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エッセイ579:ボルジギン・フスレ「ハバロフスクの旅」

 

溥儀のシベリア抑留に関する調査のため、7月中旬にハバロフスクに行った。ロシアには何度も行ったことがあるが、ハバロフスクは初めてであった。今回の調査は、有名な言語学者で、ロシア語が堪能なK先生に同行した。

 

アシアナ航空が1時間以上も遅延したため、仁川空港に着いたのは7月11日の夜であった。空港内のホテルで一泊して、ロシアのオーロラ航空に乗り換えて、ハバロフスクに着いたのは12日の午後であった。アシアナ航空も、オーロラ航空も、ビールやワインなどアルコール類の飲み物を提供しないため、宿泊先のSopkaホテルでシャワーを浴びた後、すぐK先生と一緒に街に出て、ビールを売る店を探した。

 

ロシア人は親切だ。2人に道を尋ねたら、ともに「“栄光広場”を通って、坂を登り、ツルゲーネフ通りを通って、レーニン通りに沿ってまっすぐ行くと、曲がり角に赤い屋根のスーパーがある。そのスーパーはビールを売っている」と丁寧に教えてくれた。

言われた通りに10分間ほど歩いたら、赤い屋根のスーパーを見つけた。このスーパーには輸入品が多く、日本製のお菓子やチップスなども売っていた。K先生の薦めに従って、ドイツ製とオランダ製のビールを1種類ずつ購入した。K先生は2種類の干し魚とアーモンドなども購入した。

 

ホテルに帰る途中、栄光広場を通ったところ、「ここで飲もうよ。景色もいいし、空気もいい」とK先生が言った。「そうですね」と、その場で飲もうと思ったが、K先生が広場の「大祖国戦争犠牲者慰霊碑」と「永遠の炎」を指さしながら、「彼らには見せたくない。あっちにしよう」と言った。そして、2人は一緒に広場の端っこの、「永遠の炎」が見えない一角に座り、ビールを開けた。

ビールも、干し魚も本当に美味しかった。これまでさまざまな干し魚を食べたことがあるが、ここで食べたものが最も美味しかった。ホテルで夕食を終えて、2人は一緒に翌日の日程などを確認した。

 

翌日、朝食の後、K先生と一緒に、タス通信の報道も含む、手元にある溥儀に関する資料をホテルのフロントに見せながら、ロシア語と英語を交えて話し合った。目的地はクラースナヤ・レーチカ(中国で“紅河子”)――かつて溥儀や日本人の一部の将官が収容されたところで、今は「皇室通り」と命名されている。フロントは親切にいろいろなところに電話をかけて、場所を確認し、タクシーも予約してくれた。モスクワやサンクトペテルブルク、カザン、ウラン・ウデなど、ロシアのいろいろな所に行ったが、どこのホテルも英語の堪能なスタッフがいる。

 

タクシーに乗って、皇室通りを目指して走った。30分後、ハバロフスクから21キロほど離れたところの「村」、いいえ、今では立派なリゾートとなったリヴイエラ・ホテルに着いた。

ウースリ川に面するこのリゾートにはリヴイエラ・ホテルのほかに、皇宮ホテル、ウースリ・ホテル、青年ホテル、快適ホテルなども建てられ、ロシア料理のほかに、中華料理やアルメニヤ料理、ウズベキスタン料理などを経営するさまざまなレストランがある。また、スポーツ館や映画館、ミニゴルフ場、バトミントンコート、プール、ビーチ、こども園、スケート場やスキー場などがあり、パンフレットや看板などはすべてロシア語・中国語対照で書かれている。

 

「溥儀の旧居」と尋ねたら、すぐリゾートの西側の皇宮ホテルに案内された。訪れて見たら、2階建ての建物である。スタッフ(管理人?)が1人だけ。その人に1階の溥儀皇帝「博物館」に案内された。入場券は一人100ルーブルである。ホテルの宿泊者は無料で入れる。入ってみたら、狭い室に溥儀がシベリアに抑留された1945~50年の年表や、溥儀が書いた絵とノート、皇后ゴブロ・婉容(Wanrong,1906~46年)の弟で、溥儀の妹婿にもなった潤麒(Runqi,1912~2007年)が書いた絵、溥儀の東京裁判での証言、中国から送った皇室のテーブルや椅子などが展示されている。溥儀と潤麒が書いた絵やノートなどが見られたのは、意外な喜びだ。

しかし、この建物は、手元の資料やタス通信の報道の内容と異なっていることに気が付いて、スタッフに確認した。「溥儀はハバロフスクでいくつかのところで生活していた。ここはそのなかの1つだ」と、溥儀はここに住んだことがあることを強調した。

 

K先生としつこく、リゾート内で探してみた。この建物は「皇室通り3号」に位置している。タス通信の報道では、溥儀の旧居は「皇室通り5号」になっている。リゾート内を2回も回ってみたが、皇室通り5号というところは見当たらなかった。

皇宮ホテルに近いリゾートの出口で、守衛室のスタッフの中年の女性に尋ねたところ、「入場料を払ったか。100ルーブルだ」と言われた。なるほど、リゾートに入るのに、入場料を支払わなければならないのだ。その時、K先生がその女性に、「彼(フスレ)は皇后の親戚で、われわれは日本から溥儀皇帝の遺跡を探しに来たのだ」と説明すると、その女性の態度が一変し、私と握手して、「どうぞ、どうぞ」と言い、入場料が免除された。実は、私の上の姉は身体障碍者で、その夫は皇后ゴブロ・婉容の従弟郭文通(満洲国軍少将)の息子である。親戚と言えば親戚である。「皇室通り5号はどこにあるのか」と聞いたら、その女性は「むこうだよ」と、リヴイエラ・ホテルのほうを指さした。

 

K先生と「皇室通り5号」を探し続けた。なかなか見当たらない。疲れたころ、リヴイエラ・ホテルの外側に聳えているコンクリートの監視哨らしい建物が目を引いた。タス通信の資料と合わせて見たら、「あそこだ」と、私は興奮してK先生に言った。

2人は急いでリゾートを出た。そこで、やっと気が付いた。リヴイエラ・ホテルの外側の壁には「皇室通り5号」の看板があり、そのとなりに、溥儀が収容されていた2階建ての木造の建物とコンクリートの高い監視哨がある。収容所というより、別荘のような建物だ。ここは工事中で、入り口には「立ち入り禁止」の看板が掛かっている。私はカメラを出して、シャッターを押し続けた。工事をしている大工のリーダーらしい年配の方が私に手を挙げて、「中に入っていいよ」と言った。

それを聞いて、喜んでK先生と一緒に敷地の中に入った。さまざまな角度からこの溥儀の旧居と監視哨の写真を撮り続けたところ、突然、木造の建物から厳しい顔をしている痩せた中年の男性が出てきて、たいへん怒って、「ここは立ち入り禁止だ。撮影も禁止だ。どうやって入ってきたのだ。画像を消して、出て行って」と私たちを叱った。そこで、K先生は、その方に挨拶して、「私達は日本から来た」、そして私を指さしながら、「彼は皇后の親戚で、われわれは溥儀皇帝の遺跡を探しに来たのだ」と説明した。それを聞いたその方は、私に握手を求めながら、「ここは立ち入り禁止だ。撮影も禁止だ。写真を消さなくてもいいが、これ以上撮るな。早くここから出て行ってください」と言った。

そこを離れて、リヴイエラ・ホテルのなかのバーに入った。溥儀の旧居を確認できたことで、K先生は高級ヴォッカを注文し、私はビールで、2人は乾杯した。

 

午後、タクシーで、いったん、Sopkaホテルに戻った。その後、再び街に出て、散策をした。K先生は元気だ。84才の高齢にも関わらず、アムルースキー並木通りなどを回って、青年同盟広場にあるウスペンスキー大聖堂まで、2時間も歩き続けた。

2人は青年同盟広場の傍にある香港レストランで夕食をした。中年と年配の客もいれば、若者も少なくない。ディスコやワルツの曲が流れ続け、皆飲んだり、踊ったりしていた。30分もたたないうちに、K先生はとなりのロシア人のグループと合流した。84才の高齢で、ロシア人のおばさんたちと、飲んだり、踊ったりした。私も何度も誘われたが、踊る勇気はなく、最後まで断った。

 

夜のハバロフスクの街はロマンティックな雰囲気に包まれていた。

 

14日はまず、ハバロフスク軍事史博物館に行った。途中、スパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂とハバロフスクの港にも訪れてみた。ハバロフスクのこの港はウースリ川を通して、中国の撫遠県との間を毎日1回、客船が6隻ずつ(中国から6隻、ロシアから6隻)往復の運航を行っている。

せっかくハバロフスク軍事史博物館が見つかったが、なんと閉館、しかも閉館は2年間も続いていることが分かった。館内の工事はしていないが、博物館の外側では増築の工事をしている。そのとなりの青年同盟広場には新たに建てられた記念碑が聳えており、その一角に日本人抑留者の姿も刻まれている。

 

その後、ハバロフスク郷土史博物館を見学した。ここには、ハバロフスクの自然・歴史・民俗・宗教・科学研究の成果・スポーツ・対外交流など、複数の展覧室を設けており、溥儀の通訳を務めたことのあるG.G.ペルミコフを記念するコーナーやハバロフスク裁判のコーナーも設けている。溥儀のハバロフスク抑留におけるいくつかのことを再度確認できた。

 

その後、ウースリ川に面する展望台に行ってみた。ここには大勢の中国人や韓国人の観光客が集まっていた。展望台の隣に、ロシア語・朝鮮語が刻まれている記念碑があり、朝鮮労働党中央委員会総書記金正日が2001年8月17日にこの展望台を訪れたと書かれている。実は、ハバロフスクは北朝鮮と密接な関係がある。第2次世界大戦期、ここにはソ連の援助を受けている朝鮮人のゲリラ部隊があった。今、この街には、キム・ユー・チェン通りと命名された道がある。

展望台を後にして、Intourist_Hotelを探しに行った。K先生が最初にハバロフスクに来たのは1968年であり、当時宿泊したのはこのホテルであった。しかし、ホテルは見つかったものの、K先生にとって、それは見る影もなく、完全に変わっていた。その後、K先生の思い出を探すため、2人はムラピョフ・アムールスキー通りに沿って、レーニン広場まで歩き続けた。

 

ハバロフスクに滞在した3日間に、たくさんの中国人や韓国人の観光客を見かけたが、日本人の観光客にはあまり出会えなかった。第2次世界大戦終結後、多くの日本人がハバロフスクに抑留され、ここには日本人墓地があり、また日本領事館も設けられている。

 

15日、朝食の後、ハバロフスク空港に行った。チェックインの手続きが煩雑で、かなり時間がかかった。その後の安全検査は、非常に厳しく、金属探知機が反応はなかったけれども、ポケットの底まで調べられた。私が安全検査を終えたところ、ちょうどK先生がとなりの冂型の探知機を通ってきて、赤信号が光って、警報が鳴った。中年の女性の検査員が携帯用の金属探知機でK先生の腰をさしながら、ロシア語で「○○を開けて下さい」と言った。K先生は、はっきり聞こえなかったせいなのか、微笑みながら自分のベルトを開けて、ズボンを脱いだ。それをみた女性の検査員はたいへん困ったようで、慌てて、大声で「ズボンを履いて下さい」と言った。それを見た周りの人もみんなびっくりしたようで戸惑っていた。

「君が“開けて下さい”と言ったじゃない。僕が脱ぎたいわけではないよ。君が“開けて下さい”と求めたのだから」とK先生がロシア語でそのように返した。

「“ポケットを開けて下さい”。ズボンじゃないよ。はやくズボンを履いて、ポケットを開けて下さい」と女性の検査員はなかなか落ち着かない。

周りの人はみんなやっと事情がわかって、笑った。

「そうか。ポケットか。はっきり言おうよ」と、K先生は淡々と、ズボンを履いた。

ポケットを開けたら、ハンカチなどはあったものの、金属らしいものはなかった。

「危険物が発見されなくて、残念だね」とK先生が冗談を言った。

結局、安全検査はこのように「無事」、済んだ。

 

空港の2階には免税店とコーヒー屋がある。K先生は免税店にはまったく興味がなく、コーヒー屋で1200ルーブル(約2000円)で187mlの高級ワインを購入した。私は600ルーブル(約1000円)で缶ビール1本を購入した。仁川空港のワインとビールも高かったが、ハバロフスク空港のビールは私が訪れた空港のなかで、最も高い気がする。

「ロシアが空港のお酒の値段をこんなに高くしているのは、ロシア人に飲ませない考えだ」とK先生は言った。

私は「空港で酔っ払いを防ぐために、こうしたのでしょう」と言おうと思ったが、黙ったままにした。

 

「これは本当に美味しい」と、K先生は満足そうにワインを堪能しながら、今回のハバロフスクの旅についての感想をいろいろと語った。その間、K先生は、突然、

「生命は自然がつくったもののなかでもっとも美しいものだ」と言い出した。

「どういうこと?」

「ゲーテの言葉だ」とK先生は、壁に飾ってあるポスターを指さしながら、言った。

それはハバロフスクの空港の広告だった。ドイツの大文豪ゲーテの名言を借りて空港のキャッチフレーズにするのは、ロシアらしいと思う。

免税店でワインを購入して、K先生にプレゼントした。

シベリア航空567便は定刻通りに東京に向かった。

 

ハバロフスクの写真

 

<ボルジギン・フスレ Borjigin_Husel>

昭和女子大学国際学部教授。北京大学哲学部卒。1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士(学術)。東京大学大学院総合文化研究科・日本学術振興会外国人特別研究員、昭和女子大学人間文化学部准教授などをへて、現職。主な著書に『中国共産党・国民党の対内モンゴル政策(1945~49年)――民族主義運動と国家建設との相克』(風響社、2011年)、共編著『国際的視野のなかのハルハ河・ノモンハン戦争』(三元社、2016年)、『日本人のモンゴル抑留とその背景』(三元社、2017年)他。

 

 

2018年9月27日配信