SGRAかわらばん

  • 2008.06.01

    2008年度事業計画

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  • 2008.06.01

    2006-2007年度事業報告

    研究会会則第2条および2006・2007年度事業計画に沿って下記のリンクとおり活動した。 こちらへ  
  • 2008.06.01

    SGRAレポート(バックナンバーのご案内)

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  • 2008.06.01

    2008年度収支予算

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  • 2008.05.30

    ミャンマーのナルギス被災者支援プロジェクトにご協力ください!

    ■ ナルギス被災者支援プロジェクト (ヤンゴンのキン・マウン・トウエさんより)   現在、ミャンマーへ様々な国や国際事業団体などから御支援がきています。全て軍隊が管理して仕分け配分を行っていますが、支援物を今でももらっていない村や人々が多く、不満の声がかなり出ています。恥ずかしい話ですが、一部市場に販売されている話まで出ています。   民間レベルで直接現地まで行って支援しているボランテアグループもあります。現在、私も日本から今月21日に出るコンテナで運ばれる古着2トンを待っており、私自身でも古着などを買い求めました。薬品を送っていただくことも考えたのですが、なかなか難しいことがありましてあきらめました。   そこで、日本の友人の森峰生さん相談して募金を受けることにしました。ご寄付は国内で必要な薬や食べ物などの購入に使用し、一部現金支給も考えています。服に関しては、上記の古着で準備しております。直接被害者へ手渡しする予定です。政府機関には渡しません。   支援場所は、ヤンゴン川の反対側にある被害を受けた地域(海の方向になります)を考えています。ヤンゴンの近くにあるのに、今でも支援物が届かず大変困っています。被害を多く受けたエーヤーワデイ管区へ行く支援者が多いのですが、同じくらい被害をけたヤンゴンや近郊にある村などは、支援が大変少ない状況です。   今回サイクロン被害者支援活動は、私の学校プロジェクトに協力してくださっているボランテァグループメンバーが行います。現在も、我々の力でできる支援物資を被害者の方々へ手渡しております。これから皆様の募金を受けて広く活動できるようにと考えております。(尚、私のグループは、様々な国内状況によって名前は付けていません。)   ○ 募金趣意書は下記よりダウンロードしていただけます。   http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/MyanmarDonation.doc   ○ ポスターは下記よりダウンロードしていただけます。 (支援活動の様子がわかります) http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/AidPoster.pdf     ■ 韓国ラクーン会(KSR)ミャンマー義援金募金 (ソウルの韓京子さんより)    この春、それも5月の一ヶ月の間に相次いで、身近なところで、想像を絶する自然災害が起こりました。あえて「身近」といったのはアジアで起きたという地理的な「近さ」ではなく、「あ!○○さんの」という、知り合いの国という心理的な「近さ」からです。SGRAじゃなければそう感じることもなかったかもしれません。特に写真入りのキンさんの報告(SGRAかわらばん)によって事態の深刻さがひしひしと伝わりました。    また、中国四川省の大地震の凄惨さにも言葉を失いました。 そんな時、SGRAや渥美財団のネットワークを通じて災害看護マニュアルの中国語訳ボランティア募集のメールが何度かまわってきました。マニュアルの量が膨大なため大変な作業となるとは想像しつつも、どうすることもできずにいた韓国ラクーン会(KSR:Korea Society of Raccoon)のメンバーは、もどかしさから今西さんに何かお手伝いできることはないかと連絡をしていました。尚、ラクーン会というのは渥美奨学生の同窓会で、狸のロゴに因んでそう名づけられ、韓国では自主組織KSRとして運営されています。    そうしたメールのやりとりのうち、ミャンマーのキンさんのナルギス被災者支援プロジェクトに対して募金するという形でミャンマーの復旧事業に一助しようということになりました。ただし、1)軍事政権に関連する活動に使われてはいけない。2)安定化、復旧後は義援金の使用用途を明らかにすること。3)KSRからの義援金ということを明示すること、を条件として募金をはじめました。そして、5月20日のメールのやりとりから10日もたたずに170万ウォン(約17万円)が集まりました。(事務局注:この数字はまだ上記森さんの報告には含まれていません)    ミャンマーも中国も今度の災害で子どもたちの被害が特に大きかったように見えます。私たち韓国ラクーン会(KSR)の気持ちが彼らに伝わり、元気に未来へ向かっていくことができるようになることを願います。  
  • 2008.05.30

    エッセイ133:今西淳子「阪神から四川への橋渡し:留学生ネットワークによる災害看護ガイドの緊急翻訳プロジェクト」

    1.留学生ネットワーク:SGRA   それは成都からの1通のメールで始まりました。5月16日、四川大学華西病院の胡秀英さん(2006年千葉大看護学研究科より博士号を取得、SGRA会員)から届いた「殆どの時間は救急外来で頑張っています。休みの時間は災害看護の知識を翻訳しています。中国は地震医学と看護知識が遅れています。あまり時間がないし、一人の力では弱いので、助けていただければあり難いです。とりあえず、災害現場の看護師をはじめ医療職に配ると役に立つと思います」という依頼を受け、すぐに神戸の理化学研究所の武玉萍さん(2000年に千葉大学医学研究科より博士号を取得、SGRA会員)に連絡して取り纏め役を快諾していただきました。そして、SGRAおよび元渥美奨学生のメーリングリストで翻訳ボランティアを募集。同時に、胡さんから要請のあった「災害発生初期に知っておきたい知識」と「災害復旧・復興期に知っておきたい知識」の翻訳を開始。会員が所属する別のネットワークにも呼びかけていただき、ほどなく38名のボランティアが集まりました。   2.災害看護拠点:兵庫県立大学大学院看護学研究科COEプログラム   胡秀英さんがこのホームページに辿りついたのは偶然ではありません。地震の翌5月13日には日本の恩師である千葉大学の石垣和子教授にメールで災害看護と災害医学の本と資料を要求しています。教授は、直ちに資料の送付を約束し、また、兵庫県立大学のCOEプログラムが作成管理している「ユビキタス社会における災害看護拠点の形成:命を守る知識と技術の情報館~あの時を忘れないために~」( http://www.coe-cnas.jp/ )を紹介されました。胡さんは直ちに翻訳を始めましたが、休憩時間中にひとりでするには限界があり、SGRAへの呼びかけになりました。一方、兵庫県立大学の災害看護研究班では、震災直後から、従来から掲載していた中長期のケアに加えて、中国で役立つ救急看護情報も集めホームページに掲載をしていました。中国語への翻訳は始まっていたものの中国語のホームページはまだ公開されていませんでした。   3.中国語ホームページ   5月20日、SGRAの翻訳プロジェクトが軌道に乗ったので、兵庫県立大学地域ケア開発研究所の山本あい子教授に連絡し、留学生ボランティアが行った翻訳原稿をなるべく多くの方々に活用していただくために兵庫県立大学のホームページに掲載していただきたいとお願いしたところ、すぐに、「中・長期的な看護ケアに関しましては、本学のホームページがかなり役立つと考えていますので、翻訳へのご協力は本当に助かります」とのお返事をいただきました。そして、非常にタイミング良く、同日、兵庫県立大学の中国語のページが公開されました。 http://www.coe-cnas.jp/china/index.html   その後、中国語版のガイドは、どんどん追加掲載され、地震から2週間後の5月27日には、当初に計画された全ての中国語のPDFファイルが公開されています。今回の翻訳プロジェクトでは、多くの方々の積極的なご協力を得、大変短期間のうちに貢献度の高い活動を行うことができたと思います。震災直後から積極的に活動を続けられている四川大学の胡秀英さんと兵庫県立大学、千葉大学看護学部の先生方に敬意を表し、また武玉萍さんはじめ即座に翻訳ボランティアを志願してくださった方々に御礼申し上げます。   4.翻訳ボランティアの皆さん   武玉萍、阿不都許庫尓、安然、王偉、王剣宏、 王雪萍、王立彬、王珏、韓珺巧、奇錦峰、 弓莉梅、許丹、胡潔、康路、徐放、 蒋恵玲、銭丹霞、宋剛、孫軍悦、張忠澤、 張長亮、张欢欣、杜夏、包聯群、朴貞姫、 李恩竹、李鋼哲、李成日、陸躍鋒、劉煜、 梁興国、林少陽、麗華、臧俐、趙長祥、 邁麗沙、馮凱、马娇娇   5.次のプロジェクト   山本先生より「こちらの当初の予想を超えて、速いスピードで状況が変化しています。被害地域の甚大さ、被害者の数の尋常ではない多さから、今後は、日本の保健師さんのような活動が必要となってきます。つまり、避難所や仮設住宅を回り、そこで暮らす人々の健康について、生活面を含めて守っていく看護職です。中国には保健師さんはおられないとのことなので、看護師さんが保健師さんの活動ができるような教育プログラムを作成しています。その内容を中国語に変更していただくことは可能でしょうか?」というメールをいただき、継続してプロジェクトが続いています。今のところ前回ほど大規模な翻訳ではないようですが、日本語から中国語への翻訳ボランティアに興味のある方は、SGRA事務局にご連絡ください。  
  • 2008.05.28

    エッセイ132:マックス・マキト「マニラレポート2008春」

    ~ 3人の VIP、3つの研究、1つのアイディア~   共同研究のため、日本の春休みを利用して4月24日から約3週間マニラに帰省した。フィリピンでは夏休みの時期である。日本から3人のVIPにきていただいたので、僕にとってはどう対応したらいいか悩んだ結構暑い夏だった。おまけに4月30日にはフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)と共同で重要なセミナーを開催することになっていた。来てくださったのは、マニラ入りの順番で、SGRAの今西淳子代表、マニラ都会の貧困コミュニティーについて共同研究させていただいている東大の中西徹教授、そして産業クラスターについて共同研究させていただいている名古屋大学の平川均教授である。今回の僕の交通費は中西先生の研究費からだしていただいた。    まず、4月28日の午後2時から、UA&PのExecutive Loungeで、都会の貧困問題に関する研究プロジェクトについての会議を開いた。昨年、観光クラスターとマイクロファイナンスに関するUA&P・SGRA共有型成長セミナーで発表してくださった、UA&Pの貧困問題の専門家のビエン先生とその研究チーム(4名)、中西先生と僕が参加した。都会のスラムなどに住んでいる貧困者は、地方から移住した人々が多いので、地方の発展が都会の貧困問題の解決に貢献できるという点で皆が一致していると気づいた。ビエン先生のチームから全国で展開しようとした試みを聞いた。取り組みの例として、ファーム・スクール(農場学校)と地方の3ヵ所で開催した投資サミットの紹介があった。次に、中西先生の調査先のスラムについてのデータベースを参考にしながら、貧困者が最も多くきている地方を三ヵ所特定し、これらの地方とマニラのスラムとのネットワークを更に調べてみることにした。中西先生は、すでにこのような研究も進めておられるが、UA&Pにも何らかの形で参加してもらいたい。とりあえずは、研究助成金の申請とUA&P・SGRAセミナーの開催をすることになり、提案書は中西先生と相談しながら僕が書くことになった。その夜は、UA&Pの近くにあるアメリカ人経営の「力士」という日本料理店で、ビエン先生、中西先生、平川先生、今西代表と一緒に食事をした。僕は初めてフィリピンでマグロの寿司を口にした。問題なく美味しかった。    4月29日に、平川先生と今西代表をどうしてももてなしたいというUA&Pの共同研究者のユー先生とその家族にランチをご馳走になった。ユー先生は僕と同様、平川先生のお招きで名古屋大学に短期滞在したことがあり、大変お世話になったのだ。合間を縫って翌日のセミナーの発表について平川先生と打ち合わせをした。その夜、僕の両親の企画で、3人のVIPをマキト家に招待した。母と相談しながら、東京では食べられない特別なバナナや青いパパイヤが入っている煮込み料理などのメニューになった。    4月30日午後のセミナーは、平川先生と共同で進めているフィリピンの自動車産業についての研究報告がメインテーマであった。自動車産業は地方に工場が集中しているので、地方の活性化に貢献できると期待されている。中西先生を誘ってみればお忙しいのにきてくださったし、今西代表が開会挨拶を担当したので、また賑やかに3人のVIPが合流した。おまけに大手の日系自動車企業の社長さんも来られて大変緊張した。今西代表は開会挨拶のなかで、政府でも業界でもない第三者としてより広い社会的な視野にたって独立して活動できるSGRAのようなNGO・NPOの役割を強調した。僕らの自動車産業の研究プロジェクトでは、SGRAのこのような役割を生かそうとしている。平川先生は、前回のセミナーに引き続き、フィリピンの自動車産業を他の東南アジア諸国(+中国)と比較した研究を発表した。これによってフィリピンの自動車産業の深刻な現状をより鮮明に把握できた。その後、ユー先生はフィリピン政府の国際社会との取り組みという観点から、政府の自動車開発プログラムについて発表した。休憩を挟んで僕は政策提言を会場に発表した。最後に会場を囲んで色々と議論した。政府の代表者がいなかったのは残念だったが、自動車関連各社からきていた聴講者の反応は思ったより前向きだったので、政府に対して政策提案するという次のステップに追い込まれた気がした。東京に帰るまえに、僕の恩師であるフィリピン通産省の幹部と会い、僕らの提案について相談してみた。産業界と同様、彼も早く報告書を出しなさいというので、5月末を目処に平川先生とユー先生と相談しながら提出しようと思っている。    本稿をここまでマメに読んでくださった読者は、確かにVIPは3人だが、研究分野は2つしかないと気がつかれたと思う。もう一つは前回のエッセイで述べた、僕の原点でもあるフィリピンの造船産業に他ならない。鹿島建設も関わりフィリピン大統領がみずから式典に出席して4月28日に開通したばかりの高速道路に乗って、以前米国海軍が基地として利用していたスービック経済特区まで行って、造船会社の元幹部と面会することができ、研究の可能性についていろいろとアドバイスをいただいた。フィリピン大学の機械工学部の同級生や後輩と一緒に、船舶工学の教育プログラムを立ち上げる計画を立てていることに非常に関心を示してくれた。分れる間際に「フィリピン大学でそのようなプログラムができるのを長年望んでいた」との言葉をいただいた。このことを大学の仲間たちに伝えたところ、彼らもとても勇気付けられたようである。というのも、彼らは1998年に船舶工学教育プログラムを提案したのだが、学内から支援されず、そのまま長年眠っているのである。今、もう一度起き上がるようにフィリピン大学の仲間たちと作戦を練っている。    ここで最後に残る話は一つのアイディアであるが、いうまでもなく、それはフィリピンが共有型成長をいかに実現できるかということである。都会だけではなく、地方でも発展が芽生えるように、3人のVIPをはじめ皆さんのご支援をうけながら、3つの研究をさらに進めていきたいと思う。    -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。  
  • 2008.05.23

    第31回SGRAフォーラム「水田から油田へ~日本のエネルギー供給、食糧安全と地域の活性化~」報告

    2008年5月10日(土)、昨日の暑さを一掃したかのような冷たい雨のなかで、東京国際フォーラムガラス棟G610会議にて第31回SGRAフォーラム「水田から油田へ:日本のエネルギー供給、食糧安全と地域の活性化」が開催された。SGRA環境・エネルギーチームにとって、久々の東京国際フォーラムでの開催でありながら、現在地方都市で大問題とされている「農業」を取り上げた。近年、世界中で叫ばれている地球温暖化温室ガスの削減、石油等のエネルギー価格の高騰、そしてそれが一因とされている食糧価格の高騰を背景に、長年不振が続いている日本の地方都市、特に農業にとって、植物から油を作るバイオマスは「水田から油田へ」転換する1つのチャンスとして捉えることができるのか、2人の講師を招き、活発な議論が行われた。    フォーラムでは、今西淳子(いまにし・じゅんこ)SGRA代表による開会の挨拶に続き、2人の講師による講演が行われた。まず東京農工大農学部准教授の東城清秀(とうじょう・せいしゅう)先生より「エネルギー、環境、農業の融合を考える―バイオマス利用とエネルギー自給・地域活性化―」という演題で、様々な植物系から廃棄物までを原料に作られているバイオマスのプロセスを紹介し、CO2を増加させないクリーンなエネルギーであることを明らかにした。さらに、自然と共生し、自然の恵みを享受してきた日本の農業の活性化をめざして、1万人の町をモデルに食料からエネルギーまで、すべて自給自足できる環境に優しい地域モデルの試算例を紹介しながら、今後のエネルギー・環境・農業の展開とバイオマス利用について考えた。    次は地方都市の中の小さな町である福岡県築上町を対象に、町の産業課資源循環係である田村啓二(たむら・けいじ)氏より「福岡県築上町の米エタノール化地域モデル:水田を油田にするための事業構想」が紹介された。田村氏は日本農業とりわけ稲作農業が、お米の消費の減退で転作率40%を越える中で危機に瀕し、全国240万haの水田のうち100万haでお米の生産が出来ないあるいは放棄されている現状を指摘したうえ、迫力のある写真と生々しい現場の話で、水田農業の衰退の一途を食い止めるための、新たな需要としてお米から燃料用のバイオエタノール化への取り込みを紹介した。お米からエタノール化の目的は、食料だけでなく飼料化、燃料化によって、お米の新たな需要と役割を水田がになうことで、減産から増産への新たな道程を確保することである。    2人の講師による講演を終え、本日のコメンテーターSGRA顧問である埼玉大学経済学部教授の外岡豊(とのおか・ゆたか)先生も交え、近年の地球温暖化問題から発した世界規模のエネルギーと食糧価格の高騰、日本農業の活性化問題など、様々な角度からバイオマス利用の是非について活発な議論が行われた。特に米国のトウモロコシ等を原料に石油代替燃料であるバイオエタノールの大量生産政策や、バイオエタノール需要拡大への期待から投機資金の穀物市場への流入は、近年の食糧価格の高騰を招き、アフリカの低所得者たちは著しい食糧不足に見舞われ暴動も引き起こし、日本でも飼料の高騰で畜産家はきわめて深刻な打撃を受けている一方、米国ではバイオエタノール向けのトウモロコシで農家は潤うという富の偏在が際だっている厳しい現実が指摘された。バイオエタノールは自動車燃料として使われているのであり、つまり「クルマ」が農産物を食べ始めたために、「人」が農産物を食べられない事態を生んでいることに警鐘をならした。    フォーラム終了後、当東京国際フォーラム地下2階にあるカフェテリアで懇親会が行われた。会場で議論しつくせなかった問題等を含めて、3時間にも及んだ活発な私的交流を経て、次の第32回SGRAフォーラム in 軽井沢「オリンピックと東アジアの平和繁栄」へバトンタッチした。   運営委員の足立さんが写した当日の写真は、下記URLよりご覧いただけます。   http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/   -------------------------- <李 海峰(り・かいほう)☆ Li Haifeng> 中国北京出身。1991年来日、早稲田大学理工学部建築学科に入学し、学部、修士、博士課程を経て、現在、北九州市立大学国際環境工学部特任准教授・早稲田大学理工学術院客員講師、SGRA環境・エネルギーチームのサブチーフ。 --------------------------
  • 2008.05.17

    エッセイ130:林 泉忠「聖火リレーと中国ナショナリズム」

    北京五輪の聖火が混乱を巻き込んだ海外でのリレーを終え、ようやく「安全地帯」の中国に入った。だが、CNNへの抗議デモ、仏系スーパー・カルフールへのボイコット、そして中韓間の罵声合戦といった動きはすぐ収まりそうもない。   3月以来、中国と欧米諸国との一連の軋轢はチベット暴動に起因するが、その中で3年ぶりに高まりを見せている中国ナショナリズムにおいて中心的な役割を果たしたのは、欧米などにおける聖火リレーをめぐる摩擦であった。チベット独立支持派の妨害、およびそれを「容認」する西側に対する中国人若者の反発という構図である。   では、聖火と中国ナショナリズムの関係をどう考えればいいのか。そしてその影響は? 聖火は五輪の象徴と関連している点が重要であろう。オリンピックにおける聖火リレーの導入は1936年に開催されたベルリンオリンピックであったが、聖火は戦後もオリンピックのシンボリックな存在として重要視されてきた。   14万ほどの亡命チベット人にとって、聖火リレーを妨害する理由は、長い間国際社会そして中国人まで届かなかった自らの訴えをアピールすると同時に、メンツを大切にする中国人を傷付ける絶好のチャンスと見ることにある。一方、北京五輪は多くの中国人にとってかつての東京とソウルのオリンピックと同様、国威の発揚にとどまらず、近代以降味わってきた民族的屈辱を晴らし尽くすには欠かせないプロセスなのである。言い換えれば、中国人から見れば、聖火リレーへの妨害は民族的自尊心の回復を妨害することを意味する。そのため、中国人の民族感情はこれで一気に爆発したのである。   ただし、今回の新たな中国ナショナリズムの高揚は国際社会から理解を得ていないようだ。これは、中国人のイメージをダウンさせてしまうばかりか、オリンピックへの影響もむしろマイナスである。CNNニュースキャスターの「失言」や西側の一部の報道の偏りへの批判には一理あるものの、仏製品の不買運動は理性的批判の枠を超えており、毎週日曜日に一か月もアメリカにおいて行われるCNN批判に対する大規模なデモは、「成熟した大国の国民に相応しくない」というイメージを与えてしまいかねない。というのは、民主主義の国において行なわれるデモは、多くの場合、自国政府の政策への不満であるが、外国への反発に向けた大規模デモは希だからである。しかも、今回の場合、自国でのデモが許されずホスト国でのデモであるだけに、民主主義の「実践」の合理性が疑われても仕方がない。さらに、チベット騒乱における暴徒の暴力行為を非難せず、むしろ中国政府の「鎮圧」と伝える西側メディアの偏向に対する批判にもダブルスタンダードが見られる。というのは、「真相の究明」のはずだが、どうも3月14日に暴動が発生する前の三日間の真相を中国人が追求しなかったからである。   チベット事件そして聖火リレーに絡んだ中国ナショナリズムの高揚に対する西側のマイナス的評価は、4月15日に発表されたイギリスのフィナンシャル・タイムズの調査結果にも反映されている。調査はイギリス、フランス、ドイツ、スペインそしてイタリア五カ国で行なわれ、その結果、35%の回答者が中国を国際社会の安定における最大の脅威とみなしており、その数字はアメリカやイランおよび北朝鮮を上回ったことが示された。   また、今年のゴールデンウイークを利用した中国への旅行者数は前年比で20%減少したという調査(JTB)もあり、北京五輪へのマイナス的な影響はすでに出ているようだ。 ナショナリズムは両刃の剣であると言われている。今回の中国ナショナリズムの波も例外ではない。 (2008年5月3日ケンブリッジより)   ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュワンティオン)☆ John C. T. Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。 ----------------------------------  
  • 2008.05.13

    エッセイ129:キン・マウン・トウエ「初めてのサイクロン経験」

    誰でも皆、忘れられない思い出がたくさんあると思います。良いこともあるし、悪いこともあるでしょう。私の人生の中で一生忘れられない思い出ができました。2008年5月2日にヤンゴンで経験した、風速190~220キロの暴風が吹き荒れた大きなサイクロンです。ナーゲッ(Nargis)という名前がつけられました。こんなに大きなサイクロンがヤンゴンに来ることは珍しく、97歳の私の祖母にとっても初めての経験でした。   5月1日の夜11時ごろ、自宅へある軍情報局関係者から電話があり、明日ヤンゴンにサイクロンが来ると知らされました。しかし、こんなに大きなサイクロンになるとは全く考えませんでした。4月28日ごろ、ベンガル湾で小さなサイクロンが生まれました。ベンガル湾では5月は一番サイクロンが多い時期です。しかし、海中で発生してもそのまま消えていく、または、インド側へ移動していくことが普通です。ですから、今回も海中で無くなると予測していました。確かに、今年は例年と違っていて、サイクロンの影響で、ヤンゴンの雨季が少し早く始まりました。この日、ナーゲッはだんだん大きくなりながらヤンゴンの方向へ移動していたのです。時速約25キロという、かなり遅い速度で移動していました。   5月2日の午前中、ヤンゴンは曇り後雨でした。風もなく、普通の雨季の雨なので、昨日の情報が間違いだと思いました。しかし、午後になると空の色が変わってきました。いろんな方からサイクロンの情報の電話が何度もかかってきました。一方、国営テレビからもサイクロンに関する情報が流れています。しかし、ヤンゴンはそんなに影響が無いようです。ベンガル湾側のビーチにホテルを持っている友人へ電話したら、彼らのところには大きな影響がなく、被害も無いようでした。しかし、ナーゲッは、予測ルートからはずれ、ベンガル湾とアンダマン海の間、ミャンマーのハイージー島方面から、午前11時に上陸しました。風速は上陸時の約130~160キロからさらに強くなり、約200キロ前後になりました。サイクロンの半径は320キロもありました。この頃から電話が全く鳴らなくなり、正しい情報がヤンゴンに伝達されなかったため、ヤンゴンの人々は普通の小さなサイクロンだと思い、何の準備もしませんでした。国営テレビは何も報道しなかったので、サイクロンのことを知らない人も多かったのです。午後9時頃になって、やっとハイージー島の被害情報が伝わりましたが、準備をするのには遅すぎました。   午後10時半にヤンゴン市全体が停電し、風も強くなりました。速度がかなりゆっくりだったので、12時半になってから、本当に大きな暴風雨がやってきました。私は、家の中から、激しい雨と風の状況を見ていました。映画で見たり本で読んだりしたことあるような風の音が聞こえました。大きな木やココナツなどが風によって大きく揺れていました。そのうち、ガラスが割れる音や屋根が飛ばされる音が、風の音に混じって聞こえました。私も日本で台風を経験したことがありましたが、今回は、それよりはるかに強いものでした。午前3時ごろなると、風の方向があっちこっちに変わっています。サイクロンは暗い真夜中のヤンゴンの街の中心を、ゆっくり移動しています。午前4時半になると風はもっと強くなり(後で風速約190~220キロと知りました)、暗い街のあっちこっちで屋根などが大きな鳥のように飛んでいます。がんばっていた大きな木もほとんど倒されてしまいました。電線が切れ、電話回線が使えなくなりました。強い風は、午前11時ごろまで続きました。おかげさまで私の家は、風向きの反対側にあり、近くに大きな木も無かったので、大きな被害はありませんでした。   3日午後2時、やっと外へ出られる状況になったので歩いて行って見たら、ヤンゴンの街は大変でした。車はとても使えません。大きな木、電線、家の屋根など、いろいろなものが飛び散っていました。町中停電です。水道も来ない、電話回線もインターネットもダメ、このままでは、いつ回復するのかも予測できない状況で、ヤンゴンは全滅かと思いとてもがっかりしました。   サイクロンの影響を一番受けたエーヤーワデイ管区のいくつの村は、全く無くなってしまいました。水位が7メータぐらい上がりました。ハイージー島の80%は、存在しない状態です。ボカレー町の95%も壊滅的な状況です。政府の発表によれば、この台風の影響で本日(11日)までに、亡くなった方は2万8千人以上、行方不明の方は4万人以上です。実際はこの数字を上回るはずです。2004年12月にタイのプーケットに起きた津波よりももっと大きな被害です。   ヤンゴンでは、物価が上がり、特に食べ物に大きく影響しています。たとえば、以前一個100キャト(10円)だった卵が、現在300キャト(30円)です。交通機関にも影響が出ています。毎日停電です。発電機の値段も2倍ぐらい上がり、燃料費も大変です。2日後、水の配給が始まりましたが、停電はまだ続いています。ヤンゴンは、緑が多い町と言われていましたが、今は大きな木はほとんど残っていない状況です。いつになれば、元のヤンゴンのようになるでしょうか?いくつかの写真を下記URLよりご覧ください。   http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/   私の場合、停電なってから発電機の生活でしたが、おかげさまで8日の夜から一番早く一般の電気配給が部分的に得られるようになりました。現在に至るまで、停電している地域が多いです。しかし、ヤンゴンから80キロ離れたところにある弊社が所有する100エーカーの農園は大きな被害を受けました。   ---------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。