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エッセイ642:ノハラ・ジュン・ジュリアン「大学の役割は何か。新型コロナウイルスを通じて再考する」

 

新型コロナウイルス(COVID-19)が日本に初めて上陸した2020年1月16日から半年が経った。このウイルスは世界中で経済や一般社会を混乱させ、また我々の日々の生活や人生にも多大な影響を及ぼし、その経験を語る市民の声がメディアやSNS等に広がっている。本稿もその声の一つである。私は東京都内の某大学の非常勤講師として雇われ、3年前から大学で教え始めた。それまで博士課程に在籍する大学院生でありながら教育について真剣に考えたことがなかった。人生初の授業がとても印象的で、その日から教員や大学の役割について深く考えるようになった。本稿では「高等教育」について一言述べたい。

 

なぜ若者は大学に進学するのか。

 

私が国際関係学部で教えている科目の中に認識論入門が含まれていて、毎年春学期が始まると学生に質問する。勿論、「医者になりたい人は医学部に行かないといけいない」、「弁護士になりたい人は法学部に行かないといけない」、目的と手段の関連性をはっきり結び付ける答えがある。この答えにも疑問があるが本稿のテーマからかなり外れてしまうので、ここでは扱わない。他方で、「高等教育は重要だ」、「自分が好きな分野を選んで学べるからだ」、「就職活動やキャリアに必要だからだ」という答えも少なくない。しかしこれらの答えも高等教育のレゾンデートルを言い当てているとは思えない。これらの意見は決して学生や若者に限られた話ではなく、親も共有しているのだと思われる。

 

上記の3つの典型的な答えを通して高等教育の役割についてどの様なことが言えるだろうか。まず、1一つ目の答えはトートロジー(同義語反復)に近いもので、なぜ大学教育は「重要」なのかについては不問に付されたままである。2つ目の答えは「学ぶ」ことに注目する点が興味深い。確かに多くの自然科学系の科目ではインフラや実験設備が重要で、大学や研究組織の外で学ぶことは難しい。だが、他の科目に関しては世の中には MOOC(Massive_Open_Online_Courses) をはじめ、大学の枠外でも学ぶ場が多く提供されつつある。学習の場が増えるのは良い事だが、「教員の役割は教える」、「学生の役割は学ぶ」、という伝統的な知識伝達方式ではこれからの大学教育では不十分であろう。

 

就職活動に関する3つ目の答えは興味深い。大学卒業生は高校卒と比較して収入の差が年齢によって拡大し、結局生涯賃金が平均で高くなるのは事実である。大学卒と高校卒では就職選択時の職業区分が違うのも事実だ。だが、多くの人々はなぜ企業がその様な雇用政策を取るかについて理解していない。日本の高等教育制度では社会で通用するビジネススキルを学べる機会が少ない。仕事に関するビジネストレーニングは就職後に企業で実施されることから、大学で身につけるビジネススキルが企業にとってそれ程重要ではないことは明らかである。日本においても、他の多くの国のように大学教育カリキュラムの職業化、つまり大学での実践的職業教育を通じて企業が直ぐに活用できる高度人材を育成しようという声が高まっているようだが、日本の大学は、先に述べた医者や弁護士等の専門職以外の「専門労働者」を育てる環境ではない。もっと言うならば、そういう職業教育は必要ないと言えるのではないか。

 

では、なぜ高等教育について今考えないといけないのか。

 

大学教育は社会的に将来性がある人的投資としての性格を持ちつつ、同時に家庭にとっては大きな経済負担でもある。私立化が進んでいる日本の高等教育制度においては、国家的あるいは市民社会的要請と公共負担という理論よりも、需要・供給関係に根差した受益者負担論が大勢だったので、大学に行って学ぶ為の機会費用を考慮せざるを得ない。この様な状況下では、昨今議論になっている大幅な大学教育の無償化も考慮するべきだろう。日本はOECD諸国の中で高等教育に支出される対国民総生産国庫補助率が極めて低いのであるから、積極的に議論されるべきである。

 

新型コロナウイルスによりオンライン授業に切り替えることを決めた時、組織である大学が最も懸念していたのは、既にニュースなどでも報道されたように、5人に1人の学生が退学という選択を考えていることだった。2009年の金融危機の直後にも米国で同じような傾向が見られた。今回のコロナ危機で経済的な困難に直面する親が子供の教育費を支えられなくなることが一つの大きな原因である。それに加え、オンライン授業への切り替えで「高等教育」の価値そのものが下がってしまうのではないかという心配もある。

 

多くの親や学生にとって高等教育の価値が下がってしまうという認識は何を示しているか。学生達に知識に対する能動的態度を身に着けてもらうには、オンライン授業だけでは到底十分ではない。学生はキャンパスに入構もできず、教員や友人との直接会話・接触による学習可能性を損失し、オンライン授業による断片化された知識の受け渡しだけになっているのではないか。学生と親たちにそのような認識を持たせるような状況は避けなければならない。

 

実際、オンライン授業が開始して1ヶ月がたったが、講義形式の授業では双方向での意思疎通がうまくできずにいる。更に言えば、多くの実習科目や実験室が必要となる自然科学系では授業の効率性が下がったのは間違いない。また、情報格差によりオンライン授業について行ける学生とついて行けない学生との差が拡大し、新たな階層と共に新たな不満も現れている。高等教育の大衆化は我々にとって当然のことになったが、実はそれ程前に一般化したことではない。オンライン授業は、高等教育大衆化の負の側面を益々広げていく可能性がある。少子化、経済不況、そして現在の新型コロナウイルスによる社会封鎖という挑戦に直面している高等教育は、今一度新たな教育方法論を見出し有為な若者を育てていく為の努力を怠るべきではない。

 

高等教育の現代的意義は我々の社会の複雑化にあるのではないか。政治、経済や技術を初め、社会は益々複雑化していく。その様な環境下では人々は判断の自立性を失いがちである。複雑な状況下でも適切な良識ある判断を下し行動できる社会人あるいは市民を育てるのが大学の役割だと思う。そうでなければ、人びとは受動的になり、自らの人生さえも選択することが難しくなっていく。逆説的だが、情報洪水により人の自由が奪われてしまう状況が出現している。重要なのは人々と知識や情報との関係を再構築することだろう。大学では、既成知識の伝達のみならず、新たな知識を自ら探索し学習していく能動的態度を若者に身に着けてもらわなければならない。それこそが今大学に課せられた大きな使命だろう。

 

<ノハラ・ジュン・ジュリアン(野原淳)NOHARA Jun Julian>
京都産業大学国際関係学部常勤講師。東京大学総合文化研究科博士課程在学中。2011年、パリ政治学院修了。2008年度、慶應義塾大学交換留学。日本学生支援機構、文部科学省、松下記念財団、渥美財団の元奨学生。上智大学言語教育研究センター、津田塾大学総合政策学部で非常勤講師の経験もある。専攻は国際政治とシーパワー。

 

 

2020年8月6日配信