SGRAエッセイ

  • 2023.06.22

    エッセイ741:安ウンビョル「たった一日の病床日記」

    3月17日。子宮筋腫とポリープの除去手術を受けた。簡単な手術でたった一日の入院だったが、博士論文で心の余裕がなかったことを口実に、ほぼ1年間先延ばしにしていた。しかし体を大事にしろというシグナルか、博士論文審査原稿の提出前日に、びっくりするほどの出血があって、急いで再検査を受けて手術を予約した。   日本での入院は初めてだったこともあり、10年前に韓国で入院した時の記憶を思い起こし比較することになった。韓国の大学病院は、賑わう複合施設のような場所で、医師も看護師も忙しそうで、患者をかすめていくような感じがある。しかし、今回お世話になった東京郊外の病院は、人が多い時間帯にもなぜかゆったりとしていて、そこで働く人たちは私に最大限注意を払ってくれているように感じた。最近、20年以上日本に在住している韓国人女性が、日本ではすべての病院で断られた手術を韓国の大きな病院に行ってようやく受けることができたという話を聞いたが、韓国では経歴を誇示するために手術を重要視し、日本の場合はなるべく手術を避けようとする傾向があるという。日韓の医療現場を比較してみると、韓国は手術を、日本はケアや介護をより重視するという文化的傾向が見つかるかもしれない。   また、問診票に答える時、これまで受けてきた健康診断のものと「想定されている回答者の身体的状況」があまりにも違うという点に気がついた。普段の痛みや病歴、体に装着している補綴物などを細かく問う問診票に答えながら、高齢者の日常や速度をほんの少し想像することができた。問診票が場所によってどのように変わるのか比較したらどうなるのだろう。   いかなる状況に置かれていても、このように「比較文化的レンズ」を通して観察したり、こんな研究をしてみたらどうだろうか、と思考を巡らせたりするのが、日本に来て大学院で勉強し始めた頃からの癖である。もちろん、だいたい有効な考えには発展せず終わるけど。今回と10年前の経験の「違い」の意味は、個人的なものでもあった。そもそも疾患も手術法も違うし、10年も過ぎたから記憶が風化したということはある。けれども2回、手術や入院を「違うもの」として経験したということは、これからの人生において重要な記憶の糧になるだろう。どんな記憶を残すのか、それでどのように想像するかは、未来に起きることを「対比する」だけではなく、その経験を作っていく「力」を持つ。   なかでも麻酔の覚め方の違いが、一番記憶に残る。 10年前に全身麻酔から覚めた時は直ちに回復室に運ばれ、30分間放置された。その時経験した恐ろしい気分と寒さが手術をためらわせた理由の一つでもあった。しかし、今回は手術後すぐ病室の(一時的だが)「自分の場」に移され、とても穏やかな気持ちでいられた。不思議な幸福感ともうろうとした気分、起き上がった時に何を読もうかといった空想などが混合し、これからは全身麻酔という言葉自体に怖がる必要はないと思った。   手術が終わったのは正午だったが、夜眠れないことを憂慮して昼寝はせず、本を読んだりユーチューブ動画を見たりした。読んだものの一つはジョルジュ・ペレックの『考える/分類する』。収録されている「読むこと―社会-心理的素描」で、ペレックは「読む<行為>」を「肉体」と関連させて、また周辺(状況的なもの)と関連させて分類している。後者のものとしては、「間の時間」(何かを待っている間に読む)、「交通手段」、そして「その他」の「病院に入院している時」などと分類されているが、私の状況はこれが一つにつながっているようだった。夜を待つ長い「間の時間」であり、身体的な不動性によって生まれる長距離飛行のような状況でもあった。退院という目的地に向かって、回復という通路を通る長距離飛行。この時間こそ、「読む」そのものだと思った。実は私は短い飛行や乗車においても「降りたくない」と思うことが多い。目的ではなく過程が重要だという表現は、私にとってはしばしば、ただの比喩ではなくなる。   入院中、先日亡くなった大江健三郎が中期に書いた『新しい人よ眼ざめよ』も読んだ。闘病中の「H君」は「僕」に、次のように言う。 「生きる過程で、他人を傷つける、あるいは他人に傷つけられる、ということがあるね。それをやはり生涯のうちに、貸借なしとする。…… しかし、生きてるうちに精算がつくという問題じゃないね。結局のところ、自分が傷つけた他人には許してもらうしかないし、こちらはもとより他人を許す。そのほかにないのじゃないかと思ってね。……」 この作品で、障害を持った息子がいる「僕」は生きることの恐怖を克服するために、英国の詩人ウィリアム・ブレイクの詩に頼る。「僕」の恐れは、自分の死後に息子のイーヨーが一人で生きていくことである。ブレイクを読むだけでなく、この小説を書くこと自体が「僕」にとって「克服する」旅程であっただろう。もちろん生きることの恐怖は、「生きてるうちに精算がつくという問題じゃない」。しかし、誰かが「言葉」に頼って生きている姿を記録した「言葉」を読んでいる「間」には、勇気と希望とともに歩んでいくことができる。   病棟は静かすぎてキーボード音も畏れ多いほどだったが、深夜には生まれたばかりの赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。病院の前には碑石があり、ヨハネ福音書の言葉が刻まれている。「私は復活なり、生命なり」と。     英語版はこちら     <安ウンビョル AHN Eun-byul> 2022年度渥美奨学生。東京大学大学院学際情報学府博士課程に在学中。学際的なモビリティ・スタディーズの観点から、鉄道に乗って移動する経験とそれが社会的世界を生産する過程を研究。韓国では元『PRESSian』出版担当記者で、現在も物書きとして活動中。韓国語での単著『IMFキッズの生涯』(2017)共著『拡張都市仁川』(2017)『研究者の誕生』(2022)『すぐ手を振るかわりに』(2023)など。     2023年6月22日配信
  • 2023.06.15

    エッセイ740:陳虹宇「AIでできること、できないこと」

    人工知能(artificial_intelligence:AI)は1956年、計算機科学者・認知科学者のジョン・マッカーシー教授によって提案された言葉で、「知的な機械、特に知的なコンピューター・プログラムを作る科学と技術」と定義されていた。AIに関する研究が進んだ現在、その定義が研究者・研究領域ごとに異なり、さまざまな分野でAIを活用した自動化や効率化が進められている。例えば自動車の自動運転、工場における不良品検知、クレジットカードの不正使用検知などだ。これらの技術はコンピューターが画像や音声認識、あるいはパターン読み取りなどによって、大量の情報を自動的に取得し、学習することで実現されている。また、最近登場した人との自然なコミュニケーションや文章の自動生成、要約、情報収集ができる「ChatGPT」は専門的な知識が無くても活用できるAIとして、世界中で話題だ。   私の研究分野は有機化学。化学反応の開発の新たな潮流として、機械学習・データ科学の利用が注目されている。特に、現状では研究者の試行錯誤をもとに行われている立体化学を制御できる不斉触媒反応の開発をデータ科学により促進することは、有機合成の難題と位置づけられる。私は博士課程で複雑分子をグリーンに供給する立体分岐型不斉触媒システムの設計に機械学習を導入する方法論の構築と実証、および開発した不斉触媒システムを用いた新規有機合成に先鞭をつけることを目指して研究に取り組み、複雑な新規触媒システムの効率的な開発に成功し、AIの便利さを実感できた。   一方、「AIが発達することで人間の仕事が奪われるのではないか」と不安を持つ人が増えている。現在開発されているAIはほとんど問題特化型で、1つのモデル化・数学化した問題の解決にのみ機能しているが、将来、シンギュラリティ(技術的特異点=人間の脳と同じレベルのAIが誕生する時点)が近づくにつれ、人間にしかできなかった多くのことが機械に代替され、人間の生活環境は大きく変わるだろう。清掃や配達などの単純作業だけではなく、医療・金融など専門性が高い領域にも適用される可能性が高い。   では、どんなに技術が進歩してもAIに代替されない仕事があるのだろうか。原理的にはシンギュラリティに到達すると、コンピューターが人間と同じレベル、あるいはそれ以上の知恵を持つことになる。手間や人為的なミスを削減できるため、人間と比べコスト削減や効率向上が実現できる。しかし、仕事によっては、こういった「ミスが起きない」完璧さが逆にデメリットになる可能性がある。例えば、幼稚園教員。事前にシステムを設定すれば、AIが子供たちに知識やマナーを教えたり、遊んだりできる。しかし、幼稚園時代は発達において重要な時期であり、「人間教員」が無意識に表す感情やミスなども子供たちの性格や社会性の形成にとっては必要不可欠だ。AI教員を導入すると、この時期の子供たちにふさわしい生活リズムを獲得させにくい可能性が高い。   AI技術は急速に発展している。シンギュラリティに到達するまでにはまだ長い年月が必要かもしれないが、人間がどのようにAIと共存し、互いに補完しあう存在になるかが重要な課題だ。     英語版はこちら     <陳虹宇(チン・コウウ)CHEN Hongyu> 2022年度渥美奨学生。大塚製薬株式会社CMC本部合成研究部研究員。東京大学大学院博士課程修了(薬科学博士)。研究領域は有機合成化学、計算化学。     2023年6月15日配信
  • 2023.06.08

    エッセイ739:曹有敬「美学的観点からみるAI音楽」

    私の研究人生は2008年に来日した日本で、「美学(Aesthetics)」という学問と出会ったことから始まる。「美学」という学問を一言で定義するのは容易ではないが、端的に言うと人間はどのようにして「美しいもの」を知覚するのか、そしてその時に働く「感性」はどういうものなのかを考える学問である。それゆえ、人間が営むあらゆるものが対象となりうる。そして、範囲は無限に広がる。そのため、「美学」という学問は時代や国によって議論の中心が思想だったり、芸術だったりしている。また「芸術」の定義が多様化されつつある中で、本エッセイで紹介するような研究も可能なのである。例として人工知能(AI)音楽を美学的観点から見てみよう。   AI音楽とは既存の音楽を大量にAIシステムに入力し、AIがそのデータの分析を基に作り出す類似様式の音楽を指す。例えば、作曲家デイヴィッド・コープが創り出した「AI作曲家エミリー・ハウエル」はベートーヴェンやマーラーなど、昔の作曲家の様式に基づいて数多くの作品を短時間に作ることができる。また、大衆音楽の分野においても、韓国光州科学技術院のアン・チャンウク研究チームが開発した「AI作曲家EvoM」がアルゴリズムを通してKポップを含む様々な大衆音楽を作ってきた。このAIによるほとんどの作品に対して、学問・非学問の領域を問わず、世間はAIの歴史、科学的潜在力、そして商業的価値などといったAI自体の科学技術的側面や実用的価値に主な関心を寄せてきた。しかし、近年では環境哲学者による社会・倫理的問題や美学・哲学の領域におけるポストヒューマニズムの枠組みまで議論は拡張している。   AI音楽と人間との関係から、「美学」の主要概念の一つである「創造性」を再考することができる。西洋芸術音楽すなわちクラシック音楽におけるAI音楽への評価では、AIによる曲は偉大なクラシック作曲家の曲を単純に模倣した趣味の悪い曲だと批判されている。実際AIが作った曲を聞いてみると、確かに「人間作曲家」が作った曲に比べ、作品の質ははるかに劣っているかもしれない。しかし、こういった批判は実は18世紀後半以降問題にされてきた「人間作曲家」における独創性の問題にも繋がっている。18世紀後半に「天才」や「独創性」という概念が台頭したことにより、中世から綿々と行われてきた既存の音楽を用いて作曲する行為が、批判の的となった。   つまり、借用行為自体がオリジナリティーのないものとされたのである。例えば、後期ロマン派作曲家のグスタフ・マーラーの引用技法は彼の生前において「ユダヤ性」――否定的意味として――と結び付けられ、オリジナリティーが疑われたのである。このような傾向は1950~1960年代のモダニズムまで続いていた。常に新しさを求めたこの時期の進歩主義作曲家及び批評家にとっては、調性音楽の使用は「過去への回帰」を象徴するもので、既存の音楽を引用する作法はある種の「汚れた音楽」だった。   AI音楽における「創造性」への熟考は、この問題を再び考えさせるきっかけになるだろう。AI音楽にまつわる1)創造性とは何か2)作曲家の役割は何か3)作品とは何か4)聞き手はどう受け止めるのかといった様々な美学的問いに対して、次のように答えられるだろう。AIに情報を入力する際にその情報を選択するのは「人間作曲家」である一方で、そこから実際に一つの新たな曲を作り出すのはAIである。上述のコープが示しているように、たとえ「人間作曲家」が情報を収集・選択し入力するとしても、AIは予想外の結果物を作り上げることができる。   この原理からAIは「創造性」を有することができる。コープによれば「創造性」は人間の霊感のみに依存するものではなく、機械という他の要因によっても発生する。そして「創造性」はそれを巡る文脈において成立し、また無から生まれるものではなく、他者の作品の合成から生まれるものである。さらに重要なのは「創造性」の有無は美的なものを受容するか、拒否するかを判断する他者の判断に依拠するということだ。こういったコープの主張は「創造性」を完成した作品という結果物ではなく、創造のプロセスから見いだすものである。このAIの「創造性」に関連する議論は、人間の「創造性」をより深く理解するための重要な端緒を提供している。またこのことは、無から新しいものを創造するという近代的神話に縛られたわれわれの鑑賞態度を見直すために、大きな示唆を提供する。   英語版はこちら   <曹有敬(チョー ユーキョン)CHO You Kyung> 東京大学大学院人文社会系研究科に在籍中。2021年度渥美奨学生。日本学術振興会特別研究員DC2(2019年4月?2021年3月)。研究領域は戦後西ドイツ音楽文化、音楽とテクノロジー、現代音楽美学、グスタフ・マーラー研究など、音楽学、美学、文化史学にまつわる学際的研究を行なっている。刊行物としては共著『テクノロジーと音楽の新しい出会い』(2023、韓国語)、「B.A.ツィンマーマンの時間哲学の再考――哲学、文学、音楽の結節点に注目して」『美学』261号(2022、日本語)、共訳『デジタル革命と音楽』(2021、韓国語、2022年度セジョン優秀学術図書に選定)、“Reading Mahler: György Ligeti’s Music Criticism in the 1970s”(2019、英語) 他多数。     2023年6月8日配信
  • 2023.06.01

    エッセイ738:郭立夫「トランス嫌悪言説の中で性的マイノリティーとして教えること」

    非常勤講師の仕事が大変です。その理由は一般的に労働条件が悪いだけでなく、私自身が性的マイノリティーとしてジェンダー論を教える時に「絶望」を感じるからです。その「絶望」の方が私のストレスになっています。   2022年の春学期、非常勤講師として2つの大学で「トランスジェンダー」をテーマにしたジェンダー論の授業を始めました。2021年の東京オリンピックでニュージーランドの重量挙げのトランス女性選手が「女性」として出場したことが、中国と日本の会員制交流サイト(SNS)で炎上したからです。「男性」としてトレーニングされてきたトランス女性選手は「シスジェンダー(出生時の体の性別と性自認が一致する人々)」の女性選手の「脅威」として語られ、まるで「加害者」であるかのように批判されました。それを目にした私は、一人の研究者、そして大学の教員として授業を通じて何かできることがないか模索したいと強く感じました。しかしそれは簡単なことではなく、本エッセイを書いている今(2022年5月)、春学期が始まってもう1カ月ほど経っていますが、いまだに学生のコメントに「シス女性を守るために、トランス選手の試合参加は認めてはいけない」などの意見が見られ、その難しさを感じています。   英語では女性の権利を掲げながらトランスの権利を否定する人たちを「TERF(Trans Exclusionary Radical Feminists)」と呼んでいます。この言葉の略称が多くの問題(例えばこの人たちはフェミニストといえるのかどうか)を生むのは言わずもがなで、もはやこの言葉を使うこと自体が大変な物議を醸すようになってきています。特にトランス嫌悪的な発言をする人たちは、この言葉を常にトランス活動家たちによる自分に対する「攻撃」だと認識し、その言葉の使用を拒否し、強く反対しています。彼らは女性の権利保護を掲げつつも、フェミニズム思想と運動が何十年もかけて作り上げてきた「ジェンダーもセックスも社会的・政治的に構築された」という思想を否定し、「女性とは誰か」というフェミニズム思想の根本的で定番の質問に対して、安易な生物決定論で答えているのです。   今、TERFについての研究は欧米を中心に展開されています。それらの研究から分かるのは、TERFの概念は政治的・宗教的保守勢力から大きく影響を受けているということです。ジェンダーに真に批判的である「Gender Critical」であり、同時にTERF思想を掲げる活動家たちは多くの場合女性が主体となっていますが、不思議なことに彼女たちは政治的な保守勢力(多くの場合はこれまで女性運動に抑圧的な態度を取っていた政治的・宗教的勢力)と連動しており、女性運動をこれまで抑圧してきた保守勢力とも手を繋ぎ、今やトランスジェンダー女性を排除しようとしているのです。   一方、東アジアでは欧米でのこうした活発な動きに比べると学術的な研究がまだまだ不足しています。実際、韓国の女性運動をまとめた『根のないフェミニズム』という本では、「ゲイとトランス女性はジェンダー・イデオロギーのカルトであり、トランス男性こそ本当の女性だ」というあたかも誰の性自認も承認しないような発言すら見られます。そして日本語にも翻訳され、今まさに販売されているのです。   私はオリンピックの事件を契機にプログラミング言語を学習し、TwitterとWeiboで調査を行いました。そこから分かったことは、中国と日本のトランス嫌悪的な言説も各国の保守勢力と緊密に連動しているものの、英国や米国の活動家がフェミニズムや女性の権利を主張し自らのヘイトスピーチを合理化しようとするのに対し、日本や中国のトランス嫌悪的な言説はあくまで「生物学的」、つまり科学言説に論拠している、ということです。   もう少し詳しく見てみると、中国では米トランプ前大統領の発言を引用し、トランス排除を合理化しています(Weiboにおけるトランス嫌悪的なコンテンツではトランプ支持の内容が最も多かった)し、日本は中国よりも「女性の権利」を掲げる声が大きいものの、生物学やルールの公平性などそもそもジェンダーの観点に触れない言説が圧倒的に多いのが印象的です。そして、それらの言説はトランス批判を契機に、LGBTとフェミニズムを左翼勢力とし、右翼こそ日本を救うものだとする典型的な「ネトウヨ(インターネット上で活動する右翼団体)」言説が多いと思われます。そして、三分の一程度の割合で、中国の陸上選手に関するデマが見られます。つまり、日本のネットにおけるトランス嫌悪は「嫌中」とも連動しているのです。まだまだ研究をする余地がありますが、トランスジェンダーに関する議論が東アジアでもジェンダー・ポリティクスを考える上で必要不可欠なものとなっていることは間違いありません。   冒頭のエピソードに戻りましょう。私自身も性的マイノリティーなので、ジェンダー論を教える事、とりわけトランスジェンダーに関する知識を教える事とは自分自身の再確認でもあります。教えている時に感じた「絶望」とは、自分の自己再確認が学生によって疑問視されていると感じたからかもしれません。学生から批判的な意見が届くたびに怒りで震えてしまいます。しかし、その怒りこそ私を動かすものなのです。良い意味でも、そして悪い意味でも。   <郭立夫(グオ・リフ)GUO Lifu> 東京大学総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程。日本大学、神奈川大学、東洋英和女学院大学などで非常勤講師。     2023年6月1日配信
  • 2023.04.13

    エッセイ737:カキン・オクサナ「疲れている心を癒す日本の美しい自然~省エネでも行ける混雑ゼロのお出かけスポット*東京編*~」

    博士論文を書いていると、精神的に疲れることが多い。論文を書いていなくても、生きるだけで大変な世の中なので、ストレスや疲れが溜まりやすい。疲れている心を癒すために様々な方法があるが、私にとって効果があるのは、自然が美しく、人混みがなく、落ち着いているところに出かけることである。自然と体の力が抜けて深呼吸ができるようになり、心と体がリラックスするのだ。満たされた気分になり「よしもうちょっと頑張ろう!」という気持ちになる。去年は週1でそういうところへ出かけたからこそ、論文を完成することができたのではないかと思う。経験を生かし、今回は心を癒すお出かけスポットを紹介したい。   最初は、留学生の間では意外と知られていない国立科学博物館所属の自然教育園だ。東京メトロの白金台駅から歩いてすぐのところにあるこの公園は、東京の他の公園とはちょっと違う。小石川後楽園や新宿御苑のような庭園ではなく、まるで本物の森だ。散策するための歩きやすい道や橋などがあるが、様々な植物が森のように自然と生えている。高い木がずっしり並んで周りの街の姿を隠しているので、都内にいることを忘れる。普段は片道3時間の遠い山などに行かないとこの感覚を味わえないだろう。日常を忘れてゆっくり散歩を楽しむのにうってつけだ。   どの季節も美しいが、紅葉の時期は特にだ。紅葉の名所は庭園やお寺などが多いが、庭園の紅葉の木は大きくなりすぎないように枝切りされている。しかし、自然教育園では枝切りされていないため、紅葉の木も非常に高い。真っ赤に染まった高い木が並ぶ絶景を都内で見ることができるのはここだけではないかと思う。まだ元気が残っていたら、隣の東京都庭園美術館に寄ってみてほしい。近代の建築や歴史が好きな人は美術館を楽しめるし、庭園も非常に美しい。   もう一つのお勧めは横浜にある三溪園。横浜は、みなとみらいや山下公園などが有名だが、人気スポットは人だらけで余計に疲れる。しかし、三溪園は山下公園からバスで10分ほど離れた静かなところにあって、混んでいない。実業家の原三溪によって1906年に公開されたこの庭園は、非常に広くて歩きがいがあり、梅の咲く時期は特に奇麗だ。東京湾をのぞむ上から眺める港の景色も良い。だが、一番の目玉は、京都や鎌倉などから移築された建造物だ。歴史的に貴重なものが多く、日本の建築や歴史を知りたい人にはぴったりだ。また、三渓園の周りは豪邸が並んでおり、ぶらぶらしながら現代建築を見るのも面白い。   最後は、桜の咲く季節にぜひ一度行ってほしいところだ。花見の名所はどこも非常に混んでいて、桜を見に行く気にならない人もいるだろう。だが、今回紹介するところは、目黒川の桜に美しさで全く負けていないのに全然混んでいない石神井川沿いの桜だ。石神井川は長いが、お薦めはJR、東京メトロ王子駅のすぐそばにある音無親水公園から東武東上線・中板橋駅までのコースだ。石神井川の旧流路を整備して造られた風変わりな公園で、それだけでも見る価値があるが、そのまま川沿いを歩くと5キロぐらいずっと桜が続く。目黒川のように屋台などはないが、その代わり人も少なく落ち着いて桜を楽しむことができる。好きな音楽でも聴きながら桜並木を眺めて歩くのは最高に癒される。   ストレスが絶えない毎日だが、たまには気分転換に美しい景色を見に行って心を癒そう。   <カキン・オクサナ Oksana KAKIN> 2021年度渥美奨学生。国立研究大学経済高等学院(HSE University)アジア・アフリカ研究所日本学科講師(サンクトペテルブルグ)。お茶の水女子大学大学院博士課程修了(社会科学博士)。研究対象は現在の日本社会と文化、ポップカルチャーとファン。9年間の日本留学を経てふるさとへ帰り留学経験と専門知識を生かし、日本語を始め日本文化論、日本社会の社会学、東アジアの文化経済学など教えている。     英語版はこちら     2023年4月13日配信
  • 2023.04.06

    エッセイ736:謝志海「日中両国の空き家事情」

    大学で教えているProblem Based Trainingという授業では、学生たちが自分で様々な社会問題について英語で提起し、みんなで解決策を考える。最近よく挙げられるテーマの一つは空き家問題である。少し調べてみると、これは地方の大学生たちが実感した問題であるだけでなく、マスメディアでもよく取り上げられていることがわかった。   昨年のフィナンシャルタイムズ電子版で、日本の空き家が多いことと中国の不動産バブルがかつてのように「日本化」するのではないかと危惧する記事を読んだ。日本の空き家と中国の空き家に類似点など無いように思えたし、日本の空き家から中国は一体なにを学べばいいのかと、特に気づきが生まれることもなく記事(Japan’s Empty Villages Are a Warning for China, Financial Times, October 30, 2022)を読み終えた。しかし、それからというもの両国の空き家について悶々と考えることになってしまった。   あくまでも自分の勝手なイメージだが、日本の空き家と言えば、かつて長い間人が住んでいた家屋が、住人が亡くなるなどで次の住み手がおらず、ずっと手付かずのままの状態の事である。実際、私の家から最寄り駅までの徒歩15分の間でもこの3年の間にそういう家が数軒現れて、今では立派な空き家地区と言える。   一方で中国の空き家のイメージとは、投機目的で高層の集合住宅をいくつも建てたものの、人が居住している様子が全くない建物とそういった建物が群立する地域である。どちらも人が住んでいない住居に変わりはないが、成り立ちは全く違う。私は日中の空き家をそう区別していたのだ。   実際のところ、中国はそういった高層住宅群が未入居のまま手付かずになっていて、そのようなエリアは「鬼城」と呼ばれている。これは日本でも結構知られていることだろう。一方、日本のゴーストタウンと言うと、かつて人々が居住していた痕跡だけが残り、住む人が消えた町を言う。日本にも住宅街にぽつりぽつりとある空き家の他にも、ごっそり人が居なくなったゴーストタウンは確かにある。そしてそれらの増加はしっかり数値にも現れていて、総務省の土地統計調査(5年ごと)によると、平成30年の空き家率は13.6%で過去最高であり、20年間ずっと右肩上がりだ。   日本でも中国でもない国から見れば、日中の空き家はただの空き家でしかないのだろうとにわかに思いはじめた。FTの記事では80年代の日本における不動産バブル崩壊からの経済回復がないまま現在に至ることを引き合いに、中国の現在の過剰なまでの住宅投資建設を懸念している。なるほど、日本のバブル期まで時を戻せば、中国の空き家事情と類似点は見出せる。   さらにFTの記事では、このままだと中国の不動産市場も日本の不動産バブル崩壊の二の舞になりかねないことに警鐘を鳴らしている。なぜなら中国もとうとう人口減少へ傾きはじめたからだ。一方、日本はとうに人口減少国であり、高齢者が多い。空き家が増えているのもこれが大きな原因で、そこには相続問題が大きく横たわる。土地家屋の相続がうまく片付かないと空き家は空き家のままであり続ける。このような誰も手をつけられない土地家屋は治安の悪化や都市開発の遅滞を招く。   中国だけでなく日本も不動産問題は多岐に渡っていると分かったところで、中国は日本から何を学べるのだろうか?中国恒大集団の過剰債務問題は記憶に新しく、過剰なまでの不動産向け融資や高騰するばかりの不動産価格が浮き彫りになった。これは日本の不動産バブルの崩壊前と似ている。恒大の規制後、実は資金繰りに困っていたり、負債を抱えたりする不動産会社がどんどんあらわになった。不信感を抱いた購入者が恒大の不動産の購入取り消しに動き出したりすると、混乱は一般市民にまで及んだ。日本総合研究所の関辰一主任研究員は「しかし、中国政府も十分に日本から学んでいる」としている。住宅ローン金利の引き下げや不動産会社向け融資規制の緩和措置などを行なっているためだ(週刊エコノミスト 2022年9月13日 毎日新聞出版)。これ以上問題が大きくなっていないと良いのだが。   日中両国にとって不動産がいかに尊い資産扱いされているかがわかる。(もちろんそれは日中だけにとどまらないが。)また、とにかく建てることで経済が活性化すると信じられているということも両国を見ていると痛感する。人口減少、少子化、高齢化社会、とにかく毎日それらのいずれかがニュースのトピックになっていると言っても過言ではない日本で、これらの重大問題を尻目に今も日々住宅は建設されている。実際のところ、2022年の新設住宅着工数は前年比の0.4%増と2年連続増加した(国土交通省データ)。中国はまだ高齢化社会とは言えないが、人口は昨年初めて減少に転じた。日中両国共に互いの不動産事情を俯瞰的に見て、自国の未来の人口予測と住宅供給のバランスを見直すことができたらと思う。     英語版はこちら     <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師、准教授を経て、2023年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2023年4月6日配信    
  • 2023.03.30

    エッセイ735:オリガ・ホメンコ「この状況で経営者はどうしているのか?」

    ウクライナ西部でイースト(発酵剤)とペットフードの会社を兄弟で経営している友人がいる。ロシアに侵攻された後もさまざまな問題を乗り越えて頑張っている姿を見るのは嬉しい。しかしながら、新聞に出ないような辛い話もたくさんある。   戦争が始まって自社の商品が生活必需品であることをさらに実感した。最初の3カ月間、家でパンを焼くためにイーストを買う人が激増した。危機感があるとイーストが売れる。コロナ時代の2020年3~4月もそうだった。トイレットペーパーと同じようにイーストが売れた。不思議な傾向だが、危機感を感じる時にパンの消費が伸びる。逆に安心して平和な時代には健康を気にしてパンの消費が減るようだ。   最後まで戦争になるとは信じたくなかったが、国際メディアが騒ぎ始めた2021年12月ごろから少しずつ備え始めた。パラノイック(偏執病)だと思いながらも、300人も働いている会社だから、万が一のためにシェルターを準備した。万が一のために空襲警報のシミュレーションと避難訓練をした。本当は「カイゼン」が好きで在庫を持たないが、念のために2カ月分の材料を備蓄した。ウクライナで買えるものは全部そろえた。その中には、東部で製造している硝酸、硫酸、パッケージなどもあった。戦争の影響を受けずに2カ月間は製造できるので、とりあえず安心と思った。侵攻が始まっても2、3人しか避難しなかった。   その頃ポーランドの物流と販売の関係者から「従業員の子供たちを保護者と一緒に引き受けましょうか」と言われた。最初は誰も行く気がなかったが、空襲警報が増えて、ミサイルも飛んで来るようになると希望者が出てきた。結局数百人をポーランドに避難させてもらった。ポーランドの取引会社の社長も自分の家に6人住ませてくれた。ポーランドの小さな田舎町だったが、子供は学校で勉強し、週末には観光もさせてくれた。自然な形で助けてくれたので、皆とても感謝している。   会社の敷地内にもミサイルが飛んできた。運良くオーストリア・ハンガリー時代の頑丈な塀の間に落ちて爆発しなかった。ソ連製のミサイルだった。   ウクライナ各地に工場を3つ持っている。西ウクライナ以外の2つはハルキフとクリビーイ・リーグにある。最初の1カ月間は西部にある工場しか稼働できずに大変だったが、残りの2つの工場も再稼働できた。商品の5割は海外輸出用である。1年前にウクライナの通貨が下落した時に外貨を得て、新しい工場施設を建てたことも役立った。大変な状況の中で輸出先の海外関係者は一人も減らなかった。もちろん、万が一製造が止まった時の「プランB」も考えていたが、誰も戦争だから取引をやめますとは言わなかった。特にクロアチアとドイツの取引先の人々は素晴らしく、輸出量も伸びた。クロアチアのバイヤーは「我々も戦争を経験している。平和の時によくやっている会社は戦争の時も大丈夫だ」と勇気づけてくれた。   実はロシアにも工場があったが2015年にカナダの合弁会社に譲った。3月10日に残っていたもの全部をカナダの関係者に100ドルくらいで売った。ロシアに資産を持ったらいけないと思った。とにかく手放したかった。購入したカナダの関係者からは「これからの5年間、利益の5割をあなたたちが好きな方に回してもいい」と言われた。   友人はトレンドに敏感な女性の社長で、数年前に健康志向によってパンの消費が減り始めたことに気づき、イーストを他に利用する方法を考えてバイオビジネスにも進み始めていた。バイオテクノロジーの研究開発(R&D)部門も持っている。侵攻が始まった時、ターゲットになりやすいかもしれないので会社のウェブサイトを閉じた。そして密かに軍隊に寄付した。「1年に1回、イーストのひとつのブランドの売り上げの2割を軍隊に寄付する」と告げて、その春に400万~500万グリブナを寄付した。   侵攻が始まる1年前から新しい工場を建てるために建設費の半分を借金した。侵攻後数週間は工事が止まった。2022年の夏にオープンする計画だったので、3月半ばに工事再開を決めた。工事を止める意味がないと思った。ウクライナの将来を強く信じるし、それが会社の方針でもあるので続けることにした。2023年2月末のオープンが決まり、海外関係者を招いたが誰も来なかった。それでもオープンした。新しい工場が作っているものは2つある。   1つ目は日本の「味の素」みたいな調味料。イーストで出来たもので、うま味を自然に引き出す。最初の宣伝用商品は海外に送った。2022年秋には侵攻後最初の海外展示会でパリに行った。そこでは「ウクライナだから関わりたくない」という反応はなく、逆に「ウクライナ製」というブランドがプラスに働いた。もちろんブランド性だけでは長続きできず、商品の質が良くなければいけない。2015年から欧州連合(EU)内で関税がなくなっただけで、今回何か特別なものが得られたわけでもない。ヨーロッパでプロバイオティクスのイーストとイーストで出来た家畜用のサプリメントを売るためには許可が必要だが、それは既に取ってあった。新しい施設を作るために借りたお金も予定通りに返している。400人の従業員に給料も払い続けている。一人も辞めてない。ただ空襲警報によって仕事効率が落ちる。イーストは空気と接触したら発酵するので、時間通りにパッケージ化しないといけない。警報でシェルターへ降りないといけないので、それができない時もある。だがこの1年間、売上高もEBITDA(編者注:グローバル企業の業績や多国間の業績を比較・分析する際に用いる指標)も伸びた。   もう1つは家畜用のサプリメント。パンの売り上げが減った時に、いろいろ探して見つけたビジネスアイディアである。畜産業に目を向けて、イーストから鳥、豚、牛が自然に体重を増やすサプリメントを作った。今では国内だけではなく24カ国に輸出している。アジアにも販売網を広げようとしている。日本では北海道の農家に話を持っていこうと考えている。   20年前、ビジネスを拡大するために、イーストと似ている製造ラインで何をできるかと考え、ペットフードの会社も設立した。コロナ時代には、家に長時間居るのは寂しいし、散歩の理由が欲しいので犬や猫を飼う人が増えた。ペットフードの消費も増えた。2014年以降はロシアのメーカーがウクライナ市場からほぼ撤退したので、シェアを拡大するチャンスになった。設備投資、新技術の導入、新商品開発もしていたので大きく発展した。ペットフードを32カ国に売り、1300人の従業員が働いている大きな会社だ。   コロナの最中にリトアニアで大きな工場をオープンし、ウクライナからの輸出ではなく、EUで作って直接ヨーロッパ市場で売ることにした。動物に優しい食べ物と環境を作る会社のために努力し続けた。ペットの世話や心理を説明しているラジオ番組まで立ち上げていた。従業員は会社に飼い犬や猫を連れてくる。ウクライナ全国で「自分のペットを会社に連れて来よう」というキャンペーンもした。とても興味深いイノバティブな会社だ。戦争が始まった時、捨てられた犬や猫を会社に連れて来て世話をして、新しい飼い主探しまでしてあげた。   国内避難者が西ウクライナに多く来ているし、それまでは自分で犬の食事を作ってあげていた人も市販のペットフードを使うようになったので、ペットフードの売り上げが伸びた。戦争だから犬や猫も避難生活をしなければいけないので、かわいそうだと思う飼主が多い。もう少し良いものを買おうとするので、プレミアムセグメントの商品を増やし、米国やヨーロッパの国々にも輸出している。戦争の時も前向きで頑張っているこの兄弟からは見習うことが多い。   子供は海外にいる。時々会いに行く。「この状況下でビジネスをするのはどんな感じ?」と聞くと、「もう慣れた」という返事がくる。ミサイルもどちらから飛んできているか区別できるようになった。ベラルーシからドローンが飛んで来ている時と、カスピ海から飛んでくる危険物の区別は音でできるそうだ。「今どこから元気をもらっているの?」と聞くと、毎朝7時からジムかプールでパーソナルトレーナーと運動しているので、そこから元気をもらえるという。ピラテスと水泳をやっている。「家にもジムがあるのに、どうして?」と聞くと「シェルターとして使っている」と笑いながら言う。「一人で運動してもつまらないし」って。   一番大変だったのは、停電でインターネットが落ちた時だった。情報が入らない時は本当に不安になる。電池式ラジオを買って少し安心した。最初の数カ月間は読書や映画を見ることが全然できなかったが、今はネットフリックスで映画も見ている。小学生の子供も時々海外から遊びに来る。「ウクライナに居る時、子供はどんな感じで反応する?」と聞くと、「前と違ってぼんやりしてない。戦争だとわかっているので集中力が自然に上がる」という。   去年の10月にインフラをやられて停電が始まった時、非常に大きな2メガワットの発電機をトルコから買った。大きなトラックのサイズのもので、停電になっても工場の電気を保つ。   侵攻後初めて海外に出た時に、たまたま海の近くの街で、海岸沿いの通りに出ている喫茶店で、平和にリラックスしてほほ笑んでお酒を飲んでいる人々を見た時に大きなショックを受けた。辛かった。どうして自分の国は今苦しい目に遭わなければいけないのかと問い続けた。従業員から最初の9カ月間休みは要らないと言われて、休暇なしで働いた。最初に連休をもらって休んだのはクリスマスだったかもしれない。「アドレナリンで走っている」と分かっているので、自分の部下のことを、特に感情を出さない男性従業員のことを心配している。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは文筆活動もしていますので、今回は転載をご遠慮ください。   ※昨年4月から毎月オリガさんにエッセイを執筆していただきましたが、この号をもって終了します。ご購読ありがとうございました。     2023年3月30日配信
  • 2023.03.09

    エッセイ734:オリガ・ホメンコ「ウクライナと日本」

    2022年はウクライナと日本の外交関係樹立30周年だった。まだコロナの最中だったので、私が教えていた大学では日本の有名な先生のオンライン講義を開催する予定だった。開会式を行い、最初の収録の朝にロシアの侵攻が始まった。慌てて講義をお願いしていた先生に電話をしてキャンセルした。私が「早く終わるように祈っています」と言うと、「これはさあ、長引くかもしれない」と言われてショックを受けて言葉が出なかった。あれから1年が過ぎ、戦争はまだ続いている。残念だが講義する場所がなくなり、無期延期となっている。   なぜそのような講義を企画したかというと、ウクライナ人にとっては、日本に行く機会はまだまだ少なく、日本に触れることもあまりない。侵攻が始まる前に、ウクライナ語で「日本」と「日本人」をグーグル検索すると、「美しい日本」、「観光名所」、「日本人と中国人の違い」などしか出てこなかった。ウクライナは独立してから留学や旅行に行く人が増えた。しかしながらせっかく外交関係30周年でも、残念なことにウクライナでは日本についての情報がまだまだ少なく、普通の日本人と接触した人も少ない。日本で修士や博士まで勉強できた私は多くの先生方を知っているので、オンライン講義によって本当の情報を学生たちに届けたいと思った。   初めて日本へ留学したのは1994年の春。初めての海外だった。友達は「最初はポーランド、その次はドイツ、その後はアメリカ、それから日本へ行くべきだ。真っすぐ日本に行ったらショックが大きすぎる」と笑いながら心配してくれたが、子どもの頃から版画や墨絵をたくさん見て、翻訳された日本文学の作品を読んだ私にとっては、学ぶべきことがたくさんあった。日本で勉強し、言葉、歴史、思想史、文化、国際政治など学んだことをウクライナに持ち帰りたいと思っていた。   1994年の夏にキエフに戻る時、とりあえず日本で食べた物をウクライナで作れないかと思って色々持ち帰った。その中に寿司の太巻きを作るセットとインスタントラーメンが何個かあった。友達を呼んでパーティをしたら皆不思議がって食べていた。今までの肉やじゃがいも中心の食事と全く違っていた。あれからほぼ30年が過ぎた。ウクライナにもいろいろな日本食が入ってきた。2000年に入るとキーウに寿司屋がたくさん増えた。24時間営業のファストフード系もあり、学生に人気だ。この数年間でラーメンの人気も出て会社員はお昼によく食べに行っていた。そして抹茶ラテがお洒落な喫茶店で出てくるようになった。昔のように「粉になっているお茶?信じられない!」と驚く人は、今は誰もいない。普通に飲んでいる。   しかしながらキーウで日本人が経営している日本料理店は2軒だけで、他は全部地元の人がやっている。ウクライナ人の日本料理への愛着が日本人より先に到着したとも言える。日本人の料理人や経営者は、日本食ブームの恩恵を生かすことができなかった。そして、日本にもその話題が届き、そろそろ日本からお店を出せる人が出てくる時に、ロシアの侵攻が始まったのでさらに不可能になった。   ウクライナ人の日本に対する思いについては深い歴史がある。ソ連時代からのウクライナでは日本文化への憧れがあって、1970年代から多くの日本の文学作品がウクライナ語に訳されていた。黒澤明の映画、坂本龍一や喜多郎の音楽、ソニーのテレビやウォークマンが人気だった。日本はロボットの国と思われていた。ある意味でソ連のオリエンタリズムに流されていた。このようなイメージを抱くのは40代半ば以上の世代だ。若い世代はやはり日本のポップカルチャーに育てられた。「たまごっち」や「ファービー」から始まり、漫画やアニメ、ポケモンなどの切り口で日本や日本語に興味を持つようになった若者が多い。   日本語を勉強できるところも増えた。キーウでは、10カ所以上の大学で日本語を主専攻や選択科目などで勉強できる。日本語学科に入る若者はほぼ全員アニメや漫画に興味があるので志望するが、日本語学習は難しいので3年生までに留学できなかったら専攻を変える人も多い。留学して卒業しても就職先がほとんどないのが現実である。商社や大使館は日本語ができる人を採用するが、キャリアアップできない。言葉ができるだけでは言語学者以外に何にもなれない時代になったが、それでも言葉の勉強に投資した日々を考えるともったいない。だが日本語を勉強する学生の多くは成績が優秀なので、日本語をあきらめても米国や欧州に留学し直して国際関係、経済、マーケティングを少し勉強して事業を始めたり外資系企業に入ったりして、かなりの成功につながった人もいる。だがそれには勇気が必要だ。両親や家族と強い絆を持つウクライナ人の若者の皆がそうなれるわけではない。   日本に留学した人には勇気がある。会社を起こしてウクライナと日本を貿易で繋ぐ人もいる。「ゼンマーケット」はその一つである。直接日本の店から多くの商品をオンラインで注文することができるようになった。ウクライナ独立後に「日本語」が増えたとも言える。芸者・リキシャ・着物の次に、漫画・アニメ・寿司・ラーメンが入ってきた。そして、最近興味を示しているのが、ビジネスに取り入れる「カイゼン」、日本のものの直し方「金継ぎ」、近藤マリの断捨離「こんまり」。   日本との交流は、この10年間で政治だけではなく文化、スポーツなどでも盛んになった。2012年の秋、外交関係20周年は国際交流基金の支援を受けて、キーウ、リビウ、ドネツクに日本の能楽師や裏千家などの茶人が訪れて大きなお祭りになった。それ以来、毎年秋に大使館では日本映画祭を開催し、宮崎駿の多くの作品が上映され、日本への関心はいつも高かった。   ウクライナの国営ウクルインフォルム通信社の日本語ホームページ編集者の平野隆氏をはじめウクライナ在住の日本人はウクライナ情報を日本で普及させることに大きく貢献している。また、ツイッターのおかげで、コロナ期でもウクライナと日本を近づけることができた。2021年1月、風邪をひいて退屈していたので、軽い気分でツイッターを始めた。ウクライナで春にパンの鳥を作る習慣について書いたら、一気に7千人のフォロワーが現れてびっくり。交流サイト(SNS)のすごい力を感じた。より広いオーディエンスに直接話せるという憧れはあるが、距離感が縮んで中毒的な影響もあるので注意を払って付き合うべきだと思う。   クリミア併合後、日本の首相が初めてウクライナを訪れ、多くの経済支援をいただいた。ロシア侵攻が始まってからは日本からたくさんのサポートや援助をいただき、日本への親近感が増えた。お互いの隣国であるロシアに対して複雑な気持ちも分かち合える。今までウクライナについて情報が少なかった日本でも、侵攻後に多くの情報が入るようになった。外交のリーダーとして歴史上初めて、ゼレンスキー大統領が日本の国会でオンラインで演説した。今まではありえなかったテレビのバラエティ―ショー、お昼の番組などでウクライナの話題が出るようになった。恐ろしいくらいの回数で。以前はウクライナについての番組は毎年数回しかなかったのに、今は毎月200件以上の番組の提案があるそうだ。   1990年代半ばには「どこからですか」と聞かれて「ウクライナ」と言ったら「ソ連ですか?ロシアですか?」、あるいは「ウルグアイですか」と聞き返された。2004年のオレンジ革命後は「西部ですか?それとも東部ですか?」と問い返された。2014年のマイダン革命以降は「ウクライナ」と言ったら「キーウ、クリミア、ドネツクですか?」と聞かれた。2022年2月以降は「キーウ州のブチャ、イルピンですか?またドニプロそれともハルキフですか」など、さらに細かい地位名が知られるようになった。世界中の人々のウクライナの地名について知識が一気に増えた。不幸の中のありがたい話ですが。。。本当は違う関係でウクライナのことを知ってほしかった。1000年の文化を持っていて、歌が綺麗で、豊かな自然に恵まれて、料理が美味しく、人々は優しくておもてなしが上手ということで知ってほしかった。   ウクライナでの戦争に対する日本政府の反応は速かった。日本は欧米ではない唯一の先進7カ国(G7)の一員としてウクライナを強く応援したことに気づく。侵攻直後の2022年4月の首相官邸ウェブページのニュースを見ると6回もウクライナ関係の会議が開かれ、そのうちの2回は首相の記者会見もあった。30年間の外交関係で一番多い。日本のウクライナ支援はマイダン革命とともに始まって、クリミア併合後に強くなった。2015年6月、安倍晋三首相が初めてウクライナを訪れた。私はその時に1000年以上の歴史を持つソフィア教会の案内を務めさせていただいた。 首相の到着が少し遅れたので、待っている間に昭恵夫人とお話をする機会があった。私の靴を褒めてくださったので、なんて優しい方なんだろうと思った。安倍首相は歴史の話をよく聞いてくださり、ほぼ同じ時代だが日本の木造建築である奈良の東大寺の方が少し早くできたことを指摘され感動した覚えがある。案内が終わってからもう一度ソフィア教会の祭壇の前に戻りたいと言われ、お一人で戻って静かに瞑想されていた。忙しいのに外国の文化に尊敬と理解がある方だと思った。首相が亡くなられたニュースを聞いた時には、ソフィア教会の礼拝台の前に立っていらっしゃった姿が目の前にしばらく浮かんで心が痛かった。   そしてロシアの侵攻以後、日本の支援は6億ユーロにのぼり、史上初めて自衛隊からの非軍事支援もあった。2000人以上の避難民を受け入れてくれて、そのために世界で最も厳しい日本のビザの基準を少し緩めた。キーウと姉妹都市の京都だけではなく、全国の都道府県でウクライナ人を受け入れた。ウクライナの大学生のために特別講座を作った大学も少なくなく、ウクライナ語の講座を開いた大学もある。今まで30年以上かけてウクライナの外交官が一生懸命進めていた文化交流はスピーディに動いたかのように見える。戦争がなくてもこのように発展してほしかったけれど。   NHKではウクライナ語のホームページができて、避難者のためになるさまざまな情報と共に、海外や国内のニュースをウクライナ語で提供し続けて、日本の文化や日本人を理解するために非常に役立っている。   今まではロシア文化やロシア人と思われていたウクライナのことが日本にやっときちんと伝わった。アナキーズムを日本に紹介した一人のレフ・メーチニコフ、また彼のお兄さんでノーベル賞も受けた生物学者イリヤ・メチニコフ、そして新宿の中村屋に支援していただいた目の不自由なワシリー・エロシェンコ、それから旅順要塞を守ろうとしたコンドラチェンコ司令官、また戦艦ミズーリで第2次世界大戦を終わらせるためにソ連側の代表として署名したクジマ・レデビャンコも皆ウクライナの人である。   日本とウクライナの交流は極東シベリアで始まったと言うこともできる。小作農制度から解放されたウクライナの農民たちは与えられた国内の土地に不満を持っていたので、ロシア帝国政府の極東開発プロジェクトの宣伝に乗って遠くに引っ越した。統計によって数字が違うが、1875年から1917年までにおそらく100万人ものウクライナ人が極東に移った。そしてロシア革命とともに自分の民族権利を強調するようになって、自分の自治体制「緑ウクライナ」を作ろうとした。ウクライナ語の新聞や学校も作り、1918年から1920年までの間に少なくとも4回、ウクライナ人の集会が開催された。「緑ウクライナ」憲法のドラフトも作った。本気で独立したかった。その時シベリアに出兵中の日本にも力を貸してもらいたかった。日本の外務省も20世紀初めの極東におけるウクライナ人の多さに気づき、報告書も出している。日本人は満州でもウクライナ語コミュニティーやウクライナ人が出していた新聞にも協力していた。お互いに隣にロシアがあるのでシェアする不安が多かったから。今回のウクライナへのロシアの侵攻の激しさを見て、日本人の頭の中に思い浮かんだことが想像できる。   今回、スピード感のある両国関係の深まりと相互理解と開花は不幸の中の小さい幸せである。この厳しい時代を乗り越えて、平和な状況の中でつながり続けることを期待している。   <オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO> オックスフォード大学日産研究所所属英国アカデミー研究員。キーウ生まれ。キーウ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。   ※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは文筆活動もしていますので、今回は転載をご遠慮ください。     2023年3月9日配信
  • 2023.03.02

    エッセイ733:蒋薫誼「 “比較”から得たもの」

    今までの人生は絶えず北へ行く流れだった。島国である台湾において、唯一の海なし県である南投が私の故郷だ。南投は台湾の中心部にあり、有名な日月潭がある。ただ、観光地以外はあまり賑やかではなく、田舎のイメージが強い。私は南投県の小さな町、草屯で楽しい子供時代を過ごした。その後、優秀な学校に進学するため中学と高校は台中の進学校に、大学は台北のエリート校に進学した。ますます北へ、ますます都会へ。そして、現在ははるか北にあるもう一つの島国におり、国際的な大都市・東京で暮らしている。   東京で初めて雪を見て、その感動は今でも忘れない。湿度が極めて低くなると、肌が乾燥すると同時に、いろいろな健康問題が起こることを痛感し、初めて加湿器を使った。太陽が午後4時半頃に沈んでしまう冬の夜の長さに驚いた。異世界の迷路のような複雑な鉄道交通網を利用し、さまざまな国の方と出会うと、大都会に生きている実感が湧く。   私の研究対象である江戸儒学者の荻生徂徠は、父親が放逐されたため、田舎の南総(千葉県中部)で10代と20代前半を過ごした。江戸に戻った20代後半の徂徠は、その「南総体験」と目の前の繁華な江戸を対比し、人に対する「風俗」の影響力は莫大であり、人々は自分が生きている環境とそこから得た経験しか分からないため、識見が制限され、まさに「廓(くるわ)」に囲まれた状況にいることを悟った。そのため、徂徠は「廓」から出て、現在の「風俗」を相対化する能力の重要性を強調した。   居所がずっと変動していた私は、徂徠が言った「風俗」の違いと「廓」による制限を確実に感じている。さまざまな情報が自由かつ速やかに流通している現在でも、都会と田舎では暮らし方や人々の関心は違っている。そして、言うまでもなく、国の境を越えた後、文化・価値観などの違いは非常に大きい。   来日する前の日本に対する印象はごく単純、そしてシンプルなものばかり。例えば「食べ物は塩辛い」、「皆、礼儀正しい」など、台湾人の日本への一般的なイメージを共有していた。これらは間違っていないけれども、日本という国の複雑さを非常に乱暴な形で要約した結論だと思う。「塩辛い」は恐らくラーメンやとんかつなどのイメージだろう。しかし、日本の家庭料理は台湾より遙かに薄味であり、伝統的な日本料理も濃厚な味を追求していないと思う。また、礼儀正しさの半面、人間関係は一定の距離を取っており、建前と本音が分かりにくい場合がよくあると実感している。   日本で何年も生活して、日本の方々と付き合い、「他者」である日本を単純に理解してはいけないことが分かった。また、そこから「自己」である台湾のいろいろな事象を、より深く理解できるようになった気がする。例えば、私は日本の方から「台湾料理の特徴は何か」と聞かれて、初めてこの問題を考えた。ちなみに、その答えは「やはり甘い」だ。また、台湾では不作法な振る舞いがよく見られる。しかし、その反面は人情味溢れる社会と、「一致すること」を追求しない自由な雰囲気だ。   私が心得たことは、自己と他者の文化を比較する目的は、決して両者の優劣を下すためではないということだ。それは、自己と他者の実態を十分に分かった上で、他者を理解するために自己の特徴を以て他者を思索し、自己を認識するために他者の特徴から自己を対照する作業だと思う。これを通じて他者と自己を同時に「相対化」し、それぞれの「廓」から両者を解放することができる。これは居所がよく変わる私にとって非常に有益な心得であり、従事する思想史の比較研究にも役に立つ視点だ。   英語版はこちら   <蒋薫誼(しょう・くんぎ)CHIANG Hsun-yi> 2021年度渥美奨学生。台湾南投県出身。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程に在学中。東アジア思想史を専攻。江戸時代の徂徠学と清朝考証学との思想的な交流を研究。     2023年3月2日配信
  • 2023.02.23

    エッセイ732:李典「パートナーに支えられた留学生活」

    この春、7年間の博士課程でのトレーニングを終了し、新たな道を歩み出す。10年も留学で日本にいたことになるが、その間の出来事を振り返ってみたい。   初めて日本に来たのは6歳の時で、両親の仕事の都合で北京から大阪に引っ越し、2年間住むことになった。小学校の担任が私や両親とスムーズにコミュニケーションが取れるように中国語を勉強したり、クラスメートたちも親切に接したりしてくれて、日本を離れる時にまたいつか来たいと強く思ったのを覚えている。   再び日本に来たのは13年後の2011年春。東日本大震災の直後だった。生物学専攻の学部生の私は交換留学で横浜に1年間留学することになった。余震が絶えなかったので、ビクビクしながら初の海外での一人暮らしだったが、面白い授業や実習のおかげで充実した毎日を過ごした。当時指導していただいた先生の紹介で私がその後所属する研究室を訪ねる機会があり、運よく修士課程から受け入れてくれることになった。   北京の大学の学部を卒業し、2014年春、東京で新生活が始まったが、まさか9年間も慶應義塾大学にいることになるとは思ってもみなかった。修士課程はそれほど難しくなく、授業を受けながら残りの時間を実験に使った。チャレンジングなプロジェクトに入っていたが、順調に進んで結果も出始めた。実験手法を磨き、きれいなデータを出すのが楽しくて、2年間はあっという間に過ぎていった。   その後も学問を追求したいという思いから、迷うことなく博士課程に進学した。しかし、そこからさまざまな変化があった。実験がうまくいかず、プロジェクトが進まない。試行錯誤し続けても改善が見られない。実験などいろいろなことを教えてくれた仲の良い先輩たちが卒業していき、ライフワークバランスが崩れ始めた。学会発表でも研究について厳しく指摘され、追い討ちをかけられた。研究や対人関係で心細い思いをし、一時期はあまり動けず、朝布団から出られず、研究室に行けなくなってしまうまで調子を崩した。   そんな時に一番心の支えになってくれたのが夫だった。中国から駆けつけてくれて、私が立ち直るまで一緒にいてくれた。時間がかかったが、なんとか回復して、研究も方向を変えて新しいプロジェクトをゼロからスタートさせた。もう博士課程3年目だったが、余計なことを考えずもう一度研究を楽しもうと決心した。夫も中国での仕事を辞め、日本に来て博士課程に入り、同じ研究室で研究を始めた。   4年が経ち、この3月に私たちはようやくプロジェクトを完了し、博士号を取得する。この間はもちろん全てが順調ではなかったし、研究をしていると毎日のように問題に直面し、時には挫折する。そんな中でも心のバランスを保ち、困難を乗り越えていくには心の支えを持つことと、身の回りの些細なことに気を取られないことが重要だと知った。生活面での心の支えは一般的に家族になるのだが仕事面まで理解が得られない場合が多い。しかし、仕事面でのサポートも生活面と同じくらい重要だと感じている。私の場合、運良く生活でも仕事でも理解してくれるパートナーに出会えたことで困難を乗り越えられた。   もう一つ私にとって大事な心掛けは、些細なことに気を取られないようにし、日々の生活の中で余計なエネルギーを使わないことだ。一つの実験結果に一喜一憂していると時間もエネルギーも無駄になるし、ニュースや会員制交流サイト(SNS)の情報で落ち込んでいられない。感情的になるよりも論理的に物事を分析することのほうがよほど効率が良い。エネルギーを使いすぎてしまうと次の日がどうしてもしんどくなってしまうので、無駄な消費を抑えることが自分にとって一定のコンディションを保つ有効な方法だと感じている。たまに感情が薄いと言われることもあるが、それも気にしない。   ここまでこられたのは、大勢の方々からの助けがあったからこそで、恵まれていたと感じている。失敗も挫折も経験したが、それらに向き合ってきたからこそ成長できたと思う。感謝の気持ちを忘れずに、目の前のプロジェクトに挑み続けたい。   英語版はこちら   <李典(り・てん)LI Dian> 2021年度渥美財団奨学生。中国北京市出身。慶應義塾大学医学研究科博士課程在学中。哺乳類着床前初期胚発生時に、ゲノム中でとびまわる特殊なDNA配列の動態を研究。3月に博士号取得見込み。4月からは所属が変わり、アメリカ・ペンシルベニア大学で研究活動を継続する。     2023年2月23日配信