SGRAかわらばん2011

エッセイ324:洪ユン伸「一千回の「願い」」


「ここから連行されたジャーロッテ・フリーデンタールが命を落とした。
1910年生まれ。1943年にアウシュビッツに送られ、殺された。当時33歳。」

4年前の冬、私は、ベルリン郊外の小さいホテルの前にはめ込まれた、手の平のような小さなプレートの中から、シャーロッテ・フリーデンタールの死を知った。早稲田大学の恩師中原道子先生と共に「女たちの記憶への旅」と称したプロジェクトでベルリンを訪れた時であった。こうした小さいプレートは、無意識の中で足に引っ掛かったこともあるほど、ベルリンのあちこちに埋め込まれていた。ユダヤ人に対するドイツの「謝罪」については、あの有名なドイツのブラント元首相が、1970年12月、ポーランドの首都ワルシャワにあるユダヤ人被害者の記念碑を訪問し、花を捧げた後突然跪きながら、ナチスドイツが第2次世界大戦を引き起こしたことについて謝罪と後悔の念を表したことが記憶に焼きついている。しかし、私たちを最も感動させたのは、小さいプレートで、一人、一人を記憶にとどめようとしたドイツの「日常」の取り組みであった。プレートは、「行き止まりの石」と呼ばれ、日常生活の中で無念の死を遂げたユダヤ人を記憶するためのものだという。

昨年の2011年12月14日以来、韓国では、40年も前のブラント元首相の謝罪の態度が、話題を呼んでいる。この日、日本軍の「慰安婦」の碑が、日本大使館の前の路地に建てられた。毎週水曜日に日本大使館前で行った「慰安婦」の「水曜デモ」が20年を迎えた日で、合計一千回に達したことを記念するためであった。碑は、水曜デモに参加した人々から提案され、毎週水曜日に集めた募金により建てられたが、「外交問題」を理由に「撤去」を要請した日本の首相の姿が、直ちに、ドイツのブラント元首相のユダヤ人被害者の記念碑の謝罪と対比されたからである。日本首相と韓国大統領との間で「撤去」と「拒否」の言葉が交わされたこともあり、この像をめぐる世論の関心は高く、クリスマスには裸足のブロンズの像には温かい服が着せられ、お年玉までもがポケットに入っていたという。

「慰安婦」とされた女性たちが連行された若い頃をイメージし、チマチョゴリ姿で裸足の少女が椅子に座り向かい側の日本大使館を見つめる碑の隣には、誰も座っていないもう一つのブロンズの椅子が並べられている。そして、日本では「慰安婦問題は解決済みであること」「日本政府が法律の限界を念頭に国民基金による解決模索の努力を行ったこと」「強制性は嘘」などと報じられるなか、「韓国の冷静な判断」が求められた。一方、韓国では、「謝罪をしない日本」「60人余りしか生存していない被害者のための人道的な解決」「外交を怠ってきた韓国政府」などに対する論評が目立った。こうした一連の動きは、韓国大統領が碑の「撤去」を拒否することでピークを迎えたかのように映り、ブロンズの「少女像」の隣の椅子に、笑みを浮かべながら仲良く座り、写真ポーズをとる韓国の若者の姿が両国の多くの新聞紙面を飾った。日本では「反日感情」を連想させるものとして、また韓国では、「撤去拒否」を貫いた「勝利」のようなものとして。

しかし、私は、一連の問題を「日韓の間」のものとして固定化していく伝え方や、関心の的があくまでもチマチョゴリ姿の裸足のブロンズの「少女」に固定されていることに、懸念を抱いている。日韓の伝え方には、その隣の「空いている椅子」には、関心が向いていない。そして、それが、この20年間、ブロンズの「少女」とは異なり歳を取って、水曜デモを継続してきた被害女性たちの隣に、一体どのような人々が訪ねてきたのかということまでには関心を呼び起こすことができない原因となっていると私は考えている。

被害者たちは、「少女」のままではない。また、「恨(ハン)」の気持ちだけで20年間、日本大使館の前に立ったわけでもない。一千回を超える集会が持たれたこの20年間、彼女たちのそばに訪ね支援し、その活動を広めたのは、海外からの声援だった。特に、日本の女性たちは20年間、その活動を応援しつづけてきたのである。ここ5年だけの例を挙げても、2006年には、カナダ、香港、ネパール、ドイツ、デンマーク、オランダ、イスラエル、モンゴル、スイス、ポーランド、マレーシアなど27地域で同じ水曜日に世界連帯記念デモが行われた。2007年には、10カ国13都市で、2008年には、世界女性デーを記念して7カ国11都市で、2009年には7カ国12都市で、同時に開催されるなど、水曜デモは、今や、「戦時下女性への性暴力」問題をともに考える世界連帯の一つとして知られている。そして、一千回の水曜デモの日には、日本にも、外務省(東京都千代田区)前で、韓国水曜デモに連帯する行動が行われ、1300人を超える人々が、「人間の鎖」で外務省を囲い大きな歓声をあげた。同時刻、世界23カ国60余都市で数万人の人々が同時にデモ行進を行った。これらの多くの人々を、「反日」の「(韓国人の)国民感情」という修飾語で語ることには、違和感を覚える。ブロンズの「少女の像」が「脅威」なのではなく、これらの「少女の像」が誕生する前に、生きている被害女性たちのそばに誰が寄りそってきたのかが、むしろ「脅威」と成り得るのであろう。寄りそった人々にとって、「慰安婦」問題は、「日韓の外交問題」ではなく、「人権問題」であることを喚起しなければならない。

国連やILOの勧告、アメリカ、カナダ、欧州議会などでの、日本政府の「慰安婦」問題に対する公式謝罪決議案採択などは、一連の問題が「日韓の外交問題」を越える問題であることを提起しつづけてきた。無論「外交」を通して解決に近づけることは必要であろうが、解決のために「外交」をするということと、そもそも「友好関係の溝」となるものとして捉えることとは次元の異なる話である。

もしも「外交問題」として見るとしても日本の首相や天皇が花束をささげ、そこで涙を流したとしても問題は変わらない。かつて国民基金においても「日本首相」の手紙が寄せられたが、その手紙は、国家の代表たる「首相」という資格ではなく、あくまでも「個人」という立場からであったことを想起せざるを得ないのである。国民から選ばれた国会議員が、国会を通し、決議文を採択し、それに基づき代表たる首相がお詫びをする、といった行為は、不可能に見える。ただ、古めかしい「解決済み」を巡る「外交論争」のみが存在するからだ。

そしてこの空しい「外交論争」には、歳をとった女性たちの隣に誰が、どのような気持ちで座り、ともに一千回もの要求をしてきたのかに、無関心であった私、私たちの「日常」が加担していることを忘れてはならないのだろう。「過去の出来事」あるいは「日韓関係の溝」といった修飾語で、解決の主体を政治家たちの「決断」に委ねてきたのではないか、その問いかけが今なお必要であろう。

それは、確かに「反日感情」を連想させる過激なものとなり得るだろうし、時には小さい子供、通りすがる人々がただ休む場所にも成り得るだろう。しかし、それは極めて多くの「人種」であることは間違いない。今までの20年間が、そうであったように。隣の椅子は、誰にでも開かれているからだ。そして、いつか、ブロンズの少女とは違って歳を取って行く被害者たちはこの世を去るだろう。その時、私たちは、彼女たちの名を、「行き止まりの石」として、自分の家の前に、自らが訪ねるアジア各国の「慰安所」に、埋め込むことができるのだろうか。無関心が、今更、ブロンズの「少女」に関心を寄せさせているのである。この碑の名は、「平和の碑」であるが、日韓関係の中に固定された碑は、あくまでも「少女の碑」でしかないのである。

私たちがチマチョゴリのブロンズの「少女」から、アジア全域に広まった「慰安所」に行かされた植民地や占領地の女たちの顔を想像し、一千回の願いが「韓国人の声」ではなく、「慰安婦」被害者の隣でともに座り続けてきた人権を訴える人々の声として聞こえる時、「少女の碑」と呼ばれるこの碑は、「平和のための碑」という本来の名前を取り戻すであろう。 

「平和のための碑」の写真

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<洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin>
韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士修了後、同大学アジア太平洋研究科「国際関係学」博士号取得(2012年3月)。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。博士過程では「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに研究。現在青山学院大学非常勤講師。編著に『戦場の宮古島と「慰安所」-12のことばが刻む「女たちへ」』など。SGRA会員。
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2012年2月1日配信