SGRAエッセイ

  • 2011.12.28

    エッセイ321:李 恩民「今まで私に一番影響を与えた人――父」

    私はこの世に生をうけて30数年間、実に多くの師に恵まれたが、その最初の師はやはり父であった。父は中国の受難の時代である「文革」(文化大革命)に、自らも迫害を受けたにもかかわらず、私に正直という美徳を伝え、人間としての教育を授けてくれた。 父は高校時代に西安でその時代の潮流である「革命思想」に目覚め、延安に入り込み、中国革命に身を投じた。そのため、祖父は国民党の兵隊に逮捕されたが、革命勝利のため、わが家は「革命幹部の家」となり、辺鄙な故郷で英雄としてもてはやされた。解放後、父は中央政府核工業部に直属していた地質調査局に勤め、次官の直前まで昇格していた。しかし、そんな父を「文革」という人為的な災難が襲ったのであった。1966~1976年の「文革」では、管理職に就いていた人達は、上は国家主席の劉少奇から、下は農村の村長まで、ほとんど例外なく、「階級の敵」の嫌疑をかけられて、民衆の攻撃の対象となった。父もこれを免れることができず、「歴史的反革命分子」という罪名をつけられた。そして一切の権利を剥奪され、一時期監禁さえもされたのである。重病のため実家に送還された後は、監視つき強制労働を課せられることになった。その時、私たち家族も都市から追い出されて、父と一緒に山西省の農村で不自由な生活を10年間も強いられることとなった。その時、誰もが、私たちをどなりつけ、説教し、あれこれ命令した。私も自己批判や思想報告を書かされたり、罰として道路を掃除させられたりしたことが何回あったか数え切れない。私たちは、誰かが自分に援助の手を差し伸べてくれるのを心から熱望したが、人々はわが身も危うい状態で、他人を顧みるゆとりなどなかった。こんな苦境の中で私を支えてくれたのはやはり父であった。 父は自分には恥ずべき何事もないと確信し、「民衆が私を理解してくれる日が必ず来る」と信じていた。しかし、当時の実情では、父親が政治問題を抱えていれば、子供たちの進学や教育は非常に不利だった。1970年、私はすでに9才になっていたが、まだ小学校に入っていなかった。というのは「歴史的反革命分子」の息子だという理由から、私は公民としての教育を受ける権利をも剥奪されたからである。私は入学を拒否された日のことを今なお忘れることができない。父は激しく憤り、監視の幹部に叫んだ。「すべて私に打ちかかってくるがいい。あらゆる災いが全部やってくるがいい。しかし、子供たちには累を及ぼすな」と。子供たちが正常な教育も受けられないという実情に直面した父は、母と共に兄弟の今後の行く末を案じて、どんなひどい暮らしであっても、子供たちにぜひ良い教育を受けさせようと決心した。そして、ある日の夜、父は家族全員を集めて私たちに語った。「君たちがお父さんのことを信じているのなら、今から学問をしっかり身につけ、将来は国家への貢献を通じてお父さんの潔白を証明してくれ」と。翌日から、父は毎晩、農場より戻ってから私たち4人兄弟を相手に塾のように授業を始めた。その後、6年間、父は昼間にどんな侮辱を受けようとも、相変わらず教え続けた。その最初の頃は、村には電気がまだついていなかったが、私たちは石油ランプの光の下で学校必修科目以外に、禁じられていた『論語』、『孟子』など古典書をも通読した。「文革」後、父の名誉は回復された。また、大学受験制度が復活すると、父の授業により得られた基礎学力のお陰で、私たち兄弟は次々と大学に合格した。 「文革」とは中華民族の災難であったが、私たち一家もその辛酸を共にした。当時、もし、父の教えがなかったなら、不合理な苦境に追いやられた私は、この人生最大の難関を乗り越えることができなかったかもしれない。それゆえ、私はいつも人生の最初の師である父のことを思い出す。人間社会の平和と幸福のために、そして苦労をした父の期待に答えるために、私はぜひとも日本での研究を成功させたいと願っている。 (著者の了承を得て、渥美財団1995年度年報より転載) ------------------------------ <李恩民(り・えんみん)Li Enmin> 1961年中国山西省生まれ。1996年南開大学にて歴史学博士号取得。1999年一橋大学にて博士(社会学)の学位取得。南開大学歴史学系専任講師などを経て現在桜美林大学リベラルアーツ学群教授、SGRA研究員。専門は日中関係史、中国近現代史、現代中国論。 著書に『中日民間経済外交』(人民出版社1997 年)、大平正芳記念賞受賞作『転換期の中国・日本と台湾』(御茶の水書房2001年)、『「日中平和友好条約」交渉の政治過程』(御茶の水書房2005年)など。共著に『歴史と和解』(黒沢文貴・イアン・ニッシュ編、東京大学出版会2011年)、『中国内陸における農村変革と地域社会』(三谷孝編、御茶の水書房2011年)など多数ある。 ------------------------------ 2011年12月28日配信
  • 2011.12.21

    エッセイ320:スマンティヨ「アヒル飼いの子」

    35年前のことを思いおこせば、私はちょうど小学1年生で、父の転勤で、インドネシアの西部ジャワ県バンドン市内から中部ジャワ県ソロ市内のインドネシア最大の空軍教育訓練駐屯地の敷地内の団地に引っ越しました。中部ジャワの方言、習慣などにまだなれていなかったころ、よくまわりの軍関係者の子供達からいじめを受けました。インドネシアでは、軍の団地に住んでいる子供たちは乱暴者が多くて「Anak Kolong(寝台の下の子:蘭印時代に駐屯地の兵舎で生まれ寝台の下に寝かされて育った兵隊の子)」というあだ名がついているほどです。そのため、学校の勉強が出来なかったし、成績もいつもビリで、学校へ行くことすら嫌いになりました。父の仕事の関係で、空軍基地の団地の中に住まなければなりませんでしたので、不良の子どもたちとの接触を避けられませんでした。 まさに、様々な悪条件が揃っていました。そのため、私は、親の知らないうちに悪い子になってしまいました。小学3年生になった時、親と一緒に校長先生に呼び出されて、成績の悪さなどを注意されました。そのとき、本当に怖くて、親の顔を見ることができませんでした。複雑な気持ちでいっぱいのまま、一緒に学校から帰る途中、緑豆のお粥店に寄りました。母はやさしく私の顔を見、父も、身体が震えていた私に、甘いお粥を食べさせてくれました。 翌日、父はなかなか取れなかった休暇をとって、よく空軍学校の訓練生たちと一緒に歩き回る田舎へ私をつれて行きました。突然、父は一軒の民家に寄って、私をその民家のご主人と子供たちに紹介しました。民家の裏にはたくさんのアヒルがいたので、やっとその主人がアヒル飼いであることがわかりました。 その日から休日になると、すぐこの民家に遊びに行くようになりました。アヒル飼いの子どもと仲良くなり、よく一緒に田んぼや川などで泥にまみれるまでいっぱい遊びました。そのころから、私は自然に関心を持つようになり、人間と自然が調和したところがこんなに美しいと思うようになり、現在もよく頭に思い浮かべています。 そのとき不思議に思ったことは、この仲良しになった子は、自然の中でよく遊んでいたと聞いていたのに、いつも学校の成績が1番で、その田舎で最優秀の学生だったことでした。そして、これをきっかけに、私は悪夢から目が醒めたように、このアヒル飼いの子に負けたくないという気持ちになり、勉強に力を絞って、今まで親をよく困らせた分を取り戻そうと決心しました。 それから1年後、私の学校の成績はビリから1番になり、親、校長、町の人々を驚かせました。父がこの知らせを聞いたとき、私の目には信じられないほど喜んでいました。母の目からも嬉し涙がぽろぽろ流れました。そして、父はこの通知書を当時なかなか買えなかったフレームに入れて自分の部屋に飾りました。 その父は、私が、子どものころからの海外に留学したいという夢まで実現できたことを一番嬉しく感じてくれています。あのアヒル飼いの子と出会わなかったら、きっとこんな人生は送れなかったと思います。今でも帰国するといつもこの子に会いに行っています。この子から自然の良さを勉強させてもらったおかげで、大学に進学してからレーダで自然をモニタリングする研究に興味を持つようになりました。また、現在、次世代地球環境診断用の小型衛星をはじめ、無人航空機、合成開口レーダなどの開発をしています。 自然の中の様々な動植物の種類と生活もあの子が教えてくれたものです。アヒル飼いの子は私のヒーローで、いつも心の底に大切にしています。 (渥美財団1995年度年報より転載、著者により一部加筆) --------------------------------- Josaphat Tetuko Sri Sumantyo (ヨサフアット テトオコ・スリ スマンテイヨ) インドネシア出身。1995年金沢大学工学部電気・情報工学科卒業 1997年同工学研究科電気・情報工学修士。その後インドネシア科学技術庁技術応用評価庁(研究員)、インドネシア国軍陸軍教育・訓練院(研究員)、バンドン工科大学工学部電気工学科(非常勤講師・研究員)勤務。2000年千葉大学環境リモートセンシング研究センター(リサーチアシスタント)、千葉大学大学院(自然科学研究科人工システム科学専攻)、2002年博士号を取得。2002年千葉大学電子光情報基盤技術研究センター ベンチャー・ビジネス・ラボラトリ 講師、2005年-現在千葉大学環境リモートセンシング研究センター 准教授(専任教員)の他に、バンドン工科大学、インドネシア大学、ウダヤナ大学などの客員教授。研究分野:マイクロ波リモートセンシング、小型衛星、無人航空機、合成開口レーダなどの開発。 --------------------------------- 2011年12月21日配信
  • 2011.12.14

    エッセイ319:梁 蘊嫻「私にもっとも影響を与えた人」

    私は、去年の十月に博士号を取得して、今年の八月から大学の教員になった。研究の道を歩んでいるのは、間違いなく私の父からの影響によるものである。 父は地元の百貨店(百貨店といっても、今から見ると、大きな雑貨屋のようなものだ)の六男として生れた。若いときは血気盛んで、喧嘩ばかりする不良少年であったが、結婚して子供が生まれたら、すっかり責任感の強い父親に変わった。 父は、怒り出すと、いつも「三字経」(人を罵る乱暴な言葉)を連発するが、子供に対してはとてもやさしかった。いまでもはっきりと覚えているのは、幼いころ、寝る前に、必ず私に腹巻をしてくれたことである。大きな温かい手は、幼かった私にこの上ない安心感を与えてくれたのである。大人になった私は、よく「素直ですね」と褒められるが、このような性格は、幼少時からやさしい父の下で安心して育ってきた結果だと確信している。 スポーツが得意な父は、放課後いつも私たち兄弟三人を連れてバスケットボールや野球などをしに行った。投げられたボールを受け損なって顔に当たってしまった時に、父は「プレーするときは、集中しろ」「相手に隙を与えるな」「取れなかったのは全力を尽くしていない証拠だ」と厳しく叱って、少しも同情してくれなかった。私は、スポーツは一向に上手にならなかったが、何事も集中してやらなければならないということは覚えた。運動した後、私たちは必ず行きつけの店へアイスティーを飲みに行ったが、父は一気に飲み干してから、「コラ、まだ飲み終わっていないか」と女の子の私にまで言う。私はある意味で男の子として育てられていたのである。 高校を卒業したら、すぐに運転免許を取ったが、父はよく路上運転に同伴してくれた。しかし「初心者だから、ゆっくり運転しなさい」と言うのではなく、「追い越すなら、早く決断しなさい。事故はためらったときに起こるんだ」と教えた。また、父親は時々格闘技を兄と弟に教えていた。「人と喧嘩するな」と言わずに、「人と喧嘩することになったら、いかにして勝つかを考えろ」と教えた。このように、父親は、伝統に反する教育法で私たちを訓練していたのである。 父は手先がとても器用で、工芸品の製作、彫刻などが得意であり、植物の栽培にも興味があった。私は、このようなところはまったく親から受け継いでいないが、読書の習慣は父から強い影響を受けた。 よく檳榔(台湾で労働者がよく噛むヤシ科の実)を噛んでいた父は、労働者の豪快さがある一方、本を読むのが好きであった。父はよく本を薦めてくれたが、一番印象に残ったのは、1970年代の有名な散文家・王鼎鈞の『開放的人生』である。この本から得るものは多かったように思うが、その具体的な内容はもう覚えていない。このエッセイを書くために、あらためてこの本を読み直した。「鶏口?牛後?」という散文を読んで、記憶がよみがえった。「わが子よ!将来何をやっても、その業界でもっとも優れて、傑出した人になりなさい。たとえ、道端で豆乳を売ることになっても、一番よい豆乳屋になりなさい」という一文がある。確かに父がこの文章を読ませてくれたのを覚えている。「一番になりなさい」は私の遺伝子の一部になったのである。小学校入学のときにも、クラスで最年少の私に、「努力によって未熟さを補うことができるよ」と何度も言い聞かせた。そのためか、私はコツコツと頑張る性格が形成されるようになった。 父は、不幸でありながら離婚できずにいる女性をたくさん見ていたせいか、「台所から出なさい」と繰り返し言っていた。お金を稼ぐ能力があれば、男性に振り回されないで済む、また、その能力を身につけさせるのは教育だと彼は考えていた。教育で運命を変える、という福沢諭吉に似たような考え方なのである。小学校時代、父は、夜の7時半から9時までの間を勉強時間と定め、国語、数学から社会まで、すべての科目を自ら教えてくれた。苦手な算数の時間、いつも怒られて泣いていた。9時を過ぎても、父の講義がなかなか終わらないので、目を擦りながら、一生懸命に眠気を覚まそうしたことを、いまでもよく思い出す。あの頃のデスクライトは電球だったので、異常に熱を発していて、夏になるとひどく暑かった。こうして、勉強に付き合ってもらったおかげで、本来平凡な私が、クラスの中でいつもトップの位置を占めることができた。 台湾では、「猪没肥去肥到狗」(豚を育てるつもりだったが、犬のほうが肥えることになってしまった)ということわざがある。これは、男尊女卑の旧社会でよく聞かれることわざであり、男性より女性のほうが大成したという意味である。父はむしろそれを望んでいたようだ。私は博士号を取って大学で教鞭を取るようになった。まさに、彼が期待していたとおり、自立した女性になった。父はきっと天国で喜んでくれているに違いない。いまでも、「一番になりなさい」「人より倍以上努力するんだ」という誡めが聞こえてきそうである。 「おとうさん、これからもコツコツ頑張っていくから、どうか見守っていてください」。 ------------------------------- <梁 蘊嫻(りょう・うんけん)☆ Liang Yunhsien> 台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程終了。現在は台湾の元智大学応用外国語学科の助理教授。 ------------------------------- 2011年12月14日配信
  • 2011.12.07

    エッセイ318:金 キョンテ「私の1年」

    オソオセヨ(어서오세요; お帰りなさい) 金浦空港の入国審査台の職員さんは、私の1年ぶりの帰国事実を確認し、温かく迎えてくれた。 コマプスムニダ(고맙습니다; ありがとうございます)   私は彼の挨拶に呼応し、入国場に向かった。   ようやく、私は、韓国に戻った事実に「半分くらい」気づいた。それは私が乗ってきた飛行機の乗客のほとんどが日本人だったせいかも知れないが、それよりは、私がまだ海の向こうに名残をのこして来たからだと思う。 ちょうど1年前の2010年9月25日、私は金浦空港を出発し、羽田空港に到着した。 韓国にいる頃から相当な方向音痴だった私は、「殺人的」な東京電鉄路線図を見た瞬間凍りついた。 (次の日、日本で初めて買った本は、東京近郊路線図が含まれた東京23区の地図だった)浅草のホテルに辿り着いた私は、ビールと勘違いして買った鮮やかなデザインの発泡酒を飲みながら、これから始まる1年の留学生活の緊張を和らげた。 日々の生活において若干の間違いもあったがなんとなく慣れて、目標とした1年間の勉強を始めた。東京大学日本史中世史専攻の外国人研究生として、親切な同僚達からの援助を受けながら勉強した。   思うに、それは今までの自分の人生最高の幸運の一つであったと思う。私はそこで歴史研究の基本中の基本とも言える、史料に対する真剣さを切実に学び、私の研究と精神が一層も二層も成長しうる契機になった。 私の研究分野は「壬辰戦争(1592~1598)」である。日本では文禄・慶長の役、または豊臣秀吉の朝鮮侵略と呼んでいる。もちろん、この時代を研究するのにも基本は史料である。史料を軽んじ、または偏狭な史料ばかり見ていたら、「正しい」研究はできない。私は当時の韓国(朝鮮)と中国(明)、そして日本の、三国の史料を全部見て、それらを利用して研究を進める、という意欲を(思いとして)持っていた。 当時の韓国と中国の史料は、ある程度把握し終わった状態で、これを基にして、いくつかの論文を発表した。しかし、日本の史料にはまだ接していない状態だった。私は日本史料に対する基礎知識がない状態だったのだ。 日本で(広い意味で)歴史史料と言えば、大概、古文書(こもんじょ)、史料、記録に分けられる。古文書はだいたい書状(手紙)類で、史料は編纂、または編集された歴史史料類、そして記録は日記類を意味するとみればいい。この各分野については、各々体系的な研究がなされている。東洋の記録文化と自国の独特な記録伝統をいかして、長い間研究が蓄積されて来たのである。   一方、初心者も接近できるように入門書も多く存在しており、このような親切で便利な接近性も羨ましかった。 私が主にみなければならなかったのは古文書だった。参戦した日本の武将がお互いに、または豊臣秀吉との間で取り交わした当時の生々しい手紙である。韓国(朝鮮)と中国(明)には「実録」という立派な公式史料があり、朝鮮と明の間で送受信された外交文書も多数存在するが、これらの史料はあくまでも公的に編纂された史料で、また精製された史料なので、現場の生々しさを盛り込むには限界があると思う。 韓国(朝鮮)と中国(明)の史料の中には、現場で活動していた武将の実態が含められた手紙類は極めて少ない。日本には現在、そのような手紙類が数えきれないほど多く残っており、大体、原本がそのまま残っている。もちろん、活字化され、研究者が接するのに便利になっている場合も多い。 日本の中世史学界(戦国時代を含む)では、この古文書を研究の基盤にしている。古文書を解読し、利用できる能力がなければ、中世史の研究は不可能である。三国が取り組んだ「壬辰戦争」を研究する私にとってもこの古文書の壁を乗り越えなければならなかった。   東京大学の場合、学部三年生になると先輩達と直接原文史料に接しながら解読の練習を始める。ゼミの発表や卒業論文の執筆も史料が基になる。このような基本的な訓練を受けてから大学院に入ることになっている。基本を徹底した後、即ち、武器の使用方法を学んでから戦場に投入されるということである。 私にとっては、日本の古文書に接することは初めてと言ってもいい位だったので、基本も身に着けないまま1年の間に成果を出して戻るというのは、とても欲ばりだったのだ。そのような情けない者をよく引っ張って、親切に教えてくれたチューターには感謝するばかりである。チューターと共に文書を読みながら、またひとりで概説書を読み、関連の研究書を読みながら、少しずつ、文字が、内容が見えるようになった。人の助けがなくでも、ひとりで少し古文書を解読できるようになった瞬間は、えもいわれぬ嬉しさだった。   例えば、戦争初期、朝鮮の民兵(義兵)の反撃と兵糧不足に悩んだ加藤清正が国元に送った51ヶ条の書状 (1593年8月8日 加藤喜左衛門・下川又左衛門宛 加藤清正書状;下川文書)からは、彼の危機感と共に私たちが知ることができなかった彼の細心な性格を覗き見ることができる。51ヶ条(実際は50ヶ条)という長い条項につれて、細部的な品目の指定と、命令を十分に遂行できなかった家臣に対する細かい叱責は、よく知られた大胆な清正のイメージとは違う彼の一面であり、また、いつも勝利したという「常勝」イメージとは違って、朝鮮の反撃に結構悩まされていたことも分かる。 同じく戦勝初期、毛利輝元が自分の妻に伝えた内容には、朝鮮の面白おかしい風景を詳しく描いているが(1592年5月26日 宍戸覚隆宛 毛利輝元書状;厳島文書)、これは自分を心配している妻を笑わせ、安心させようとする優しい思いであろう。またこの描写を通じて、当時の朝鮮の風景も想像できる。 これらの文書を、ただ面白おかしい歴史史料として一笑に付してはいけない。悲壮な戦闘、英雄の誕生等々のようなストーリの裏にはこのような人間の日常事、赤裸々な憤慨、危機感、生々しい人間事が広がっているのである。私はこれらを取り出して、三国の史料を比較しながら、この戦争を再構成するのを目標としている。   留学生活において、微妙な文化差からのストレスとか、自らの勉強の中で感じられる限界、そして、ホームシックがなかったかと言ったら、それは嘘だろう。その時、私を支えてくれたのは、すでに多くの友人はご存知だと思うが、「男はつらいよ」、寅さんだった。近くにあった寅さんの故郷、柴又に偶然に寄ってから、強い印象を受けて観始めた「男はつらいよ」の、全作品を観破すべく今も挑戦中である。故郷から離れた多くの人々の友達、寅さんに癒されながら、私は「つらい時」をのり越えた。   その影響もあったかも知れないが、私は一人旅を楽しむようになった。近郊日帰りは旅行とは言えないかも知れないが、日本では一人旅の文化(?) が発達しており、その上、公共交通としてバスよりは列車を好む私には、何処に行くにも至近まで列車が運行しているのが便利だった。朝早く、郊外に向かう、人のいない電車に乗り、窓のそとで変わる風景を見ながら自由を感じた。 事前調査が間違っていて、実際に着いたところにはあまり見物するものがないこともあったが、今考えてみれば私は往復の旅程自体をも楽しんでいたかも知れない。愛くるしい古い列車に乗って、歳月の振動と音を体で感じながら何処かに向かう瞬間々々、幸福を感じていたのだと思う。 美味しい食べ物!   今、日本では韓国料理が大人気だし、私自身も韓国に戻って来てから今日で一週間、食べたかった韓国料理を思う存分食べているが(もはや体重1キロ増加)、日本で食べた日本料理は韓国で食べるそれとは違う旨味があった。私は特に、すしと焼鳥のファンになってしまった。伝統のあるすし屋のすしではなく、イトーヨーカドーで売っているすしも、回転すし屋で走っているすしも私には美味しかった。焼鳥もまた普通の屋台で焼いている一串70~100円のその焼鳥が好きだった。種類の多様さと職人精神が入ったような、微妙な炭の香り。今もその匂いを思い出せる。 日本留学中、私の日常の中で最高の幸福の一つは、一人家で美味しい日本ビールとすし、または焼鳥を並べて食べる瞬間だった。   出国の前日、住んでいた家の契約が24日までだったので、仕方なく大井町のホテルに泊まった。 何度か頭の中で計画していた「日本での最後の晩餐」は早めに諦め(一人でいい店に行った経験がない)、駅前の屋台の焼鳥(ねぎま2本とレバー2本)と百貨店地下食品館の50%割引のすし、そしてサントリ-プレミアムモルツ500ミリ缶を買ってホテルの部屋に座った。 京浜東北線の轟音を聞きながら、東京湾と離着陸する飛行機の光を目に焼け付けながら、私は一年中食べた料理の中で一番美味しい「晩餐」を楽しんだ。   「さようなら」 外国人登録証を返却すると、羽田空港出国審査台の職員さんが別れの挨拶をしてくれた。 ごめんなさい。私はあなたの温かい挨拶にお返事できませんでした。この場を借りて、お返事したいと思います。 皆さんに申し上げたい御礼でもあります。 さようなら。ありがとうございました。   -------------------------------------- <キム キョンテ ☆ Kim Kyongtae> 韓国浦項市生まれ。歴史学専功。韓国高麗大学校韓国史学科博士課程。2010年から東京大学大学院人文社会研究科日本中世史専攻に外国人研究生として一年間留学。研究分野は中近世の日韓関係史。現在はその中でも壬辰戦争(壬辰・丁酉倭乱、文禄・慶長の役)中、朝鮮・明・日本の間で行われた講和交渉について研究中。 --------------------------------------     2011年12月7日配信
  • 2011.11.30

    エッセイ317:マックス・マキト「マニラ・レポート in 早稲田」

    第42 回SGRAフォーラムは北九州大学等との共催で、2011年10月29日に早稲田大学で開催された。僕は、通訳のお手伝いと最後のパネルディスカッションの進行を担当した。ここでは、最後のディスカッションの内容をご紹介したい。 今回のフォーラムの中心課題は、アジア諸国において、環境を守りながらも、高度成長を支えるためのエネルギーをいかに確保するかということであった。そのため、エネルギー効率を向上させることが、発表者の皆さんに共通の論点となった。エネルギー効率が向上すれば、エネルギー供給の調整も可能になり、環境に対する負荷も軽減できる。 ところで、エネルギー分野では、3EといえばEnergy Security(エネルギー保証)、Economic Growth(経済成長)、Environmental Protection(環境保全)というキーワードが使われているらしい。僕が開発経済学の分野で唱えている、別の3Eについては、マニラ・レポート2010年春をご参照いただきたい。 これだけエネルギー効率が重要な論点となったので、フォーラムの前に、120ヶ国のエネルギー効率(=GDPを総合エネルギー消費で割る)と一人当たりGDPのグラフを準備した。 エネルギー効率は、貧しい諸国と豊かな諸国との間の差を平均的に扱うことができない。効率性を向上するための色々な面白い事例が発表に取り上げられた。タイのKritsanawonghong氏とオーストラリアのIreland氏は、建物や電気製品の環境評価という市場メカニズムを利用した省エネルギーについて発表した。このようなメカニズムを実際に導入したことによって、使用者の環境認識が高まり、エネルギー効率化に繋がった。しかし、市場中心と言っても、そのシステムを設置したり広く普及したりするためには政府が大きな役割を果たしている。 市場といえば、エネルギー資源や電力の正しい価格設定が重要である。フィリピンのBalbarona氏は、フィリピンの電力価格は最近、アジア第一位だった日本の電気代を抜いたことを報告。送電会社はすべてのコストを消費者に回す方針であるし、近隣国と違い、フィリピン政府は電力料金に補助金を出さないようにしていると説明した。そのために、Gilles氏が担当したマニラのあるビルの1日の電力消費をバランスのとれたものにするプロジェクトのように、フィリピンではあらゆる省エネルギーの動きが自然に行われてきたという。オーストラリアの石炭は政府が補助しているので皆が過剰に消費しているとIreland氏が付け加えた。 次に、低コストと低所得(=貧しい人々)の観点の重要性を訴えた、エネルギー効率の向上のためのいくつかの方法が報告された。インドネシアのParamita氏は都会の最適密度を取り上げた。効率性向上のために、あらゆる資源を都会に集中させるべきだという考えがあるが、都会の最適密度を超えるとスラムなどが深刻な問題となり、逆に効率を低下させるばかりだと考えてもいいだろう。Faisal氏は、インドネシアも例外ではなく、中央集中型の都市開発を進めてきたが、むしろ逆都市化<REVERSED URBANIZATION>をすべきだと主張した。ちなみに、昨年開催されたSGRAと北九州大学の最初の共同フォーラムで、僕はこの現象を農村化<RURALIZATION>と呼んだ。都会の問題を農村と分けて考えるべきではない。更に、フィリピンのDe Asis氏は、貨物コンテナやペット・ボトルを利用した建築の分野におけるリサイクル事業を紹介した。フィリピンでは大規模な風力発電(東南アジアでは初)や大手モール・チェーンの節水というエコ事業が行われているが、膨大なコストがかかる。果たしてこのような技術はフィリピンのような発展途上国にとって妥当かどうか疑問が残る。リサイクル建築も農村から始まったそうである。Ireland氏は、この都会と農村の格差はオーストラリアや日本のような先進国でも重要な問題であると指摘した。 エネルギー効率向上のために取り上げられたもう一つの方法は再生エネルギーの開発である。無限にあるエネルギー源に頼っているので、石油や石炭やウランなどと違い、再生エネルギーは資源コストが高くなる恐れが殆どない。むしろ、技術の進歩により、コストが下がる可能性が十分にある。「中長期的にみれば、再生エネルギーは原子力に取って替わるのか」という問いに対して、インドのIyadurai氏とフィリピンのBalbarona氏は、以前に建設された原子力発電所は使用禁止になった。今後も依然として原発に対する国民の反対は強いであろう。それ故に、両国では再生エネルギーの開発が推進されていると述べた。タイでも原子力発電所の建設が検討されたが、国民はずっと反対しているとKritsanawonghong氏がつけ加えた。といっても、原発が全くなくなることはないと強調した参加者もいた。 このように、エネルギー効率の向上についてアジア各国の事例を検討したが、一歩下がって、東アジア地域の観点から検討を進めるという意図で、フォーラムの最後に、僕は、発表者の皆さんにある日本の構想を紹介した。この数十年間、日本は説得力のある東アジア戦略をなかなか出せなかっただけに、これから紹介する構想が大変意義のあるものだと僕は見ている。それは、フジテレビのPRIME NEWS LIVEという番組で初めて聞いた構想であり、「アジア太平洋電力網(エネルギー版TPP)」と称されている。 この構想の背景には、東日本大震災に起因する不安定な電力供給の状況があるようである。構想を提案したのは、今年5月に創設された日本創成会議であり、元岩手県知事である増田寛也氏が座長として勤めている。 この構想が取り組んでいる課題には、エネルギー安全保障に加えて、産業の国際競争力の向上や持続可能性がある。その目標は再生エネルギー立国の実現とされている。この構想は大変野心的な構想であるが、東アジアとオセアニアをバランスよく統合し、日本の長年の閉塞感の打開策にもなりうると期待している。僕はこれを地域レベルの共有型成長と呼ぶが、その概念の源は日本から習った雁行形態発展にほかならない。この十数年間日本の企業の進出先が特定の国に集中する傾向があり、本来日本が進めてきた分散型に反するもので、僕はとてもがっかりし、数年前から警鐘を鳴らしてきた。グローバル化や気候変動による危機がいくら起こっても、誰もそこから学ぼうともしないように見えた。 今度の構想において、日本、フィリピン、インドネシアという東アジアの三つの列島国(多島国)を結んで、送電線が南方向に島から島へ渡って行き、西側のASEANパワーグリッドの姉妹送電網と合流する姿は実に美しく僕の目に写る。それはやっと日本から日本らしい東アジア戦略が出てきたからだと思う。 ※フィリピン大学から、3名の大学院生を招聘してくださった北九州大学の黒木荘一郎教授と高偉俊教授に心からお礼を申し上げたい。 ※中上英俊先生と高口洋人先生が基調講演で、長期的な観点かつ伝統を重んじるエネルギー政策の必要性を訴えていただいたことに感謝したい。 English Translation -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。 -------------------------- 2011年11月30日配信
  • 2011.11.16

    エッセイ316:宋 剛「真夜中の復習と楽しいデモ」

      数年前、日本有数の貿易会社で中国語の講義をした経験がある。受講生たちは筆者と同じく、みんな20代後半だった。初日のレッスンで、既習の単語と文法、および当日習う新出単語を内容とする小テストを毎回最初の15分間に行うので復習と予習は不可欠だ、と受講生たちに伝えた。質問がある人のために、自分の携帯電話のメールアドレスをホワイトボードに記した。 その日の真夜中、携帯のメール着信音が急に響いた。昏睡していた筆者は、脳に伝達されずに、単なる体のストレス反応で飛び起きた。目が覚めたら、すでに立っている状態だった。着信メロディがB’zの「love phantom」だったせいか、衝撃は実に強かった。 誰だよ!夜中に! 携帯を取って見たら、こんな内容だった。「今、今日の授業の復習をしているのですが、質問があります。覚える、の意味で「背下来/記下来」という熟語を教わりましたが、辞書を調べても「背」には覚えるの意味が載っていません。何故でしょうか?」 真夜中の2時だった。でも、こんな時間にメールを送ってくる無礼な人への怒りの感情より、こんな時間に復習に励んでいる教え子に対する喜びないし尊敬の念のほうがずっと大きかった。次の日、その受講生から聞いた。「仕事で毎日10時半過ぎに会社を出て、だいたい12時近くに家に着き、普段は1時に寝るが、中国語の復習で昨日は2時に寝た。失礼だと分かってはいたが、答えが知りたくて、つい送信ボタンを押した」ということを。 その後、たびたび真夜中に彼から送られてくる質問のメールを楽しみにしていた筆者は彼と友達になった。現在、30代前半の彼は中国にある数百人規模の子会社の副社長になっている。勤勉で現地の部下や取引先の人々と中国語で上手にコミュニケーションが取れるため、ビジネスも順調で、人望もかなり厚いそうだ。 ところで、2~3日前、夕方の料理番組に飽きてチャンネルを煩瑣に変えていたら、「東京を占拠せよ!」という、この時間帯としては異例の、新鮮感かつ緊迫感が伝わり、いかにも好奇心を掻き立てるスローガンに目を奪われた。アメリカ発の格差是正を求める「ウォール街占拠」デモがついに日本にも飛び火したか、と思わず画面に釘付けになった。 ピンク色に包まれた可愛らしい部屋の中で、ひとりの中年の女性がパソコンの前に座り、「誰でも気軽に参加できるデモにしたいの。そのために、デモのハードルを下げて、楽しいデモにしなければならない」と、穏やかに語っている。次の画面は、別の女性がバラの花を持って行進しているものだった。記者の質問に対して、「バラの花は愛情を意味して、愛情を持って戦いたい」と理由を答えた。 「キャー―――」。 刑事ドラマでしか聞いたことのない、女子学生が変死体を見た際の悲鳴が、男性の筆者の心の底から聞こえてきた。ハチマキに横断幕、時にはデモ隊と警察の衝突の場面、投石と流血の場面も交えるという、デモの緊迫したイメージは完全に覆された。 このことを中国にいる例の副社長にメールで送った。「そんな暇があったら、もっとスキルを身につけてまじめに働いてほしいよな」という一言が返ってきた。このフレーズは、最近、どこかで聞いたことのあるような気がした。よく考えてみたら、「支援してもいいが、われわれのようにもっと働いてほしい」というドイツのある公務員がメディアのインタビューを受けたときに話した言葉が思い浮かんできた。もちろん、財政破綻に陥ったギリシアへの支援をユーロ圏諸国の政府が合意したというのがそのインタビューの背景だ。 アメリカでデモをしている路上生活者たち、ギリシアで就職難に追い込まれた貧困層、日本で不安定な生活を止むを得ず送っている低所得者層たちに物申すつもりは、筆者には一切ない。ただ、お祭り感覚で「楽しいデモ」をしようとする有閑者のみなさんに、「やりたいことをやるのではなく、やるべきことをやるのだ。なぜなら、日本では99%――その底辺に位置するかどうかは当然疑わしい――に属するかもしれないが、世界から見れば、You are 1%だからだ」と伝えたい。 努力すれば報われる、日本はそういう国だと筆者の目に映っている。そして、道のりがまだ長いようだが、中国も徐々にそうなりつつある。精を出して何かをやろうとするならば、楽しいデモより、真夜中の復習のほうが、個人にとっても、社会にとっても、場合によって世界にとっても、きっと意味のあることだと思う。 ----------------------------- <宋 剛 (そーごー)☆ Song Gang> 北京外国語大学日本語学部講師。SGRA会員。現在大東文化大学訪問研究員。 ---------------------------- 2011年11月16日配信
  • 2011.11.09

    エッセイ315:ボルジギン・フスレ「ウランバートル・レポート2011」

    2011年はモンゴルが清朝から独立して百周年になり、それを記念して、モンゴルではさまざまな記念行事、シンポジウムが企画・実施された。SGRAがモンゴル科学アカデミー国際研究所と共催した第4回ウランバートル国際シンポジウムも8月に開催された。その準備のため、私は8月8日にウランバートルに入った。同月9日~13日に国際モンゴル学会(IAMS)主催の、「モンゴル独立百周年記念、第10回国際モンゴル学者会議」にも参加したが、会議の傍ら、国際研究所の方と一緒にシンポジウムの準備をした。 8日の午後、モンゴル科学アカデミー国際研究所にて、同所副所長、実行委員会のモンゴル側の委員長でもあるシュルフー(D. Shurkhuu)氏と打ち合わせをした。問題は山積していたが、一番心配したのはやはり経費の問題であった。同時通訳設備や通訳謝礼、会場借料、車のレンタル代などの経費が確保できていなかった。モンゴル側の協賛団体の関係者に資金の提供について打診したが、はっきりした答えはなかった。急いで、SGRA代表今西淳子氏にも現状をつたえ、資金の追加をもとめたが、大震災の後、日本での資金調達も難しかった。 その後の数日間は、要旨集の印刷、新聞社・テレビ局の取材に応じたほか、資金をあつめるため、関係団体と交渉しつづけた。そして、11日に、朗報があった。モンゴル国のある協賛団体が気前よく寄付金を決定し、国際研究所に渡した。これで実行委員会のメンバーは、やっとほっとすることができた。 今回、モンゴルの企業が大口寄付をしてくれたのには、同国の経済の飛躍的発展がはじまっているという背景がある。世界が注目するなか、巨大な資源をもつモンゴルは史上空前の大変動期をむかえている。資源立国戦略をうちだしたモンゴル国は世界最大級のオユー・トルゴイの銅・金鉱山、タバン・トルゴイの石炭、ドルノド、マルダイ、ゴルバン・ボラグのウラン、ツァガーン・ソブラグの銅、アスガトの銀、トムルティの鉄、タムツァグ盆地と南東部東ゴビ盆地の石油など、豊かな資源を持っており、本格的な資源大国と認められている。列強が虎視眈々と狙っている中、モンゴル国政府が数年間にわたって、オユー・トルゴイの銅・金鉱山、タワン・トルゴイ炭田の開発について国内で議論を繰り返し、何回も開発案を訂正してきたのも、それなりの戦略があったからであろう。すでに開発がはじまっているオユー・トルゴイ鉱の本格的な生産は2013年から始まる。イギリスの権威ある大手調査機関によると、モンゴル国の鉱山開発の生産高は今後4年間だけでも4倍に成長し、2015年には115億ドルに達すると予測されている。タワン・トルゴイ鉱床の初期投資の資金は73億ドルにのぼると言われている。 モンゴルは、たしかに、目がまわるほど変わっている。それは、経済だけではなく、外交などの分野にも反映されている。SGRAの今回のシンポジウム開催の前後にも、韓国の李明博大統領、フィンランドのタルヤ・ハロネン大統領、アメリカのジョー・バイデン副大統領、中国共産党中央政治局の周永康常務委員を団長とする中国政府代表団、日モ友好議員連盟、カナダのベヴァリー・オダ国際協力大臣等が相次いでウランバートルを訪れた。そのねらいはいうまでもなくモンゴルの鉱山だ。 SGRAのモンゴル・プロジェクトは、2007年に企画され、2008年に正式にはじまり、今年は4年目に入った。日本の経済が芳しくない状況の中、さまざまな団体、企業からの支援を得て続けてきた。それと同時に、SGRA代表の今西氏をはじめ、英文要旨・論文のネイティブ・チェック担当のフェルディナンド・マキト氏とコロンブス・マキト氏、2009年シンポジウム論文集のロシア語の論文を翻訳してくださった一橋大学名誉教授田中克彦先生、論文集の原稿の一部をチェックしてくださった東京外国語大学二木博史先生、モンゴル語の挨拶文を翻訳してくれたSGRA会員のハムスレン・ハグワスレン氏、マンダフ・アリウンサイハン氏、運営委員の石井慶子氏等、みんな無報酬のボランティアで、SGRAのウランバートル国際シンポジウムの活動に携わってきた。 大震災・原発事故の影響で、今年度のウランバートル国際シンポジウムの資金調達はさらに厳しかった。幸いなことに、渥美財団の渥美直紀評議員会長のご紹介により三菱商事と鹿島建設から賛助をいただくことができ、また、守屋留学生交流協会理事長守屋美佐雄氏、事務局長高橋準一氏、西岡隆秀氏も即決で同協会の助成金を提供してくださった。東京外国語大学のOB、OGの集会で、SGRAのモンゴル・プロジェクトのことを知った涌井秀新氏も、積極的に関係企業に働きかけ、株式会社「モンゴルの花」社の支援を得ることができた。同社の社長星野則久氏は、ウランバートルのシンポジウムに参加してくださった。 8月上旬に国際モンゴル学者会議があったため、日本からの研究者東京外国語大学二木博史教授、上村明氏、早稲田大学非常勤講師青木雅浩氏、亜細亜大学非常勤講師荒井幸康氏、日本学術振興会特別研究員橘誠氏等、内モンゴル大学チョイラルジャブ(Choiraljav)教授、ロシアの研究者V. V. グライヴォロンスキー(V. V. Grayvoronskiy)教授、クズミン(S. L. Kuzmin)教授、インドの研究者シャラド・ソニ(Sharad K. Soni)氏等はすでにモンゴルを訪れていた。そして、SGRAのシンポジウム開催の前日、ロシア科学アカデミー言語学研究所上級研究員アイサ・ビトケーヴァ(Aysa Bitkeeva)氏、東京大学大学院総合文化研究科で研究している韓国の研究者崔佳英氏、千葉大学児玉香菜子准教授、愛知大学高明潔教授、法政大学王敏教授等も予定通り、ウランバートルに到着した。 8月15日午前、私は在モンゴル日本大使館の青山大介書記官と同大使館でおこなう招待宴会などの件について、連絡をとった。青山氏には2年続けてたいへんお世話になった。ここで、これまで終始、SGRAのモンゴル・プロジェクトを支援してくださった在モンゴル日本大使館のみなさまに感謝の意を表したい。午後、私はモンゴル・日本人材開発センターにて、同センターのKh. ガルマーバザル総括主任、佐藤信吾業務主任に挨拶した。そして、国際研究所の職員と一緒に、会場、同時通訳設備のセッティングなどを確認した。その後、空港にて、今西淳子代表、一橋大学田中克彦名誉教授をむかえた。 8月16、17日の2日間、第4回ウランバートル国際シンポジウム「20世紀におけるモンゴル諸族の歴史と文化」がモンゴル・日本人材開発センターで開催された。 開会式では、モンゴル科学アカデミー副総裁T. ドルジ(T. Dorj)が司会をつとめ、モンゴル道路・運輸・建設・都市計画大臣Kh. バトトルガ(Kh. Batulga)、モンゴル科学アカデミー総裁B. エンフトゥブシン(B. Enkhtuvshin)、在モンゴル日本大使館参事官日野耕治、SGRA代表の今西淳子が挨拶と祝辞を述べた。続いて、モンゴル科学アカデミー会員D. ツェレンソドノム(D. Tserensodnom)教授、一橋大学田中克彦名誉教授、内モンゴル大学チョイラルジャブ教授、東京外国語大学二木博史教授、モンゴル科学アカデミー国際研究所ロシア研究室主任O. バトサイハン(О. Batsaikhan)教授、ロシア連邦科学アカデミー東洋学研究所モンゴル研究室主任V. V. グライヴォロンスキー教授が基調報告をおこなった。午後の報告は、ボグド・ハーン政権や1921年の立憲君主国家の樹立に対する再検討、再評価が中心となった。その日の夜、チンギス・ハーンホテルで、モンゴル科学アカデミー主催の招待宴会がおこなわれた。そして、翌17日の発表は、国境をまたぐモンゴル諸族がどのようなプロセスを経て現在の状況にいたったのかなどについて、歴史と国際関係、文化、言語の視点から議論を展開したものであった。発表の詳細は別稿にゆずりたい。その日の夕方、在モンゴル日本大使館公邸で、日本大使館とSGRA共同主催で招待宴会をおこなった。城所卓雄大使が挨拶を述べた後、今西代表とモンゴル科学アカデミー副総裁T. ドルジ氏が祝辞を述べた。 2日間の会議に、モンゴル、日本、中国、ロシア、韓国、インドなどの国の研究者約100人あまりが参加し、共同発表も含む、28本の論文が発表された。また、『日報(Daily News)』や『首都・タイムズ』、モンゴル国営テレビ局は同シンポジウムについて報道した。 18日、会議の参加者は、テレルジのチンギス・ハーン記念リゾート、亀岩などを見学した。 第4回ウランバートル国際シンポジウムの写真 -------------------------------------- ボルジギン・フスレ(Husel Borjigin):東京大学大学院総合文化研究科学術研究員、昭和女子大学非常勤講師。中国・内モンゴル自治区出身。北京大学哲学部卒。東京外国語大学大学院地域文化研究科博士前期課程修士。2006年同研究科博士後期課程修了、博士(学術)。内モンゴル大学講師、東京大学・日本学術振興会外国人特別研究員をへて現職。著書『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編『ノモンハン事件(ハルハ河会戦)70周年――2009年ウランバートル国際シンポジウム報告論文集』(風響社、2010年)他。 -------------------------------------- 【付録】今西淳子「朝青龍さんが教えてくれた新聞記事」 フォーラムの翌日、ウランバートルから東京へ帰る飛行機の中で面白いことがありました。通路を隔てて隣に座っていた人が「すみません、これあなたじゃないですか」と声をかけてきたのです。見てみたら、モンゴル語の新聞に私の写真が大きく載っているではありませんか!(シンポジウムの時に取材をうけました。)そして、その声をかけてくださったのは、なんと朝青龍さんだったのです。そして、私はその新聞をいただきましたが、今回かわらばんのためにSGRA会員のナヒヤさんが抄訳してくださったので、やっと内容がわかりました。朝青龍さんは、来年モンゴルの選挙に出馬する予定で、現在、モンゴルでノモンハン戦争を舞台にした映画を製作中だそうです。(SGRA代表) ジェー・ガンガー 「モンゴル民族の歴史と文化」 (モンゴルDaily News 2011年8月19日掲載記事) (抄訳) 近年、モンゴル国は旧ソ連圏の国家と違う非常によいイメージを作り出してきた。今年もいろいろなイベントが行われ、それが世界にモンゴルを宣伝するいいチャンスになったが、「選挙のショー」に終わったものもあった。しかし、モンゴルの歴史と文化について、人々は何を考えているのだろう。周年記念特別イベントに際して、8月16日~18日の三日間、国際シンポジウム「20世紀のモンゴル民族の歴史と文化」がウランバートルにて開催され、各地より研究者が集まった。同シンポジウムはモンゴルの歴史と文化に焦点をあてた学術研究会であり、世界にモンゴルを宣伝するとてもいい機会になった。ここで特に注目されるべき点は、このシンポジウムは日本側主催者の企画プログラムによることである。在モンゴル日本大使館、日本国渥美国際交流財団、三菱商事、モンゴルの関係団体などの支援により、十数地域から約百人もの研究者が集まった。日本はモンゴルに対して友好関係を築いてきたが、その象徴の一つとしてこの国際シンポジウムが開催された。 (シンポジウムの報告について簡単に紹介:橘誠(日本)、デ・シュルフー(モンゴル)、 青木雅浩(日本)、 ナ・スフバートル(モンゴル)、 チェ・ボルドバートル(モンゴル)、 ボルジギン・フスレ(日本)―――詳しくは原文をご覧ください) シンポジウムの主催者、渥美国際交流財団理事長(編者註:常務理事)、関口グローバル研究会(SGRA)代表の今西淳子さんは、「今回は私の4度目のモンゴル訪問である。私たちの財団はこのように、アジアの各地域でそれぞれ最も関心のあるテーマを選んで、フォーラムを催してきた。今回は、財団OBのフスレ博士の企画を支援して、モンゴル民族文化をテーマにしたフォーラムを開催した。フスレさんはモンゴル人であるため、ウランバートルで会議が開かれた。中国では、自然と環境をテーマにした若者向けのフォーラムを、北京とフフホトにて催す予定である。つい最近は台湾で、「国際日本学研究の最前線にむけて:流行・言葉・物語の力」をテーマにしたフォーラムを開催した。私たちの団体は、このように各地域の特性に応じた重要テーマを選び、シンポジウムをしている。日本政府には属さない(編者註:民間の)組織ではあるが、政府側はこのような活動を行うことに対して、税金を取らないという形で支援を表明している。さらに、今回は日本駐モンゴル大使館にご支援いただき、たいへんうれしく思っている。最後に、今年の春に起きた地震に際して、ご支援してくださったモンゴルの皆様へお礼を申し上げて、ごあいさつとさせていただきたい」と言った。 そして、大きな成果が期待され、今後もこのような場を継続して持っていくことを確認し、シンポジムは閉会した。 (抄訳文責:ナヒヤ) 会議の報道   日報 2011年11月9日配信
  • 2011.11.02

    エッセイ314:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その9:「生きる力」って何ですか?」

    周りに学校に通っている子どもがいない人はご存知ないかもしれませんが、日本の学校現場では学力低下を招いた元凶とされてきた「ゆとり教育」に実質的な終止符が打たれ、新しい学習指導要領が今年から小学校でスタートしました(中学校は来年、高校は再来年から)。文科省が作成した保護者用リーフレットの内容には、今後の教育方針として学習内容の充実(つまりもっと多く勉強しよう~)と授業時間の増加(つまりもっと長く勉強しよう~)のほかに、「生きる力」がやたらと強調されています。もちろん、「生きる力」は「ゆとり教育」のキーワードでもあったのですが、過去10年間のように「ゆとりの中で特色のある教育によって『生きる力』を育む」のではなく、これからは「ゆとりでも詰め込みでもなく『生きる力』をよりいっそう育む」というのが新しい学習指導要領の基本方針だそうです。なんかわかったような、わからないような感じではありますが、さらに読んでいくと「生きる力」とは「知・徳・体」のバランスのとれた力であると定義され、それは「確かな学力」と「豊かな人間性」と「健康・体力」という三つの重要な要素で構成されるそうです。まあ、ごもっともすぎて反対の余地もありませんが、ただ「想定外」の大震災と原発事故が起きた今でも、「生きる力」の定義がこのままでいいのかという疑念がどうしても湧き上がってきます。 乱暴な言い方をさせていただければ、3-11に起きたあの恐怖の巨大地震と超大津波の前で、「確かな学力」も「豊かな人間性」も関係ないでしょう。さらに、広島型原爆30発分ぐらいはあるという放射線物質を撒き散らした福島原発事故の前では、たとえこれまで培ってきた「健康と体力」があったにしてもそれが何になりましょう。誤解しないでほしいのですが、文科省が学校で子どもにつけさせようとする「生きる力」が重要でないと言っているわけでは決してありません。ただ、それ以前にもっと根本的な、もっと大事な「生きる」力が抜けていやしないだろうかという疑問が拭えません。 ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックの「リスク社会論」を引き出すまでもなく、現代を生きる私たちはいろいろなリスクと隣り合わせています。震災、津波、原発事故、自然破壊、テロ、戦争、金融危機、食の安全問題などのようなマクロなリスクもあれば、例えば就活に失敗して正社員になれないリスクや突然解雇されて失業するリスク、または家族を持ちたいと結婚を希望しているのにまったくモテないという非モテのリスクなどのような個人レベルのミクロなリスクもあります。詰まるところ、リスクとは自分が思い描いた通りの人生が送れなかったり、これまで生きてきた人生が突然絶たれたりするようなことであるともいえます。そしてマクロ・ミクロを問わず、それらのリスクのいずれも個々人の努力ではどうにもならない場合が多いのです。だからこそ、微力ながら出来る範囲で自分を守る知識と知恵、さらに予期せぬ逆境を乗り越える勇気と柔軟性、つまり「生きる」ことの根本たるものを学校で子どもたちに教えることがより重要なのではないかと僕は強く思います。例えば、天災が起きたときに防災教育のマニュアル通りに動く前にまず災害状況を判断してどうすればいいのかを自分で考えること、「世界平和は大事だ」というような当たり前のことを唱える前に民族紛争や宗教対立の本質と根源を理解すべく宗教の成り立ちや近代史などをしっかり勉強すること、「好きなことをやれ、夢を追え」という前にその夢の実現の難しさと、実現できなかったときに自分をどう守るのかと社会保障制度や労働制度および政治制度のあり方について学習議論すること、「いただきます」と感謝の気持ちを表すと同時に、目の前の給食がどこのどのような食材を使い、どのようなルートで教室の机までたどり着いたのかを知ること、などです。「人生は旅」というのなら、「確かな学力」、「豊かな人間性」や「健康・体力」も重要でしょうが、その旅の道中に発生しうるリスクとそれに備えるための知識と力も子どもたちに身につけさせてから旅立たせるべきなのではないでしょうか。 「生きる力」のことを、文科省はこれまで「the zest for living」という英訳を使ってきました。英語は「生きる力」というよりも、「生きるための情熱」という意味になります。まあ、日本の子どもたちに情熱を持って生きてほしいという狙いはわかりますが、淡々と人生を生きるのもそれはそれでいいのではないかと僕は思います。情熱に溢れる人生にしろ、おしとやかな人生にしろ、まず自分の思い通りに生きられないかもしれないというリスク、そしてそのリスクについての理解力、対応力と備えを学校でもっとしっかり教えるべきなのではないでしょうか。東北大震災と原発事故の後、学校教育のあり方が問われるべき転換期を迎えているといっても過言ではありません。近代未曾有のリスクを被ってしまった日本がこれからどう変っていくのか、いま世界の目が向けられています。 -------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 ------------------------------ 2011年11月2日配信
  • 2011.10.26

    エッセイ313:今西淳子「内モンゴル草原旅行記」

    2010年9月に内モンゴル大学で開催したチャイナ・フォーラムで、SGRA会員のブレンサインさんとネメフジャルガルさんが選んだテーマが鉱山資源開発だった。内蒙古博物館の展示と、内モンゴル大学のオンドロナ先生の発表で、広大な露天掘りのことを知ったのがきっかけで、今年のフォーラムの前にシリンホト(錫林浩特)に行くことにした。そして、シリンホトからフフホトまでの700kmの内モンゴルの草原、ゴビ、農耕地、山脈を車で走りぬけた。この興味深い旅をアレンジしてくださったネメフジャルガルさんにあらためて感謝したい。ネメフさんはもっと説明したかったそうだけど、途中、眠ってしまってごめんなさい。 9月24日(土)早朝の便で、北京からシリンホトに着いた。中国の他の都市同様、新しい明るい空港だった。一行は、フォーラム講師の柳田耕一さん、孫建軍さん、渥美財団の石井慶子さんと私。空港で前日にフフホトから8時間ドライブして来てくれたネメフさんが出迎えてくれた。快晴。風もほとんどなし。事前に、北京で、内モンゴルは寒いですよと脅かされていたが、幸いなことに今回の滞在中は秋高気爽、快適な気候だった。内モンゴルは鉱山開発のおかげで、飛ぶ鳥を落とす勢いの経済発展を続ける中国の中でも、発展が一番早い地域である。広い道路の両側には新しい建物が立ち並び、どでかい博物館、広場など、何もかもが大きくて新しくてぴかぴかしていた。さらにもっと驚くのは、建設工事中のアパート群である。こんなに一斉に建設して住む人が居るだろうかと思ってしまうのは、余計な心配なのだろう。なぜなら同じ光景は、フフホトでも見られるし、おそらく中国全土の都市でおこっている現象であろうから。 まず、今回の旅のハイライト、石炭の露天掘り現場を見に行った。飛行機の窓からも眺めることができたが、露天掘りの山は、シリンホト市のすぐそばにあったので驚いた。その地域の聖なるボルガン山(丘)の上には、風車と携帯電話のアンテナが建っている。開発の暴力に心が痛む。窓から見る採鉱施設は綺麗に整備されていた。ひとつの山では、石炭は覆いのついたベルトコンベアーで下に運ばれ、建物の中でトラックに積載される。ご存知のように、シリンゴル盟では5月11日に、一人の若い遊牧民がダンプカーに轢かれたことをきっかけに、大規模な抗議行動が起こり、そのニュースは世界に伝わった。その後の中国政府の対策は非常に早く、環境は著しく改善されたということだった。ダンプカーは決められた舗装道路しか走行できなくなったし、外で積載してはいけなくなり、ベルトコンベアーには覆いが被された。 私たちの車は舗装道路からはずれ、草原の中の道を通って、黒い馬が繋がれている民家の庭先を通ってすぐのところが、もう露天掘りの現場であった。火山のクレーターのような大きな穴の底で、パワーシャベルが数台ダンプカーに石炭を積んでいく。上から眺めるので大きさの実感は湧かないけど、あっという間に一杯になり、次のダンプカーがやってくる。時々散水車が通って水をかける。この水をかけなければいけないというルールも5.11以後のことだという。私たちが立っていたところの反対側には、ダンプトラックが列をなしている。ダンプははいる前と出る時に計量し、採掘量を割り出すそうだ。ここのあたりで採れる石炭はあまり質の良いものではなく、殆どは、内モンゴル自治区の南の方にある発電所で使われるということだった。このあたりでは、ゲルマニウムもとれるという。ダイオードや放射線検出器に使われるそうだ。牧草地を削り取って採掘していくこのような現場が、IT化と世界の経済発展を支えているのかと思うと背中がぞくっとした。石炭がなくなると、その穴は土をもどして、さらには次の穴の土をいれて埋められる。そして草原に戻すのだと言う。 お昼は、草原の中の鄙びたツーリストキャンプのゲルの中だった。羊肉の丸ゆでのご馳走であった。羊にはやっぱり白酒ということで、思いがけずに昼間っから宴会になった。モンゴル国と違うのは、味噌があったので、邪道とは思うが羊肉と一緒に美味しく食べることができた。キュウリ、人参、かぶ、トマトなどの野菜もたくさんあったことも、モンゴル国と違う。そして、内モンゴルの特徴的なものとして、煎ったキビと、クリームと、お砂糖をまぜたアンブタを初めて食べた。これは美味!中国では、鉱山や都市の土地は国家、農地は村が所有し、村人は村から使用権を与えられている。遊牧民も土地の使用権を持っているわけだ。この付近の村には50数家庭いるが、その殆どは遊牧で生計をたてている。10家庭は土地が鉱山開発地域に当たったので、村の所有権が国に買い上げられた。国はその土地の使用権を、買い上げ価格の何倍もの金額で開発業者に売る。それでも、村人も一番高額な人で1億円を超す現金収入を得た。彼らは、そのお金で都市の商店のスペースの使用権を買い賃貸しているという。 昼食のあと、博物館を見学した。恐竜の骨の複製、草原風景、民族衣装や道具などの陳列だったが、とにかく建物が巨大で、日本の地方都市の箱物行政は負けているなと思った。その後、貝子廟(ベースィーンスム)に行った。今から200年余り前に一人のチベットの高僧がアバガナル地方に回って来て、この場所でお寺を創建し、仏法を広めるための助言を行ったのが始まりだという。昔はシリンホトにはこの廟しかなかったという。999段あるという階段を上ると、私が今まで見た中でも一番整備されたオボーがあった。オボーとは、モンゴルの人々が、道中の無事を祈って石をつみあげてつくる塚で、旅人はそこを右回りに3回以上まわって祈る。13基が並ぶここのオボーは、コンクリート製で、まわりには青や様々な色のスカーフが結ばれていた。人々が石を積むかわりに、スカーフを結んで祈るのだと思う。丘の上からは、高層ビルが立ち並ぶ市内と鉱山を含めた郊外の景色、そして地平線が見えた。ちなみに、999段あるという階段は、140段くらいだったので助かった。オボーから降りて、18世紀に建てられたお寺の一部を見学した。ひとつの建物が資料館になっていて関連する写真が展示されていた。新しくて大きくてぴかぴかのシリンホト市全体に比べて、2本の大きな木も生えている200年前からの空間は、心を落ち着かせてくれた。   翌朝、SGRA会員のナヒヤさんも加わって、午前8時にシリンホトのホテルを出発。フフホトを目指して700kmのドライブが始まった。まず、ぴかぴかの市内をぬけ、とんでもない量の建設中のアパート群を通りすぎて、しばらく行ったところで、シリンホトを眺めた。町全体にどんよりとスモッグがかかっていた。冬になればもっとひどいという。といっても、市内でも青空だったし、とても綺麗な町であるという印象を受けたのだが、風が吹いていたらほこりだらけとのこと。 シリンホト近郊一帯は内モンゴルでは有名な牧草地帯で、肉の産地である。季節は既に秋で、牧草は枯れていた。内モンゴルの自然破壊の話を聞きすぎていたせいか、むしろ草原が思っていたより綺麗だという印象を受けた。モンゴル国の草原と一番違うのは、ゲルがないことであった。その代わり、草原のところどころに家が建っている。ちなみに昨日昼食をしたツーリストキャンプでも、本物のゲルはひとつだけで、他はコンクリートで作られていた。内モンゴルの定住化の歴史は100年以上という。草原は、柵で区切られているところがあったが、牧民たちは自分の土地に家畜を放して飼育しているのか。というのはそのような土地に放されている家畜はあまり見なかった。羊の群れを何回か見たが、それは囲まれた土地ではないところを移動しているように見えた。シリンホトからおそらく何百キロも、石を30cmくらい積み上げたものが続いていた。それは人民公社時代に、草刈のためにその中の牧草地には放牧していけないということを示すために作られた石壁の跡だという。衛星写真で見たら、万里の長城と間違えるのではないかと誰かが言った。 途中で真っ白い水の池があった。天然の重曹の産地だという。昔はこれで洗濯をしたとのことだったが、インターネットで検索してみれば「シリンゴル重曹は天然石(トロナ鉱石)から作った天然重曹だから、環境に負担をかけない自然物質として話題を集めています。食品添加物としても認可されている高品質の素材なのでお掃除はもちろん、食器、野菜洗い、入浴剤に、お料理、お菓子つくりなどどんな用途にもおまかせ」とのこと。 しばらくすると、牧草も低くなりより乾燥した地域にはいった。このあたりは、羊肉で有名だそうだ。スニドの羊といえば神戸の牛に比肩するという。厳しい環境の方が肉が美味しくなるのだろうか。青い屋根の長い建物がいくつもある集落があった。「生態移民」の村だと説明を受けた。決められた牧草地を分け与えられなかった牧民たちは、生態系を保護するために強制的にここへ移民させられたという。ここではオーストラリアから輸入したホルスタインを牛舎で飼っている。調査によれば、牧民の収入は以前より減っているそうだ。ホルスタインはこの土地に合わないし、近くに町がないので牛乳を売る場所がない。結局は政府の補助金に頼るようになり、働かなくてもお金がもらえると、なまけものには羨ましがられているという。 スニド旗の「右」と「左」の間が150kmというのでそのスケールに愕然とするが、午後1時をすぎてようやくサイハンタラにたどり着いてお昼となった。ネメフさんの友人の推奨のお店で、モンゴル風揚げギョーザを食べる。一行7人で、その他にも数皿頼んでビールまで飲んで160人民元(約2000円)!お店の人が計算を間違えたのではないかと思った。それからゴビと呼ばれる、より乾燥した地帯にはいった。ラクダの群れを見かけたが、野生ではなく誰かに属しているということだった。ゴビをぬけると、また草原が続いた。ランチの後のお昼寝から起きると、「草原はここまでですよ。ここがフフホトから一番近い、ツーリストキャンプです」と説明があった。観光客が馬に乗って草原を走っていた。 「この丘を越えると景色が全く変わります」と知らされたので、一体どうなるのかと興味深々だったが、急にたくさんの木が現れて、畑が現れた。農民がジャガイモの収穫をしていた。機械はなく、5~10名の人々が手作業でジャカイモを袋に詰めていた。このあたりは、内モンゴルで、漢民族が移住してきて農耕を始めた最初の地域の一つだそうだ。燕麦、ひまわり、麦、トウモロコシなども作っていた。車を止めて畑に降りて、落ち穂拾いならぬ落ちジャカイモ拾いをした。まさか内モンゴルの草原(だったところ)でジャガイモを拾うとは思わなかった。カササギが木のてっぺんで鳴いていた。カササギの声を聞くと良いことがありますよ、ナヒヤさんが言った。国土全体が開発された日本から来た私にとっては、普通の農村風景のようにも見えた。 フフホトへ到着するまえに、陰山山脈を越えた。抗日戦争の時に大きな基地となっていたところだという。モンゴル国でも同様だが、直射日光が少なく雪どけが遅い山の北側には自然林があり、広葉樹も多く紅葉が綺麗だった。川はすっかり枯れていたが、ナヒヤさんが小学生の頃には、遠足できて川遊びをしたという。ネメフさんは国慶節に家族と一緒に来る予定で、フフホト市民の憩いの場となっているようだ。 山を下りるといよいよフフホト市だった。まず専門学校の共同キャンパスである「大学城」にでくわし仰天した。とにかくとんでもなく広い敷地に、校舎と体育館やグラウンド等の施設、高層ビルの宿舎が林立する。すべてが新しくてぴかぴかである。そして交通渋滞が始まった。ネメフさんが、ここから内モンゴル大学のキャンパスまで早くて30分、渋滞なら2時間かかると教えてくれた。 草原旅行の写真 ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在CISV日本協会理事。 ------------------------------------------ 2011年10月26日配信
  • 2011.10.19

    エッセイ312:李 鋼哲「サイバー犯罪との奮闘記」

    近年、インターネットが普及し、利用者が急増する一方で、サイバー犯罪も増えています。つい最近、筆者はサイバー犯罪に遭遇しました。少しでもご参考になればと思い、その経緯と経過、結果について皆様にご報告します。 不審な一通のメール 2011年9月9日の夕方、友人のLさんから一本の電話が入りました。スペインから不審なメールが入っているが、李さん(私)が本当にスペインに行って困ったことになっているかを確認する電話でした。当然そんなはずもないし、スペインは一度も行ったこともありません。 ここで、まずその不審なメールをそのままコピーして掲載します。 How're you doing, I will be glad if I could confide in you and I want this issue to be confidential between You and I because I don't want people to get worried about my situation. I'm really sorry to reach you this way and I make an urgent trip to Valencia, Spain for a seminar and to complete a project. I happened to be a victim of armed robbers on my way to the hotel and I lost my belongings including wallet, mobile phone and some valuables during this inccident. I am sending you this e-mail from the city Library (and I only have 15mins in every 2hours to access my email from here), I had to block my account and my bank cards immediately the incident happened., I am facing a hard time here because i have no money on me to clear my Hotel bill and other expenses. Please I will like you to assist me with a loan of 2,600 Euro ($3,700 USD) or any amount you could afford to sort-out my hotel bills first and to get myself back home. I have reported the case to the embassy here and they are going through the necessary procedures but I will appreciate whatever you can afford to assist me with and I'll refund you the money as soon as I return. I await your reply immediately so I can email you the needful details to send the money. Thanks, Note: I have attach my passport to this email for trust. LI Kotetsu メールの内容はご覧の通りで、私のコンピューターに登録されている千人以上のメール・アドレスに送られたことが後ほど分かりました。それも私のメール・アドレスで私の住所などの連絡先が付いて、さらにはパスポート・コピーまで添付されて。メールを受け取った人は、単なるいたずらメールや迷惑メールとは思わないでしょう。 友達に大迷惑 その後は次から次へと確認電話が殺到しました。携帯電話、自宅電話、そして研究室の電話まで、夜中も、翌日も、また翌日も……。日本国内だけではなく、外国からも数多くの電話が飛び込みました。大変なことになったなと思ったけれど、どうしょうもなかったのです。 私は6年くらい前から @gmail.comを無料で使っていましたので、早速gmail日本管理センターに電話しましたが、金曜日午後7時くらいでしたので、応答する人はいませんでした。今度はGoogleのホームページにアクセスして処理方法を模索し、手順通りに手続きを進めてみましたが、24時間以内に返答するとのメッセージが自動的にメールで入ってきただけでした。 どうしたらいいのか?千人以上の方々にご迷惑をかけており、誰かがメールを信じて犯人に送金することになると大変な結果になることは火を見るように明らかです。自分のgmailにアクセスできないので、サーバーの中にあるメール・アドレスのデータベースが使えず、友人達に詐欺メールを警告するメールすら送れないので大変焦りました。電話では千人の方々に警告することもできませんので。。。 危機管理意識の欠如 なぜ、このようなメールが私のメール・アドレスを使って、それにパスポート・コピーまで添付して皆様に送られてしまったのか。よく考えてみたら、その前日の夜中にgmail管理会社を名乗ったメールが一通私に届き、「ユーザの関連情報を再度登録しないと無料のgmailは継続使用できません」と英語で書かれていたのです。あまり深く考えないでIDやパスワードなどの情報を返信してしまいました。そして、私は国内外の出張が多いので、万が一のための対策として、パスポート・コピーやその他の個人フィアルをgmailサーバーに保存していたのです。非常に便利でしたが、それがそのまま悪用されたのです。パスワードが分からなければ、誰も(恐らく管理会社も含めて、但しCIAなど情報機関はその限りではないかも知れないですけど。。。)アクセスできないはずなのに、躊躇なくパスワードも「管理会社」に提供した私の行動自体があほらしく、危機管理意識の欠如そのものであったのです。 警察を通じて対応 事件の処理のためにたくさんの友人に電話してアドバイスを求めました。「警察に話して対応してもらった方がいいじゃないですか」と言われたので、警察がこのようなハイテク犯罪に対応できるかどうか疑心暗鬼しながらも翌日警察本部のサイバー犯罪対策科に電話しました。以上の事情を説明し、対応を求めたのです。 土日を挟んでいたのでGoogle管理会社には誰もおらず、月曜日を待って警察本部の職員が管理会社に電話を入れたということです。(ちなみに、私も東京の管理会社に電話をしてみたのですが、自動音声の応答のみで、人と話すことはできませんでした。)管理会社の職員は、「このような無料メール・アドレスは数百万人が使っており、無料ですから会社側からは一切対応しかねます」という返事だったそうです。それでも、警察は犯罪被害が拡大する恐れがあるとの理由で、根気強く職員と連絡を取り合った結果、職員は会社の本部に報告し、一応メール・アドレスの使用を止めることができました。一方、警察からのアドバイスのもと、gmailのホームページで、パスワードを忘れた時のメール・アドレス復帰作業を何度も繰り返した結果、3日後には一応メール・アドレスを取り戻すことに成功しました。 この事件が発覚してすぎ、私は至急新しいgmailアドレスを取得し、数年前に保存していたメール・アドレス帳から300人ほどに詐欺メール警告のメールを送りました。しかし、今度は元のgmailアドレスが復帰したので、改めてメール・アドレスを登録している方全員に詐欺メールを警告するメールを送信できました。このように、一週間をかけて何とか問題を解決したのですが、大変な時間コストを払わざるを得ませんでした。 偽LI KOTETSUとの遭遇戦 友人のMさんから電話が来て、詐欺メールを受けた後、真実を確認するためにLI KOTETSUさんに「あなたの出身地を教えてください」と返信メールを送ったところ、「CHIBA」であるとの返事をもらったので、これは嘘だ、詐欺だとすぐ分かったそうです。 そこからヒントを得て、もし詐欺メール送信者の情報を得ることができれば、国際サイバー警察を通じて犯人を捕らえることができるかもしれないと思って、私も偽名を使って、LI KOTETSUさんに「送金先と住所を教えてください」とのメールを送ったところ、その日のうちに返事が来て送金先と住所を教えてくれました。そこで、今度は「あなたの奥さんの名前と住所を教えてください」と再度メールを送ったら、その後は全く返事をもらえませんでした。送信者のPOPアドレスを突き止めてみたら、南アフリカで送信された形跡があるという情報が出てきました。結局はなんの役にも立ちませんでしたが、犯罪者と戦おうという意思はありました。警察側は、「実際の送金被害が発生していないので、国際サイバー警察はコストをかけて対応してくれないだろう」ということでしたので犯人捜しはこれで諦めました。 今度の事件を通じて、サイバー犯罪はいつどこでも起こる可能性があるということを実体験で理解しました。それを防ぐためには情報管理を含めたリスク管理をしっかりする必要があるということは言うまでもないでしょう。友人の皆様には本当に大変なご迷惑をかけました。幸いにもこのメールを信じて送金したという報告はありません。 --------------------------------- <李 鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 --------------------------------- 2011年10月19日配信