SGRAかわらばん

  • 2016.11.04

    エッセイ510:ブレンサイン「中国の少数民族地域におけるバブルとその遺産」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#5)   ここ十数年の急激な経済発展を経て、中国は世界第2の経済大国に成長した。このプロセスを1970から1980年代にかけて急成長した日本に例えて「中国版バブル経済」という人もいる。しかし、勢いよく続いてきた中国の経済発展にも、ここに来て陰りが見え始め、中国経済のバブル的な発展はもう終焉を迎えているのではないかと囁かれている。いずれにせよ、21世紀に入ってから現在に至るまでの中国は、経済発展による激動の時代であり、13億の人口を抱える大国の国内の状況が目まぐるしく変化した。   そもそも中国は漢族以外に55もの少数民族を抱える多民族国家であり、文化と歴史の異なるこれらの少数民族の人々は広範囲に「自治区」を形成して居住している。急激な経済発展のなかで、これらの少数民族の人々が等しくその恩恵にあずかり、各少数民族自治区の経済状況も共に発展したかどうかについては、必ずしもその状況がよく伝わっているとはいえない。これらの少数民族の多くは人口が比較的少ない辺境地域に居住しているが、これらの地域には各種の資源が豊富で、特に地下資源は以前から中国全体の経済発展を支えてきた。   中国は1990年代後半から資源輸入国に転じ、「世界の工場」に変身した今日、原材料の供給地は全世界の隅々にまで及んでいる。急激な経済発展下における原材料調達と製品輸出によるグローバル化のなかで、国内少数民族地域の状況が見えなくなり、以前にも増して風通しが悪くなっていることも事実である。私たちは、急激な経済発展期における少数民族地域の変化、そして伝統的な資源供給地であった少数民族地域、少数民族の人々が如何にバブル的な経済発展の洗礼を受け、いかなる遺産を引き受けたのかを知る必要がある。色々な意味において、上海や北京だけではなく、内陸部で起きたリアルな変化を把握することによって、はじめて中国の立体的な姿を捉えることができる。第3回アジア未来会議では、このような問題意識をもって自主セッション「中国の少数民族地域におけるバブルとその遺産」を組織した。   本セッションでは、まず内モンゴル大学のネメフジャルガルさん(2008年度渥美奨学生)が「内モンゴル自治区とモンゴル国の草原牧畜業の比較研究」というテーマで報告した。遊牧と牧畜の伝統を共有するモンゴル国と内モンゴル自治区は今こそ異なる国家に分断されているが、1911年までは共に清朝に属し、20世紀の半ばからそれぞれソ連と中国の2大社会主義国家の枠組みのなかで社会主義の洗礼を受けてきた。中国の改革開放に伴って、内モンゴルは1980年代初期から限定的な市場経済へ移行し、その後中国の社会主義市場経済の荒波にさらされてきた。一方、モンゴル国は1990年に社会主義体制が崩壊して、一気に市場経済の土俵に押し出され、社会主義的な牧畜から市場経済的な牧畜への移行に伴う混乱は現在まで続いている。   内モンゴルでは、牧草地の使用権の個人分配が行われ、家畜頭数の増加と調整不能な牧草地利用の間に生じた矛盾が急激な沙漠化を引き起こした。市場経済に移行したモンゴル国でも都市部において土地の私有化がすすめられ、将来的に牧草地の私有化が行われるのではないかと危惧されている。つまり、遊牧に頼ってきたモンゴル国と内モンゴルは、両者ともそれぞれ微妙に異なる市場経済による環境の変化に晒されている一方で、ここ十数年の急激な経済発展のなかで、両者とも中国経済の原材料供給地となり、地下資源開発ブームに沸いている。   ネメフジャルガルさんの報告で特に注目すべき点は、資源開発によって内モンゴル各地で起きている工業汚染、デベロッパーと地方政府の利権絡みで強引にすすめられる開発プロジェクトとそれに対するモンゴル人の抗議活動など、現地で起きているなどの最新情報であった。本セッションの直前に、内モンゴル自治区共産党委員会書記(自治区のトップ)が交替し、前書記の王君氏が力を注いていた「十個全覆蓋」(十大インフラ整備)という内モンゴル全体を巻き込んだインフラ整備運動が中断されたというホットなニュースが報告された。内モンゴル史上最大の「面子工程」といわれるこの強引なインフラ整備運動を、人々は色とりどりに化粧された羊に例えて風刺したり、宴席の笑いのネタにしたりしていた。このプロジェクトによって、内モンゴル各地の地方財政は大きな負債を抱えたといわれている。情報化、グローバル化の時代と裏腹に、中国の少数民族居住地域で起きているこうした情報は国際社会に伝わり難いので、本セッションの趣旨に沿った大変有意義な報告であった。   2番目の報告者は内モンゴル大学のナヒヤさん(2007年度渥美奨学生)で、テーマは「内モンゴルにおける小学校の統廃合問題:フルンボイル市新バルガ左旗を事例に」であった。中国では、2001年ころから「撤点并校」と呼ばれる農村の末端地域にある小中学校の統廃合政策がすすめられ、農村の子供たちは県(内モンゴルでは旗・県)政府所在地などその地域の中心都市に就学することになった。それにより、村から学校までの距離は遠くなり、子供が下宿するため親が都市部にアパートを借りで子供の世話にあたり、村の生活がおろそかになることや就学バスの事故が多発して大きな社会問題となっている。問題の重大さに気づいた中国政府は2012年に見直し、統廃合にブレーキをかけたが、それまですすめられた政策の影響は全国的で深刻なものである。   末端小中学校の統廃合運動は分散居住する少数民族地域ではさらに大きな混乱をもたらし、その影響は人口の密集する地域よりもさらに深刻である。モンゴル族が分散居住するフルンボイル市新バルガ左旗の場合は、強引な統廃合や都市化による人口流出で自然廃校してしまい、人々は教育の質を求めてより大きな町の学校へ進学するという状況が生じた。現在、内モンゴルの牧畜地域では、ほとんどの末端小中学校が廃止され、旗政府所在地に旗内のすべての子供たちが修学するために集まるという状況になっている。それは結果的に、モンゴル族の文化と社会の将来を担う次世代の子供たちを、生の民族の生活から強引に引き離し、同化に拍車をかけることになっている。   3番目の報告者は新疆ウィグル自治区出身のイミテ・アブリズさん(2002年度渥美奨学生)であった。化学を専門とするアブリズさんは現在新疆大学で教鞭をとっている。周知の通り、現在の新疆ウィグル自治区は中国の少数民族自治区のなかでも最も情報の閉鎖された地域の一つであり、そうした政治的な閉塞の陰で、経済や社会的な変化に関する情報も見えにくくなっている。本セッションを企画するなかで、専門の異なるアブリズさんに経済や社会に関する報告を準備していただきとても感謝している。   新疆ウィグル自治区は中国屈指の石油、天然ガスと石炭の埋蔵庫であり、中国全体のエネルギー資源埋蔵量の1/3を占めるともいわれている。また温暖な気候をもつ新疆では近年、綿花やトマトの生産が盛んに行われ、農業でもその重要性が増している。急激に成長する中国経済にとって新疆がもつ豊かな資源は益々重要な存在となっており、ウィグル族をめぐる政治的問題と並んで新疆がもつ経済的な意義も軽視できない。しかし、2015年の新疆のGDPは中国31の省・市・自治区のなかで、後ろから6 番目に留まっている。豊富な資源があるにもかかわらず経済発展に恵まれないこのような現象をアブリズさんは「資源の呪い」に例えた。新疆は旧ソ連圏の中央アジア諸国やアフガニスタン、パキスタンなど西アジア諸国への玄関口であり、その地政学的重要性は新疆のインパクトを一層強めることとなっている。   2014年の統計によると、新疆ウィグル自治区の総人口は2322万人に達し、そのうちウィグル族の人口は自治区総人口の48.53%を占める1127万人であり、漢族は859万人(37.01%)、カザフ族は159万人(6.88%)であり、チベット自治区を除けば、漢族人口が半分に満たない唯一の自治区となっている。また、ウィグル族とカザフ族を合わせると全自治区総人口の55%がトルコ系のイスラム教徒によって占められるという点も注目に値する。この2つの特徴が今日新疆を取り巻く複雑な状況の背景にあることは間違いない。ちなみに、同じイスラム教徒である回族も百万人(5%弱)居住している。   各民族の規模や力関係をめぐるこうした状況は民族教育にも色濃く反映されている。新疆では、ウィグル族を対象に「双語教育」(バイリンガル教育)という政策が厳しく実施されている。バイリンガル教育とは本来、2つの言語を均等に操ることのできる状態を指すのが一般的で、ウィグル族も含めてモンゴル族やチベット族、朝鮮族といった独自の言語と文字をもつ少数民族は、小学校3年まで自民族の言語や文字で勉強し、小学校3~4年生のころから中国語を学び始めるのが従来のやり方であった。しかし、現在新疆で実施されているのは、ウィグル語を母語として生まれた子供たちに小学校1年生から中国語で教育を受けさせ、母語のウィグル語はいわばひとつの言語として学ぶというものであり、何よりも中国語によるコミュニケーション能力と知識習得を重視している。これも新疆における民族対立の根底にある要因の1つだと囁かれている。   最後の報告は奇錦峰さん(2001年度渥美奨学生)による「ゴースト・タウン(鬼城)『康巴什』」であった。中国の広州中医薬大学教授の奇さんは内モンゴル自治区オルドス(鄂爾多斯)出身のモンゴル族であり、彼の故郷のオルドスは「鬼城/ゴースト・タウン=康巴什(ヒヤバグシ)」が位置する地域として世界的に有名である。夏休みに広州から遥々内モンゴルに行って現地調査をし、報告を準備してくださったことを大変感謝している。   内モンゴル自治区西部の沙漠のど真ん中にあるヒヤバグシは「中国のドバイ」或は「中国のラスベガス」ともいわれている資源バブルで急成長した幻の都市である。黄河と沙漠に囲まれたオルドスはもともと牧畜業を中心としてきた内モンゴル自治区の盟(市)レベルの地域の一つで、モンゴル族の生活舞台であったが、改革開放後の1980年代からカシミア山羊の飼育に成功し、有名な「鄂爾多斯カシミア」ブランドで世界中にその名が知られるようになった。   そのオルドス沙漠の地下には豊富な石炭が埋蔵していることが発見されて、1990年代から採掘が始まった。ちょうど中国が経済発展期を迎える時期であり、オルドス南隣に位置する中国最大の石炭採掘地域である山西、陝西両省の石炭資源が限界を迎えていた時期とも重なったのである。この2つの偶然がオルドスの運命を変え、2000年にわずか15億元しかなかったGDPは、2009年には2000億元にまで膨れ上がり、わずか9年で香港を超えて「オルドスの奇跡」と呼ばれた。まさに中国の急激な経済発展が少数民族地域にもたらした典型的な資源バブルである。経済規模の膨張に伴ってオルドス市は沙漠のなかに百万人が居住できる新都市の建設に乗り出し、世界的に有名な建築家たちを集めてインパクトの強い建物と大勢の市民が居住する高層住宅を建設した。   それと同時に、加熱する不動産業への投資として金融活動も活発になり、シャド―・バンキングとも呼ばれる民間の金融業者が横行し、オルドスは浙江省の温州とともに中国の金融バブルを代表する闇金融の代名詞ともなった。しかし、バブルの饗宴は長つづきせず、リーマンショックによる世界的な需要の低下によって石炭の需要も減り、2010年ころからオルドスの経済は失速した。現在百万人を収容できる都市に5万人前後しか人が住んでおらず、ヒヤバグシは中国に数多くある「ゴースト・タウン」の代表格として定着した。草原と沙漠と遊牧でしか知られていなかった内モンゴルの奥地に何故世界的なゴースト・タウンができたのか。わずか十数年の間に、蜃気楼のように現れた「オルドスの奇跡」は一体何を物語っているのか。奇さんの報告は、聴講者に深く問いかけるものであった。   自主セッション「中国の少数民族地域におけるバブルとその遺産」では、中国の少数民族出身の4名の元渥美奨学生にそれぞれの故郷で起きているホットな出来事を報告していただいた。現代中国を内陸部から理解するためのとても重要な情報発信であり、これは渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)がもつソフトパワーの1つでもあると思う。   当日の発表資料(抜粋1)と会場風景   当日の発表資料(抜粋2:オルドス)   <ボルジギン・ブレンサイン> 渥美国際交流財団2001年度奨学生。1984年に内モンゴル大学を卒業後内モンゴル自治区ラジオ放送局に勤務。1992年に来日し、2001年に早稲田大学で博士学位取得。現在は滋賀県立大学人間文化学部准教授。   2016年11月4日配信  
  • 2016.10.27

    エッセイ509:ラムサル・ビカス「AFC円卓会議『人とロボットの共生社会をめざして』で学んだこと」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#4)   2016年9月29日から10月3日まで北九州市で開催された第3回アジア未来会議は、私にとってとても楽しく、またたくさんのことを学んだ貴重な機会でした。総合テーマは「環境と共生」で、20ヵ国から約400人が参加し、多分野に亘る国際的かつ学際的なセッションがたくさんありました。ここでは、9月30日の午前中に北九州国際会議場で行われた4つの円卓会議の一つである「人とロボットの共生社会をめざして」について報告します。   この円卓会議の発表者は、東京大学名誉教授の井上博允先生、立命館大学教授の李周浩(Lee Joo-Ho)先生、ロシア・カザン連邦大学教授のイヴゲニ・マギッド(Evgeni Magid)先生、九州産業大学教授の李湧権(Lee Yong-Kwun)先生、韓国ROBOTIS社のピョ・ユンソク(Pyo Yoon-Seok)先生、ミュンヘン工科大学教授のディルク・ウォルヘル(Dirk Wollherr)先生、上海交通大学の李紅兵(Li Hongbing)先生の7名で、討論者は東京大学の文景楠(Moon Kyungnam)さんとAtelier OPA代表取締役の杉原有紀さんでした。座長は李周浩先生とイヴゲニ・マギッド先生が務め、使用言語は英語でした。   会議は井上先生の基調講演から始まりました。新しい技術に取り組んでいらっしゃる先生は、「コボット:私たちと協働するロボット(COBOT: Robots that collaborate with us)」というテーマで、iPhoneからプロジェクターに出力して発表をされました。50年以上のロボット研究の経験をお持ちの先生は、ロボットに新しい名前を付けてコボットと呼んでいます。共同作業ロボット(COllaborative roBOT)という意味で、ロボットは人間と共同作業をしているという意味を深めるためです。将来、会社などでロボットは労働者として使われるようになり、人口減少の影響により起こる深刻な問題を解決するロボット・ソリューションについての興味深いお話でした。   李周浩先生は「漫画アニメーションにおけるロボットの社会や人間の共存(Coexisting societies of robots and human beings in cartoon animation)」というテーマで発表されました。日本には多くの漫画やアニメーションがあり、そのいくつかはロボットと人間の共存を扱っている事を知りました。1951年に発表された「鉄腕アトム(Astro Boy)」という漫画が、ロボットに関する10の法則を伝えおり、それを参考にして現在のロボットができたという話は、真実であろうと感じました。1969年に発表された「ドラえもん」は、人間とは違う姿をしていますが、人間と同じように考え、人間のために働いてくれるロボットです。言うまでもなく、ロボットはあくまでも人間のために働いてくれる存在なのです。他にもロボットと人間の共存を示す漫画アニメーションが流行っていますが、結論を言うと漫画アニメーションで見られるものは現実の技術レベル以上です。しかし、いつか必ず私たちの日常生活の中に取り入れられてゆくのだろうと感じました。   イヴゲニ・マギッド先生は「都市捜索救助シナリオにおけるモバイルロボットアシスタント(Mobile Robotic Assistants in Urban Search and Rescue Scenarios)」というテーマで発表されました。人間が行くことができない環境と危険な場所に、人間の代わりに行ってくれるモバイルロボットの活用についての発表でした。この発表では起伏の多い地形や瓦礫などで救助が困難なときに、安全でより良い経路を見つけるロボットが、被災地でとても役に立つ事が示唆されています。   李湧権先生は「九州産業大学のヒューマンロボティクス研究センター(HRRC)における研究活動(Research Project of Human-Robotics Research Center in Kyushu Sangyo University)」というテーマで発表されました。リハビリや介護の現場は人手不足が問題になっているため、それを解決するリハビリロボットの開発についての発表でした。現在では、高齢者や脊損患者のリハビリ支援に役立つロボット、全身性麻痺患者用移動支援ロボットや、ベッドの上での生活を介助するロボット開発が進んでいる事がわかりました。   ピョ・ユンソク先生は「なぜ『ヒューマノイド』が必要とされるのか?(Why is “HUMANOID” requested?)」というテーマで発表されました。人間との共生の視点から人間型ロボットの利点、人間型ロボットの外見から機能までの開発条件、人間と人間型ロボットの間の望ましい共存のための予見などについての発表でした。   ディルク・ウォルヘル先生は「人間環境におけるロボットアクションの相互作用の意識(Interaction-awareness for robot action in human environments)」というテーマで発表されました。自然で直感的なロボットアクションは、人間の環境で採用される将来のロボットの受け入れ先を増やすための鍵だということを教えて頂きました。人間は新しい状況に適応する能力を持っている。この人間との対話を目指すロボットは直感的なインターフェイスを持つことが、特に重要になると力説されました。   李紅兵先生は「手術用ロボットの力感知および制御(Force sensing and control for surgical robots)」というテーマで発表されました。現在多くの低侵襲性外科手術の手順は、遠隔操作ロボットシステムを用いて行われていますが、このような一般的なシステムでは外科医の「微妙な力加減」のコントロールシステム(フィードバックシステム)が内蔵されていません。特に、人の持つ組織は繊細なため、外科医に与える触覚的なフィードバックの欠落は、安全で複雑かつ繊細な手術においてボトルネックになっています。そのため手術ロボットの失敗操作が多いという事を知りました。このような失敗をなくすために、力のフィードバックシステムを内蔵した施術ロボットの開発に取り組んでいるそうです。   以上がロボット技術者からの発表でした。最後に、招待討論者の杉原さんは、噴水指輪のデザインと開発を紹介し、ロボット開発にもデザインが大事だということを発表されました。   同じく招待討論者の哲学者である、文景楠さんがいくつかの大事な点をコメントされました。多方面におけるコメントでしたが、一番話題になったのは「ロボットが失敗したら、だれの責任か?」という質問でした。その答えは、開発者の責任になるとも言えますが、私は技術者としてロボットを制御する人の責任でもある、と発言しました。   本会議で色々な種類のロボットについて学ぶ事ができました。ロボットと人間がどのように共存する社会を目指していくか、様々な事を考えました。問題点は多くありますが、技術者は問題解決に向け日々研究を行っている事を知ると共に、ロボット技術の研究開発には、ただ技術者だけではなく哲学者やデザイナーなど理系、文系の枠を超えた学際的なアプローチが必要だという事がよくわかりました。   当日の写真   <ラムサル・ビカス Lamsal Bikash> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。トリブバン大学科学技術学部。物理学科を終えて、2010年1月に日本語学生をとして日本へ来日。2014年3月に足利工業大学大学院修士課程を取得。2014年4月から足利工業大学大学院博士課程情報・生産工学専攻に入学。現在は顔検出技術について研究中。
  • 2016.10.20

    エッセイ508:マックス・マキト「マニラ・レポート2016@アジア未来会議」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#3)   当初、日本の風景をゆっくり楽しもうと考えて、東京から鈍行列車で北九州まで行きたいと思っていたのだが、結局、仕事の関係で1日遅れて第3回アジア未来会議(AFC)に参加した。今回、フィリピンからの参加者は30人で、その4割ぐらいは何等かの参加補助をいただき、残りは自費でやってきた。意外にも、毎回自費参加者の割合が増しているようで嬉しく思っている。フィリピン人の中でAFCの評判が高まっている証拠といえよう。   僕は、10月1日(土)に発表者、座長、討論者として参加した。と同時に、できるだけフィリピンからの参加者の世話をした。このエッセイでは、討論者としての役目を中心に話したい。   それは、国士舘大学の平川均教授と北陸大学の李鋼哲教授が座長を務める自主セッション「アジア型開発協力」で、「東アジアを中心にして過去半世紀以上にわたって経済成長を実現してきたこの地域は、欧米とは異なる形の開発協力や地域協力の枠組みを創り上げてきたように思われる。しかし、そうした地域における協力や開発の在り方が欧米とはどう異なるのか、また独自の協力の在り方をどのように整理し、ひとつの理念あるいは哲学に育て上げるかは依然として課題である」という問題意識に基づくものであった。   午後の2セッションを使う長丁場であったが、僕は、午後2時から他のセッションで座長の仕事があったので、後半しか出られなかった。参加者の積極的な議論が続き、セッションが終わろうとしていた時、わざわざ会場まできた今西SGRA代表からフィリピンの参加者に関する事務的手続きについて連絡があったので、部屋から静かに出ようとしたところ、座長の平川先生から討論のご指名をいただき、逃げ道は塞がれてしまった。普段の研究や授業では日本語をあまり使わないので、学会などではできるだけ発言を控えているのだが、しかたなく、一生懸命書いておいた日本語のメモを思い出しながら、以下のような感想を述べた。   後半の最初の上海財経大学の範建亭先生の発表では、中国の国際政治関係が経済関係に影響を与える因果関係を特定する試みを興味深く拝聴した。因果関係をもっと突き止めるために、範先生は別の経済学モデルを取り入れると言われたが、今の方法論でもう十分ではないかとコメントした。ただ、心配な点もある。それは、範先生の分析にはさまざまな国が入っているのに、僕の母国のフィリピンが入っていないことである。単にデータがないのか、それともフィリピンと中国の外交関係が問題なのか。   残念ながら、時間切れで回答を聞けなかったが、その時に思い浮かんだのは、最近、領土問題でフィリピンと中国の外交関係が膠着状態に陥っていることである。仮に政治関係が経済関係に影響するという分析が正しいとしても、その背後にある考え方は危険ではないだろうか。つまり、国際政治関係が悪化したら、経済関係も悪化するという状況は好ましくない。両国の関係が悪くなった時にこそ、なんらかの形で両国の繋がりを保つのが賢明な方策であろう。   後半の最後の報告は、李鋼哲先生のアジア的モデルの提唱だった。欧米の援助や開発の考え方とアジア的なものとの区別を明確にするということは、大変意義があると最初にコメントした。援助理念を明確化するのは重要な作業だ。李先生の発表にも取り上げられた、世界銀行が1993年に発行した「東アジアの奇跡」報告は、実は、被援助国の自助努力を尊重する日本が欧米の援助や経済開発に対抗した結果であると指摘した。   僕の目から見ると、当時の日本は輝いていたのだが、その後の受身姿勢に対してはがっかりしている。最近のDAC(開発援助委員会:OECDの委員会のひとつ)の査読(ピア・レビュー)を読むと、日本が提唱してきた「被援助国の自助努力を支援する」という理念が、欧米でも認められるようになっていることがわかるのだが、その合理性がまだ十分に説明されていないという課題が、20年以上経っても残っている。日本人は曖昧さを好んでいるが、やはり国際的な場では、もっと明確に説明しないといけない。それは他国と違ったやり方をしている時にこそますます重要であるといえよう。   以上のように「政治外交関係が経済関係に影響を与えること」と「開発援助理念の曖昧さ」の2点を指摘したが、実は、これが今の南シナ海の緊張に不安材料を与えている。本来、被援助国の経済発展のために使うべきODAが別な目的のために使われかねないからである。具体的な例として、日本のODAがフィリピンの軍備に使われていることを取り上げた。すぐに会場から「まさか!」という反論を浴びた。「日本のODAにはそれを防ぐための装置があるはずだ」と。僕は一歩も譲らずに、平和憲法があっても武器輸出が始まっていると反論した。最後に座長の平川先生の「鶴の一声」によって、どちらかというと、僕の側が優勢で議論が終わった。   その夜、ホテルに戻ってオンラインで調べたら、記事を見つけたので、「会場から『信じられない』という反応があんなにあって驚いた」と書き添えて、その記事のリンクを平川先生にメールした。     2015年6月5日のフィリピンの新聞の記事で、「日本は来年から新哨戒船10隻をフィリピンに引き渡す」という題名である。駐日フィリピン大使が、「これらの船はODAの一貫として引き渡される。今までのインフラ整備中心の方針と違う」と語っている。領土問題になっている西フィリピン海(南シナ海)で活動させるという。2020年まで、日本、韓国、米国、イスラエルからの武器輸入でフィリピンは自国の防衛体制を充実させる構えである。   翌日の打ち上げ夕食会でも議論が続いた。同じような意見を述べ、同じような結論に辿り着いた。僕の主張は正しかったわけだが、全然嬉しくない。むしろ、これからどうなるか非常に心配である。   酒の勢いで陽気になったあらゆる国から来た狸たち(註:元渥美奨学生)は、僕の心配を少し晴らしてくれた。「あなたの国の大統領が大好きだ!」と、ミャンマー、内モンゴル、韓国の狸たちからエールが送られた。僕も暴れん坊の大統領を支持しているが、最近の行動は心配の種になっている。これからの難しいかじ取りを上手くしてくれるよう祈っている。   <マックス・マキト ☆ Max Maquito> SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械工学部学士、Center_for_Research_and_Communication(CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。     2016年10月20日配信
  • 2016.10.18

    エッセイ507:川崎剛「あの戦争の名前、そして『国史たちの対話の可能性』」

    (第3回アジア未来会議「環境と共生」報告#2)   あの戦争が終わったのは、1945年8月15日だったとみんなが思っている。昭和天皇がラジオで「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」と、連合国のポツダム宣言を受け入れ無条件降伏すると発表したからである。朝鮮などの植民地ではこの日、日本の敗北を知った人たちが歓呼したという。   しかし、正式に日本がポツダム宣言の受け入れを連合国に伝えたのは、前日の8月14日だった。そして中立国のスイスとスウェーデン駐在の日本公使を通じて受諾の意思が伝わったのは、それより4日前の8月10日。   米国の対日戦勝記念日は9月2日だ。米戦艦ミズーリ号上で日本の全権重光葵外相が降伏文書に調印した日である。相手はダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官。ニューヨーク・タイムズが一面に3本の大見出しで伝えている。(The New York Times, September 2, 1945)  「JAPAN SURRENDERS TO ALLIES,      SIGNS RIGID TERMS ON WARSHIP;       TRUMAN SETS TODAY AS V-J DAY」   中国では、日本軍が南京で降伏文書に調印したのは9月9日だったが、中国の対日戦勝記念日はミズーリでの連合国軍への降伏文書調印翌日の9月3日になっている。ソ連もそれにならったかのように、9月3日。戦争が終わった日を8月15日とする国は日本だけである。   ヨーロッパの戦勝記念日は5月8日で、ヒトラーが自殺した8日後だった。あの戦争を戦った各国は、それぞれの「終戦記念日」を持っている。   戦争の名前も、それぞれ異なっている。「第二次世界大戦(Second World War, World War II, Seconde Guerre mondiale, Zweiter Weltkrieg)」という認識は同じようだけれど、人口に膾炙した名前は米国では「Pacific War(対日)」「European War(対独伊)」だった。ソ連では「大祖国戦争(Great Patriotic War)」と呼ばれたが、それはナポレオンとの戦争(1812)が「祖国戦争(Patriotic War)」だったので、それより激しかった今回は、「大(Great)」が加えられたかららしい。中国では「抗日革命・世界反ファシズム戦争(抗日革命世界反法斯思戦争)」である。それぞれの国と人民の意識の中で、あの戦争は同じではない。   日本では、米英に宣戦布告した東条英機内閣が決めた正式名称は「大東亜戦争」だったが、これも含めいろいろな名前にはそれぞれの感傷が張り付いている。それは、「太平洋戦争(米国とは戦ったけれど、中国戦線は無視したい)」「15年戦争(1931年の満州事変から本格化したあの戦争の長さとしては的確だ)」「日中戦争」「アジア太平洋戦争」など。(註)   素人であることは十分自覚しながら、ながながとあの戦争の名前や終わった日に思いをめぐらせているのは、9月30日に北九州市で開かれた第3回アジア未来会議のフォーラム「日中韓における国史たちの対話の可能性」を後列で聞いていたからだ。専門家・知識人レベルで、そして出来ることなら普通の人たちの間でも、歴史を語ることができるようになるためには、私たちはどのような作業を行っていかなければならないか。日本、中国、韓国の専門家たちが、この地域における「知の共同体」の現状とどこに向かうべきかを探るラウンドテーブルだった。   早稲田大学の劉傑教授が問題を提起した。劉さんは今が「歴史対話の低迷期である」と言い、相手の国の研究状況をお互いに学んだ上で、対話後の構想を練る必要性を訴えた。「東アジアの知の共同体はこの地域の最後の砦。知識人の対話が崩れたらとても心配だ」とも。だから東アジアで共有できる国史をどう作り上げていくか、知をぶつけあうために集まった。そしてこの場は、相手の国の資料がわかる留学生という特別な人材を将来に向けて育成する重要な場にもなるだろう。   韓国・高麗大学の趙珖名誉教授は、植民地体験もそれぞれの国史を規定するものであるとして、「右寄りの歴史観では国際平和を論じることはできない」と釘を刺した。日本だけの話ではないのだろうと私は思った。「高句麗は韓国史で大きな位置を占めるが、中国の地方史でもある。属地主義的な見方か属人主義的な見方かで事象は違って見える。日中韓の国史が交錯する明や朝鮮通信使などの複眼的な見方と資料を整理した関係史事典づくりが、それぞれの認識の違いを克服する作業かもしれない」。   また、中国・復旦大学の葛兆光教授は、「蒙古襲来(1274、1281)」、「応永の役(1419)」「壬申丁酉の役(1592):日本では『文禄の役』」を事例に、日中韓の外交的な歴史叙述の可能性を構想した。   三谷博・東大名誉教授は、新課目となる「歴史総合」が導入される日本の高校歴史過程の見直しについて、日本近代史についての文部科学省の枠組みが①近代化②大衆化③グローバル化、となっていることについて、「順番が違う。グローバル化が日本の近代化の発端だった」と批判した。そして若い世代にとって一番大事なのは、「自分の国を外から眺め、隣の国の国内史について学び合うこと。これがないと東アジア史に無知のまま終わる」と提言し、フォーラムのあり方について「対話だけではもう進まない。共同作業をやりましょう。自国で読める隣国の資料を編集した資料集を作りましょう」と呼びかけた。   このような形でのフォーラムはこれから少なくとも5回は続くのだという。これをきっかけにした実務作業も若い研究者を交えれば活発になるだろう。それぞれの国の政治経済や安全保障関係の影響を受けながらでも。   素人であることをもう一度強調した上で希望を述べておきたい。日中韓の「国史たち」とともに、私はこの3カ国にとどまらない関係史を知りたい。アジア地域が日本(とタイ)を除いて植民地だったという近過去を知っておきたいのだ。例えばベトナム戦争は米国と北ベトナムが戦った戦争だが、ベトナムはその前にはフランスと独立戦争を戦っていた。フランスの前にベトナムを支配していたのは、日本軍だ。   自国の歴史を美しく書き直したいという歴史修正主義が、一時的とは思えない気分とエネルギーを醸し出している今の日本である。「国史たちの対話フォーラム」とそれを支える日中韓の「知の共同体」の発展は、重要で緊急であると考える。     英訳版はこちら     <川崎剛(かわさき・たけし)Kawasaki Takeshi>  津田塾大学非常勤講師、元朝日新聞アジアネットワーク(AAN)事務局長   (註) Karoline PostelVinay,“The 70th anniversary of_1945: Trouble_ahead,” presentation at Temple University Japan Campus on Feb. 27, 2015▼佐藤卓己「増補 八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学」(2014年、筑摩書房)▼小森陽一「天皇の玉音放送」(2003年、五月書房)▼半藤一利「十二月八日と八月十五日」(2015年、文春文庫)▼山田侑平監修「『ポツダム宣言』を読んだことがありますか?」(2015年、共同通信社)、などを参考にしました。     2016年10月13日配信
  • 2016.09.15

    エッセイ506:葉文昌「蓮舫の二重国籍」

      本人が台湾国籍が残っていた事を知らない訳はないと思う。なぜならばそれは帰化した台湾人の中では常識のようなものだから。おそらく知らなかったと茶化していた。帰化した台湾人の多くは、法律的な抜け道をいい事に、台湾国籍を残している。その抜け道とは日本は台湾を国として認めてないので、台湾国籍は日本では意味を持たないという考えだ。でもそれは風見鶏的で潔くない。そのような考えの台湾人をたくさん見てきた。   私の父は帰化しているが、父は潔く台湾国籍は完全に捨てている。私にも早く帰化しなさいと言うが、私は日本ではまだ外国人のままでいたい。みんなと同じになってしまって村民の1人になるのが嫌だから。へそ曲がりなのかな。そして色々異論を言っても「外国人だから」と諦められる。でも正直、帰化しない不都合は多々ある。例えば将来私が退職して日本に住めなくなって帰国したら、それまで収めた年金を定年後はもらえなくなって無収入な老人になる。帰化についてはいつかするかもしれないし、しないかもしれない。でも外国人でありながら日本人に日本の社会に残って欲しいと思われる人でありたいと思って頑張っている。   一方で国籍は私にとって意味を持たない。国籍よりもその社会で生を得ているならその社会に忠誠を尽くすべきだから。野口英世もイチローも本田も、海外で活躍の場を求めて海外で給料をもらっている以上、お金を出してくれている社会に忠誠を尽くすべきである。「日本が好き、日本に忠誠」と言うならば、日本のスポーツの発展のために国へ戻ればいいのである。海外で活躍の場を求めた人より、この日本の地で働いている人の方が、たとえ外国人だとしてもこの地ではより尊いのである。今も海外で活躍している日本人は多くいるし、これからもっと増える。その人達にとっても、忠誠心を示すべきは国籍の国ではなく、生かしてもらっている国であるべきなのだ。そして彼らはその国に尽くしているのでその国では尊い存在であるはずだ。   蓮舫の件は擁護する気はないが、でもひどい二枚舌を持つずるい政治家は他にたくさんいる。日本の社会にとって、プラスになるかならないかが重要だ。日本の社会に風穴を開けて欲しい期待はある。また蓮舫は二重国籍だった訳だが、台湾で暮らした事もない事から、国籍の紙以外は完全に日本人である。それをスパイやら言うのなら、イチローも本田も野口英世も日本が送り込んだスパイになる。   ---------------------------------- <葉 文昌(よう・ぶんしょう)Yeh_Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。 ----------------------------------       2016年9月15日
  • 2016.09.15

    エッセイ505:林泉忠「南シナ海仲裁と脆弱な中台関係」

      国際裁判所による南シナ海仲裁案の裁決結果は、ほぼ中国の「全面敗訴」と見なされた。これに対し中国政府は全てのメディアを用いて反論に出ると同時に、中国国民の新たなナショナリズムに火を付けた。「米日菲韓」に対する排外感情はネット上で急速に拡大しており、その影響がケンタッキーやマクドナルドといったアメリカ資本の企業にまで及んでいる。奇妙なことは、台湾の蔡英文新政権が中国が求めている1992年に中台が「一つの中国」をめぐり「合意した」という「92年コンセンサス」を認めなかった結果、台湾に対し「地が動き、山が揺れる」と態度を表明したばかりの北京が、今回は「台湾を見逃した」ということである。その原因は明らかで、蔡英文政権の今回の南シナ海仲裁結果に対する回答が北京を「ほぼ満足」させるものであったためである。それはいったいどのような理由だったのだろうか?台北と北京が南シナ海の問題で「対外的に一致する」ことは珍しいが、これが双方の関係を真に雪解けさせる契機となるのだろうか?   ◇台北の2度の表明で中国ナショナリズムの標的回避に成功   実際、どのように南シナ海仲裁案に対応するかは、蔡英文政権発足後、最初の対外関係処理の智慧を試される難題でもあった。   蔡英文総統は南シナ海問題を処理する上で4つの要素を考える必要があった。それは、台湾自身の利益だけではなく、米国、中国大陸、東南アジア諸国との関係維持である。言い換えれば、発足したばかりの蔡政権が南シナ海仲裁判決に対する声明を如何に作成するか、その鍵となるのは台湾が如何に自身の立場を明らかにするのかということと同時に、他の三者との関係にも配慮することであった。外交の場において北京の制約を強く受ける台湾は、この点に智慧を絞らざるを得なかった。これに対し、7月12日の仲裁結果が出る前、総統府内では連日レーンと南シナ海の専門家が招集され話し合いが開かれていた。また、机上演習での多くの対策案が作成された。デン・ハーグ常設仲裁裁判所が、台北時間午後5時に仲裁結果を発表後、総統府は迅速にその内容に基づき連夜声明を発表した。その内容は2点に集約される:   1、中華民国は南シナ海の諸島及びその関連海域に対し、国際法及び海洋法上の権利を享有している。 2、仲裁に関連する裁判の判断は、特に太平島への認定に対して、我が南シナ海及びその関連海域の権利に重大な侵害を及ぼし……、我々は一切認めず、今回の仲裁判断は中華民国への法律的拘束力がないことを主張する。   北京は実際台湾が如何に表明するかということに対し関心を抱いていた。ゆえに、台北が「一切認めない」及び「この仲裁判断は法的拘束力を持たない」などの決して軽くない立場を表明した時は、ほっと一息ついて、喜んで受け入れた。   しかし、北京と異なり、裁決が出る前に台北が策定していた文案の中には、「一切認めない」という言葉はなかった。なぜなら裁決が公布される前は、結果が台湾に対して不利なものになるかどうかは全く予想することができなかったからである。よって、最終的に出てきた「一切認めない」という表現は、すべての人々を驚かせ、それは「太平島は島ではない」という予想だにしなかった結果の賜物であった。   裁決に対する台北の表明に関して、実際には総統府の声明発表は、第1歩に過ぎなかった。第2歩は、2日後の7月14日に行政院長の林全が自ら作成した比較的具体的な説明であった。主軸は仲裁案を批判し「3つの不適当」、更に「4つの主張」を行った。   いわゆる「3つの不適当」とは、一つ目に、仲裁裁判所が用いた「中国の台湾当局」(Taiwan_Authority_of_China)という不当な呼称は、中華民国の主権国家としての地位を矮小化していること。二つ目に、仲裁裁判所が勝手に権限を拡大し、仲裁の対象ではなかった太平島の法律地位を「岩」と認定したことは、わが国の権利を大きく損なったこと。三つ目に、審理の過程で台湾は裁判への参加や意見を求められなかったこと。   「4つの主張」に関してポイントとなるのは、「台湾は南シナ海の多角的な紛争解決メカニズムに欠くことのできないメンバーであり、多角的な紛争解決メカニズムに入るべきである」、「我が国は迅速に関係する各方面と多角的な対話を行い、南シナ海での環境保護、科学研究、海上犯罪取締り、人道支援及び災害救助などの非伝統安全保障問題での調整メカニズムを確立すること」である。   ◇蔡英文はなぜ南シナ海U字線に関する発言しないのか?   もし12日の晩に総統府の声明が北京との南シナ海問題における立場の近さを表したものであるならば、林全は一方で中台の主張の差異を明らかにした。その4つの主張から見えてくるものは、中国大陸に対する呼びかけであり、それは台湾を対話メカニズムに入れる要求であると理解することができるだろう。   腑に落ちないことは、蔡英文政権が南シナ海の主張をするうえで、大陸との最大の差異が、政権が発表した2つの声明の中にはなかったことである。蔡が省略したものとはまさしく北京が最も気にしている、台湾のU字線の立場である(北京はこれを「九段線」、台北はこれを「十一段線」と呼んでいる)。U字線の起源は第二次世界大戦終結後、当時まだ大陸にあった中華民国政府が1947年に公布した「南海諸島位置図」である。中国共産党が政権を打ち立てた後は、周恩来がベトナムとの関係に基づき、1953年、自発的に「十一段線」のベトナムに近い北部湾、東京湾の二段を取り除いた結果、現在の俗に言う「九段線」が出来上がった。その後北京は「九段線」内の東沙、西沙、中沙、南沙の四大群島を固有の領土だと公に言明した。   馬英九政権時、早くもアメリカは台北に「十一段線」の根拠を明らかにするよう要求しており、これらの線が一体国境線なのか、海の島の帰属線なのか、それともその他の属性の境界線なのかを明確化するよう求めている。しかしながら、ワシントンはこの件に関して馬英九政権にはっきりと断られた。   では実際には、中華民国内政部は1947年にどのような根拠を基にして「南海諸島位置図」を描いたのか、台湾の各档案館に所蔵されている膨大な南海史料からはその答えに関する文献や説明は見つかっていない。当初この図を作成した重要な背景には抗日戦争勝利があり、中華民国には日本撤退後に「新南諸島」接収の計画があった。「南海諸島位置図」内のU字「十一段線」は経緯度がはっきりと示されておらず、もし歴史的経験を軽視した国際法へU字線内すべての島嶼の主権を主張してもその帰属確定は容易ではなく、更にはすべての海域の権利の所属は言うまでもないだろう。加えて日米と国際社会の圧力及び自身の実力を考慮に入れると、蔡英文政権が北京の「九段線」の主張が仲裁裁判所で否決された後、U字線に関する発言をすることが躊躇されたのであろう。   ◇南シナ海裁決 中台関係の脆弱さが露呈   仲裁裁判所判決の際に、中台政権の「デュエット」的現象が見られた。しかしながら、それは民進党政権の南シナ海における政策が北京を「安心」させることを意味するものでは決してない。   台湾は、釣魚台(尖閣諸島)と南シナ海の主権を有していると主張している。しかし前者の口頭のみの主張と異なるは、台湾は今まで太平島(中洲島も含め)を有効管理してきたと言う事実である。南沙最大の天然島嶼を有しているゆえに、台湾の未来はどのようにこの島を経営していくのか、中国とアメリカの先の見えない南シナ海のシーソーゲーム及び東南アジア国家の発展と友好関係が進んでいる中で、一挙手一投足が全局面に影響する「弱者の鍵」の役割をどのように演じるのかということで、非常に多くの操作可能な空間を台湾は確保している。もし将来アメリカがある時太平島の使用を要求してきたら、台湾は許可するだろうか、どのような条件と範囲内において許可するのだろうか、裁量できる幅は決して小さくない。よって台北の戦略としては、「完全にアメリカに傾かない」という条件との交換で、南シナ海に関連する国際対話メカニズムの既定政策へ台北の参加を認めさせるため、北京の譲歩を引き出すことも含まれている。   確かに、台湾にある「中華民国」の存在に関し、中国は一切承認しないという基本的立場を有しており、「主権」にかかわる南シナ海問題において、台北の登場を中南海が承諾し、中国とASEANの南シナ海対話の舞台へ、台湾が上ることは決して容易ではない。しかしながら、台湾を排除し続けることで生じる損得を、北京は慎重に考慮する必要もあるだろう。   一時的に蔡英文政権を見逃した北京が、南シナ海裁決の対応に追われ疲れ果てている時、中国ナショナリズムの怒りの炎が「意外にも」台湾にも及んだ。台湾の俳優のレオン・ダイ(戴立忍)はかつて「ひまわり運動」や香港の「雨傘革命」などの社会運動を支持したために、中国大陸映画の「沒有別的愛」から降板させられ、彼はその事件後お詫びの声明を発表し、さらに「自分は昔から台湾独立分子ではない」と表明させられた。この事件は本来南シナ海裁決案で静まっていた中台関係に、再び齟齬をもたらした。   台湾社会で今年一月の台湾総統選前夜に起こった、台湾出身アイドルが韓国のTV番組で台湾の国旗を振った結果、中国から猛烈なクレームが入り謝罪を強要させられた「周子瑜事件」は記憶に新しい。一部の青陣営と緑陣営の支持者は、「戴立忍事件」の背後には中国ネチズン(ネット市民)が大陸の強大な経済力を梃に、台湾民衆の価値やアイデンティティに対して正しいとは思えない「いじめ」的行為を行っているとした。台湾社会活動家の王奕凱は、フェイスブックで「第1回中国への謝罪大会」を立ち上げ、ユーモアで風刺する方法で大陸のナショナリズムの波に対抗し、連日数万人もの参加を記録した。   南シナ海仲裁案にかかわる国際法の理解と解釈は、複雑な国際関係にまで影響を及ぼし、その背景としての「台頭」する中国は、少しずつ鄧小平が唱えた自らの力を隠し蓄える「韜光養晦」的外交方針から遠ざかり「筋肉を見せる」方針へと動いている。蔡英文新政権は「太平島は島ではない」という驚きから強硬な態度を発表し、それが意外にも台湾が直接中国のナショナリズムの洗礼を受けることを防止した。しかしながら、「戴立忍事件」は中台関係の一時的な「穏やかな」雰囲気を元に戻し、「中国台頭」下の中台関係の脆弱さを露呈したと言える。   ---------------------------------- <林 泉忠(リン・センチュウ)John_Chuan-Tiong_Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。 ----------------------------------     2016年9月15日配信    
  • 2016.09.08

    エッセイ504:蒋建偉「真夏の夜のバーベキュー」

      「盃盤狼藉」という言葉がある。中国古代の歴史書『史記』の言葉である。場所は田舎の酒宴、男女が入り交じって座り、飲み、酩酊し、遊戯をし――とうとう一面に杯や皿が散らかってしまったさまを言う。今でも大学の近所の居酒屋の座敷などでいくらでも繰り広げられる光景だ。今も昔も人は変わらない。こうして古代の人達も互いに語らい、ストレスを解消したのだろうか。   中国の古代にはもっと風雅な宴もあった。例えば「曲水の宴」――これは、流れる水に盃を流し、目の前を流れる前に詩歌を作らなければならないという遊戯である。詩歌ができなければ、罰としてその盃を飲み干す(なかには酒を飲むために初めから作らない不届者もいたかもしれない)。これは日本にも伝わり、広く行われたらしい。   雅にせよ俗にせよ、古来より人々の集まりに美食と美酒は欠かせない。いや人だけではない。日本の八百万の神も、美食や美酒に集まる。新嘗祭などはいい例だ。新しい収穫を人と神とが分け合い、ともに祝う。宴は神と人、陰と陽、雅と俗――そういったものが交錯し、混じり合い、溶け合う場でもある。   さて、去る7月22日の晩、私は渥美財団ホールの中庭にいた。バーベキューパーティーに参加するためである。集まってきたのは様々なる国籍の友人達――「朋遠方より来たる有り、亦た楽しからずや」なんて言葉もあるけれど、本当に遠方の人が多い。きっと孔子も遠方から来た友人を饗応したに違いない。「酒に量の制限は設けず、乱れない程度に飲んだ」という記録まで残っているけど、遠くから来た友人と一緒に酌み交わす光景を見た弟子がこっそり書き残したのだろう。   蓼科の合宿ですっかり仲良くなったみんなと挨拶を交わしながら、内心「うわぁ、やってしまった」と思った。自分で作った料理やお菓子を持ってきた人もいるのに、手ぶらで来てしまったからだ。「お国自慢料理」を募集していたのをすっかり忘れていたのだ。これは残念至極だった。   みんなの作ってきてくれた料理はどれもおいしかった。韓国の南さんのサラダはそれこそバーベキューの焼き肉にぴったりだったし、アメリカのリンジーさんのラタトゥイユはフランスパンとよくあった。ビカスさんのカレーを食べていると、ネパールを旅したくなった。料理を通じて人と通じ合うこと――そのことは、私に新鮮な驚きを与えてくれた。   私はとにかく好き嫌いが多い。まず肉が苦手、野菜も大人になるまであまり食べられず、子供の頃は海鮮や果物ばかり食べていた。   転機となったのは円覚寺で坐禅を経験した時のことだ。煩悩まみれで訪れた、寒風吹きすさぶ古刹で、ひたすら朝から晩まで坐り続け、心身共に疲れ果てた時、私の頭の中では好きな食べ物が回転寿司のように回り続けた。山を下りてただちに中華料理屋に駆け込んだことは言うまでもない。中国では古来より「民は食をもって天となす」という言葉が伝わっているけれども、私も血は争えなかったらしい。それ以来、食に興味を持った。とはいっても、相変わらず牛肉は食べられないし、口はやっぱり保守的だ。   しかし、遠い国から来た友人たちの心のこもった手料理を食べながら、世界の何処に行っても、きっと大丈夫だという希望が湧いてくる。そうだ、食は天下の人が共に楽しむものなのだ。友がいれば、世界のどこにでも食があるだろうし、食があれば世界のどこの人であれ、友を見つけられるに違いない。   さあ、主役のバーベキューだ。トウモロコシが美味しい。焼きたての貝を取ったら、となりの人は親切に美味しい食べ方を教えてくれた。火の上に並ぶ、多種多様な具材がみんなを結びつけてくれる。美食と美酒、居心地がよい空間――古来より人々を結びつけた宴は、いまでも私たちを結びつけてくれる。そして、未来においても、私たちや人々を結びつけてくれるに違いない。そんなことを思ったバーベキューパーティーであった。   「正月にはきっと、餃子を作ろう」 ―― そう誓いながら帰途に就いた。帰省したときに餃子の皮の作り方を習おう。そして皆に食べてもらいながら、また語り合いたい。   <蒋建偉(ショウ・ケンイ)Jiang_Jianwei> 2016年度渥美奨学生。2013年4月に早稲田大学文学研究科東洋哲学コースに入学、現在は博士論文を執筆中。専門は日本近世思想史、特に水戸学を研究の中心としている。     2016年9月8日配信  
  • 2016.08.25

    エッセイ503:グロリア・ユー・ヤン「ノマドの二都物語」

    (『私の日本留学』シリーズ#4)   ◆グロリア・ユー・ヤン「ノマドの二都物語」   「どこから来たどのような人が日曜日朝5時にJRに乗るか。そして何をしにどこに行くのだろう」。 私は本を読むふりをしながら新宿行きの電車を観察していた。手元の本は、井上章一の新書「京都ぎらい」。   これは実に妙な本だ。今まで読んできた京都関連の本は、主に季節、源氏物語、伝統、「和のこころ」をテーマにして、 抹茶、祇園、寺、町屋という「古都コンビニセット」を売り尽くすほかに、「番茶はいかが」や「一見さんお断り」など「イケズ」のネタを「京特産」に作り上げている。そして、「イケズ」について、ほとんどは「分析」や「批判」と名乗り、実際にはただ礼賛し、また神秘化させるだけだ。その流れの中に、淡々と自分の痛みを取り上げ、鋭く「イケズ」と思われる社会の構造と本質を真剣に深く追求するこの作は、実に異色である。そして、堂々と京都への憧れと大衆メディアの売り上げとの利害関係を明らかにするという勇気も素晴らしい。   「へえ・・・」ある京都人は、微笑みながらさりげなく質問を投げた。「(井上さん)嵯峨に生まれ、宇治に住んでいて、そして桂で働いているに?」嵐山(嵯峨)や桂離宮(桂)など京都の名勝として聞き慣れている人にとって、この質問の意図はさっぱりわからないかもしれないが、京都に住んだことある人は、これはすでに討伐の旗を揚げたことだという。井上さんは本の冒頭に嵯峨の昔話を始め、「洛中洛外」の意味、「洛中」の優越意識と「洛外」への差別などわかりやすく詳しく述べている。ここでは省略するが、一言でいうと、「京都人じゃないくせに、京のことなんか話にならん」ということだ。   去年まで京都で2年間暮らしていた。その前に日本に何度か来て、横浜にも住んだことがあったから、日本に慣れていると自信を持っていた。が、京都では、かなりショックを受けた。食べ物、言葉遣い、風俗習慣、人間関係、すべてが違う。ここは日本じゃない。ここは新しい世界だ。いや、むしろ本に載ってない昔のままかもしれない。京町屋のおとなしい出格子から、細く暗く奥深い裏にイケズのビッグボスが待っている恐怖がうすうす透けて光っている。   おもてなしとイケズのズレは、京都の特産ではない。商品として造られた見せ場としての観光空間が地元の社会関係の現場である生活空間と一致しないことは、世界中で繁栄している観光地の共通点である。表と裏の二重構造も、あらゆる事物の中に存在する。例えば、中世に、日本寺院建築は細長の部材でも大きな屋根を支えられるようになった。その秘密は、屋根の裏に桔木を入れ、それで屋根の重量を分散する野小屋という構造だ。目に見えないが、屋根の尾垂木の裏側に釘痕があることから、裏に桔木が繋がっていることがわかる。同じように、いかに錯綜しても表と裏は必ずどこかでつながっている。表から裏への通り庭を見通すのは、研究者の訓練と楽しみだ。   自分の研究と同じ熱情で、先行研究の通読(イケズ文学と京大怠け者たち)、事例の聞き取り(噂の紅白歌合戦)、そしてイケズの路上観察など様々な試みを行ない、京都の社会と文化の暗号を解読しようと日々努力した。結論から言うと、私は京都を知り尽くしたのではなく、歴史学者を目指している私は、京都からいくつか重要なインスピレーションをもらった。一つだけ例をあげる。京都の街(観光地区以外)に個人の八百屋や定食屋はコンビニやチェーン店に完勝するぐらい点在している。お店の営業は儲けるよりただ永遠に続くことを目標としている。通っている常連客は店主と会話を弾ませながら料理やコーヒーを味わい、一緒に「時間」を過ごすのを目的としている。このようにして何十年間かが経ち、付き合いが成り立つ。世の流行に抵抗してでも個人のこだわりとお付き合いを優先する町だ。現在の自分を常に歴史の流れに置いていくという歴史学の感覚は、京都において日常生活のセンスだ。   だんだん見えてきて日々も楽しくなった。歴史的な考え方、素朴な生き方、地味なファッション、安くて美味しい食べ物。鴨川。下鴨神社の納涼祭。賀茂神社。雨の貴船。山紫水明。朝茶のお稽古。霧が大文字山に降りてきた出町柳橋の朝。やっと「住めば都」と感じてきて、「古都風月」の連載が取れるぐらいネタを持った時、「東下り」することになった。   井上さんの嵯峨話が示すように、京都人は土地に対して強い粘着力・執着心を持っている。高い建物がないからか、それとも何百年の家族が多いからかは明白でないが、京都には目に見えない地霊があると思えるぐらい人々がその生まれた土地に縛られている。そのおかげで地元の町内会は元気満々だが、地元以外のところを排斥する傾向も強い。京都対東京、そして洛中対洛外だけではなく、洛中の中にも西陣が中京と対戦している。強い郷土意識の中で育ってきた人は、地元の味が口に合うし、付き合いも優しいし、最も暮らしやすいと感じ、それを世々代々守り続ける。その故、土地柄は人を判断する「型」になる。逆に土地の「型」に嵌られない「よそさん」は、浮草のように受け入れられない。京都で最初に聞かれた質問は、「どこにお住まいですか」。二番目は、「どちらから来ましたか」。これは単なる雑談ではなく、この人の「型」を探り出す投げ石だ。   だから京都を去ることにした。私の郷土意識は極めて薄いからだ。小さい頃から中国の南北を転々として暮らし、大学で上京し卒業してからアメリカに留学、そこで日本語を習い、また日本にきた。海外留学の十年間、ちょうど中国の社会文化や国際環境が激変した。その結果、時代のエスカレーターに乗れなかった私は、「ふるさと」に戻っても、懐かしいよりむしろ未来の既視感がある。「昭和感覚」の持ち主と思われ「よそさん」扱いされるのも当然だ。   十年間無意識のうちに、中国人というアイデンティティの年輪には、様々な言語、料理のレシピ、風景や異文化の断片が刻まれてきた。そして、過去・現在・未来、生涯にわたって「On_the_Road」になるかもしれない。どこでも「よそさん」でありながら「地元人」でもある。一見すると自由の光を浴びているが、裏に孤独の影も濃い。様々な社会や文化の間に転々とする私が、京都に来てから初めてわかったのは、自分は「ノマド」であることだ。どこでも郷土ではないが、どこでも生き生きできる「ノマド」だ。京都のあらゆる風景と食べ物は懐かしいと思うが、東京に来たことは正解だ。いかに京都を愛しても、「型」で認識が固まっている土地で生きられないからだ。   井上さんは、京都の裏構造を社会学的なアプローチで理解しようとしている。ただの経験談や裏話ではなく、国家の教育系統や地域風土の相違など社会と歴史的な原因を探り、古都の「型」を明らかにする。「京都人じゃない」からこそ、より一層京都のことが見えるというスタンスは素晴らしい。どの社会においても、土地、職業、性別、民族などによって様々な「型」が存在する。社会に対する認識は、「型」の奥深さを追求する縦軸があれば、観察と分析によって「型」と「型」の関連性を引き出す横軸もある。さらに、「型破れ」と「型」以外の存在を理解し受け入れることによって多様性のある社会が成り立つ。多文化を越境する「ノマド」の存在は、このような共生を前提にしている。グローバル化時代にノマドが増え続け、いつか「ノマドの型」も定着するだろう。   日曜日の朝5時にJR電車には、仕事終わりのすっぴんキャバ嬢、目覚めてない部活の高校生、終電を逃した飲み友、カラフルな登山者、わけがわからない人などが乗っている。その人たちを見る度に感動する。どのような人もありのままで電車に乗ってお互いに気にしないことは、実に幸せだ。東京の漠然は自由と寛容を与える。美しくなくてもよい。謎だから楽しい。ここで関西弁や「古都なまり」を持ちながらまた伸び伸び成長できるように頑張ってみたい。それができると思わせるきっかけは、渥美財団とのお付き合いだ。様々なイベンドと活動で、多文化の共生する可能性を示し、ノマド同士の国際コミュニティを作り上げ、そして、広い世界に導いてくださる渥美財団に深く感謝を申し上げる。お陰様で、東京が、心のふるさとのように感じてきた。色々大変お世話になり、ホンマにありがとう!   <グロリア・ユー・ヤン(Gloria_Yu_Yang)楊昱> 2015年度渥美奨学生。2006年北京大学卒業。2008年からコロンビア大学大学院美術史博士課程に在籍。近現代日本建築史を専攻。2013年から2015年まで京都工芸繊維大学工芸資料館で客員研究員、2015年から東京大学大学院建築学伊藤研究室に特別研究生として、植民地満洲の建築と都市空間について博士論文を執筆。2017年5月卒業予定。     2016年8月25日配信
  • 2016.08.18

    エッセイ502:文景楠「修了に際して」

    (『私の日本留学』シリーズ#3)   長らく籍をおいていた大学院を、この3月にいよいよ修了することになった。   季節は例年の春爛漫を段々と取り戻しているが、三十路をとっくに過ぎての門出を迎えて目の前をちらつくのは、「どきどき」や「わくわく」ではなく、「遅きに失する」とか「つぶしはもう利かない」といった明るい窓の外の景色とはいささか対照的な言葉だ。   大学を卒業してから博士号を取得するまで十年もの歳月を費やした。このこと自体は、途中従軍による2年間のブランクがあったり、アメリカで研究滞在をする機会があったりしたことを考えれば、さほど遅いほうではない。また、ありがたいことに大学に入学してから大学院を終えるまで複数の奨学財団のお世話になることができたので、同年代の幾人かの友人と比べてはるかに恵まれた学園生活を送ることもできた。修了に際しては期限付きながら常勤の職を得ることもでき、外国人として生活する多くの人々にとって最も大きな在留資格の問題もとりあえずは先送りできたことになる。なによりも、大体において面倒くさがり屋の自分が、真剣に取り組んでみたいと初めて思った「研究」から近いところに、なんとかまだしがみついているのである。   それでも肌寒い気持ちを拭い切れないのは、これから自分を待ち受けている日々が厳しいものであることにうすうす気づいているからだろう。国際競争と少子化の板挟みが、これから大学産業に飛び込もうとする新米研究者にとって所与の現実だからだ。自らの研究領域において高い水準を維持するだけで――それ「だけ」でも大変すぎるぐらいだが――己の存在価値が保証される人は、もうほんの一握りしかいない。   こういったいわゆる「業界の現状」に関しては、解決策を提示したりそれを吟味熟慮したりと、すでに様々な言説が飛び交っている。それらの多くは実際に傾聴に値するものであるし、目に入ってきたときには時間を割いて自ら読むようにもしている。にもかかわらず、ではこういった主題に対して何か自分なりの見方のようなものができてきたかといわれると、残念なぐらいその気配はない。今まで拾い集めてきた様々な意見を(学者らしく)綺麗に分類し整理することならできるかというと、その自信もない。かといって、問題を楽観視しているわけでは決してない。現代という時代や、その最中にいる大学が歴史的に稀に見る悲劇に見舞われているとは思わないが、他の時代と同じぐらい深刻な問題を抱えているという点は、さすがに認めざるを得ないだろう。だとしたら、これはちょっとした自己欺瞞ということになるのだろうか。   こうした状態から脱し、なんとか前に進もうとする自分の足を毎回からめとってしまうのは、現段階で問題を整理してしまいたいとする焦燥にどうしても抗いたくなるぼんやりとした気持ちだ。問題をさばこうとせず、そわそわしながらその前に立ちすくむというのは、場合によっては(はっきりした理由もなく単に)不安を不安がるのと同じぐらい不毛に映る。それを知りながらも一歩を踏み出せずにいるのは、自分が無理をして吐き出してはすぐにもみ消してしまう言葉が、いまひとつ自分の「実感」といえるものを捉えていないということに気づいているからなのだと思う。   こういった語り得ないものにこだわるのは、はっきりいって生産的ではない。それでも、博士論文を書くという、実感をすくい取るといったことから最も遠く離れた理詰めの作業を終えて社会に出て行くことになった今、自分はテキストの外にあるもの、記号で埋めつくされた議論に入ってこられないものに敢えてこだわりたいと望んでいる。綺麗な筋道を提示したり、論敵を打ち負かしたりするための議論は、当然それ自体として価値あるものだし、今後自分が書いていく文章の多くはそのようなものになっていくだろう。しかし、形式的な議論に終始してしまう性分だからこそ、そして、それがある意味で強く奨励される環境にいるからこそ、「問題と解決」といった図式の周りをうごめいている何かの存在を絶えず視野に収めることの重要性をここで自分に喚起しておきたい。   いうまでもなく、ここで記したことは大学やアジアの未来といったことに関して何らかの示唆を与えるものではない。そもそも、目新しい主張など何も含まれてはいない。しかし、ありふれた言葉を他でもないこの瞬間にこの場所でとある人物が発することに特別の意味があるのなら、この舌足らずのつぶやきは、これから自分が住まう社会ときちんと関わっていくという約束を己に課すことにはなると思う。それが実際有意味なものであったことを示すのは、まさにこれからの仕事となるだろうが。(2016年3月記)   <文景楠(ムン・キョンナミ)MOON Kyungnam> 2015年度渥美奨学生。2016年3月に東京大学で博士号を取得し、現在は同大学助教。専門は古代ギリシア哲学。     2016年8月18日配信
  • 2016.08.11

    エッセイ501:謝志海「選択の重み」

    実を言うと、私はつい最近まで物事を選択するという事について深く考えることは無かった。何か選択しなければならない時、単純にベストと思える物を選んできた。何も考えずにその時の気分で選んだことも多々ある。しかしながら、今の私があるのは、そうした選択の結果であろう。そう思うと、選択することの重みをひしひしと感じる。   なぜこうも「選択」という事について考えさせられたのか?答えは簡単、先日の英国の国民投票によるEU離脱の是非を問う政治イベントだ。離脱51.9%残留48.1%の僅差で、離脱派が勝利を収めた。この国民投票については前々から知ってはいたが、実際の投票日が来るのは思いの外、早かった。投票日の前日になっても、正直なところ「イギリスは本当にこの大事な事項を国民投票で決めるのか」と実感がわかなかった。まあ私に投票権があるわけでもない。結局のところは「残留」なのだろうなとも思っていた。ところが、蓋を開けて見れば「離脱」だった。   以来、イギリスとEUだけでなく世界がざわついている。この結果に一番動揺しているのは投票した張本人たち、イギリス国民に違いない。離脱に投票した人からも、国民投票をやり直したいという意見までも多数あったそうだ。離脱か残留か、黒か白かのシンプルな問い。投票前の離脱を掲げる街のムードに押され離脱に投票してしまい、後悔している人も多かったとか。重大なことに対してこそ往々にして冷静さを失う。なんだか私も経験がありそうだ。   ではどうすれば選択上手になれるのか?コロンビア大学ビジネススクールのシーナ・アイエンガー教授が教える「選択の科学」に答えがあるかもしれない。日本でもNHKで「コロンビア白熱教室」と題し、教授の講義が放送されたので、記憶に新しい方もいらっしゃるだろう。この講義では直接的に「賢い選択をするには」ということは問題提起されてはいないが、こういった、「選択すること」について集中して考えることこそが、冷静に選択し、選んだものに後悔しないことにつながると思う。本来は選択できるということはいいことなのだ。選択の余地なく物事に従うよりずっといい。   しかし、選択肢の多い民主主義社会ではこの有り難みが薄れてきているのだろうか、などと今回の英国国民投票を見ていると感じてしまう。アイエンガー教授は講義の中で「選択日記」をつけることを薦めていた。確かに、今日私は◯◯個の中からAを選んだなどと小さなことまで記載してみれば、自分を客観的に見ることができるかもしれない。もしイギリス国民が、投票日よりも前からこの選択日記をつけていたら、結果は変わっていたかもしれないなどと想像してしまう。   日本では、先日参議院選挙があり、初めて18歳に選挙権が与えられた。18-19歳の投票率は45.45%で全体の投票率の54.70%よりも下回る結果となった。投票という初めての経験をした45.45%に該当する人たちの選択を支持したい。わざわざ投票所まで足を運んだのだから。そしてこの数字が今後も伸び続けることに期待する。   さて、今年はもう一つ、有権者でない人までもが注目する選挙が残っている。アメリカ大統領選だ。大統領となる人によって世界の歴史が変わりかねないことなので、関心の高さもひとしおだ。もっとも、投票する権利を持っているアメリカ国民は、自分が選ぶ1票で世界の歴史が変わってしまうと考えるよりは、自分の国、暮らしにふさわしいと思う人に投票するのだろうが。しかし、大統領を国民投票で選ぶといった4年に一度の政治イベントに悔いのない1票を投じるためには、やはり日々の選択を意識することだろう。   私には選挙に投票に行くという機会が無いが、今回のエッセイは「選択」することについて、「選挙の投票」を例に挙げて書いてみた。選挙権のある人たちは投票したら終わりではなく、投票後も引き続き日々の自分が選んだ事を意識して暮らして欲しい。私も実は、世界を揺るがした英国国民投票の結果を機に、何かを選ぶときに、選ぶ事をより一層意識するようになった。選んだ後も、それが正しかったのか振り返る事にしている。そして、後悔なく少しでも精進できる日々を送れるように心がけている。   <謝志海(しゃ・しかい)Xie Zhihai> 共愛学園前橋国際大学専任講師。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイトを経て、2013年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2016年8月11日配信