SGRAかわらばん

エッセイ548:孫軍悦「歴史家の立脚点」(改訂版)

 

「国史たちの対話の可能性―蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化―」と題するフォーラムが3日目を迎えると、議論も一段と熱が入った。専門的な応酬が飛び交うなか、本来、日、中、韓、モンゴルから一堂に会した歴史家たちの自由闊達な討論に喜ぶはずであったが、素人の私はなぜかある不安に駆られた。果たして、先生方が、このフォーラムが専門的な歴史学の国際シンポジウムとどこで、どのように違うとお考えなのか、そして「歴史家は歴史和解にどのような貢献ができるか」というフォーラムの趣旨と、ご自身の専門的な研究が、いかに内在的に結びついていると思われるのか、この2つの疑問を歴史家たち、とりわけ日本の研究者たちにぶつけたいと、率直に思った。

 

不安の理由は2つある。1つは、他国の史料を自由に駆使する歴史家たちの終始和やかな交流を、そのまま「国史的立場」の超越として捉えてよいのか、それとも単に現在についての歴史認識の問われない700年も前の出来事が話題の中心であったからか、という私の疑念が消えていないこと。もう1つは、蒙古襲来に関して全く無知であった私でさえも、2日間の会議でその大体の輪郭をつかむことができたぐらい、研究者たちの論文が実に素晴らしいものであっただけ、その優れた歴史研究に、<いま・ここ>に生きる歴史家自身の歴史性があまり感じられないことに、困惑を覚えたことである。

 

むろん、口頭での発表と討論に、さまざまな制限があり、発表者が必ずしも自らの考え方を語り尽くすことができない。論文を仔細に読むと、歴史と現実との関連性がまったく触れられていないわけではない。例えば、ある論文は、日清戦争後に起こった元寇記念碑建設運動の背景について、次のように指摘している。「その背景には、日露戦争を控え、欧米列強に対抗しつつ国家の生存戦略を立てなくてはならなかった明治の日本が置かれた状況が色濃く反映されている。これはまた今日われわれが置かれている状況ともどこか似かよう。」また、2015年に刊行された元寇を題材としたマンガに描かれた火薬兵器について、「およそ730年ぶりに先進的な軍事大国として海上に台頭する隣国への畏怖のシンボルなのであり、人々の不安な心理を代弁している、というのは考えすぎだろうか」という。これらの言葉から、論者の現在に対する認識と、過去と現在との関連性を捉える角度を、ある程度窺うことができよう。一方、同じく明治時代と今日、再び元寇の歴史に焦点を当てることの意味に触れるが、元寇資料館を案内してくれたNPO法人志賀島歴史研究会の岡本顕実さんの解説は、もう一つの視点を提示していると言える。

 

岡本さんは、明治37年に建てられた元寇記念館を、日清戦争から敗戦までまっしぐらに突き進んだ日本軍国主義の起点に位置づけ、長崎原爆の被害者をこの記念館の犠牲者だと言い切った上で、改めてこの史料館の建てられた当初における役割と今日における歴史的意義の差異に注意を喚起する。明治37年の元寇記念館と戦後の元寇史料館だけでなく、8月9日にこの話をする自らの言説行為の歴史性をもはっきりと自覚しておられるその歴史的感覚の鋭敏さに、私は驚かざるを得なかった。

 

おそらく、歴史家は、国家の角度から歴史を把握する習慣が身につき歴史事実や史料としての展示品自体の真偽により関心を持つのだが、それに対し、一般市民の歴史に対する持続的な関心は、往々にして現在における強い問題意識によって支えられていて、国家の運命よりも個人の運命により注目し、歴史を語る際、なぜ、いま、ここで、このように、ほかでもなくこの歴史を選んで語るのかという理由を、まず自問せねばならないのだろう。

 

むろん、歴史家が自己の現在における政治的立場や価値判断の基準を歴史研究に持ち込んではならないことはもはや常識である。ただ、それと、歴史を語る際に歴史家が自らの主体性乃至個性を没却すべきか否かとは、おのずと別問題だと私は思う。

 

丸山真男が思想史を書く難しさについて、このように述べている。「思想史を書く場合にはどんなに肌の合わない立場なり考え方でも、超越的に一刀両断するというわけに行かず、一度はその思想の内側に身を置いてそこからの展望をできるだけ忠実に観察し体得しなければならない。……その上思想史の叙述で大事なことは、さまざまの思想を内在的に把えながらしかもそこにおのずから自己の立脚点が浸透していなければならない事で、そうでないとすべてを「理解」しっぱなしの相対主義に陥って、本当の歴史的な位置づけが出来なくなってしまう。」

 

「自己の立脚点」がなくても歴史研究ができるのは、おそらく、学問の自律性と独立性をとりわけ強調しなければならない日本の近代史のなかで形成された、堅実な実証主義的学風を尊ぶ近代史学の一つの特質かもしれない。しかし、史学史における優れた研究業績が現実の歴史において案外みじめな役割しか果たせないこと、また、学問の世界に大きな足跡を残した歴史家の現実についての把握が意外に貧弱であることも、また歴史の教えるところであった。だからこそ、戦後、中世史家の石母田正が史料批判の実証的技術のレベルに留まるいわゆる「実証主義歴史学」の無目的、無思想、無性格を厳しく批判し、日清、日露戦争の時代に成立した東洋史学の西欧を凌駕する業績と、「その古代文化には同情と尊敬を、現在と将来にたいしては軽蔑と絶望を。この老大国の骨と肉をさまざまに刻み、解剖してみせた客観的で冷厳な『学問的』態度」との矛盾を鋭く衝いたのである。

 

いうまでもなく、丸山が主張しているのは、一旦自らの立場や考え方を棚上げして歴史の内部に沈潜し、徹底した実証的な研究によって甦らせた歴史像に、改めて自らの立場なり考え方にしたがって歴史的に位置付ける、ということではない。もし、歴史家の「立脚点」がその外部にあって、歴史を把握する際に棚上げできるものならば、その歴史叙述に意識的に反映させることができても、「おのずと浸透する」ことはないのではないか。私は、やはり、歴史家の確固たる「立脚点」は、歴史家の自ら生きる現実において、その人間の内部に形成されるものではないかと思う。専門的な学術的訓練のみならず、現在という歴史的な場において日々練磨していく、あらゆる事象をその内側に寄り添って歴史的に把握する方法と能力と感覚こそ、確固たる立脚点として、歴史家の個性と化して、過去の歴史への把握におのずと浸透していくのではないだろうか。

 

素人の考えではあるが、過去の出来事に埋没することなく、現実との緊張感のなかでしかと生きる歴史家だけが、ただ単に、苦労の多い学問的営為で獲得した歴史的知識を我々に手渡すのでなく、過去と現在との内在的連関の見える歴史の脈動をも伝えてくれるのではないか。ほとぼりの冷めた過去をあくまでも一つの研究対象として冷徹に解剖するよりも、なお現実の体温が感じられる、歴史への主体的認識のほうが、少なくとも、私には、はるかに信用できるのである。

 

1997年に「新しい歴史教科書をつくる会」が登場してから7年後の2004年に、かつてすべての中学の歴史教科書にあった「慰安婦」問題をめぐる記述が、ものの見事にすべての教科書から消えてしまった。それが2016年に「極左反日」教育のレッテルを張られ、批判の嵐に晒されながら、再び教科書に現れるまで、実に12年の歳月を要した。関東大震災における朝鮮人虐殺でさえも、政治家に「いろいろな歴史の書の中で述べられている」「さまざまな見方」の一つとされてしまう時代、もはや、歴史的事実を事実として認めさせるだけでも多大なエネルギーを費やさなければならなくなっている。歴史家は、一人の専門家として、日々過去と格闘しなければならないだけでなく、また<いま・ここ>に生きる、未来に責任を負う一人の市民として、この厳しい現実に直面しなければならない。だからこそ、自らの専門的な研究と、現実における政府の政策動向と、民衆の歴史意識との間における緊張、また、歴史認識と歴史叙述、現実と未来との複雑な関連性に対して、どれほど自覚を持っているか、非常に重要だと、私は思う。なぜならば、<いま・ここ>に生きる歴史家の歴史叙述から、未来の歴史がすでに始まっているからである。

 

中国語版はこちら

韓国語版はこちら

 

<孫軍悦(そん・ぐんえつ)☆Sun_Junyue>

2007年東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。学術博士。現在、東京大学大学院人文社会系研究科・文学部専任講師。専門分野は日本近現代文学、日中比較文学、翻訳論。

 

 

 

2018年2月22日改訂版を掲載

2017年9月28日配信