SGRAかわらばん

  • 2008.09.09

    エッセイ155:孫 軍悦「山裏人(その2)」

    1985年より、安徽省南の山間部に点在している八十箇所の企業や公共施設が廃業し、二万人以上の上海人が帰郷の途についた。   1960年代、三人の子どもが次々と上海を離れた後、祖母は家を売り払い、南京の伯父と同居することにした。そのため、母は「上海に帰る」とは言っているが、実際帰るところはなかった。母は時々、もし祖母が上海を離れなかったらと悔しそうに言う。私にはそれがかえってよかった。当時、上海では人口が密集し、住居が著しく不足していた。地方で長年苦労したとはいえども、引き揚げてきた兄弟を誰もが快く受け入れたわけではなかった。法廷にもつれ込んだ骨肉の争いも決して珍しいことではなかった。母と違い、私は「血のつながり」に対して、いかなる本質主義的な幻想を抱かなかった。   もっとも、上海に戻ることは、決して「上海人」に戻ることではない。「上海人」は安徽省の山奥にいるときにだけ「上海人」であったが、一旦上海に戻り、別々の会社に分かれていくと、こんどは安徽省での生活経験を共有する「山裏人」という新たなアイデンティティが形成されるのである。さらに、別々の工場から引き揚げてきた「山裏人」が同じ会社に入り、同じ郊外の農家に間借りし、やがて同じマンションに入居したため、その輪がますます広がったのだ。   「山裏人」は想像の共同体ではない。彼らはそのつながりをフルに利用し、「故郷」での決して楽ではない新生活を切り開いていった。たとえば、洗剤や紙といった日用品は洗剤会社や製紙会社に勤めている「山裏人」からもらい、自転車やカメラといった当時の人気商品は、自転車会社、カメラ会社のかつての同僚に、安く購入できるよう便宜を図ってもらう。時計が壊れたら、時計会社に配属された「山裏人」の友人に届ければ、無料で修理してくれる。引っ越す時に、「山裏人」のドライバーさんに電話すれば、かならず手伝ってくれる。誕生会や、定年、還暦、子どもの結婚式、初孫の満月祝いまで、人生のあらゆる重要な場面において、彼らはともに喜怒哀楽を分かち合っていた。親戚すら一目置く存在である。   かといって、「山裏人」は決して新しい環境に疎外感を覚える外来者の集団ではない。むしろ新しい同僚や友人関係に自然に溶け込めるのがその特徴である。というのは、彼らを結び付けるのは、郷愁でも利権でもない。ただ単に、同じ境遇であったという理由から生まれた一種の親近感と義侠心、それに、助け合いながら生きるという習慣にほかならない。だから、彼らに団結、友愛、無私といった徳目を押し付け、道徳的にもちあげるのは筋違いだろう。ただ、年を重ねるとともに、その利己心は生きることへの執念のように映り、多少の「不正行為」も一種の柔軟性と受け取れなくもないと、私も思うようになった。   母が上海に戻った最大の理由は、よい教育環境で子どもたちを育てたいからだ。ただ、親にとっての「よい教育環境」と子どもにとっての「よい教育環境」とは必ずしも一致するとは限らない。   初めて上海に来た時、すでに上海の中学校に通っていた兄は自分の小遣いでアイスキャンディを買ってくれた。田舎ではアイスキャンディは紙で包むため、その密封したビニール袋をどう開ければよいかと戸惑っている私の顔を見て、兄は得意げに封を切って見せた。彼にとって、そのビニール袋はまさに都市文明の象徴であったのだろう。学校の寄宿舎に泊まっていた兄は、週末になると、ふらりと街に出る。同級生はみな家に帰るが、彼だけは、一人で映画を見たり、ラーメンを食べたりして、またふらりと校舎に戻る。上海は兄にとって、優しく包んでくれた空気のような存在である。彼はこの街に深い感情を抱いている。飲み水がまずいとか、青空が見えないとか、街路樹の葉に黒い煤煙が覆われているとか、いちいち目くじらを立てる私とは対照的であった。二人の心に、異なる原風景が描かれている。   河北、安徽、南京、上海と四つの小学校を転々としていた私は、常によそ者だった。よそ者として来て、またよそ者として去る。しかも、どういう経緯でやって来たのかも、うまく説明できない。子どもなのに、話そうとすると長くなってしまう。特別ではないけれども、理解してもらうには複雑すぎる。自分が何者であるかを説明するために、母の人生を理解しなければならない。母の人生を理解するためには、国家の歴史を知らなければならない。そう思うようになったのはつい最近のことである。   「三線建設」は、1960年代初、アメリカ、旧ソ連との緊張関係の中で、戦争に備えるために西南、西北、中央の山間部で始めた大規模な工業、交通、国防建設を指す。1980年まで、2千億元以上の資金と、数百万の人員が投入され、1100以上の企業や関連施設が建造された。80年代に入ると、多くの軍需企業が民需企業に変わり、近辺の中小都市に移転した。現在、沿海都市から「三線」に移ってきた人々の中で、もとの居住地に戻った人と、地元に残った人との間に、生活水準に歴然とした差がある。「三線建設」の成果に関して、農民から多くの農地を奪い、巨大な物資と人力を浪費したと指摘し、「間違った時に間違った場所で行われた間違った建設」だと批判する人もいれば、いくつもの重要な工業都市が形成され、東西経済発展の格差を是正したと、評価する人もいる。    上海地方誌弁公室は、1966年から、安徽省績渓県績北道路沿線に建設された、上海軽工業局管轄下の「三線企業」を次のように取り上げている――1971年に生産を始めてから1983年まで、57ミリの砲弾402.8万発を製造。1978年に民需品の生産に切り替えてから、扇風機25.98万台、置時計61.59万個、腕時計の部品15万個、自転車のチェーン225万本、石炭コンベヤ82台等を製造。総生産額5.09億元。   偶然にも四川大地震の際に、日本の報道番組で珍しく「三線建設」という言葉を耳にした。なぜすぐに日本の救援隊を受け入れないかと追及された解説委員は、四川省にかつて「参戦建設」が行われていたため、いまだに軍事関連施設が多く残されているからではないかと分析した。   政党、政権、政策を中心とする歴史叙述は、所詮政党、政権、政策の歴史にすぎない。国家によって翻弄された個人の歴史に関する叙述も、おおかた、個人を翻弄する国家という観念を前提とした、国家の歴史に関する叙述にほかならない。現代中国の歴史と現状は、個々人の人生において異なる紋様として顕現された歴史と現実を見つめることによって、初めて見えてくるのではないだろうか。その意味で、国家の歴史が母の人生を理解する鍵というよりも、むしろ母の人生が、国家の歴史を照射する光源ではないかと思われる。   数年前、母の友人が、すでに廃屋になった安徽省の山奥のマンションを購入した。かつて住んでいた部屋を改装し、いまは別荘として悠々と暮らしている。人は、最後にどこを「安住の地」として選ぶのか。それだけは、国家の政策によって決められるものでも、また国家の歴史から想像できるものでもない。   -------------------- <孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue> 2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。 SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。 --------------------   「山裏人(その1)」
  • 2008.09.05

    エッセイ154:シム・チュン・キャット「なんでシンガポールだけ中国と同じ簡体字なの?」

    前回のエッセイ「ところでシンガポール人は何語を喋るの?」が掲載されたあと、僕はすぐさま上のタイトルのような質問を受けました。「実験国家」であるシンガポールで生まれ育った僕が国のことでいろいろ質問されるのにはもう慣れっこなのですが、こんなに早く反応が出るなんていささか驚きを覚えると同時に、嬉しくも思いました。   そうなのです。世界広しといえども、漢字の簡体字が使われているのは、中国と国連以外に、シンガポールだけなのです。同じ東南アジアのマレーシアやタイの華人社会でも簡体字が使われていますが、それほど徹底的ではないようです。したがって、政府の公文書まで漢字の簡体字が完全に使用されている国は、中国とシンガポールだけということになります。そこへタイトルの質問です。   「東南アジアの中国」と見られるのを恐れ、シンガポールが中国と国交正常化を果たしたのは、意外にも1990年になってからのことであり、アセアン原加盟国(シンガポール、インドネシア、マレーシア、タイ、フィリピン)の中では一番遅かったのです。ただ、それはあくまでも1990年になってやっと中国と国交を結んだ「アセアンの兄貴分」であるインドネシアの顔を立ててあげなければならないという小国ならではの諸事情があるためで、シンガポールと中国との関係が悪いからということでは決してありません。それどころか、中国系住民の多いシンガポールと中国との関係は戦前から非常に親密であり、日中戦争が勃発したときも、シンガポールは東南アジアの抗日運動や中国への献金運動の拠点となり、それゆえにその後シンガポールを占領した日本軍がまずおこなったのが中国系に対する粛清であったという話についてはシンガポール人なら皆学校で学んでいます。また1975年にシンガポールの外相が初めて中国へ公式訪問したときにも、中国側がシンガポールを「親戚国」と呼んで大いに好意を示したことも有名な話です。ところが、独立後のシンガポールはすでに「遠い親戚より近くの友人」と決めており、そのため1976年に訪中した当時のリー・クアンユー首相はシンガポールの「中国性」を否定し、両国がもはや「親戚」ではなく、「友人」であると中国側に強調しました。「親戚」であれ「友人」であれ、国交がなくても中国とシンガポールは常に友好関係にあり、長らく貿易の拡大が図られたり、政府要人の相互訪問が重ねられたりしてきたことは明らかです。国交正常化なんて建前に過ぎず、共存共栄関係を保ち、商売ができればそれでよしという逞しい商魂が見え見えです(笑)。   さて、簡体字の話に戻りましょう。親密なる「友人国」であるうえ、アジアの大国でもある中国に小国のシンガポールが文字の使用において追随するのは合理的なことだといえましょう。実際に、シンガポールが簡体字の全面使用に踏み切ったのは独立した4年後の1969年であり、ジャーナリストの友人の話によれば、当時の二社の華字紙(中国語新聞)「星洲日報」と「南洋商報」の紙面もそのすぐあとの1970年の1月5日から簡体字への転換を図りました。そして言うまでもなく、独立した当時から進められた二言語政策のもと、簡体字の使用が中国系生徒の負担を軽減することにも当然つながりました。ところで、シンガポールの中国系の中に福建系が多数を占めていることから、そもそも北京語はそぐわないのではという質問も受けましたが、福建系が多数を占めるといっても中国系全体の半数にも満たない四割程度です。2000年の国勢調査によれば、シンガポールの中国系に占める福建系の比率は41%であり、残りについては潮州系21%、広東系15%、客家系8%、海南系7%、その他8%となっていますから、福建語が中国系同士の共通語になるはずもなく、標準語である北京語が共通の言葉としての役割を担うしかありませんでした。また、たとえ福建語が共通語になれたとしても、書き言葉として簡体字が選択されたのであろうと考えられます。   簡体字に対して好き嫌いがあるようですが、漢字を簡略化することによって、非識字者の一掃と中国語の普及に大いに効果があったと僕は思います。また僕はこの分野の専門家ではないのですが、『中国の漢字問題』(1999年・大修館書店)という日本と中国の学者が編著した本によると、漢字の簡略化の歴史は非常に古く、千数百年もの間に民間で実に多くの簡体字が使われてきたようで、それらの簡体字の統制を中国が1950年代に強化し規範化したのが現行簡体字の原型だそうです。もっとも、コンピュータ技術の進歩に伴って漢字が簡単にワープロで打ち出されるようになり、漢字を手書きする機会もぐんと減った今とあっては、果たして漢字を簡略化することに対してこれからもこだわりを持つ必要があるのかという意見もありますが、皆さんはいかがお考えでしょうか。   ----------------------------------- <シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。 -----------------------------------
  • 2008.09.02

    エッセイ153:マキト「マニラレポート(2008年夏):母国における再接続完了」

    2008年8月5日から25日までのマニラの滞在の最大の成果は、渡日する前の古いネットワークにほぼ再接続できたということである。大学、大学院、職場で一緒だった古い仲間と再会して、そのネットワークをフルに活躍できるように再起動できたと思う。これは海外にいる人がだれでも望むことであろう。これからの課題はこの母国のネットワークを活用しながら、どのように日本のネットワークと有効的につなげていくかということだ。SGRAの研究員であるだけでも自動的に日本と母国との懸け橋を整備できるが、SGRAを重要なパイプにして、日本にいる仲間たちを向こうの仲間たちに接続できればと思っている。    その第1歩として、自動車産業の共同研究では、SGRAの仲間(李鋼哲さん)を通して出会えた名古屋大学の平川均教授を、僕の大学院(修士課程)とその後の職場でも一緒だったフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)の経済学部の仲間と接続した。平川さんは、今年の夏は海外の出張が多いためマニラ訪問を控えられたが、また12月に行かれる予定です。    北京オリンピックの開会式の前日、UA&PとSGRAの共催で、自動車産業についての第8回目の共有型成長セミナーを開催した。このセミナーで自動車産業の共同研究の第1ラウンドは終了することになった。しかし、僕は政府の関係者や自動車産業組合と引き続き連絡をとっている。政府との交渉という第2ラウンドに研究を発展させるための準備作業だ。第1ラウンドの研究の委託者である大手日系自動車企業と政府の関係者は僕たちの研究内容を高く評価してくれているが、今は、今後のラウンドについて産業側の決断が出てくるまで待機状態である。   第2歩としては、僕が東京大学の博士課程の時に、チューターだった東京大学の中西徹教授を、UA&Pで都市と地方における貧困問題を研究する仲間たちと接続できた。前回に引き続き、今回の滞在でも中西さんはUA&Pの貧困問題の研究班長と会議して、12月にUA&Pの定期出版物に共同記事を投稿し、2009年の4月にUA&Pでワークショップを開催し、さらに来年の後半にはフォーラムを開催するという予定ができた。この共同プロジェクトについては、将来的に共同研究資金助成を申請して研究員の交換を想定している。    ちょうどスペインから一年半ぶりにフィリピンに帰ってきた、SGRA軽井沢フォーラムにも参加したことがあるUA&Pの経営経済学・IT研究部の運営委員会の会長になったヴィリエガス先生にもお会いすることができ、中西さんと僕の指導教官であった高橋彰教授が今年亡くなったことを彼に伝えることができた。僕たちは東京大学で高橋先生に大変お世話になって、ヴィリエガスさんにも紹介したことがある。フィリピンの資金によりフィリピン大学へ留学され、フィリピンを対象とする研究をされた最初の日本人の研究者ともいえる高橋先生のために、敬虔なカトリック教徒のヴィリエガスさんは、お祈りをささげてくださると約束してくださった。   第3歩として、大学時代とその後の職場の仲間たちと連絡を取り合い、3つ目のプロジェクトである船舶工学の教育プログラムのプロジェクトを今後どうするか、更に細かく話し合った。マニラに到着した翌日、すぐにスービックの元上司のところに行って研究用のデータの収集を始めた。日本のODAで実施した2005年12月の分厚い調査研究報告書をお借りできた。元上司はマニラにあるマラカンヤング宮殿から帰ってきたばかりでちょっと遅れてきたが、面談の時間をたっぷり割いていただいた。そして、僕の活動を正しものだと認めてくださり、お手伝いしますよ、という心強い言葉をあらためていただいた。大統領からスービックをMARINATE(船舶産業を中心に発展させるというちょっとした駄洒落)せよという命令をいただいたそうである。    12月には、またスービックに行く予定である。今度はフィリピン大学の機械工学部の仲間たちを連れて行こうと企画している。フィリピン大学の機械工学部における船舶工学の教育プログラムの設立について提案を発表させていただくためである。まだ発表の内容は準備中だが、発表日の午前中に政府関係者であるスービック湾管理局と、午後には民間の造船所の幹部たちと会議をする予定にしている。自動車産業と同様にここでも共有型成長に貢献し、NGO・NPO(政府でもなく、企業でもなく)という発想を生かしたいと思う。ただ、今回はUA&P・SGRAではなくUP(フィリピン大学)・SGRAの活動としてやりたい。無論、経済学の僕の専門も利用するが、工学の仲間たちとやっているので、僕の工学の側面をもう少し復活させながら活動するつもりである。(嬉しいことに、こんなに工学から離れていたのに、ここで教えないかという誘いを受けている)    東京に帰る数日前に、もう一人の造船所時代の上司(当時社長)と再会できた。これで母国での古いネットワークとの再接続が完了したと考えてもいい。彼はなんとUA&Pから歩いて5分ほどにあるところで、船の乗組み員の人材会社の社長として務めている。しばらく造船産業から離れたが、彼の同僚の誘いで改めて造船所(スービックになるかもしれない)を立ち上げるという企画もあるようである。自動車産業と同様に、フィリピンの造船産業には潜在的な可能性があるのだが、いろいろな問題があって、本来の力がなかなか発揮できない状態にあるようである。彼もこの産業についての僕の活動の進展を期待してくれている。    先の第1歩と第2歩と同じく、この第3歩にも日本と母国のネットワーク接続を試みたいと思う。しかし、日本側のパートナーは、今までと違って大学ではなく、できれば民間部分と接続したい。以前、フィリピン大学が船舶プログラムの立ち上げについてフィリピンに進出した韓国の大手造船所から接触されたことがあったが、どうやら上手くいかなかったようだ。もう一回その可能性を探りにスービックへ行くが、日本の造船所あるいはその関係者ともこの可能性を一緒に展開してみたいと思う。みなさん、心当たりがあれば、ご紹介ください。    考えてみれば東アジアで太平洋に面する列島と呼ばれる国は日本とフィリピンである。世界経済の重点が西から東へシフトしても、状況が良くなっても悪くなっても、西と東を結んで干満する海と昔からつきあっている二つの列島国は、この「水球」における海の重要さについてきっと共通の認識を持っているだろう。船舶の分野においても、お兄さんである日本からの協力を期待したい。   -------------------------- <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。 --------------------------  
  • 2008.07.29

    エッセイ149:今西淳子「さまざまなオリンピック」

    7月20日に開催した第32回SGRAフォーラムin軽井沢「オリンピックと東アジアの平和繁栄」は、60名もの参加者を得て盛会でした。当日参加してくださった朝日新聞アジアネットワーク(AAN)の川崎剛事務局長が、さっそくAANのホームページに報告してくださったので、是非ご覧ください。   朝日新聞アジアネットワーク 東京(1964)、ソウル(1988)、北京(2008) 五輪は東アジア情勢に何をもたらしたのか、もたらすか -SGRAフォーラム「オリンピックと東アジアの平和繁栄」を聴いて   尚、講演録(SGRAレポート)は現在、超特急で編纂中です。SGRA賛助会員、特別会員の皆様には、北京オリンピックの開会式にあわせた発送をめざしています。    さて、いよいよ北京オリンピックもあと10日、日本の報道でも毎日テレビや新聞を賑わすようになりました。SGRA会員の皆さんも、北京で通訳ボランティアをする人、北京へ行ってオリンピックを観戦する人、テレビでじっくり観戦する人、自分の国の選手が勝つとテレビで見る人、たまにネットや新聞で様子を見る人、全く関心のない人・・・さまざまでしょうが、今日は、以前にSGRA会員に対して「国際オリンピック委員会は聖火リレーを続けるべきだと思いますか」と問いかけた時に送られてきた、ある少数民族の方の投稿をご紹介したいと思います。   内容のひとつひとつに対する反論よりも、何故、彼はこのような投稿をしなければならなかったのか、何故匿名にしなければならなかったのか、何故このように攻撃的な表現をしなければならなかったのかということを、「平和の祭典」をテレビで観戦しながら、少しでも思い出していただけたらと思います。そして、国の政策の良し悪しを政府に代わって語るのではなく、ひとりの人間として、自分と違った境遇に生まれた人々への関心と想像力と、人類の普遍的な価値である「人権」について語る力を養う機会にしていただけたらと思います。   ----------------------------------------------------------------   <匿名投稿> 北京2008:中国共産党のオリンピック   チベット問題と「聖火リレー」をめぐって、中国と世界の対立はますます激しくなっている。チベットが得るべき地位をあたえなければならないと呼びかけている世界各国に対して、中国側は「チベット問題は中国の国内の問題である」とか、「聖火を妨害するのは世界平和に対する冒涜である」とか、「西側のメディアの報道は偏っている」とか叫んでいる。世界の声、チベット人の声は、中国人と中国政府の耳にはまったく入らない。その一方、中国は「聖火」「オリンピック」という「平和の象徴」を借りて、自分のチベット支配や人権侵害を正当化しようとしている。    中国のチベット文化や人権に対する侵害は誰の目にも明らかであるが、多くの研究者に論じられているし、紙幅にも限りがあるため、ここでは繰り返さない。ただ、2点ほど考えてもらえたいことを挙げる。第1に、現在、世界各国で亡命しているチベット人は14万人もいる。もし、チベット人が、ほんとうに中国政府側が宣伝しているように、真の「自治」を得たならば、なぜ、こんなたくさんのチベット人が命をかけて、亡命しなければならなかったのか? 第2に、14世ダライ・ラマ法王はチベット仏教の精神的指導者であり、ノーベル平和賞受賞者でもあり、チベット人だけではなく、世界中の人々からの信頼を得ている。チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ法王と対話すら行わない中国政府に、本当に信義があるのかは、チベット人だけではなく、世界各国の人々にとっても疑問である。   中国がチベット人の声、世界の声に耳を貸さない理由の一つは「聖火リレー」だから「妨害」してはいけないと云うことがある。「聖火」は確かに「平和」の象徴である。しかし、それを実施する者によって、性格が変っていくのも事実である。    「聖火リレー」の歴史を遡ると、古代オリンピックの発祥地であるオリンピアで五輪の火を採火し、初めて「聖火リレー」を実施したのは、まさに1936年にベルリンで開催された、「ヒトラーのオリンピック」とも言われている第11回夏季オリンピック大会であった。よく知られているように、ヒトラー政権がドイツ国民からの支持を得るため、宣伝効果を高めること目的に実施された「聖火リレー」と同大会は、ナチスのプロパガンダにもなっていた。当時、ヒトラー政権も「平和」の名を借りて、「聖火リレー」をおこない、世界各国の「平和の祭典」への参加を呼びかけていた。しかし、ヒトラーが監督していた同オリンピック大会は、世界に唾棄されるしかなかった。その後、1980年にモスクワで開催された第22回夏季オリンピック大会は、初めて社会主義国家で開催されたオリンピックであったため、世界社会主義陣営のボスとも言えるソ連当局は、大会施設の建設を急ピッチで行ない、モスクワのシェレメーチェヴォ国際空港を世界一のターミナルとして新たに改修した。また、西ドイツのあるポップグループが作った名曲「目指せ、モスクワ」が世界的にヒットし、「聖火リレー」も「順調」に実施されたものの、ソ連のアフガン侵攻によって、オリンピック史上最大のボイコット事態を招いた。すなわち、「聖火リレー」、平和の祭典オリンピックが独裁で、傲慢な政権によって実施される場合、いくら「平和」の名を借りても、世界的支持は得られない。   「聖火リレー」の実施にあたって、中国政府は膨大なお金をかけた。そして、このリレーの面倒をみなければならない各国政府も大量の費用を費やした。これに対して、中国国内も「教育や、貧困削減など、お金を使うべきところがいっぱいある。聖火リレーで費やすのは浪費であり、贅沢であり、まったく意味がない」という批判の声もある。   長野で実施した「聖火リレー」だけをみると、T大学のある中国人留学生学友会の幹部の話によると、「同大学中国人留学生学友会は普段毎年大使館から得る活動費用は30万円ほどであるが、今回は、学生を派遣するだけで、それの10倍以上ももらった」とのこと。それによると、中国大使館は今回日本各地から1000人以上の学生を派遣して、少なくとも5千万円位払ったことになる。これほどのお金があるなら、なぜ留学生の勉強に使わないのかと私は思う。   世界各国の批判のなか、中国側は強引に「聖火リレー」を実行したが、結局、醜態の限りを尽くし、見苦しい振る舞いになってしまった。   「1989年6月4日、天安門広場で一人も死んでいない」「ラサで弾一発も発射していない」と嘘をついた中国政府は、今回も、これほど批判を浴びた中、依然として中国の国民に「海外の聖火リレーは世界各国政府、各国の人民の支持を得て、大成功裏に終った」と嘘を言い続けている。   中国共産党にとって、スポーツは「党と国の威信を高める」存在である。中国選手が初めて、卓球の世界チャンピオンになったのは、「中国共産党の偉大な指導のお陰である」と云い、バレーのワールドカップで初めて優勝したのも、オリンピックで数々の金メダルをとったのも、「党のお蔭である」と宣伝してきた。オリンピックが北京で開催されるのは、中国共産党の「偉大さ」を証明することになる。だから、中国政府はそれを「成功」させなければならない。   そもそも欧米諸国は中国の人権状況の改善をねらって、2008年のオリンピック開催権を北京にあたえたのだろう。しかし、中国共産党支配下の中国の人権状況はほとんど改善していない。こうした状況のなか、オリンピック開催は完全に中国共産党支配の正当化の道具になってしまう。    1936年にベルリンで開催されたオリンピックは「ヒトラーのオリンピック」と言われているが、2008年に北京で開催するオリンピックは「中国共産党のオリンピック」と言っても過言ではない。ベルリン・オリンピック開催9年後、ヒトラー政権が瓦解した。モスクワ・オリンピック開催11年後、ソ連が崩壊した。北京オリンピックが何をもたらしてくれるのかを、わたしたちは見守っている。    ----------------------------------------------------------------   今回のオリンピックではボイコットする国はなく、開会式には各国元首が出席し、盛大な「平和の祭典」が繰り広げられるでしょう。主催国である中国は、日本や韓国がそうだったように、いやそれ以上に、驚くほどたくさんのメダルを取るでしょう。軽井沢のフォーラムでは、「One China」ばかりが目立ち、北京オリンピックのスローガンである「One World, One Dream」の影が薄いのではないかという指摘もありました。もっとも、休憩時間には、「中華民族」にとって「One China」と「One World」は結構近いかもしれない、なんて話もありましたが・・・   軽井沢のフォーラムでは、オリンピックが、アジアでは日本と韓国(そして中国)、ラテンアメリカではメキシコで開催されただけで、他は全て欧米諸国で開催されている「北半球のイベント」であるということにも気付かされました。清水諭先生は基調講演において、軍や警察で守らなければならない状況、スポンサーとの契約に縛られて厭でも聖火リレーを走らなければならない選手たちの状況を紹介して、オリンピックは「内破」していると指摘されました。大国のナショナズムをさらに昂揚し、グローバル企業のコマーシャリズムにどっぷりと浸かった今のオリンピックを、どう改善すれば、人間の身体能力と美を競い、私たちに純粋な感動を与えてくれる真の「平和の祭典」になるのか、なんてことを考えてみても良いのではないかと思います。そして、良いアイディアがありましたら、是非SGRAに投稿してください。   勝手ながら、SGRAかわらばんは2週間お休みさせていただきます。次回は8月15日に配信する予定です。   ------------------------------------------ <今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko> 学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在英国法人CISV International副会長。  
  • 2008.07.25

    エッセイ148:胡 秀英「四川大地震災害救助の最前線で活躍したSGRAメンバーたち:華西医院災害救助参加手記」

      2008年5月12日14時28分、私は四川大学看護学院の大学3年生に看護学を教えていた。突然、今まで経験したことのない揺れを感じた。地震だと分かったとたん、学生たちは悲鳴を上げた。私はすぐに70名の学生たちを建物外の安全な場所に移動させた。同時に、4300病床を持つ四川大学華西病院の患者さんたちのことが心配だったので、すぐに病院に戻り、医者や看護婦たちと一緒に患者さんを見守った。   四川大地震は震度の強さ、破壊の激しさ、範囲の広さが史上空前だった。この突然の大地震は「天府の国」と言われる成都の静かさを破った。地震発生当時の混乱の中、華西医院の白衣の天使たちは冷静沈着に危機に対応した。すぐに、対策本部が作られ、様々な緊急時対策事業が動き出した。4300名の患者さんを守りながらも、被災地へ緊急医療隊を派遣した。地震直後、たくさんのけが人が絶えず救急外来に運び込まれ、各科に振り分けられた。私は、病院の仲間と一緒に地震救助の活動に参加して、震災地の人々に奉仕したいと思い、救急外来患者の救助を志願した。   “一方に災難があると、八方から援助がくる”。地震当日、私は日本の千葉大学看護学部の石垣和子教授(博士課程時の指導教官)、東京都老人研究所副所長の鈴木隆雄先生(日中医学奨学金研修生時の指導教官)と渥美国際交流奨学財団の今西淳子常務理事から強い関心を寄せた親切なメールをいただいた。その時、すぐに私が思いついたのは、日本の豊富な災害看護の経験を生かして、よりよく四川大震災後の看護をしたいということだった。石垣教授に日本の災害医療や看護の資料をお願いしたところ、先生は早速災害看護を研究している兵庫県立大学「WHO研究協力センター」所長の山本あい子先生に連絡してくださった。山本先生が管理作成している日本語版の “災害看護ガイド”のホームページを教えてくださったのは、地震の翌日の5月13日のことだった。   私は、早速、当地でたくさんの医療関係者に日本の知識を応用してもらうために、仕事の合間に翻訳をスタートしたが、膨大な量の資料でなかなか進まずに悩んでいた。その時、今西さんから再度メールが届いた。それで、翻訳のお手伝いをお願いしたところ、今西さんの斡旋で、40名ものSGRA会員および関係者の積極的な協力を得た。すなわち、武玉萍さん、阿不都許庫尓さん、安然さん、王偉さん、王剣宏さん、王雪萍さん、王立彬さん、王珏さん、韓珺巧さん、奇錦峰さん、弓莉梅さん、許丹さん、胡潔さん、康路さん、徐放さん、蒋恵玲さん、銭丹霞さん、宋剛さん、孫軍悦さん、張忠澤さん、張長亮さん、張欢欣さん、杜夏さん、包聯群さん、朴貞姫さん、李恩竹さん、李鋼哲さん、李成日さん、陸躍鋒さん、劉煜さん、梁興国さん、林少陽さん、麗華さん、臧俐さん、趙長祥さん、邁麗沙さん、馮凱さん、馬娇娇さん、権明愛さん、劉健さんである。   それと同時に、兵庫県立大学の張暁春博士を通じて、笹川日中医学奨学金によって日本に留学している十数名の中国学者とも連絡が取れた。翻訳のまとめ役をつとめた武玉萍さんをはじめ、皆さんの努力によって、5月19日、災害看護ガイドの中国語版が、地震後一週間という驚異的な早さで誕生した。ここで、皆様の温かい愛心に対して、心から敬意と感謝を申し上げたい。同時に、山本先生は5月19日に災害看護ガイド中国版の情報を、中華看護協会を始め、全世界の看護組織に素早く宣伝した。日中の関係者の知恵と愛の心を凝集した成果は震災地及び中国全土に広がった。今たくさんの医療関係者が、このガイドを参考にしながら災害救助を行っている。みんなの手で阪神から四川への橋を作ったのだ。   今回の地震の災害救助においては、国際協力による支援も大きな成果を生んだ。国際救助隊のあと、5月22日に、日本国際緊急救援隊医療チームが華西医院に到着した。華西医院はすぐ対応して、石応康院長が総指揮を担当し、医院側と日本医療チームの調整協調と通訳の任務を管理経験豊富な看護部の成翼娟部長と私に任せた。災害の規模、救援のタイミング、救援の方式の変化などを検討した結果、現場で自給自足式の医療を得意とする日本医療チームのメンバーたちであったが、今回は、病院で中国側の医療関係者と一緒にけが人の治療をすることになった。病院が国際救援隊を受け入れるのは、新中国建国後初めてのことであった。   両国の歴史や社会文化背景の違いが大きいので、すぐにお互いを理解できるようになるのは難しいのではないかと思った。しかし、今回は、早急に相互理解を進めて医療救助の共同事業を確立させなければならない。これは両国の国際関係へも影響しかねないことだった。私はプレッシャーとチャレンジを感じたが、自分を励まして、どんなに難しくても、前向きの態度で行動し、最善を果たして日中友好の架け橋になろうと決意した。5月24日、日本メディアのインタビューを受けた時に同じ考えを伝えたところ、よい反響を得た。日本医療チームとの仕事中、帰国した数名の笹川奨学金研修生たちも直接通訳の仕事に参加してくれた。私たちは一緒に努力して、お互いの文化背景を尊重した上で調整しながら、日中救援医療活動をスムーズに進めることができた。   6月2日までに、病院は2618人のけが人を受け入れ、1751人を入院させた。その中には重患が1135人、ICUに受け入れが127人、手術が1239回、血液透析が77人であった。国内外の医療関係者の努力により、入院患者の死亡率が0.7%より低い、高いレベルの救助医療効果をあげることができた。このような救援医療の仕事を通して、日本医療チームは、災害医療の人道主義精神を十分に発揮し、その使命を果たした。また、きめ細かくコミュニケーションをとりながら、日中両国医療領域の相互理解と友情を促進した。石応康院長が評価したように “日中医療関係者がけが人の救助を一緒に行うことにより、日中友好精神を体現し、日中医療領域の協力も今までない境界に至った”。その間、中国温家宝国務院総理、楊潔篪外交部長、高強衛生部党組織書記・副部長など中央のリーダーたちが日本医療チームと面会し、日本医療チームの仕事を高く評価し、日中友好によい効果をあげ、国際的な影響を与えた。   今回の災害救助に関する友好的な共同作業は、国際医療協力の架け橋になった。日中の医療関係者は、治療と看護を協力して行い、お互いの意見を活発に交換し、各自の専門領域の最適なアドバイスを行い、皆が最善を尽くした。例えば、災害医療の最新技術について議論した時には、圧迫症候群の処理、切断のタイミングと基準、中日双方の産婦人科の看護の現状、薬剤師と放射線師の災害救助での役割などについて意見交換をした。また、日本医療隊は四川大地震後初めての災害医療(急性期災害医療を中心に)についての学術講座を成功裡に行った。このような日中両国の協力は今後の専門医療看護の発展の基礎となるだろう。   日本医療チームは6月2日に帰国したが、続いて日本政府と民間団体が病院を訪問した。6月6日には日本財団の支援で日本災害看護支援機構代表団が訪問し、中長期災害看護研修プログラムについて討議した。6月8日には、日本自民党、公民党の参議院と衆議院の議員代表団が日本医療チームの治療を受けた患者さんをお見舞した。6月19日には、日本青年海外協力隊のボランティアが病院を訪問し、心を込めて作った1000匹のカラフルな千羽鶴と愛の祝福を書き込んだ横幅を震災の患者たちのために捧げた。WHO研究協力センター所長の山本あい子教授は、華西病院と一緒に、今後の災害看護共同研究計画を立案中である。このように、四川地震の国際救援医療活動は、日中両国の専門医療看護の協力と共同研究の幕を開けた。   エンゲルスは“歴史の災難は、歴史の進歩を引き起こす”と言った。災害救助と災害復興の仕事はまだまだ大変で長く続くだろうが、私たちは手を携えていきましょう。人類の災難に直面しながら、その経験を生かすことによって歴史を進歩させましょう。   関連する写真をここからご覧ください。   (原文は中国語。日本語訳:武 玉萍) ---------------------- <胡 秀英(こ・しゅうえい) ☆ Hu Xiuying> 博士(看護学)、四川大学華西看護学部・華西病院看護部の副教授・修士指導教官。2007年千葉大学看護学研究科博士後期課程修了、博士号取得。「異文化環境に生きる高齢者の健康維持増進を目指す看護に関する研究」など高齢者看護と地域看護に関する論文多数発表。渥美国際交流奨学財団2006年奨学生、SGRA会員。   <武 玉萍(ウ・イピン)☆ Wu Yuping> 医学博士、理化学研究所 発生・再生科学総合研究センター研究職。1995年ハルビン医科大学卒業。2001年千葉大学大学院医学研究院博士号取得。渥美国際交流奨学財団2000年奨学生、SGRA会員。
  • 2008.07.23

    エッセイ147:太田美行「グローバル時代におけるオリジナリティとは何か」

      オリンピックが近づいてきてワクワクしている。このところ殺伐としたニュースが世の中を賑わせているし、遂に私自身も病気になってしまった(SGRAかわらばん124号「私の残業物語」をご参照下さい)だけに、各競技に専念する選手の姿や記録、そしてワクワク感が詰まったスポーツの祭典は(様々な問題が付随しているとはいえ)歓迎だ。    競泳や陸上競技なら数値で判定が出されるが、今回のオリンピックでは技術の他に芸術的要素が加わるシンクロナイズドスイミング(以下シンクロ)に私は注目している。芸術性は審査員にどのように評価されるのだろうか。そして各国はどのようなプログラム構成でそれを表現するのだろうか。    思い出されるのは前回のオリンピックでの日本のシンクロのデュエットのテーマがテクニカルルーティーンで「SAKURA2004」、フリールーティーンで「ジャパニーズドール」。そして団体では日本の阿波踊りを取り入れた演技をし、フリールーティーンでは「サムライinアテネ」のテーマで、かなり「欧米から見た日本色」を打ち出していたことだ。こうして改めて当時のテーマ構成を見ても独自性を出そうとしていること がわかるが、アテネの時はテレビを見ながら、「審査員達は、これ見て面白いのかしらね」「それ以前に阿波踊りを見てわかるの?」と家族と言いながら見ていたものだが、結果はデュエット、団体戦とも銀メダルを獲得したのだから評価はされたのだろう。しかし同僚との間でも「ちょっとあのテーマは違うよね」と話題になったものだ。    オリンピックという正にグローバル、かつ一瞬で勝負が決まる場であり、独自性を評価してもらうことは至難の業だろう。それゆえ「わかりやすいオリジナリティの表現」に流されたのかもしれない。1980年代後半くらいから90年代にかけてワールドミュージックと名づけられた民俗音楽が流行したり、沖縄民謡風の音楽にも注目が集まったりした。アパレルの分野でもエスニック調の服やバック、アクセサリーなどが人気を集めている。「伝統」はグローバル社会においてオリジナリティを表現する有効な手段として捉えられているようだ。    しかし一方では、各国の現代文化がグローバルに評価されている例としてマンガ、アニメがある。確かにこれは直接的に伝統文化とは関係ない。また「Shall we ダンス?」、「インファナル・アフェア」等、アジア映画をハリウッドでリメイクするなど、アジアという一地域のヒット作品がグローバル市場で評価される動きもある(本当はオリジナル作品のままグローバル市場に参入できると良いのだが)。この場合に評価されているオリジナリティはどこにあるのか考えてみたが、いまひとつわからない。そんな時に女優のソフィア・ローレンのインタビュー記事の一節を読んではっとした。    彼女は「宮崎駿のアニメーションを見たが、木々の描き方がヨーロッパの表現方法と違い、非常に興味深かった」と感想を述べていたのだが、表現方法の違いについて何と面白い捉え方をしているのだろうと、かつてヨーロッパの芸術家たちが日本の浮世絵の構図や表現方法に触発され、流行したジャポニズムに通じる感想だと思った。同じ事物への感性の違い、思想の違い。歴史や環境が育み、凝縮されて生まれた表現方法に加えて、個人の経験と歴史もある。それらが重ねられた薄い色紙の束から生まれた色彩。それを何かの形にしようとはさみで切っていくのが個人の感性。あるいはこう言い換える事ができるかもしれない。周囲の歴史と経験に、自分自身の経験と教育と歴史を、咀嚼し吸収された後に生み出されるもの。そのようにして出来上がったものがオリジナリティではないのか。そこに「普遍的な感性のツボ」と「衝撃」が加わった時に、グローバルレベルでのヒット作が生まれる、と考えてみた。だからシンクロで「さくらさくら」や「ラストサムライ」を選曲して殊更エスニックを強調しなくても、オリジナリティは表現できるのではないだろうか。   こう考えていた時に思い出したのがバルセロナオリンピックの時のシンクロで銅メダルを受賞した奥野史子選手(当時)が、1994年の世界選手権でそれまでの「シンクロは笑って演技をする」常識を覆した「笑わない演技」をし、世界選手権初となった全審査員からの芸術点満点を獲得したことだ。「笑わない演技」とは、怒りや情念が、時に能面のように無表情で表現されたりしながら、最後には昇華され、穏やかな表情となって演技が終了するプログラム構成である。インタビュー記事から本人も、シンクロ界に歴史を残したと誇らしげだった。能などをどこまで意識したかは不明だが、それなりに意識していただろうし、その配分と奥野氏のもつ個性と技術によって生まれた演技だろう。    残るはそれがグローバル市場でどう受け入れられ、広まるかだ。誰でも自分の作品がいつまでも「ハリウッドでリメイクされる」では嬉しくないだろう。戦略や流通経路の開発や仕掛けも必要だ。一部の知識人に評価されるのも嬉しいかもしれないが、作り手としてはやはり皆に受け入れられた方が嬉しいに違いない。そしてそこから先が真の才能の戦いになるのだろう。   --------------------------- <太田美行(おおた・みゆき)☆Ota Miyuki> 東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。 ---------------------------
  • 2008.07.18

    エッセイ146:ボルジギン・フスレ「ウランバートルレポート:2008年夏(その2)」

      シンポジウムの朝、心配していた雨は降り続いていた。   モンゴル・日本センターでおこなった開会式では、ウルズィバータル氏が司会をつとめ、モンゴル国政府法務・内務相ムンフオルギル(Munkh-Orgil. Ts)氏、SGRA代表今西淳子氏、在モンゴル日本大使館参事官小林弘之氏、モンゴル科学アカデミー学術秘書長レグデル(Regdel)氏が挨拶と祝辞を述べた。   続いて、モンゴル科学アカデミー歴史研究所長ダシダワー(Dashdavaa. Ch)氏、東京外国語大学教授二木博史氏、内モンゴル大学教授チョイラルジャブ(Choiralzhab)氏、モンゴル国家文書管理局長ウルズィバータル氏、学習院大学大学院人文科学研究科アーカイブズ学専攻主任、教授安藤正人氏、モンゴル科学アカデミー言語・文学研究所事務局長プレブジャブ(Purevjav Erdene)氏が基調報告をおこなった。    午後は、モンゴル・日本センター多目的室1と2、モンゴル国家文書管理局会議室、モンゴル科学アカデミー歴史研究所会議室で、「歴史・メディア・アーカイブズからみた北東アジアの社会秩序:過去・現在と課題」、「北東アジア文学の中の社会像・世界像」、「アジア主義論からアジア共同体へ」、「北東アジア地域アーカイブズ情報の資源化とネットワークの形成にむけて」の四つの分科会をおこなった。ウルズィバータル局長、モンゴル国家文書館上級研究員ダシニャンム博士、東京外国語大学二木博史教授、岡田和行教授、北京大学陳崗竜教授、モンゴル科学アカデミー歴史研究所研究員バトバヤル博士、昭和女子大学フフバートル準教授、モンゴル国の殊勲研究員ノロブサンブ氏が各分科会の議長をつとめた。   モンゴル国、日本、オーストラリア、ドイツ、韓国、中国、ロシア、アメリカなど8ヶ国の50名の研究者が出席し、発表をおこなった。発表者は近現代北東アジア地域の一元化と多元性の葛藤という今日的であると同時に歴史的である問題を取り込み、現代北東アジア社会のグローバル秩序の歴史的背景とその今日的意義を考え直し、北東アジアの地域秩序はどのようなプロセスをへて構築されたか、これからどのように構築していくか、関係諸国のアーカイブズ情報の資源化とネットワークの形成等をめぐって、特色ある議論を展開した。2日間の会議中、ウランバートルにある各大学、研究機関の研究者、学生、職員、中国社会科学院の訪問教授、内モンゴル大学の交換研究者、日本人留学生、モンゴル・日本センター日本語コースの生徒など160人ほどが参加した。    夕方、ウランバートルホテルのレストランで歓迎宴会をおこなった。ウルズィバータル局長の情熱的な挨拶の後、今西代表は挨拶で「明日、天気が晴れるように祈るが、昨日ウルズィバータル局長が“いくら晴れても、雨に濡れた羊の肉は美味しくない”とおっしゃった。ですから、本場のモンゴル伝統的な料理ホルホグを賞味するため、もう一度モンゴルに来ることにした」と述べ、毎日が雨の残念さとSGRAのモンゴルフォーラムを続けていくことを巧妙に表現した。みんな笑いながら、大きく拍手した。    25日午前中、まずモンゴル・日本センターの会議室で総会をおこない、各分科会議長がそれぞれの分科会の発表についてまとめた後、ウルズィバータル局長が総括報告をおこなった。   その後、参加者はモンゴル国家文書館で展示した文書展示会を見学した。貴重な文書も多かったが、閲覧する時間が少し足りなかった。続いて、モンゴルの国会議事堂の前で参加者の記念写真を撮った。    昼から、会議の参加者は中央県の草原に赴いた。今西さん、二木博史教授、岡田和行教授、アリウンサイハンさんと私は、市橋康吉在モンゴル日本特命全権大使閣下に招かれて、在モンゴル日本大使館に行った。市橋大使についての記事などは、以前、日本モンゴル協会誌『日本とモンゴル』や新聞で読んだことがあるが、直接お会いしたのは初めてであった。大使は背が高く、活力満々で、やさしく、知識が豊富で、ペテランの外交官である。   今西さんはSGRAや渥美国際交流奨学財団、今回のシンポジウムなどについて紹介した。市橋大使は、在モンゴル日本大使館の事業、話題のノモンハン事件(ハルハ河戦争)で亡くなった日本人兵士たちの遺骨収集などについてお話をした。   その後、大使のご招待で、みな昼食(日本料理)をしながら、これからの事業などについて展望した。大使からいろいろ助言をいただいて、充実した会見になった。   大使と今西さん、先生方の励ましを得て、次の事業の遂行に大きな自信になった。短い時間であったが、今回、市橋大使をはじめ、在モンゴル日本大使館の方々との出会いを通して、大使館に対する認識も変った。    大使館を後にして、今西さん、岡田先生と私は大使館の車で草原にむかった。小山書記官は仕事関係で同行せず、運転手は地元のモンゴル人であった。雨が降ったお陰で、草が生え、奥に行けば行くほど、草原や羊、馬の群れがだんだん見えてきた。   途中、再び雨が降ってきた。GOBI MONに行ったことはない運転手が道に迷って、あるゲル(モンゴルのテント)に近づいて、出てきた婦人にその道を尋ねた。婦人も詳しく知らなかったそうで、大雨のなか、また別のゲルに行って、聞いてくれた。GOBI MONとは近年草原に建てられたゲル風のホテルで、閉会パーティをおこなう場所である。   車は方向を変えて、走った。   雨がだんだん弱くなってきた。ついに、ホテルのような建物とたくさん並んだゲルが目に映った。目的地のGOBI MONだ!   ちょうど雨もやんだ。GOBI MONでみんなと合流した。    今西さんとウルズィバータル局長がゲルでハムをつまみにモンゴルのウォッカを飲みながら、会談をおこなった。シンポジウム、第二次世界大戦後モンゴルに抑留していた日本兵捕虜、モンゴルと日本の伝統文化の異同、選挙、資源、環境など、さまざまな分野のことに触れた。今西さんはとても楽しそうで、その天真爛漫な笑顔を見たのは初めてであった。    ゲルから出て気づいたのだが、目に見えたのは、まさに見渡すかぎり果てしない大草原である。雨がすっかり止んで青空が広がっていた。   今西さんと私と数人の研究者は、草原を、馬に乗って遠くまで走った。   夕方になると、草原で閉会パーティが開かれた。ホルホグの料理であった。乾杯を続けるなか、モンゴル相撲も披露された。モンゴルのウォッカが相次いで運ばれた。みんな興奮して、飲みながら、歌っていた。宴会は深夜まで続いた。   写真による報告(その2)をここからご覧ください。   「ウランバートルレポート(その1)」はここからご覧いただけます。   ------------------------------- <ボルジギン・フスレ☆ BORJIGIN Husel> 博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「1945年の内モンゴル人民革命党の復活とその歴史的意義」など論文多数発表。  
  • 2008.07.11

    エッセイ144:シム チュン キャット「ところでシンガポール人は何語を喋るの?」

      外国で僕はよくタイトルのような問いを受けます。そしてこの問いに対して僕はいつも「ばらばらです」と答えます。   「あれっ?英語じゃないの?」と思う人もいるかもしれませんが、まあ、とりあえず僕の説明を聞いてください。   日本人なら日本語、タイ人ならタイ語、イタリア人ならイタリア語、イギリス人なら英語…という図式がまずシンガポールには当てはまらないのです。そもそも「シンガポール語」という言葉が存在しません。中国系76%、マレー系14%、インド系8%とそのほかの民族からなる多民族国家シンガポールでは、三世代も遡れば国民のほとんどのおじいさんとおばあさんは、より豊かな生活を求めて遥々中国やインドと周りの国々からやってきた移民たちばかりなのです。もともとの出身地がばらばらであるために、言葉ももちろんばらばらです。しかも、多くの移民が中国とインドのような「場所が変われば言葉も変わる」という「方言大国」から来ているゆえ、言葉の問題はなおさら複雑になっていきます。たとえば、一言「シンガポールの中国系」といっても、福建系、広東系、海南系、客家系、上海系…などという非中国系でもわかるような違いもさることながら、同じ福建系でも福州系、福清系、南安系、アモイ系、安渓系…などにさらに枝分かれして、同じ福建語といってもそれぞれ微妙に違ってきます。ちなみに、僕は福建系の安渓系です。もっとも残念なことに、福建語でさえろくに喋れない僕のような世代のシンガポール人にとって、その「何々系」が何の意味をなすのかもまったくわからなくなりましたが。   とにかくこのような背景があったため、独立した1965年当時、シンガポールはまさに「言葉のデパート」状態だったのです。それゆえに、まず北京語を中国系同士の標準語にし、そのうえで英語をシンガポール人同士の共通語にする必要があったのです。ただ、そこまでしていても、今でさえシンガポールの公用語(英語、北京語、マレー語、タミル語)が四つもあるわけですから、おじいさん・おばあさんの言葉である方言の衰退によって文化の継承が損なわれるといわれてもやむを得ませんでした。   そして自然な流れとして、教育制度に二言語政策が導入されました。中国系なら北京語と英語を、マレー系ならマレー語と英語を、インド系ならタミル語と英語を学校で学ぶことになったわけです。このバイリンガル教育は一見したところ合理的なやり方ではありますが、こんな政策を取り入れればこんな成果が得られるという保証がないのが教育の世界の常です。シンガポールの二言語政策の何が一番問題だったのかというと、たとえばマジョリティを占める中国系の場合、独立した当時、大多数にとっては北京語も英語も母語ではなかったということです。識字率もそれほど高くない時代だったので、多くの人々にとっては学校でいきなり並行(もしくは閉口)して二つの言語を学ばなければならなかったのです。そして言うまでもなく、言葉の勉強だけでも大変だったのですから、学業についていけない子どもが続出しました。当時の政府レポートによれば、70年代の半ばになっても、シンガポールの小学校と中学校における平均中退率がそれぞれ29%と36%にものぼり、高校進学率については14%という非常に低いレベルにとどまっていました。問題の根源は、二言語政策が強化されるなかで、なんと85%もの子どもが家で話されない言葉で学校の授業を受けることになり、そのため多くの生徒が進級できず、学校を中退せざるを得なくなったことにあると同レポートは報告しました。小中学校の中退者はいわば教育の「浪費」(wastage)であるとされ、そのような「浪費」を解消するためには二つの方法しか考えられませんでした。一つはどこかの国みたいに教育に「ゆとり」をもたらすべくカリキュラム全般を簡易化すること、もう一つは潜在的中退者の異なる能力に合わせたコースを設置することでした。エリートの育成を国策の柱としてきたシンガポール政府が選んだ道は言わずもがな後者でした。こうして小学校の生徒を主に言語能力別に振り分ける三線分流型のトラッキング制度が1979年に初めてシンガポールで登場したわけであります。したがって、小学校から始まるシンガポールのトラッキング制度は、旧宗主国だったイギリスの一昔前の「11才試験」(11-plus examination)を受け継いだのではなく、二言語政策を徹底させたことが発端でした。   さて、家庭の言語環境が大きく異なるうえ、能力によって学校で習う言語のレベルも違ってくるのですから、同じ英語、同じ北京語、同じタミル語、同じマレー語といっても人によって上手・下手があるのは当然です。さらに世代が違えば、教育制度や生まれ育ちの違いから、言語能力の上手・下手はよりいっそう顕著になります。そのため、シンガポール人同士で喋るときでも、TPOはもちろん、相手の人種、職業、年齢などまでも考慮に入れて言葉を選ぶのが粋なシンガポール人というものです。もっとも、このようなコードスイッチング、つまり言葉を使い分ける能力についても、環境や教育による分化と世代間による差異のせいもあってシンガポール人なら誰でも身についているわけではありません。したがって、外国人にとってそのときそのとき接するシンガポール人によってシンガポールに対するイメージも大きく変わってくるはずです。なぜなら、同じシンガポールでも人種が違う場合もあれば、話す言葉もその言葉の上手さもばらばらなのですから。冒頭で、タイトルの問いに対して僕が「ばらばら」と答えたのはそのためです。そしてこのように「ばらばら」で多様性に富むシンガポールが僕は好きです。   ----------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。 -----------------------------------  
  • 2008.07.08

    エッセイ143:キン・マウン・トウエ「ナルギス被災者支援プロジェクト第2回活動報告」

      6月29日の朝、やはり雨季の朝です。今日は、第2回支援活動を行うため、前回支援を行いましたクンチャンコン地区ペーコン村より小型船で1時間半ぐらい離れた所へ行く予定です。6月27日(金)に日本から募金残金472,295円を送金していただき、無事に497万キャトを受け取りました(9500円で10万キャト)。    28日(土)にボランテアをしてくれる友人と一緒に、トラクターを買うため農機などを販売している代理店へ行きました。いくつかのお店で値段を調査しましたが、思っているより高くなっています。サイクロン後、農機の価額が高騰したようです。国内でも生産していますが、中国からも多くの台数が輸入されています。今回の支援予定地を調査した時に村が要求した機種を探しましたが、ある店に7台しか残っていませんでした。必要な部品やオイル、また、クンチャンコン地区まで運送費も合わせて一台あたり75万キャト(約7万5千円)もしました。予算オーバーになってしまいましたが、私達が行くための経費と、対象地での学校支援分を友人のボランティアグループが日本円で5万円分を支援して下さいました。本当は農機10台ぐらいを予定していましたが、予算と在庫の関係で7台だけ支援することにしました。運送屋にお願いして、その日のうちに支援対象地に一番近いクンチャンコン地区へ運んでもらい、翌日、私達も現地へ出発することにしました。    稲作を始めることができる雨期は、あと何日も残っていません。7月下旬頃までに終わらせなければなりません。それまでは一日でも大事です。タイミングを上手くあわせないと、種にするお米の値段が大変な価額になってしまいます。現在も今までの価額より2倍ぐらい上がっています(1キロ:約1500キャト)。今まで農民が私達のためにお米を作ってくれましたが、今回は、彼らに私達がサポートをしなければなりません。今回は、サイクロン被害者の方達のために単に生活物資を支援するより、彼らの将来の発展のために役だつことを支援するのがもっと重要と考え、農機を支援することに決めました。    今回は、予算の関係もあって7名のメンバーで行きました。船も安いものを借りましたが、7台のトラクターで重量オーバーです。船が小さいから危険だと思いながら、そのまま一隻だけで2時間以上の距離を進みました。雨が降らないように、風が強くならないように祈りました。普段は、このような情況では絶対行かないと思いますが、今は支援のためなので、皆も楽しくなっています。    支援対象地であるデイダーイェ地区アセーレイー村は、前回支援した地域から、小型船で1時間半ぐらい離れています。この村の約200名がサイクロンで亡くなったそうです.377世帯のうち124世帯が農民です。その他は、魚屋や水産物商、その他の仕事を行っています。農民の半数の世帯が残った財産から農機を購入しましたが、残り半数は全く財産が失ったため、農機が購入できない情況です。    午後1時頃村へ到着しました。すぐに農民を集め、農機の在庫情況を説明しました。その後、まず一台を組み立てました。農民達の顔が、明るくなっていきます。彼らの近い将来が決まったようです。しかし、台数が少ないですから皆でグループを作って、なかよく利用するようにお願いしました。その後、小学校へ行き、お手洗いの修理代、黒板購入代とその他費用として、支援金の一部を寄附しました。3時ごろに、村長の家で、ヤンゴンから持ってきたお弁当を食べました。    最後に農民の方達にもう一度集まってもらって、農機を利用して残っている期間を上手く使っていただくように再度お願いしました。私達は単に支援するだけではなく、指導も行います。今度来る日程、および、農民に対する宿題などの打ち合わせを行いました。    今回のヤンゴンへの帰り道は、前回と違って、私達の心の中も、喜びと強い自信がいっぱいでした。彼らは、サイクロンで家族や財産を失いましたが、今は、将来のため頑張っています。    7月2日に、指導グループ4名が村へ泊まりに行きました。村の方達が笑顔で迎え、宿題だった農機全部の組み立てや農民達のグループ化も上手く準備していました。アセーレイー村の将来のため、我々も安心しました。今後、私達のボランテアの方達が力を合わせて必要な肥料やその他について継続的に支援する予定です。    日本から一部支援された古着と私が購入した古着は、また時期を考慮して支援することにしました。特に、雨季後の寒い時期になれば、この古着の必要性が出てきますので、その時に実施する予定です。    皆様、私の小さなナルギス被災者支援プロジェクトに対して、ご協力ご支援を本当にありがとうございました。今後もよろしくお願い致します。   活動の写真はここからご覧ください   第1回活動報告は、ここからご覧いただけます。   --------------------------------------------- <キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe> ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。 ---------------------------------------------   【募金の報告】森峰生さんより   6月30日現在で、5団体と19名の皆様から総額633,295 円の募金をお預かりいたしました。あらためて募金下さった皆様に厚く御礼申し上げます。   そのうち、6月上旬に第1回活動資金として15万円をミャンマーに送金いたしました。キンちゃんが今まで行ってきた「学校支援ボランテア活動」のメンバーでもある人が幹事をしているボランテア団体からの資金30万円と合わせて、共同で45万円分の支援活動をヤンゴンから海の方向に存在するクンチャンコン地区ペーコン村267世帯を対象に行いました。支援物資は、小型トラック2台分の米、食用油、玉ねぎ、ジャガイモ、薬、石鹸、古着、スリッパ、当座の生活資金です。   第2回の活動がすでに始まっております。6月26日にほぼ残額すべての472,295 円をミャンマーに送金して、キンちゃんの方でトラクター7台を購入したそうです。(今回の送金の後に11,000 円の入金がありました.使途は現在検討中です)   森さんの礼状の全文は下記URLよりご覧ください。   (多少前後していますが、文中の「第2回活動報告」がこのエッセイです)  
  • 2008.07.04

    エッセイ142:金 雄煕「牛肉デモと韓国の民主主義」

    李明博(イ・ミョンバク)大統領の国民への談話、米国との牛肉追加交渉の終結、そして牛肉輸入条件の官報への掲載に伴い、韓国の牛肉デモが新しい局面を迎えている。4月18日に韓国政府が米国産牛肉の輸入制限撤廃を発表して以来、輸入再開への反対デモは、拡大の一路を辿ってきた。韓国MBCのテレビ番組『PD手帳』が米国産輸入牛肉の安全性に疑問を投げかけ、韓国人は遺伝的要因から欧米人よりもBSEの影響を受けやすいと主張したことがきっかけと言われている。当初米国産牛肉の危険性をめぐる議論が主だったキャンドル集会は次第に反政府デモの色合いを帯びるようになり、6月10日には、これまでの最大規模となる約20万人もの市民が抗議デモに参加した。 こうした状況を踏まえ、李大統領は6月19日、国民への談話として事実上の謝罪会見を行った。米国産牛肉の輸入制限撤廃に端を発した政府批判に対し、「子どもの健康を心配する母親の気持ちを思いやれなかった」などと述べ、国民に謝罪した。また、6月10日には、大規模の反政府キャンドル集会の模様を、青瓦台裏手の山から眺めていたと告白し、「暗闇の中、街を埋めたろうそくの火の行列を1人で見ながら、国民を安心させられなかった自分を責めた」と語った。そのうえで、「国民が望まない生後30カ月以上の米国産牛肉が決して食卓に上らないようにする」とした。そして談話の数日後、李大統領は閣僚級にあたる青瓦台首席秘書官などの人事刷新を行い、内閣改造にも踏み切った。 牛肉デモに表れる韓国国民の怒りの原因は、食の安全に直結する狂牛病への不安だけではない。牛肉問題にとどまらず、韓半島大運河構想、教育制度改編など李政権が進める他の政策への不満が複雑に絡み合う。原油価格や物価の急激な上昇に加え、貧富の格差が広がり、庶民の暮らしは厳しいのに李政権の閣僚や高官には億万長者がずらりというのも国民から大きな反発を買った。また、政府の拙速ぶりや国民との意思疎通の不足、李大統領の強引な統治スタイルなどを指摘する声も大きい。さらに韓国独特の愛国主義やお祭りのような集会文化が背景にあるのは特筆すべきであろう。 今回のキャンドル集会の火付け役になったのは中高生や大学生であり、この若い世代が敷いた流れに往年の386世代(民主化闘争世代)や市民団体などが合流する形となった。牛肉デモに参加した大多数の人は純粋な動機を持った普通の市民であり、決して特定勢力が計画したものではない。この意味で既成政治に不信感を抱く若い世代や一般市民が直接政治の場に参加したというのが今回の牛肉デモの本質なのである。   また、インターネットを通じた市民の情報共有が政権批判に大きな役割を演じたことも重要である。牛肉デモの現場にはいつも賢い大衆(Smart Mob)の存在があり、彼らは携帯電話、カメラ、ビデオカメラで集会の現場を生々しく撮影し、すぐに写真や動画がウェブサイトに投稿され、それがさらなる参加を呼びかけた。この意味で牛肉デモはネットという新しいメディアが作り出したウェブ2.0時代の新しい民主主義の可能性を示す事例でもあるといえよう。   これに対し、キャンドル集会はデジタル・ポピュリズムとして「浅民民主主義であり、生命を楯にとって理念を売り出す生命商業主義である」との批判があるのも事実である。彼らは反政府デモの色合いを帯びるキャンドル集会は民主主義を支える「法の支配」に対する挑戦であり、直接民主主義を悪用した世論の歪曲や扇動が飛び交う「民主主義の逸脱」だと警告する。   牛肉デモから新しい民主主義の可能性を見いだすか、さもなければそれを民主主義の逸脱と見るかをめぐっては議論の余地があるが、今回の牛肉デモに大きく影を落としているのは正しい代議制民主主義の失踪である。一般に民主主義のための制度の中で代議制より効果的なものはないとされる。しかしながら、政党やマスコミが機能しなければ代議制はうまく働かないものである。牛肉デモに際して既存の政党やマスコミは本来の機能を果たすことができなかったように思われる。今回の牛肉デモをきっかけに、社会を構成する各部門が代議制の定着のために何をいかにすべきかを真摯に自問しなければ、韓国における民主主義の発展は遠い未来の話になってしまうかもしれない。 -------------------------- <金 雄熙(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee> ソウル大学外交学科卒業。筑波大学大学院国際政治経済学研究科より修士・博士。論文は「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。韓国電子通信研究院を経て、現在、仁荷大学国際通商学部副教授。未来人力研究院とSGRA双方の研究員として日韓アジア未来フォーラムを推進している。今年度は独協大学外国語学部交換客員教授として日本に滞在。 --------------------------