SGRAかわらばん

エッセイ583:野田百合子「飯舘村を訪れて」

今までに経験したことのない類の、広くて深い学びだった。

 

忘れないようにとせっせとメモをとって、でもそれは気軽には読み返せなくて、心の奥の引き出しにそっとしまっておきたくなるような。
私にとってはある意味とても非日常な旅だった。東日本大震災の被災地には何度も足を運んだけれど、原発事故で全村避難していた村に来るのは初めてだ。線量計をつけて歩くのも、原発事故や放射線被害について学者の先生から生で話を聴くのも、村の農家の人の暮らしを見せていただいて本音がポロリとこぼれる瞬間に立ち会うのも初めてで。頭も心もたくさん揺さぶられた3日間だった。
しかし飯舘村に暮らす人々にとってそれは日常だ。変わらない、そして日々変わりゆく日常。福島では今も毎日震災や原発関連のニュースをテレビや新聞で取り扱っているのだろうか。少なくとも2年前はそうで、それは東京に住む私にとって一つの驚きだった。

 

東京から飯舘村に行くには、福島駅で新幹線を降りて1時間ほど東へ車を走らせる。9月半ば、ちょうど稲穂が黄金色に光ってとても美しい風景だった。いいなぁ、こんな季節に来られて幸せだなぁと思ったのも束の間、境を越えて飯舘村に入った瞬間に景色が一変する。黄金色の稲穂はない。稲を育てるのが禁止されているからだ。そして見えるのは除染されてはげ山のようになった田んぼの跡地と黒と緑の巨大な除染袋の山ばかり。これが飯舘村の現実かとショックを受けた。そして境って何だろうと思った。放射性物質には境はない。村の中と村の外、境界線近くの線量は同じくらいのはずなのに地図上に引いた境が運命を分ける。村の一部は未だ帰還困難区域でバリケードで封鎖されている。その境目も難しい。バリケードの中は人が住めなくて荒れ放題で、でも中に家がある人には補償金がたくさん出るという。どちらがいいのか、いやどちらも嫌だな。村の人はこの美しい村で黄金色の稲や花を育てたり、牛を飼ったりして、昔ながらの暮らしを続けたいだけだっただろうに。

 

2017年3月31日に村の多くの地域で避難指示が解除になって、元の人口6,000人のうち約400人が帰村した。村に住む人、通う人、家族は別に暮らす人。人によって状況は様々だ。放射性物質は目に見えないし、この先の状況もわからない。だから一つひとつの判断に家族は揺れ、意見が分かれる。「これは放射能の問題というより生活や人間関係の問題、精神の分断だ。夫婦ゲンカ、親子ゲンカ、こういう問題はお金で解決できない。」ふくしま再生の会の田尾さんの言葉が胸に突き刺さった。

 

村に帰ってきて生活を再建しようとしている人にも何人かお会いした。
高橋日出夫さんは、国に建ててもらったというビニールハウスでアルストロメリア、トルコキキョウやカスミソウを育てて大田市場に出荷している。花について活き活きと語るときの日出夫さんの笑顔と、「生まれ育ったところでは見える景色全部が自分のもの。月も星も、飛行機までもうちのものと思う。避難先では月も星もよそのものって思ってたからなぁ」という一言が印象に残った。今67歳。あと20年は花を育て続けたいそうだ。

 

大久保金一さんは76歳。小宮地区にほぼ一人で住んでいる花の仙人だ。物心ついたときから花に興味を持っていて、花は食べられないからと親に叱られながらも花を植え育ててきた。震災の前の年に思い切って水を引いて花園を拡大しようとするも原発事故で中断。今も除染作業の最中だが、除染を終えたところには17種類の桜を始めボランティアの力も借りながら様々な花を育てている。金一さんは「原発事故があって涙を流さない日は一日もないといっても過言ではない」と言いながらも、花のことになると活き活きと語ってくれた。毎日一人であれをしよう、これをしよう、こうしたらどうかなとあれこれ考えて身体を動かす。生きる喜びとはこういうことなのかもしれない。事情の違う一人ひとりの生活の再建を支えるというのは気の遠くなるような道のりだと思う一方で、この喜びや尊厳を奪う権利は誰にもないのではと金一さんの姿を見ていて感じたのだった。

 

今回の旅を案内してくださったふくしま再生の会はシニア世代を中心とするNPO法人で、ほぼ毎週末東京などから飯舘村に通って村の人と一緒に様々な活動をしている。いま村の人は何を求めていてどんなデータや仕組みがあったらいいかを考え試行錯誤をしながら、ボランティアがそれぞれの関心や専門性を活かして活動しているのが特徴的だ。理事長の田尾さんは、「僕らは支援者じゃない。対等に協働している。ありがとうはいらない。村の人のためというよりか自分のためにやっている。」「ここは本物のフロンティア。まだわからないことがたくさんある。役に立てることがたくさんある」という。そして、なぜそこまでするのですかという質問には、「リタイアした人は都会でさみしいんだ。ここに来ると元気になる。人生100年、それをどう過ごすかだ。自分はここではりきっている。課題やわからないこともたくさんある。」と答えてくれた。

 

今回の旅で一番印象に残ったのは、あれをしよう、これをしようと自分で考えて身体を動かし、自分らしく生きる人の活き活きと輝く姿だった。それは被災した村の人も、再生の会の人も、たぶん私たちも同じ。人生とは、自分らしくクリエイティブに生きること。

 

では、私らしくクリエイティブに生きるって何だろう。私にとっては通訳の仕事を含めて、人と人との間に橋をかけることなのかなと思う。私はこの旅で村の人や再生の会の方たちにたくさんのものをもらった気がする。だから私らしく橋をかけることで何かお返しできたらと思った。具体的には今後、飯舘村に来たことのない日本の人、外国の人をもっとここに連れてきて橋をかけることで、お互いがもっと豊かになるような体験が提供できたらいいなと考えている。

 

今回お世話になった一人ひとりに感謝したい。SGRAの皆さんとのおしゃべりもとても楽しかった。
飯舘村、また来ます。

(2017年12月記)

 

<野田百合子(のだ・ゆりこ)NODA Yuriko>
英語通訳、ファシリテーター、ミディエーター。公益社団法人CISV日本協会理事。国際基督教大学卒業、現在は明治大学専門職大学院ガバナンス研究科に在学中(ミディエーション研究)。人と人との間に橋をかけ、お互いがより深く理解し合えるようにサポートするというのをライフワークに、日々活動している。

 

 

 

2018年12月20日配信