SGRAかわらばん

  • 2008.02.13

    エッセイ112:包 聯群「母語の喪失(その2)」

    黒龍江省は中国の最北東に位置し、面積は46万平方キロメートル、2000年の統計によると、人口は3,689万人で、漢民族のほかに、モンゴル族、満洲族、朝鮮族、回族などの民族がいます。黒龍江省にはおよそ15万人のモンゴル族が居住していますが、これは黒龍江省における総人口のわずか0.4%ではあるものの、他の少数民族より多く、漢民族、朝鮮族に次ぐ第三位であります。ドルブット(杜爾伯特)モンゴル族自治県には黒龍江省のモンゴル人の三分の一を越える4万人以上が居住しておりますが、それはドルブットモンゴル族自治県総人口の18%にすぎません。ドルブットモンゴル族自治県は黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県です。また、モンゴル語で授業を受けられる唯一の地域でもあります。   これ以外に、黒龍江省のゴルルス(肇源)県、チチハルの泰来県にそれぞれ1万人以上のモンゴル族が居住しており、富裕県、チチハル市郊外、大慶市市内などにもそれぞれ数千人のモンゴル人が暮らしています。しかし、これらの地域で暮らしているモンゴル人の多くは母語であるモンゴル語を話すことができなくなっています。モンゴル人が比較的に集中している村では、モンゴル語を第二言語として教えていますが、学校教育は当然中国語で行われています。これらの地域では、モンゴル人であってもモンゴル語を学ばない人が多く、モンゴル語を学んでいたとしても、それは教室だけで学ぶ「外国語」のようになっています。日常生活で、子供たちは、お互いに中国語のみでコミュニケーションを取っているのが現状です。ドルブットモンゴル族中学校・高校のモンゴル語で授業を受けているモンゴル人の生徒さえ学校の外へ一歩踏み出せば、中国語のみが共通語となっています。   なぜ、このような状態になったかを考えてみると、そこにはこの地域のモンゴル語教育の歴史的背景があったと思われます。   黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県であるドルブット地域では、黒龍江省教育委員会の決議によって、1984年9月から、モンゴル人が比較的多く住んでいる地域で中国語ではなく、モンゴル語による教育を実験的にスタートしました(中国語以外の科目)。これによって、ドルブット地域では、断続に行われてきたモンゴル語教育が再開されることになりました。なぜ、断続的に行われたかというと、そこにはそれなりの理由がありました。黒龍江省のドルブット地域には、もともとモンゴル人のみが居住していました。しかし、後に清朝が実行する“蒙地開放”政策などにより、ドルブット地域の人口が徐々に増えはじめました。モンゴル人は相対的に少なかったのですが、1910年に3,561人、1928年には6,635人に達し、総人口の27.7%しか占めていませんでした。モンゴル語を学ぶ時は、最初は「私塾」(主に『モンゴル語字母』、モンゴル語に翻訳した『百家姓』、『三字経』などの典籍を教科書として使用していた)から始めるか、あるいは家庭教師を招いて学ぶ方式でした。   中華民国元年(1912)になると、私塾は8ヶ所まで増え、1930に、バヤンチャガン学校は唯一の公立蒙文官学でありました。加えて、ドルブット地域には中華民国時代に仏教寺院が9ヶ所あり、そこに居た425人のラマ僧はモンゴル語を学び、仏教活動に携わっていました。1940年に学校の数は28校となり、そのうち、モンゴル人が通う学校は11校でした。   しかし、全員がモンゴル語で学べていたわけではありませんでした。新中国が誕生して以来の1952年に当地域のオリンシベ(敖林西伯)モンゴル族小学校でモンゴル語による教育を実験的にスタートしました。児童は29人しかいませんでした。しかし、それもそれほど長く続けられませんでした。さらに中国は1966年から文化大革命の政治混乱に陥り、政府が教育を軽視する時期が10年間も続きました。その後、1984年9月からスタートしたモンゴル語による教育も、12年経った1996年8月に地元政府の判断により小学校からのモンゴル人児童の募集を停止しました。残った2、3学年の児童も中国語のクラスへ切り替えさせ、ほかの学年が卒業するまで、そのまま維持するという方針でした。この時期はちょうど中国全土が市場経済を重視しはじめた時期でもあります。   このようにモンゴル語による教育が波瀾万丈の歩みを経て、そのまま終止符が打たれたと思っていたころ、モンゴル語による教育の小学生の募集が停止されてから10年目の2005年9月に、モンゴル語による教育の中学校生募集が急遽始まりました。これは言うまでもなく、モンゴル語教育にプラスになりますが、あまりにも突然のことで、教育の理屈にも合わないし、生徒にも負担がかかるに違いありません。この時期は中国経済の高度成長期にあたり、中国政府は危機に瀕する少数民族の言語、文化などの保護を重視しはじめた時期でもあります。   しかし、それにしてもモンゴル語による教育を受けていたモンゴル人児童・生徒の数が限られており、地域に住むモンゴル人全員がモンゴル語による教育を受けたわけではありませんでした。依然としてモンゴル語を学ばない、あるいは学べない様々な(言語生活、言語環境などの)理由がありました。モンゴル人の子供の多くは母語であるモンゴル語を失いつつあります。(続く)   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。 ------------------------------------
  • 2008.02.09

    エッセイ111:包 聯群「母語の喪失(その1)」

    ダニエル・ネトルとスザンヌ・ロメインの研究によると、使用頻度のもっとも高い100言語を、世界総人口の90%が話しています。そして、少なくとも6000の言語が、地球上の約10%の人々によって話されています。10万人を超える話者をもつ言語を含めて、「安全」であるのはせいぜい600言語であり、他の5400言語で安全な未来をもつものは皆無に近いということです。言い換えれば、世界の言語の圧倒的多数が死滅の危機にあると言ってもよいわけです。言語学者の推計では、少なくとも世界の言語の半数は、次の100年のあいだに死滅するであろうということです。   話者人口が最も多い言語は、中国語、英語、スペイン語・・・の順で、日本語は8番目に入っています。私の母語であるモンゴル語の話者数と比べると、日本語の話者数は遥かに多いわけです。   私が母語であると言っているモンゴル語は現在、モンゴル系諸言語の一つに過ぎません。1950年代に、中国政府の言語学研究機関をはじめ、多数の研究者から構成されたチームが大規模な現地調査を行い、文化や習慣、言語等を基準として民族の分類、言語の認定を行いました。その結果、モンゴル族以外に、中国領内にあるモンゴル系諸言語を話す話者は五つの民族に分けられ、正式に認められました。   モンゴル系諸言語は中央アジアのモンゴル高原を中心に広く分布し、一つのモンゴル系言語同士のグループに属します。モンゴル系の民族として、モンゴル国や中国領内のモンゴル族をはじめ、ロシア領内の、カルムイク族、ブルヤート族、中国領内のダグル(達斡爾)族、バオアン(保安) 族、ドゥンシャン(東郷)族、シラ・ユグル(裕固)族、モングォル(土族)族、アフガニスタンのモゴール族などが含まれます。   2000年の中国の統計で、中国領内の各民族の総人口は以下のようになります(HP:中国国家民族事務委員会による)。ダグル族の人口は132,394人、バオアン族は16,505人、ドゥンシャン族は513,805人、ユグル族は13,719人、そして、モングォル族は241,200人以上に達したということです。栗林均によれば、ロシア領内のカルムイク族は約12万人、ブルヤート族は30万人ですが、アフガニスタンのヘラート州に点在するモゴール族のモンゴル系言語の話者数は推定で数百人ということです。   モンゴル系諸言語の起源について様々な論説がありますが、モンゴル語研究者たちの多数は、チンギス・カーンがモンゴルを統治していた13世紀ごろには、一つの祖語=モンゴル語であっただろうという推定をしています。   現在、皆さんが言うモンゴル語は、モンゴル国と、中国領内の内モンゴル自治区および黒龍江省、吉林省、遼寧省、青海、新彊ウイグル自治区などの地域に分布しています。モンゴル国内に約253万3100人(モンゴル国大使館ホームページ:2004年統計年鑑による)の話者がいます。2000年の中国の人口統計によると、中国領内のモンゴル族は581万人を超えています。これは1990年の480万人より100万人も増えた数字であります。   しかし、中国領内のモンゴル語話者数は、実は人口数よりもはるかに少ないというのはとても悲しい事実です。例えば、内モンゴルにおいては、1990年時点でモンゴル族総人口は337万5千人でしたが、モンゴル語を話せる人は65.1%しか占めていないことが他の研究者の調査によってわかりました。つまり、内モンゴルでは、10人のモンゴル人のうち、4人はモンゴル語を話せないという状態になっています。中国の東北地域で暮らすモンゴル人および他の地域で暮らす中国語で授業を受けているモンゴル人の状況をみると、さらにひどい状態に置かれています。中国経済の高度成長期において、モンゴル人の若者の中には、多数の話者をもつ中国語を自分の将来に有利だと考え、中国語を第一言語とし、母語であるモンゴル語を話せなくなっている人が増えています。また、一部の児童、生徒が母語であるモンゴル語を学びたいという希望があっても、学習する環境が整備されていない地域が多数あるため、学ぶことができないこともあります。   もし日本で、日本人の若者が母語である日本語を話せなくなったと考えると、言語の喪失がどれほど悲しいものであるか、みなさんも容易に想像していただけると思います。中国東北地域に居住するモンゴル人の多数の若者は母語であるモンゴル語を自主的に放棄し、中国語を重視する傾向にあります。私が一番よく知っている中国東北地域に位置する黒龍江省のモンゴル人(約15万人)の若者の多数は自分の母語であるモンゴル語を話すことができなくなり、母語であるモンゴル語を失いつつあります。(続く)   ------------------------------------ <包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun> 中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。 ------------------------------------
  • 2008.02.06

    エッセイ110:羅 仁淑「ある在日のおはなし」

    昨年の暮れ、在日の方々の登山についていった。P氏(70代)と私はグループから遅れてしまい、二人きりで世間話などを交わしながらゆっくりと歩いた。P氏が身の上話を始めた。涙を浮かべて聞き入る私、目頭を濡らして遠い過去を探り出すP氏。分断国出身同士の気持ちの通じ合いだったに違いない。二人の頭には、もはや早くグループに追いつかなければ・・・ということなど完全に忘れていた。   波乱万丈という言葉はこういうとき使うためにあるのかもしれない。多くの在日の来日動機とは異なる理由でP氏は高校生(16歳)の時来日した。当時の朝鮮半島の状況が分からないと、氏の来日理由は理解できないかもしれない。   朝鮮半島の北はソ連が、南は米国が優勢な状況で、1945年8月15日、日本の植民地から解放された。同年12月、モスクワで今後の朝鮮半島問題を議論する米•英•ソ3カ国外相によるいわゆるモスクワ会議が開かれ、米国は朝鮮半島を50年間信託統治することを提案し、ソ連は朝鮮民族には自主的に独立する力量があるので信託統治は要らないと主張した。度重なる協議にもかかわらず、なかなか合意に至ることはできなかった。ソ連の強い反対にもかかわらず、朝鮮半島問題は国連に上程されることになった。   当時、米国の影響力が強かった国連は1947年11月14日、(1)国連の選挙委員団の監視下で1948年5月10日に人口比例による南北朝鮮の総選挙を実施する、(2)政府樹立後外国軍を撤退させる、という米国案を可決した。人口比例で国会議員を選出することは南の人口より圧倒的に少なかった北に不利な条件であった。直ちに同委員団が上陸したが、北は入国を拒否した。国連は同委員団が接近できる南だけで総選挙を行うと決定し、予定通り実施された。そして南では大韓民国(1948年8月)が、北では朝鮮民主主義共和国(1948年9月)がそれぞれ樹立された。結果的に、手紙のやり取りすらできない、もっとも敵意の強い国同士になってしまった。   P氏の話に戻そう。上記のように政治的・思想的に不安定な時期に、高校生だったP氏は5月10日の南だけの選挙拒否運動に参加した。南だけの選挙が強行されると、P氏は国家反逆罪に問われ厳罰を受ける身になってしまい、やむを得ず国を離れることを決心した。真っ暗闇の中で「いつまた会えるかしら」と泣きじゃくる母を背にしてP氏は生まれ故郷を離れた。   日本に来て大学も卒業した。結婚もした。子供ももうけた。それなりに蓄財もできた。しかし、夢でも会いたい母に会いに行くことだけはできなかった。当時、韓国は罪の責任が親戚にまで及び、出国禁止を始めとしてあらゆる行動を制約する「縁座制」の時代であった。1980年代になってようやくこの「縁座制」が廃止され、家族の出国が許された。早速母が来日することになった。母に会える喜びで夜も眠れなかった。指折りその日だけを数えた。一日に何回も数えた。そんなある日、弟から電話があり母の心臓が悪くなり来ることができなくなったと告げられた。全身から力が抜けた。そのままP氏の母はあの世へ旅立ってしまった。   母が亡くなって数日後、弟からの手紙が届いた。母からP氏に宛てた手紙であった。臨終間際に弟に書かせたという。「お前は親不孝者ではないんだよ・・・」。亡くなった後、親不孝者だと自責する息子を慰めるためであっただろう。どこにそんな涙が溜まっていたか分からないほど止め処もなく溢れ出た。来日後、北朝鮮籍に変えたことを悔やんでも悔やみきれなかった。   それから数年後、韓国政府の在日同胞帰国事業により母国訪問団の一員として50年ぶりに故郷の土を踏むことができた。故郷の空を眺めることができた。お墓の前で母と長い話をすることもできた。   まだ会いたくても会えない人がいるとP氏の話は続いた。1959年2月、「在日朝鮮人中北朝鮮帰還希望者の取り扱いに関する件」が日本の閣議で議決されて以来、1967年まで約8万8千人が北朝鮮に渡ったが、その時、娘は万景峰号に乗った。それ以来、会っていない。祖国統一が実現され、死ぬ前娘に会うことがP氏の唯一の願いだ。60年前、祖国の分断を阻止しようと南だけの選挙に反対したP氏の運動は、分断された国がひとつになることを祈る形で今でも続いている。 ――――――――――――――― <羅 仁淑(ら・いんすく)☆ La Insook> 博士(経済学)。専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。SGRA会員。 ―――――――――――――――
  • 2008.01.29

    エッセイ109:キン・マウン・トウエ「ゴミの中から金」

    最近日本では「おさがり」という言葉を聞かなくなったと思います。かつて家庭にたくさんの兄弟がいた時、「おさがり」は普通でした。お兄ちゃんが着たものを妹が着て、最後に弟が着る。そんなことは当たり前でした。でも日本では、そんなふうに古着を兄弟続けて着ることがなくなり、ゴミとして処分されていることがほとんどでしょう。でも、世界には国境を超えた「おさがり」があります。   私が日本に留学していた時、ミャンマーのリサイクルの状況について、よく質問を受けました。古いコンピューターを処分するけどミャンマーへ持っていけるか聞かれたことがありましたが、当時は、母国のIT技術のレベルの判断が出来なかったので進められませんでした。携帯電話機も同様でした。現在のミャンマー国内のリサイクル状況から言えば、いずれも大歓迎です。   古着も同様です。日本で衣料品が不要になった場合、 1)ゴミとして捨てる。 2)回収業者に持って行ってもらう。 3)町内会の資源回収に出す。 といったルートがあり、そのほとんどが古繊維業者に集まっていくのだそうです。そこで集められた衣料品の用途はおおまかに3通りあります。 1)綿などは適当な大きさに裁断されて工場用雑巾(ウェス)となり、工場の機械類の油汚れなどを拭き取るために使われる。 2)毛織物などはもう一回糸に戻され、再び毛織物になる。またその他の繊維も同様にフェルトや軍手などの製品として生まれかわる。 そして、 3)東南アジアへの輸出。つまり、国境を超えた「おさがり」です。   中古車も同様です。日本では、10年以上新車に乗っていると、車検の変更、車輌管理、排気ガスなどの問題がでてくるので、新車に買い替えることが多い。そこで、捨てられた中古車の市場ができて、先進国の日本から発展途上国へ中古車として輸出される産業が発達しました。主な輸出先は東南アジアです。   「ゴミ」は、見方によっては不要なもの、場所を取るもの、処分するのに困るものです。しかしながら考え方を変えて、ゴミを上手く管理し、「エコ活動」として、それぞれ必要な場所にその必要性によって再利用できれば「ゴミの中から金」ができるでしょう。実際、これは、ミャンマーでよく使われていることわざです。   昨年4月ごろ、出張でミャンマーの山岳地方に行きました。その地方で訪れたある小学校の校舎はぼろぼろで設備も貧しく、しかもその小学校にさえ行けない子ども達がたくさんいるということでした。ヤンゴンでは、金持ちの家族が多く、自分の子どもの学校の選び方は日本のようになってきています。学校の評判や、卒業生の就職先などによって、子どもの学校が決められます。しかしながら、山の貧しい村では、小学校へ行けるだけでも天国へ行くようなことでしょう。親ならば誰でも自分の子どもの将来を考えるはずです。しかし、学校のことまで考えられる余裕があるかどうかです。   特にミャンマーの場合、国の政治や経済の状況によって思うようにはならないことが多いです。昨年も国内政治で大変なことがありました。現在は元に戻っているという話があるかもしれませんが、世の中に表と裏の違いがあるのは当然でしょう。経済的には、ガタガタです。税金の決め方や取り方はめちゃくちゃですし、一部の「関係」のある人だけがよい仕事に就けますし、国民一般の経済状況は下がっています。人々は傷つき、生活には大きな被害が出ていますが、政府が国民の状況をどう思っているのか、我々一般人は読めません。表と裏の違いはあるでしょう。   そこで、山の子ども達のため、彼らの将来のために、政府に頼らずに、民間のボランティア活動として行うプロジェクトを計画しました。最初は資金集めです。まず、日本で支援してくださる方のお蔭で、日本ではゴミとして処分されているものの中でも、ミャンマーでは特に必要となっているもの、建設関係の中古車トラックの輸入・販売事業を始めました。さらに、今年は、日本でゴミとして処分されている古着を利用して、山の子ども達の将来に役に立つプロジェクトを始めています。   国の将来は、子ども達の将来であります。ミャンマーの将来は、ヤンゴンの子ども達だけでなく全国の子ども達にも関係しています。現在先進国である日本は、戦後の日本人の方々の努力の結果です。私も日本留学中には、たくさんの親切な方々にお世話をなりました。今度、私ができることを母国で行うことによって、その方々へのお礼ができると思っています。私が今携わっている「山の子どもたちの将来作りプロジェクト」に、日本の「ゴミの中から金」が得られる事を期待して頑張っています。   皆様のご支援とご協力をお願いいたします。   ---------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ----------------------
  • 2008.01.26

    エッセイ108:ボルジギン・ブレンサイン「『高度な自治』はチベットだけの問題ではない」

    2007年10月のアメリカ議会での「議会名誉黄金章」受賞をきっかけに、ダライ・ラマの活動はますます活発になっている。ダライ・ラマは、行く先々で、チベットが中国に対して求めているものは、中国の主権下における「意味ある自治」または「高度な自治」だと宣言しており、チベットの独立を否定する発言を繰り返している。この問題をめぐっては、1980年代から亡命政権の代表と中国政府高官が6回にわたって話し合いをしているといわれているが、状況は一向に進展しているようにはみえない。両者の話し合いの内容は公表されていないが、核心はおそらく、年配のダライ・ラマが如何に体面を保ちながらチベットに帰還できるか、そしてダライ・ラマが帰還した後のチベットは一体どんな状態であるべきなのか、といった問題にほかならないであろう。そこで気になるのは、ダライ・ラマ側が求める「高度な自治」とはいったい何を指し、一方の中国にとっての「高度な自治」とは何を意味するものなのか、ということである。   ダライ・ラマ側が求める「高度な自治」とは、例えてみれば清朝時代における清朝政府と外藩―つまりモンゴルやチベット―との関係そのものである。それは、軍事と外交を除くあらゆる権限が与えられた「間接統治」といわれるものであり、現代中国の中央政府と少数民族自治区との関係とは本質的に異なるものである。   周知ように、現代中国の五つの少数民族自治区(内モンゴル自治区、チベット自治区、新疆ウイグル族自治区、寧夏回族自治区、広西壮族自治区)はその他の省、直轄市と同等なレベルの行政区域に過ぎず、多くの意味においてはそれ以上に中央政府の関与を受けている。これらの少数民族自治区と中央政府との「直接統治」の関係は、それぞれが中央政府の統治を受け始めたときから確定されたものなのかというと、事実はそのようにも思えない。例えば、中華人民共和国の建国より二年前につくられた内モンゴル自治政府は自前の軍隊までもつ、それこそ「高度な自治政府」であり、現在の同自治区と中央政府との関係とは比べられない独自性があった。チベットが中国共産党の統治を受け始めた時の当事者であったダライ・ラマ十四世の目にも当時の中央政府からの約束とその後の現実との間に大きな隔たりがあるのであろう。そしてダライ・ラマはそれを取り戻したいと努力していると理解することができる。   しかし、一方の中国政府からすれば、チベットに「高度な自治」を与えることは、少なくとも「自治政治」のレベルを、国民党と天下争奪をしていた時の「気前のいい」状態に戻すことを意味し、ひいて言えば漢民族を除く55の少数民族全体の処遇をもう一度見直すことになる。チベットにだけ高度な自治が与えられ、ほかの少数民族は現状維持では、中国の民族関係はさらに複雑化するに違いない。チベット亡命政府との話し合いに消極的で、中国の主権下での「意味ある自治」と明確に訴えているにもかかわらず、ダライ・ラマを分離分子と非難している中国政府の姿勢の背景にはこうした事情が潜んでいるであろう。   しかし、考え方を変えて、チベット問題の解決を機に、中国が建国半世紀以上経った区域自治政治を原点に戻してもう一度考え直し、新たな時代に相応しい少数民族政策を打ち出すことになるなら、それも大きいな政治的資産をつくることになるであろう。少数民族の分離独立の動きを押さえるもっとも有効的な手段はほかでもなく、中国の中で彼らが自らの文化を温存しながら生きることができて、誇りと尊厳を取り戻し、経済発展で豊かになったことを実感できる生活空間を与えることだ。今の中国にはそれを実現するだけの余裕は充分ある。   ところが奇妙なことに、中国には「高度な自治」が存在する。しかもそれは多民族国家ならではの少数民族統治とは縁のないところに存在していることに注目したい。それは香港と澳門の「特別行政区」と台湾問題を解決する枠組みだとされる「一国二制度」である。列強に虐げられた長い植民地時代への清算と国家統一という至上命題を実現するために打ち出された枠組みであろうが、その発想の出所はまさに清朝時代の「間接統治」であり、長く蓄積された異民族統治の知恵が転用されたことは明らかである。   中国は、かつて中国と争ってきたモンゴル人や満洲人など周辺少数民族のほとんどを統治下に治めたので、これらの異民族にいまさら「高度な自治」などを与える必要性はなくなった。現在中国の国家統一の障害となっているのは同じ漢民族内部の問題であり(台湾問題)、さらに中国にとっては少数民族問題よりも本土における地域間の経済格差問題の方がより統治の脅威となっている。「高度な自治」という異民族統治から生まれた知恵が今度は少数民族問題ではなく、漢民族内部の問題を解決する道具となりつつある。   ---------------------------------- <ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain> 1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年~1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学研究科より修士号、2001年博士号取得;早稲田大学モンゴル研究所客員研究員を経て、2005年より滋賀県立大学人間文化学部准教授。SGRA会員。 ----------------------------------  
  • 2008.01.15

    エッセイ107:玄 承洙「教室雑感」

    私が東京大学大学院で留学を始めた頃の話である。専攻上の必要からアラビア語を勉強しなければならなかったため、基本文法を教える学部生向けのアラビア語教養講座の授業に出ることにした。しかし、初めて目にした日本の大学授業の風景はそれこそ衝撃の連続であった。教室ではまったく講義らしきものが行われていなかった。学生たちの大半は居眠りをしていたり平気で雑談をしていた。授業中にいきなり携帯の着信音が鳴ったかと思いきや、学生は「ちょっと待ってな〜」と言いながら、先生の前を横切って教室から出て行った。もっとショックだったのは教師の態度であった。おそらく他大学から教えに来ていたと思しきあの男性講師は、困った顔でこういっていたからである。「皆さん、あと15分で終わるから我慢してくださいね。あと15分ですよ。」   9年間の日本留学も無事に終わり、待望の博士号を取得して帰国した。韓国の大学を取り巻く厳しいニュースは日本にいた頃から聞いてはいた。だが、帰国して本格的に学術活動を開始してみると、研究者の就職活動や研究環境が想像以上に厳しいことがつくづく感じられた。少子化現象もあって学生数は毎年減っているのに、修士や博士号をもっている人の数は増える一方である。要するに、需要より供給が過剰なわけである。政府は10年前から「高等失業者」を救済するという目標の下、学術振興財団を通していろんな研究プロジェクトを設けて研究者を公募している。今の韓国の博士号所持者の大半はこの「学進課題」に大いに頼っているといっても過言ではない。逆にいうと、研究者個人であれ、集団であれ、毎年行われる数個の「学進課題」に採用されなければ、食べていけないのである。週にいくつかの授業を担当しても、それだけでは生計を立てることはできない。   それで、この大学授業についてである。冬学期が始まり、本格的に授業を担当することになった。ありがたいことに周囲の先生たちや知人の配慮もあって、4つの授業を担うことになったが、そのうち1つはいま住んでいるソウルからかなり離れた地方大学での講義である。週に1回、高速バスに乗って片道4時間の長道である。たったの3時間の授業をおこなうために路上で8時間も過ごさなければいけない。だが、私を悩ませるのは、決してその長い通勤時間ではない。学生たちの態度である。いや、より正確に言うならば、どうやって学生たちに接すればいいかという問題なのである。   私は基本的に子供が好きである。若い人たちに(自分もまだ若いとは思っているが)接することも楽しい。彼らと考え方を共有し、彼らの質問に答え、彼らの将来についていっしょに考えるのが好きである。しかし、こうした私の期待は時間がたつにつれ少しずつ失望に変わっている。学生全員ではないが、多くの大学生たちがなぜか学問にたいしてあまり意欲を見せない。学問的な好奇心もあまり感じられない。教壇にたっている教師をだる〜い視線で眺めている。彼らから少し視線をそらすと、すぐ携帯で何かを操作している。冗談とかで彼らの注意を喚起しても、長くて10分ももたない。授業のために何日もかけてビジュアル資料を用意して使うが、すぐ飽きた顔をしてアクビをしたりする。   こうした私の悩みを先輩の講師たちに話した。私の教授法にどこか大きな間違いでもあるのではないかという不安を吐露した。すると、講師歴15年のベテラン先輩はこう言った。「どこの授業も大抵そのようなものさ。いくら面白い動画を見せ、繰り返し冗談を連発したって学生からはすぐ飽きられるんだよ。大学で教えるべきものは、興味を誘発するだけでは続けられないような内容なんだ。講義はテレビのお笑い番組ではないんだよ。」先輩はこうも言った。「最初は学生たち全員を公平に扱わなければならないと考え、ついて来られないやつらを見ていらいらするかも知らない。けれど、どうせ全員向けの授業なんてできやしない。寝ているやつらは放っとけばいいんだ。大きな声で雑談をして周りに迷惑をかけない限り、彼らをいちいち注意することなんて無理さ。慣れてくれば何でもないんだよ。」   しかし、講師歴たったの4ヶ月に過ぎない私にとっては、とうていそうはいかない。先日の授業ではロシアの歴史を紹介する水準の高いドキュメンタリー映画を見せながら授業を続けていた。だが、映画が始まって20分もたたない時点でビデオを止めてしまった。150人を超える学生のうち3分の2以上が寝ていたからである。不快感を顔に浮かべつつ拍手を打って学生たちの目を覚ました。そして彼らを叱った。「若々しい20代の君たちがなぜにこうも、うとうとしているのか、先生はどうしても理解できないんだ。一学期300万ウォンもする学費がもったいなくないのか。適当に時間を費やし、適当に満足できそうな成績をあげ、適当な人生を過ごそうと思っていいのか。授業の内容が気に食わなかったら、素直に言いなさい。質問をさせても閉口で一貫し、機会さえあれば寝ることばかりにしか興味のないような君たちがかわいそうでしかたないんだ」と。   私はまだ教師としての経験が浅い。学生たちの興味を誘発するのに精一杯で、進度もなかなか進まない。学生たちにアクビさせないほどのテクニックなんて持っていない。しかし、いま私たちの教育現場に充溢した危機感を、ただ教師や学生の資質だけに求めるべきではない。激しい民主化の流れにより社会はいろんなところで肯定的な変化を遂げたが、同時に社会全体において拝金主義と権威の喪失を深めた。なくすべきは権威主義であって権威そのものではないのに、権威というものはもうどこにもない。子供たちの前で父兄が教師を暴行したというニュースもたびたび聞こえる。体罰をする教師を携帯で撮影し、インターネットに流布する学生も増えている。こうした社会的風潮のなかで教師は師としての権威を喪失し、単純な知識の商売者に転落してしまったのではないか。   10年前に日本の大学で目撃した教室風景は、いま韓国でそのまま再現されている。もちろん韓国が日本を真似しているわけではない。何もかもがビジネスになってしまった時世のせいでもあるのだ。教育の価値を経済的な価値に換算して評価しがちな時勢のためであろう。教育の中心を教師ではなく学生が占め始めてから、教師は学生に教育を「サービス」しなければならず、教師と学生の区別が曖昧になり、一切の権威が崩壊した教室は知識を売る市場に化してしまったのではないか、と私は考えている。   ---------------------------------- <玄承洙(ヒョン・スンス)☆ Seungsoo HYUN> 2007年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『チェチェン紛争とイスラーム』)。専門はロシア及び中央ユーラシアのイスラーム主義過激派問題。現在は韓国外国語大学の中央アジア研究所で研究員として務めている。SGRA会員。 ----------------------------------
  • 2008.01.11

    エッセイ106:高 煕卓「2007年韓国大統領選挙を見て(その2)」

    韓国の2007年大統領選挙(大選)では10年ぶりに与野党の政権交代が起こった。その直後、多くのマスメディアでは投票行動における一定の世代や理念の影響力低下といった傾向を主要な特徴として取り挙げていた。長く続いた保守系政党の長期執権に終止符が打たれ政権交代が実現した前々回(1997年、金大中氏)、そして前回(2002年、慮武鉉氏)の大選においては、彼らの「民族」や「民主」、あるいは「平等」などの理念的志向に共感する3、40代を含む多くの若い世代の人びとの存在が大きかった。が、今回の大選ではそうならなかったわけだ。   それは大選後の世論調査でも表われている。1980年代の民主化運動の流れのなかで市民の力によって創立された、いわば進歩系新聞の代表格のハンギョレ新聞の世論調査によると、2002年の大選で慮武鉉氏に投票した人びとのなかで今回李明博氏の支持へと変えた人が約41%に至るという。   ところで、その記事で印象的だったのは、「民心読み」という新年初の連続企画記事のタイトルであった。この世論調査はじつは昨年末に行われたものだった。が、まさにそのタイトルに象徴されているように、今回の大選結果もさることながら、集団転向と呼ばれそうな上記の世論調査結果がいかにも衝撃的だったようだ。そのタイトルは「民心を読み誤り、そこから離れていた」といった自覚の裏返しであったといえる。   では、こうした一方の「民心離反」と他方の「民心の読み誤り」はいかに生じ、またその間隔は何を意味するものだろうか。   そこには、単純化を恐れずにいえば、現政権の5年間だけでなく、この10余年間に進行した韓国社会における一種の中産層の解体とそれに伴う政治意識の変動といった構造的問題が横たわっているのではないだろうか。   その理解のために、とくにバブル崩壊とIMF事態を経て政権交代に至った1997年前後に遡って振り返ってみる必要があると思う。まだ記憶に新しいが、今から10年前頃は、アジア金融危機が広がるなか、韓国経済がバブル崩壊とともに国家的破綻の危機に直面し、国際金融機構IMFからの金融支援を受けざるをえなくなっていた。が、他方では、そのような状況のなかで進歩系野党候補の金大中氏が大選で当選し、政権交代が現実した時期でもあった。   1997年の大選で金大中氏が選ばれたのは、それまで経済成長を主導してきた勢力の経済政策の失敗や判断錯誤への責任を、より公共的な位置から問う意味合いが大きかった。それまでの経済成長の戦略的・制度的修正だけでなく、そのなかで後回しにされていた疎外や格差といったいわば開発独裁の影の部分の是正を通じて、名実相応の「国民国家」の完成を図るといった、金大中氏の国家戦略が効いたのだ。「国民の政府」と自称していた金大中政権において地域間、階層間、さらには南北間の「均衡」が盛んに謳われたのはそのためであったと思う。   そして2002年の大選で慮武鉉氏が選ばれたのも、大きくいって、その延長線上のものといってよい。さらには「人」の斬新さも一役買われたこともあって、前政権の「均衡」政策だけでなく、いわば権威主義や排他主義に集約される韓国社会の古い体質を変えて、より対話的な探求を可能にするといった意味での「民主」を押し通したのが効いたような気がする。現政権は自らを「参与政府」と自称していたし、今は別名に変わったが、当時の政党名が「開かれたウリ(我々)党」だったのもその象徴であった。「均衡と参与」によって、あらゆる国民が自らの政府の主人となり、官民ともに国家の未来を開いていくといった現政権出帆当時の鳥瞰図は、ある意味では鮮やかな絵を見るかのようだった。   だが、政権交代の機会を提供した経済危機が執権後には大きな負担であるといったジレンマを十分に認識していたとは思えない。バブル崩壊とIMF事態がそれまで高度経済成長を持続させてきた韓国経済の根幹を大きく揺るがしたことの政治的意味を重く受け止めていなかったような気がする。   その一つ、大量失業の事態と生活上の危機。多くの大小企業の倒産が相次ぎ、また生き残った企業や金融機関の構造調整のために合併や整理解雇などが行われた。それまでの60代停年といった雇用安定の構造が壊れ、私の周りでも50代さらには40代に職場から追い出される人が続出したし、また若い人々にとっての就職は前例のないほどの厳しいものになっていった。   その二つ、両極化の深化と無限競争の一般化。IMFによる金融支援は体質的問題とされた韓国経済の不透明で閉鎖的な構造を改革することが義務付けられたものであった。それに則って金大中政権の初期から経済構造改革が進められるなかで、いわばグローバル・スタンダードは急激に一般化していった。が、被雇用者側からみれば、それは国内外の境界が無くなった状況での勝ち組と負け組みとの鮮明な区分けを意味し、またその勝敗をめぐる競争の激化を体感させるものでもあった。   その三つ、急転直下による心理的恐慌。バブル崩壊直前まで多くの人びとは、ある意味では膨張する欲望のまま振りまわっていた。「シャンパンを抜くのが早すぎたのではないか」といった憂慮が国外から指摘されてもいたが、むしろOECDの仲間入りに国家的に歓呼していたほどだった。それだけに、その急転直下の辛酸を直接に嘗めた人々の過酷な現実はいうに及ばず、間接に体験した人びとの不安や恐怖の大きさも計り知ることができないかもしれない。バブルの酔いからまだ目覚めないうちにまさに上記の二つの事態に見舞われただけに、階層や地域によって速度差はあったものの、韓国社会の全般に危機感を高めていったのだ。   その意味で現政権の5年間は、こうした危機感の漸増とともにそれまでの精神的余裕が蝕まれていった状況のなかで、その事態の意味の「読み誤り」と「民心離反」が繰り返された時期でもあった。経済的・社会的弱者を保護するために構想された不動産政策や教育政策などの現政権の代表的な政策が、かえって逆効果となり、人々から典型的な失政として反発を買っていたというアイロニーは、まさにこうした状況のなかから生み出されていた。   それにしても、今回の圧倒的票差による李明博氏の当選を単に「保守化」と断定してよいとは思わない。アマチュアリズムや「口先だけの政治」といった批判に象徴されているように、いわば保守か進歩かといった「理念」の問題としてではなく、むしろそれ以前の問題として捉えられていたと思う。状況認識に長けた李氏の当選はこの意味では当然だった。   だが、その分、新政権も現政権と同様の負担から自由ではない。まして、曲がりなりにもこの10年間における「国民の政府」や「参与政府」の経験をもつ人びとを前にして、単なる後戻りが許されるとは思わない。その意味で新政権は、従来の保守と進歩がごちゃ混ぜになったような国政運営をせざるをえなくなるのではないか、というのがこの頃の私の感想である。   ------------------------------------ <高 煕卓(こう ひたく)☆ KO HEE-TAK> 2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務める。2007年11月より高麗大学日本学研究センター研究教授。SGRA地球市民研究チームのチーフ。
  • 2008.01.09

    エッセイ105:マックス・マキト「マニラ・レポート2007年12月」

    今回のフィリピンへ帰省中、僕としては初めてのスタディーツアーを行った。僕の日本の大学の学生たち7人(性別的にいえば女性5人、男性2人、出身国的にいえば日本人5人、ポーランド人1人、インドネシア人1人)と先生2人(SGRA顧問で名古屋大学教授の平川均先生と僕)の参加で、12月5日から14日までの合宿旅行を、フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)のユウ先生とマニラにいる家族の協力を得ながら実施した。幸いに今回のプロジェクトの一部は、平川先生の名古屋大学の産業集積の研究助成金から支援していただいた。   12月5日に、名古屋発の平川先生と東京発の僕がマニラ国際空港で合流した。学生さんたちは期末試験のため、マニラ到着(台湾経由)を一日遅らせた。参加者は9日まで、マニラ市内のホテルをベース・キャンプとした。師走という時期だったので、残念ながら、平川先生は9日に日本にお帰りになった。   ツアー前半の主な目的は、昨年から続いている経済特区におけるフィリピンの自動車産業の研究調査を行うことである。昨年、平川先生とユウ先生と一緒にフィリピン・トヨタの工場を見学し、僕は特区に関する研究を発表した。その後の交流の結果として、自動車産業を中心とした研究方向が固まってきた。12月6日(木)に、僕らの研究を支援してくれているフィリピン・トヨタの方の手配で、トヨタの下請け企業であるPhilippine Automotive Components、Fujitsu Ten、Toyota Boshoku Philippinesを見学させていただいた。さらに、8日(土)には、週末にも関わらず、Yazaki-Torres Mfg. Inc.という合弁会社を見学できた。この場を借りての幹部社員の皆様の暖かい歓待に感謝を申し上げたい。以上の見学によって僕達が行っている研究の分析結果を現場で確認することができ、今後の研究に役立てるヒントを得た気がする。   7日(金)の午後1時半から5時半まで、UA&P・SGRA日本研究ネットワークの第6回目の共有型成長セミナーがUA&Pの会議室で開催された。最初に平川先生がフィリピンの自動車産業を他の東南アジア諸国と比較した。日本のダルマに例えて、フィリピンの自動車産業は7回転んでも8回立ち直す。東南アジアからみても遅れているということがわかるが、部品調達先としての役割を深めているということだった。次に僕が経済特区の比較分析の結果を発表した。この分析はこれから特区を超える産業ネットワークにも適用できるので、そのための研究支援を訴えた。休憩を挟んでユウ先生がフィリピンの半導体産業と自動車産業の比較分析の結果を発表した。この観点からみてもフィリピンの自動車産業は遅れていることがわかる。ただ、世界の観点からみれば、自動車産業は部品などの調達で中小企業に大きく頼っているので、共有型成長の潜在力が非常に高いという。最後に、フィリピン自動車産業協会のホマー・マラナンさんがフィリピン自動車産業の現状について報告した。輸入車の量が現地生産高とほぼ同じことが現地自動車産業に大きいな打撃を与えていることがわかる。最近、フィリピン国産車の啓蒙活動が進められ、法律も作られているというが、輸入車がビジネスとして成り立っている限り、今後の展望はまだまだ難しいようである。セミナーの最後に僕が司会をして、会場のみなさんを混じえてパネル・ディスかションを行った。色々なことが議論され、フィリピン自動車産業の研究の将来性を感じた。   トヨタの役員の方に誘っていただいたセミナー終了後の食事会でも、同じように前向きな印象を受けた。フィリピン自動車産業のこれからの戦略立案において大学やNGOという中立的な立場が必要とされている。そこでUA&P・SGRA・名古屋大学のネットワークが活躍できると思う。東京に帰る前に研究助成を含む話し合いが予定されている。また、できるだけ早く戦略政策案を提出するよう要請されている。   スタディーツアーの後半(9~12日)は主に地方で過ごした。マニラの東南、車で約4~5時間の太平洋に面するビーチ・リゾートがベース・キャンプである。リゾートといっても主な客層は地元の人々で、決して一流の観光地ではない。一行は、僕と学生7人、父と妹とその長男、運転手の総勢12人だった。初めての試みだったので不安がたくさんあったが、その心配は無用だったように、みんなが明るく、フィリピンの地方での3日間を過ごしてくれた。   地方の視察は共有型成長をテーマとする僕の研究の一貫である。都会から地方への発展をいかに進めるかということをが、僕の研究の基本的な目的である。ツアー前半の経済特区はまさにその一つの有効な手段である。製造業の経済特区は大体地方に位置しているからである。引き続き、地方における農林水産業部門やサービス部門においても、僕の研究を展開しようと試みたわけである。今回は農林水産業部門では養魚場を一ヶ所視察し、サービス部門では、今後の研究の可能性を探るため、ベース・キャンプにしたリゾートを中心とした観光施設を訪問した。   未開発の海や豊かな雨量に恵まれているこの地方は、養殖業の可能性が十分あると思われるが、商業ベースで営んでいる養魚場はどうも少ないようである。観光地としても理想的なところであるが、地元の人たちは、この地方の住民か、たまたまやってきた観光客しか狙わない。立地は良いのに、どうもこれ以上発展したいという住民の熱意が感じられなかったというのが率直な印象である。確かにフィリピンの地方では、ノンビリというのは当たり前だとよく聞く。しかし、地方でも機会があれば発展したい気持ちはあると思う。隣の県と比べると、今回の視察先では遊んでいる土地が多いようであるし、観光の観点からみてもさまざまな点で遅れている。   このビーチ・リゾートは、妹の友人に紹介してもらったものだが、合宿中も色々と親切にしていただいた。彼らにとって精一杯のもてなしをしてくださったと思う。同時に、このプロジェクトを手伝ってくれた僕の家族にも感謝している。日本から行った学生さんたちから事前に了解を得て、今回の合宿旅行の余剰金は、妹の3人の子どもたちへの奨学金とさせてもらった。他のパック旅行と比べても低予算という制約の下で組んだスタディーツアーであるが、家族のボランティアと全力をあげての経費節減により、いくばくかの支援金を得ることができた。実は今までのSGRAでの僕の研究成果は、殆ど妹(と父)が手伝ってくれたデータ収集が基本になっている。妹の明るい性格は、参加した学生さんたちに非常に受けて、みんなに親切に付き合ってくれた。   嬉しいことに、今回参加してくれた学生さんたちは、地方から帰ってきた後、マニラでの滞在期間を2泊延長した。そして、日本に帰ってからも優しい言葉を一杯くれて、このような合宿を近いうちにもう一回やろうという自信を芽生えさせてくれた。いうまでもなく今回の合宿には問題点も多くあって、いわゆるトヨタの「カイゼン(改善)」を習って、東京へ帰ったら反省会を行うと同時に第2回目のツアーの企画も始めたい。今回の訪問先と比較するため、次回はまた家族のネットワークに頼ってマニラから北西のほうを調査してみたい。   このスタディーツアーを企画している間に、フィリピンではモールの爆発や、クーデターなど、いくつかの事件が報道されたために、何人かが参加を中止した。そんな状況でも、暖かく支援してくださった企業はもちろん、それでも参加してくれた7人の学生さんたちと平川先生に心から感謝している。色々大変だったと思うが、僕まで驚かせたこのグループの前向きな姿勢によって、一人残らずフィリピンの訪問が勉強になり、良い思い出ができたそうである。   SGRAのみなさんからも、東海の真珠と呼ばれるフィリピンへの冒険旅行はいかがでしょうか。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------
  • 2007.12.29

    エッセイ104:李 鋼哲「中国人の近隣感覚」

    日本では中国人の反日感情が非常に強いと思う人が多い。しかし、中国人の近隣感覚は必ずしもそうではない。最近、インターネット・メディア「新華網」が発表した「中国人の隣国イメージ調査」によると、「最も好きな隣国」はパキスタン28%でトップ、ロシアが二番目で15.1%、日本が三番目で13.2%という結果が得られた。また「最も好きではない隣国」の第一位は隣の韓国が40.1%、日本が30.4%で第二位、インドネシアが18.8%で第三位である。調査は中国ネティズン1万2千人を対象に行ったもの。   日本人にとって嬉しいことか憂うべきことかそれぞれの判断であろうが、注目したいのはインターネットが感情発散のはけ口で、反日感情が強いと思っていた中国のネティズンは、意外と冷静に隣国を見ているのだとする中国の専門家の分析である。20の隣国と接する中国にとっては、「善隣友好」関係は政府も国民も望ましいが、現実では近隣関係は理想的ではなく、近隣環境が厳しいと見る人が少なくない。   日本に対しては、愛と憎みが入り混ざっていると関係者は分析している。「日本は歴史的な原因により嫌いな国であるが、我々が学ぶべきところが多く、日本民族の多くの特徴は我々の自己反省の鏡となる」と調査結果を読んだある読者は自分の意見をネットで書いたという。   パキスタンが最も好きな隣国になった理由は、パキスタンは中国を裏切ったことがなく、いつも中国人に対して友好的だから。しかし、中国人はパキスタンについてどれぐらい知っているだろうか。昨年パキスタンを訪問した中国人はわずか6万人である。中国を訪問するパキスタン人も限られている。つまり、お互いに接触が少なく、ある「造られたイメージ」による判断になりかねない。   筆者が小学校や中学校時代の1960~70年代、中国は「日本は中国を侵略したが、それは日本の一部軍国主義者が悪いので、日本国民も被害者である」と国民を教育したので、反日感情というのはそれほど見られなかった。もちろん、日本を訪問できる人はほとんどいなかったので、日本の実態を分かる人は誰もいなかった。つまり、「造られたイメージ」により国民は日本を想像し、日本人を認識したのだ。それが、1日平均1万人以上の交流時代(今年は双方訪問者500万人になる見通し)になると、日本に対する評価も様々である。   近年、韓国ドラマで韓流ブームになっていた中国国民のなかで韓国人嫌いが急速に増えたのは、「韓国人は中国で偉そうに振る舞っている」、「中国人を見下ろしている」からであると前記の調査では解説している。近年急増して日本を超える規模の韓国人の中国訪問者、そして現在70万人といわれ、来年は100万人になるといわれる(駐中国韓国大使の話による)中国での韓国人居住者。付き合いが多くなると好き嫌いも明確になるのではないか。やはりドラマで見るのと実物を見るのは違うのか。   ----------------------------------------- <李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 -----------------------------------------
  • 2007.12.26

    エッセイ103:高 煕卓「2007年韓国大統領選挙を見て(その1)」

    韓国の2007年大統領選挙(「大選」)はあっけなく終わった。今回ほど、投票前に形勢がほぼ決まり、選挙関係者だけのお祭りで、面白くない大選もなかった、といったのが多くの人びとの実感であろう。   といっても、今度の大選がもたらした政治的出来事は決して小さいものではない。   その一つ。韓国の人びとは去る12月19日の投票でいわば政権交代を起こした。現政権の統一相を歴任した与党候補の鄭東泳(チョン・ドンヨン)氏ではなく、野党のハンナラ党から立候補した李明博(イ・ミョンバク)氏を選んだのだ。   その二つ。圧倒的な票差。得票2位に止まった与党候補との間では、得票率において20%以上、得票数において五百万票以上といった、史上前例のないほどの大差がついた。最後の最後まで判らないといった薄氷の勝負を繰り広げた前回や前々回の大選とは様相が全然違うものだった。   その三つ。史上最低の投票率。大選平均の80%台にはほど遠く、最低だった前回を7%も下回る63%だった。3人に1人が棄権ということになるが、とくに前回に比べれば、さらに約2百万人以上の人が投票をしなかったわけだ。   このように今度の大選で韓国の人々は大きな政治的変動を選択した。が、その選択は、これまで緊迫感に満ち活気が溢れていたものとは対照的に、冷笑が漂う静けさのなかで行われたのだ。   こうした政治的現象はどう理解すれば良いのだろうか。いったい韓国社会のなかで何が起こっているのだろうか。ここでは私なりの解釈を試みてみたい。   まず、注意を引くのは、政治と道徳との平面的連動構造の弱化である。   最近10年間の大選において候補者の道徳性問題が勝敗の大きな分かれ目となったのと比べれば、今回のそれは異様なほど違っていた。現大統領の慮武鉉氏(2002年)やその直前の金大中氏(1997年)が大選で勝利できたのは、あえていえば、そこに対立政党・候補の道徳性問題が大きく絡んでいたからである。   また、とくに今回の選挙では与党側に道徳的公憤をもとに劣勢を挽回し大逆転の期待を抱かせた、「BBK事件」も結局「大選の雷管」にはならなかったのだ。   「BBK事件」に限っていえば、今年の前半期からその事件への李氏の関与疑惑が持ち上がり、先月の半ばにはマスメディアの集中的な照明のなか、その事件の主犯格とされる人がアメリカの拘置所から韓国に引き渡され、それに対する検察の特別取り調べが実施されたし、「李氏はBBK事件の共犯者だ」といったその人の供述さえ報道されていた。ましてや投票日3日前には、ある大学で李氏自ら「BBKを創業した」という内容の入った当時の講演映像が流された。   しかし、それにもかかわらず、「BBK事件」への取り調べが軌道に乗った後で行われた世論調査においても、李氏への高支持率に大きな変動はなかった。「BBK事件」だけでなく、さらには偽装転入問題や脱税などのさまざまな疑惑のため、ある意味では「腐敗政治人」の典型としても映された李氏のイメージが大選の焦点に持ち挙げられるなかでも、圧倒的な票差による李氏の当選が現実化したのだ。   今は透明になりつつあるとはいえ、これまで大小の腐敗や虚偽問題に苦しまされ続け、それゆえ道徳性の問題に敏感だった韓国人のことだけに、今回大選の結果は従来の政治と道徳との平面的連動構造の弱化を示唆しているように思われるのだ。   だが、ここでまた、注意を要するのは、その意味への解釈ではないだろうか。   一つの解釈は、李氏への支持を、いわば「勝てば官軍」といった情緒の表現と見なし、国民的な「道徳的堕落」と受け止める立場である。先月の半ば、与党の選挙対策共同委員長を務める人から、政治と道徳との平面的比例構造の弱化の様相をふまえて、「国民は呆けているのではないか」といったイライラの発言が飛び出たほどだ。が、その解釈は一面に傾いた感を免れない。   もう一つの立場は、上記の立場への批判的意味も込めて、今回の大選は現政権に対する懲罰的投票が最も顕著に現われたケースとして見なすのだが、こうした見解は割りと多い。前回2002年の大選ではその愚直さと斬新さで大きな期待をもって迎えられた慮武鉉政権だったが、その斬新さはアマチュアリズムの無能に、その愚直は傲慢や独善に取って代わったというのだ。それからの「学習効果」が今回の大選で大きく反映されたと憤慨する人びとを私の周りではよく見かける。が、敗北の真の原因を探すより敗北の責任者を探し出すことにもっとエネルギーが投入されているような感じで、部分的には理解できるものの、やはり納得いかないところも多い。   私は、今回の投票傾向の分析から明るみに出ている、これまで政治的形勢に大きく影響を与えてきた世代や理念、あるいは地域といった要素の比重が低下したという側面に注目したい。それは韓国社会の構造的変動と絡み合いながら、そのなかの人びとの政治意識構造の変動をも示唆しているように思われるからだ。 (これ以降は次に譲る)   ------------------------------------ <高 煕卓(こう ひたく)☆ KO HEE-TAK> 2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。 ------------------------------------