けさせることに焦点をあてています。 旅行者の中からインフルエンザの兆候を探しだすことは、大流行の原因を探るのに役立つかもしれませんが、ウィルスはインフルエンザの兆候がでる前に人から人へうつるのですから、インフルエンザの拡大を防ぐのには役立ちません。 数学的な解析に基づく科学的な調査によっても、旅行制限は感染防止に限定的、あるいは全く効果がないということが示されています。今までにおきたインフルエンザのパンダミックや、SARSなどの経験によってもこのことは証明されています。   ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。 ------------------------------------------   2009年5月13日配信
  • 2009.04.20

    エッセイ202:マックス・マキト「今こそ、時と場のあるヴィジョンを(その2)」

    2008年のノーベル経済学賞は、米国プリンストン大学のポール・クルーグマン博士が受賞した。その賞の対象となった彼の先駆的な研究は、時間の経過による貿易パターンと経済学的地理学をめぐるものであった。まさに、僕がSGRAエッセイ#164 に書いた「時」と「場」に関係する分野であるという気がする。   東京大学大学院経済学研究科で勉強していた頃、僕はクルーグマン博士の論文をいくつか読んだことがあったし、経済学の院生たちのなかでも評判がよかった。しかし、彼が1994年に「東アジア奇跡の神話」という論文を書いた頃から、僕の彼の研究に対する関心が急速に冷え込んだ記憶がある。   「東アジアの奇跡」というのは1993年に出版された世界銀行の報告書で、東アジアにおける8経済主体の珍しい発展パターンを対象にした研究調査であった。世界銀行は、その発展パターンを、SHARED GROWTH(僕は「共有型成長」と訳している)と命名した。つまり、東アジアの8経済主体(日本、韓国、台湾、香港、シンガポール、マレイシア、インドネシア、タイ)は目覚ましい成長を遂げながら、その成長が社会に広く共有され、国内の所得分配(貧富の差)を改善していた。近代史においては確かに実現しにくい発展形態である。まさに、奇跡というほかない。この数十年間を振り返ってみれば、このことを理解できるだろう。平等性を重視する国々は効率性を犠牲にせざるをえなくなり、成長率が鈍くなった。一方、効率性を重視する国々は平等性を犠牲にせざるをえなくなり、社会混乱を招くまで貧富の差が広がった。   この「東アジアの奇跡」報告と出会ったからこそ、僕は経済学を勉強するために日本に来たのだとわかったと言っても過言ではない。単に経済学を勉強するのであれば、英語圏の先進国へ留学したほうがいいが、日本の独自性について勉強するには、当然日本が一番いいに決まっている。それ以来、共有型成長は僕の研究の柱となっている。僕の留学のきっかけになった「東アジアの奇跡」は単に「神話」でしかないとしたクルーグマン博士は、おまけに、日本の独自性についても「何も新しいことがない」と、同じ1994年の論文で強調していたのだ。だから、日本の「失われた10年」となった1990年代に、日本をバッシングしていた主要な人物の一人と考えている。今でも、僕は、日本独自の企業文化が、この共有型成長に大きく貢献したと信じて研究を続けている。従って、クルーグマン博士のことをどうしても許すことができなかった。   ただ、最近、親友の紹介でクルーグマン博士がニューヨーク・タイムズに投稿しているコラムに接する機会があり、友情のためだから自分を騙しながら大学院の頃に発病したクルーグマン花粉症を抑えてみようかと読んでみた。そのうち、あらま!意外にも、(最近の)クルーグマン博士と同感できる部分が結構多いではないか。オバマ大統領の自動車産業と金融部門に対する厳しい目を支持するとか、金融部門のどこが悪いかと今でも思っているローレンス・サマーズ国家経済会議委員長がおかしいとか(サマーズ氏は、1997年のアジア通貨危機の時に日本が主張したアジア版IMFに反対した)、米国が今回の経済危機の震源地であり米国がすべて悪いという流れに対する懸念とか、今回の経済危機は1930年代以来の大不況だが、当時と違って戦争という手段は使えないとか。一理あるな、と思わず賛成する。   今、名古屋大学の平川均先生、フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)のユー先生と一緒に、フィリピンを事例として、共有型成長を実現するための自動車産業の役割について研究している。先月も現地調査に行ってきた(短期訪問の写真)。僕は、この研究を、「時」と「場」のある(もはや昔の?)日本のヴィジョンの探求と考えている。信じられないかもしれないが、共有型成長と縁がなさそうなフィリピンでも、日系企業がそのDNAを伝授している兆候を示している。この研究を更に展開するためにも、意外にもこんなに同意できるクルーグマン博士のノーベル賞級の研究を読み直してみようかなと思わないこともない。ただ、博士と違って、「日本と東アジアの経験は単なる神話でしかない」とは決して思わない。この地域の経験が語っていることは、ノーベル賞をはるかに上回る何かがあると信じている。   ●速報   先日、UA&PとSGRAの共同研究プロジェクトに対する研究助成が決定した。5年間のプロジェクトで、フィリピンの研究機関のCAPACITY-BUILDINGが目的である。対象になる機関はCENTER FOR RESEARCH AND COMMUNICATION(CRC)財団であり、UA&Pの源でもある。この共同プロジェクトにより、CRCはフィリピン教育、健康、水道に対する政府の公共支出を監視する能力を高めていく。SGRAフィリピンから、公共会計に詳しい顧問がこのプロジェクトに参加する。助成金の申請書に大きく関わっていたので、微力ながらも、僕も海外顧問として協力する。研究助成金を提供してくださるのは、世界銀行や英国の海外開発省から融資されているGLOBAL DEVELOPMENT NETWORK(GDN)である。GDNは、来月、世界銀行の拠点であるWASHINGTON DCで研修を行うので、共同研究チームの代表を派遣する予定である。このプロジェクトは、発展途上国の政府が社会に対する責任をちゃんと果たすことを目的とした、世界銀行の最近の「GOOD GOVERNANCE方針」の一貫である。政治腐敗を最小化し、社会の少数派と弱者の声が、政府の政策に反映されているようにするのが目的である。GDNは日本にも事務所を構えているようなので、興味のある方はGDNホームページをご参照ください。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------   2009年4月22日配信
  • 2009.04.15

    エッセイ201:オリガ・ホメンコ「エレーナの指輪」

    【人物で描くウクライナの歴史⑤】 キエフ大学に入ってから、ほとんど毎日ある建物の前を通っていた。隣には公園があるから、きっと毎朝バルコニーから眺めていたに違いない。今その建物は博物館になっているけど、ずっとそうだったわけではない。ロシア革命の前は、その建物に住んでいる人がいた。    ほとんど毎日通っているのに、昔そこに住んでいた人の話は何も知らなかった。ところが、あるおばあさんと町の建物の歴史についておしゃべりしていたら急にその話が出て来た。そのおばあさんは、右手に小さな宝石が入っている指輪をしていた。昔風の繊細なデザインのもので、宝石も小さくて、ちょうど小柄な彼女の小さい手にあっていた。ある日、彼女のお母さんの話をしていたら、その指輪やあの建物の話に繋がって、溢れてきた。    おばあさんのお母さんは若い時に好きな人がいた。彼は裕福な家族で、ウクライナに砂糖工場をたくさん持っていた人の息子だった。彼の父親はキエフや郊外にたくさんの立派な家を持っていた。あの公園に面している建物、今は博物館になっているあの家も、そのひとつだった。彼は小さい時からあの家で育って、あの公園で遊んでいた。大学に入ってからも、授業をさぼって友達と一緒にあの公園で過ごしたこともあった。彼は金髪で背が高くて、小さい時からフランス人のベビーシッターがついていたのでフランス語がぺらぺらで、家ではフランス風に「ニコリャー」と呼ばれていた。おばあさんのお母さんと同級生だった。二人とも二十歳の時に恋して、いつか結婚するでしょうと皆思っていた。   しかしその年の秋になると革命が起きて、彼の家族は国外に移ることを決めた。フランス語が話せて、パリに家があったのでそこに行くことにした。彼は、おばあさんのお母さん、愛するエレーナも一緒に連れて行きたかった。しかしエレーナは家族も一緒でないと行けないと言った。そのとき彼女の親は国外に出られる書類など持っていなかったので、取りあえずニコリャーが先に行って、その後に皆が行くことにした。   パリに行く前にニコリャーはエレーナに結婚を申し込んだ。そして一緒に町の一番良い宝石店に婚約指輪を選びに行った。彼は、愛するエレーナのために一番高価な指輪を買いたかったが、彼女は繊細なデザインで小さい宝石の指輪が気に入ったので、それを買ってもらった。まもなくニコリャーは両親とパリへ行き、エレーナはその指輪をはめてキエフで暮らしていた。もう少したつと革命や第一次世界大戦が起きて、町は大混乱に陥り、国外に出る書類どころではなかった。そして一回国外に出た人が戻ることもなかった。最初の頃は、パリから手紙や食料品の入った郵便物などが届いていたが、少したつと外国との連絡を絶たれた時代が訪れた。ニコリャーがパリで元気にしているか聞くことさえもできなくなった。   年をとった両親は社会の激しい変化に堪えられず、次々に亡くなってしまった。エレーナは一人ぼっちになるのが怖くて、もう一人の同級生と結婚してあげた。しかし結婚してもあの指輪を外すことはなかった。旦那はその話を良く知っていたが、反対はしなかった(外してくれとも言えなかった)。結婚しても彼女のプライバシーを尊重していたに違いない。   砂糖工場をたくさん持っていたニコリャーの家族が戦争を生き延びたのか、パリかまた別のところで元気にしているかさえも分からない。エレーナが亡くなる数年前に、娘がインターネットで探してみたが見つからなかった。もう誰もいないかもしれない。あるいは、名前を変えたのかもしれない。そしてエレーナが亡くなった時、娘がその指輪を受け継いだ。その時から外さないでずっと着けている。名前を変えても、あの指輪の話を知っていたら、もしかして、いつかどこかで誰かが気づいてくれるかもしれない。気づいたらエレーナのお墓参りを一緒にしてくれるかもしれない。   その話を聞いてから、あの建物の前を通るといつもニコリャー、エレーナとその指輪のことを思い出す。もう二人ともこの町にいない。彼の父親が持っていた砂糖工場もない。彼の家は誰でもはいれる博物館になってしまった。しかしながら人の記憶の中にその二人の物語が生きている。激しい時代の変化のために、離れ離れになった人々の物語だ。    ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------------------------   *オリガさんの「人物で描くウクライナの歴史」シリーズは下記よりご覧いただけます。   (4)「小柄なマリーナおばあさん」   (3)「ワレンティナ」   (2)「ニューラおばあさん」   (1)「おばあちゃんたち:目に見えない優しさ」   2009年4月15日配信
  • 2009.04.13

    エッセイ203:マイリーサ「日本の団塊世代が凄い」

    戦後の日本を支えてきた団塊世代が、定年退職を迎えている。彼らの多くは、定年後、地域で自分探しを始めている。ここで一例をあげる。最初のうちは、地域の道路や河川の清掃のボランティアをやっていたが、いつの間にか、NPO法人を立ち上げて地域の公益事業に関わるようになった。   町田市の境川の旧河川敷棚に囲まれた未利用の広い公共空間がある。そこはかつて不法投棄のターゲットになっていた。これまで近所の住民が、かろうじて自主的な清掃活動と不法投棄ゴミの撤去作業をやってきた。近年、団塊世代がリーダーシップをとって、この作業をやるようになった。彼らは町田市と「住民による管理」協定を締結し、河川や道路の清掃活動違反広告物の撤去や不法投棄監視活動などの活動をやってきた。   そのうち、彼らは、境川沿いに親水公園を作りはじめた。境川流域では洪水対策として急にコンクリート壁が作られた。それにより、河川周辺道路を散策する人々が水に直接触れる機会がなくなった。旧河川敷に水辺の広場を作れば、水のある自然環境が少し取りもどすことができるのではないかと、彼らは思った。   「水辺の広場」概要   旧河川敷の広場にビオトープのせせらぎとよどみを作る。せせらぎの水深は20~30cmで、よどみは約10cmである。よどみは小動物や湿生植物の棲家となる。ここに棲む生物たちはなるべく境川に昔から棲む種にしたい。このせせらぎ広場の水源を井戸で賄う。ここが境川を散策する人達のいこいの場になる、子供達の遊び場になる。   親水公園を作るために、メンバーたちが積極的に関係部署と協議し、関連制度の活用を生かし、事業を可能にした。地域の造園専門家がボランティアで設計と指導を行った。   1、地下水を汲み上げる。それから井戸掘り作業をする。 2、水路や浅瀬のある親水広場を作る。 3、憩いの場としての公園整備をする。   現場での稼動日数は76日であり、稼動人数は400人以上である。最初の井戸掘りは、シニアを中心としたメンバーにとっては重労働であったが、徐々に地域住民の関心も高まり、多くの支援を得ることができた。力仕事は、地元小学校の「父親の会」の若い「お父さんパワー」の助けを得た。また、ホームページでの呼びかけに応じて、護岸工事に使う毛布や石塊の一部が寄付されたほか、住民からは手押しポンプを、そして、地元アウトレットからベンチを寄付してもらった。   広場には、かきつばたを植えた浅瀬があり、木の橋を渡ると草木の間を抜け、水路の向こう側に出られる。また、水路には小さな魚が泳いでいる。ここは、子供から大人まで、地域のコミュニティーをつなぐ交流空間として機能している。散策の途中で広場により、ベンチで休んだり、井戸汲みを楽しんだりする姿が多く見られる。   現在、親水広場づくりの活動は、点から面へと広げられつつある。調査や勉強会などを通して旧河川敷棚に囲まれた未利用の広い公共空間から、25か所の整備ポイントを決定した。その計画書はすでに市民の政策提案として市長に手渡された。   金の卵といわれる日本の高度経済成長を支えてきた団塊世代が定年を迎えている。彼らは、これから地域社会に戻り地域をベースに生活をする。団塊世代の大量到来は、間違いなく日本の地域社会に大きな影響を与えるにちがいない。   -------------------------- <マイリーサ ☆ Mailisha> 一橋大学社会学博士。立教大学、昭和女子大学非常勤講師。 --------------------------   2009年4月29日配信
  • 2009.04.08

    エッセイ200:範 建亭「海外人材導入と上海財経大学の“一校両制度”」

    前回は、上海市政府が今回の国際金融危機を海外人材獲得の絶好のチャンスとみて、ウオール街などで募集活動を行ったことを話した。今回は、その後の動向、そして私の勤め先である上海財経大学における海外人材導入の状況を紹介したい。   昨年末、上海市金融当局は、底値を狙うつもりで大規模な募集団をニューヨークやロンドンまで派遣した。反響は予想以上に大きかった。27の金融機関が用意した170の就職先に、二千人以上の応募者が殺到したという。意外だったのは、応募者の中の10%ぐらいが中国人元留学生ではなく、外国人であったことである。さらに、今回の海外募集活動を契機に、上海市政府は各金融機関に対して、これまで受入れている海外人材の現状と今後五年間の導入計画を調査すると決めた。目的は、これからの海外人材導入を制度化、長期化させることである。   このように、海外人材導入の活動はこれから本格的になりそうだ。もちろん、導入される人材は金融関係だけではない。近年の帰国ラッシュを背景に、上海にいる元留学生がいろいろな分野で活躍しており、その規模はすでに7万人を超えている。さらに、今回の金融危機の影響で帰国者が急増し、2010年には10万人の規模になると予想されている。   ちなみに、改革開放後の30年間において、中国から出国した留学生は07年末で約120万人を超えている。現在、帰国した人はそのうちの四分の一しかないが、大半はここ数年の間に戻ったのである。要するに、殆どの元留学生が海外に定住していたが、近年では事情が一変し、帰国する人が急速に増加しているということだ。しかも、帰国するときに、上海や北京を選ぶ傾向が強く見られる。実は、海外人材の導入をめぐって、地域間の競争も激しくなっている。例えば、南京市も上海のやり方を真似して、海外に人材募集団を派遣したと報道されている。   海外人材の争奪戦は各地の政府や企業だけの話ではなく、大学間の競争も激化している。もともと大学は海外人材の主要な受入れ先の一つであるが、最近は特に活発になっていろいろな取組みを行っている。その中で、上海財経大学は大変興味深い動きを見せており、しかもモデルのような存在となっている。   海外人材を導入するために、上海財経大学が取った措置は革新的なものといえる。その一つは、2004年ごろから海外の大学に勤めている教授を招聘して、五つの学部の学部長に就任させたことである。国際的な人事配置は他の大学にも見られるが、学校内の主要な学部が一気に国際化したのは珍しい。これらの教授は海外国籍の中国人元留学生であり、また常勤ではなく、国内滞在は年に三ヶ月ぐらいしかないが、国際的な学術交流、海外人材の導入などに大きな役割を果たしている。例えば、毎年、米国経済学会や金融学会が開催される時期に、上海財経大学がこれらの海外出身の学部長を中心とした募集団をアメリカに派遣し、その場で面接などを行っている。   もう一つは、2007年から正式に実施した海外人材を導入するための特別な人事制度である。それはアメリカの大学のtenure制度に近いもので、主な内容は、海外から採用した教員の給料を一般教員の三、四倍にする一方、求められる業績(海外一流の学術雑誌で発表される論文の数)も厳しくなるというものである。採用期間は六年間であるが、業績がなければ退職、合格すれば常任(終身)の教員になる。   このような人事制度が採用されている背景には、通常の待遇だけでは海外の一流大学で卒業した博士がなかなか帰りたがらない事情があるからだ。しかも、上海財経大学はまだ国内でもそれほどの知名度がないから、一流の人材を導入するのはそう簡単ではない。解決方法は高い年俸(平均30万人民元以上)を出すしかないが、同時に、国際的な慣行に近い評価システムも導入されている。このように、上海財経大学には一つの学校で二つの人事制度が並行されている。すなわち、「一校両制度」である。   そのtenure制度に採用された教員は現在40人前後で、すべて欧米一流大学で博士を取得した元中国人留学生である。これによって、海外との学術交流が頻繁になり、一流の学術雑誌に発表された論文の数も増加しつつある。効果が徐々に現れているが、一つの学校の中で違う人事評価システムが実施されているのは、恐らく世界中にも稀なことであろう。一校両制度はいろいろな問題を抱えているが、一番危惧されているのは海外出身の教員と一般教員との対立である。そのため、制度上、一般教員もtenure制度に申請することが可能となっている。ただし、申請する教員はまだいないそうだ。tenure制度はハイリスク・ハイリターンのようなもので、決して心地良いとはいえない。tenure制度で採用された同僚の教員をみると、プレッシャーもかなり大きいようである。   私のようなtenure制度が実施される前に海外から帰国した教師は、一般教員となっているが、不満があまりない。求められる高い研究業績があまりにも難しいからだ。特に日本や韓国など、欧米諸国以外の国に留学した教師は、その要求を満たすことができそうもないと思う。というのは、評価される一流の学術雑誌がほとんど英語のもので、日本語など他の言語の雑誌はそのリストに載っていないからだ。このように、残念ながら、英語圏以外の国に留学した価値が低くなると認めざるを得ない。   -------------------------- <範建亭(はん・けんてい☆Fan Jianting)> 2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。 --------------------------   2009年4月8日配信
  • 2009.03.31

    エッセイ199:李 鋼哲「論語読みの論語知らず」

    日本で「論語読みの論語知らず」ということわざを聞いたことがあります。    一般的には、本質的な内容を理解できないまま、枝葉末節にばかりこだわるような人、言葉の定義はわかってもそれが持っている深い意味がわからない人、または意味がわかってもそれを行動に表わさない人に向かって発せられる言葉でありまして、決して良い意味に使われるものではありません。   しかし、私がここでこのことわざを持ち出したのは別の意味があります。つまり、『論語』をはじめとする中国古典のことわざや熟語などが日本人の日常生活でもよく使われているにもかかわらず、そのもとは中国の古典であることを知らない日本人が結構いるということです。日本人と話をしている時に、私は時々ことわざを使いますが、日本人が聞いて「李さんは日本のことわざをよく知っていますね」と「誉めて」くれるので、「いや、これは元々中国のことわざですよ」と答えると、「え~、中国にもそんなことわざがあるの?」と驚かれます。「おいおい、日本は中国五千年の文化を学んできたのではないですか」と返事すると、「あ、そうか」と、うなずく。    もちろん、日本に独自のことわざがあることは言うまでもありませんが、漢字とともに日本に伝わった中国文化が現在の日本文化の基盤になっていると言っても過言ではないでしょう。「東アジア文化圏」というときに、中国文化がその中心または基盤にあることに異論はないでしょう。しかし、今の日本人(とりわけ若者)は日本文化と中国文化の繋がりをあまり分かっていないように思われます。抽象的には分かっているかも知れませんが、具体的になると分からない人が多いようです。その原因は、近代化以来、日本人の目はほとんど欧米に向いていたからだと思います。。    もちろん、日本人は学ぶ精神が強いので、必要であれば中国文化であろうと、西洋文化であろうと、みんな取り入れて自分たちの文化を創り出すという優れた面があります。しかし、千五百年以上前から海を渡って取り入れてきた中国の文化は、日本文化の基本的なDNAになっていると言えるでしょう。西洋の文化を取り入れたのは、せいぜい二百年程度に過ぎません。また、西洋文化を取り入れたからといって、中国文化の影響が消えてしまったわけではありません。    ここで、もう一つ言いたいのは、「中国の文化」と言っても、今の中国と合致しない面が沢山あると思います。例えば、「儒教文化」と言えば、それは中国の思想・文化だと思う人が多いでしょう。しかし、私はそうではなく、かつては東アジア(日本・中国・朝鮮半島・ベトナムなど)の共通文化になっていたと思います。つまり、歴史のなかで、「儒教文化」は東アジアの「公共財」となっていると私は思います。現在の東アジアの国々を回ってみると、「儒教文化」を最も強く感じられる国は朝鮮半島、その次は日本であり、「儒教文化」を生み出した中国は、いつの間にかそれが喪失しているように見えます。例えば「礼儀」作法を取ってみても、日本人や韓国人は礼儀を重んじていますが、中国人の場合それが足りない場合が結構あります。それは、現代中国が礼儀作法を封建的なものとして批判(「批林批孔」:70年代後半に林彪と孔子を批判する運動)したり潰したりしたためでしょうが、何が原因であろうと現実は現実です。したがって、「儒教文化」というのは「いい意味」でも「悪い意味」でも、それは東アジアの共通文化だというのが私の考えです。    もう一歩進んで言うと、近年「東アジア共同体」論が取りざたされている東アジア地域では、何か共通する文化や価値観が存在するのかどうかという問題に我々は直面するのです。共通の価値観というとすぐに「民主主義」、「人権」を普遍的な価値観であると思い浮かべる人が多いかも知れませんが、もちろんそれはそれで重要な価値観ではありますが、人間の価値観はそれだけではないのだと私は思います。とりわけ、東アジア地域では「東洋の文化」というのがあり、「東洋の価値観」というのもあるのだと思います。    日韓アジア未来フォーラムの韓国側主催者である未来人力研究院の宋復先生の著作『東洋的価値とはなにか:論語の世界』(韓国語)という本を読んだことがありますが、そのなかで、先生は西洋の価値観は近代資本主義の合理主義や理性的な思考様式に基づいた価値観であり、そこには人の顔が見えないと批判した上で、論語の世界は「仁」や「徳」を重んじる人間主義を中心とした価値観であり、東洋のみならず、人間社会の「普遍的な価値」が宿っていると指摘しています。    昨今の金融危機の影響で首を切られた「派遣労働者」の扱いなどの問題、即ち資本主義が高度に発達し経済的に豊かになった日本で、この人達が人間扱いされないような事態を見ても、資本主義の思考様式に基づいた価値観では、人類社会の発展に限界があり、人間主義や人本主義に基づいた価値観を尊重する世界を創り出すことが求められているのだと思います。その意味で、二千五百年前に生まれ、現在も読まれている、孔子の『論語』思想を改めて勉強する価値があるのではないでしょうか。それが人間社会の「普遍的な価値」として認められるかどうかは別として、少なくとも我々に共通の価値観を模索する手がかりにはなるかも知れません。   --------------------------------------------- <李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。1991年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 ---------------------------------------------   2009年3月31日配信
  • 2009.03.27

    エッセイ198: シム・チュン・キャット「キャンペーン超大国でもあるシンガポール」

    前回のエッセイのなかで、「罰金大国」シンガポールにチューインガムを大量に持ち込んだら、最高罰金である1万シンガポールドルがついてしまうという罰則について書いたところ、「あれっ?シンガポールでガムは解禁になったんじゃないの?」という問い合わせがSGRAのほうにすぐ来たそうです。この点に関してこの場を借りて説明したいと思います。   確かに、シンガポールがアメリカと自由貿易協定(FTA)の締結交渉をおこなっていた何年か前に、アメリカ側からガムの輸入解禁の圧力がかかったため、2004年にガムはシンガポールで12年ぶりに一部解禁となりました。ただし、解禁されたのはアメリカ産の「治療目的」のガムに限られ、購入するにはお医者さんや歯医者さんの処方箋が必要であるうえ、薬局で入手するときに個人情報などを提出しなければならないことから、この方法を使ってガムを買ったというシンガポーリアンに僕は会ったこともなければ聞いたこともありません。ガムを買うのに処方箋が必要だなんて、大袈裟というか実にアホらしいというしかありません。どうしてもガムを噛みたいという人は、昔の僕みたいに国境を越えてマレーシアで手に入れたほうが全然速いということです。このように、一部解禁になったとはいえ、公害とされているガムがシンガポールで普通に日の目を見るようになったわけではないので、シンガポールヘいらっしゃる方はくれぐれも大量に(8箱ぐらい?僕の前回のエッセイを参照)持ち込まないようご注意ください。   さて、前置きが長くなりましたが、罰金大国である以上、それぞれの罰則を説明し、国民に守ってもらおうとするキャンペーンを実施することは当然ながら重要となります。否、罰則と関係なくても、ある制度やルール、もしくはマナーを国民に知らせよう・守らせよう・従わせようとする場合に、シンガポール政府は必ずといっていいほど全国規模のキャンペーンを展開するのです。共産主義・社会主義でない国の中では、国家キャンペーンが一番多いのが恐らくシンガポールなのではないかと思います。皆さんも以下を読めば、シンガポールが「キャンペーン超大国」であることにきっと納得することになるのでしょう。   独立した当時から、ガーデン・シティになるべくシンガポールが真っ先に取り組んだのが「Keep Singapore Clean & Green(シンガポールを清潔かつ緑豊かに)」キャンペーンでした。当然のことながら、優しいスローガンやポスターの裏には、ポイ捨てやタン吐きに対する厳しい罰金制度がくっついていました。また、「戦国時代状態」になっていた中国系の方言を統合すべく、つぎに打ち出された大型キャンペーンが今日まで続いている「Speak Mandarin(マンダリンを話そう)」キャンペーンでした。この最初の二つの全国キャンペーンが非常に成功したためか、その後シンガポール政府は調子に乗り、実にバラエティーに富むキャンペーンを次から次へとスタートさせたわけです。   経済発展に伴い、車の数が著しく増えると「Road Safety(道路安全)Campaign」を。人口密度が高く(というか、国土が狭すぎ!)、団地住まいの隣人同士の摩擦が多発すれば「Courtesy(礼儀正しく)Campaign」および「Be a Good Neighbour(良い隣人になろう)Campaign」を。水はマレーシアからパイプを使って輸入しているわけですから、貴重な水を無駄にしてはダメということで「Save Water(水を大事に)Campaign」を。拝金主義が蔓延り、社会貢献活動に参加する人が急減するのをみると「Be a Volunteer(ボランティアになろう)Campaign」を。汚れた公衆トイレが増えれば「Clean Public Toilets(清潔な公衆トイレ)Campaign」を。国民のメタボ率が上がるとすぐさま「National Healthy Lifestyle(国家ヘルシーライフスタイル)Campaign」を。労働者の生産力が少し落ちれば「Higher Productivity(より高い生産力)Campaign」を。などなど…例を挙げれば本当にキリがないほどです。とにもかくにも、シンガポールでは国民の暮らしの隅々まで浸透しているのが、罰金制度と双壁をなすこのキャンペーン依存症なのです。   それだけではありません。多種多彩なキャンペーンのなかには、あるキャンペーンがうまく行き過ぎたせいでそれを軌道修正するための「調整キャンペーン」のようなものもあったりします。例えば、独立した当初、増加する人口を抑制するために70年代の頭に真っ先に打ち出された「Two is Enough」というキャンペーンは、子どもは二人もいればそれで十分というメッセージを国の津々浦々(そんなにありませんが)まで行き渡らせました。ところが、このキャンペーンが非常に功を奏したせいもあり、80年代に入って人口増加が急に減速し始めると、今度はなんと「Three children or more, if you can afford it」というスローガンが掲げられました。この「余裕があれば、三人以上の子どもを産もう」というあからさまに貧乏人を差別しているキャンペーンは言うまでもなく国民から猛反発を受けました。このとんでもないスローガンはすぐ姿形なく消えてしまいましたが、その後シンガポールにも少子化の波が押し寄せ、もう余裕がある人にもない人にも、とにかく子どもを設けてほしいという事態に発展しました。そのため、今ではどの家庭に対しても、子どもが生まれると「ベビー・ボーナス」(一人目の子どもならS$4000シンガポールドル[約25万円]、二人目であれば総額約65万円、そして三人目以降ならば一人の子につき総額約120万円以上)が政府からプレゼントされるようになりました。   まあ、うるさいのではありますが、これまで紹介したキャンペーンのいずれも国や国民のことを考えての施策だとも受け取れるので、許すことができなくもありません。また、キャンペーンが展開されるたびに、ポスターやテレビCM、新聞広告などの宣伝物のほかに、いろいろな行事やイベントが催されたりテーマソングも町中に流れたりするから、お祭りめいた雰囲気が味わえてたまに楽しくなったりもします。だが、「生真面目でフレンドリーでない」シンガポーリアンのイメージを改善しようとして、90年代の半ばに「Smile(スマイルを)Singapore」というやりすぎキャンペーンがスタートしたときには、僕の顔からそれこそスマイルが消えてしまいました。さらに、多くの独身のシンガポーリアンがお金を稼ぐのに忙しすぎて、または内気すぎて恋なんてしていないということから、「Romancing(ロマンスを)Singapore」というあり得ないキャンペーンが2002年に展開され始めたと同時に、祖国に対する僕の最後の残りわずかなロマンスもフェードアウトしてしまいました…。   ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 -----------------------------------   2009年3月27日配信