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エッセイ500:マックス・マキト「マニラ・レポート2016年夏:平和の宿る日比谷公園」

最近、私にとって日比谷公園が特別な場所になりつつある。「日比谷」の由来は日比(日本・フィリピン)の両国に関係があるかどうか調べたくなったほどだ。残念ながら日比谷という地名は日本とフィリピンの2ヵ国とは関係ないことがわかった。でも、実際、日比谷公園は日比関係と深い縁がある。

 

日比谷公園には、日本と縁があった2人のフィリピンの偉人の石碑が置かれている。フィリピンの歴史では、2人とも平和に大きく貢献した人物である。

 

1人はフィリピンの国民的英雄ホセ・リザール(1861年ー1896年)である。スペイン統治時代末期に生きた才能溢れるエリートで、スペイン帝国の支配から母国を解放するために出版や弁論を通じて国民に呼びかけ、フィリピンの独立をめざした。暴力の道ではなく平和的な手段による解決を、独立運動の同志に訴えた。

 

リザールはフィリピン独立を働きかけるためにスペインへ旅立った。旅の途中で、横浜に立ち寄って、1888年2月28日から4月13日まで1ヶ月半滞在した。リザールは日本の風景の美しさや日本人の勤勉さや清潔感などに魅了された。そして、武士の娘と恋に落ちて、日本に住むことを真剣に考えたそうである。苦悩の末、母国での独立運動を選び、日本には二度と来ることはなかった。スペインから帰国後、スペイン当局の軍事裁判で反乱者として裁かれ、マニラ湾の沿岸で処刑された。そのあと、暴力的な反乱が起きて、反乱側が多大な犠牲者を出してフィリピン国として独立を果たしたと思ったら、スペインと米国の2カ国間の交渉で、フィリピンは無念にもまた植民地になってしまった。今度は米国の植民地になったのである。

 

最近、日比谷公園にもう1人のフィリピンの偉人の石碑が建立された。元フィリピン大統領のエルピディオ・キリノ(1890~1956)である。太平洋戦争末期、マニラ市は熾烈な戦場と化して、東南アジアのベルリン市又はスターリングラード市とも例えられるほどの甚大な被害を被った。その狂気の戦闘の中で、キリノ上院議員は、夫人と子供3人が日本兵により殺害されるという深い傷い、日本を決して許さないと心に誓った。戦後、大統領になった時、マニラ市で収監された100人以上の日本人戦犯の運命が彼の手に任されることになった。当時はまだ、フィリピン人の傷が深く残り反日感情が強く、次の大統領選挙に再選を期する時期でもあったのだが、キリノ大統領は意外な決断を下した。日本人戦犯の釈放である。この決定のため、キリノは次の大統領選で敗れたが、憎しみの連鎖からフィリピン国民が立ち直るように訴えた。

 

リザールの石碑は「日本人有志などの尽力により、1961年6月19日に設置されたもの」である。日本国外務省によると、キリノの「顕彰碑は,1953年7月にキリノ大統領(当時)に感謝する「国民感謝大会」が開催された日比谷公会堂の近くに,在京フィリピン大使館が建立」したものである。

 

リザールとキリノの平和の訴えはフィリピンが外国の圧倒的な力により植民地化されている中から生まれたのである。平和的な道は弱いものだけが選ぶのであろうか。暴力で事態を抑えようとする、寛大さに欠ける強者がいるかぎり、紛争は永遠に続くだろう。

 

残念ながら、今、東アジアでは、領土を巡る争いの風が再び吹き始めている。憎い敵を許すキリノと非暴力的な道を選んだリザール、平和を導く彼らの訴えは、今も価値を失うことはない。日比谷公園から吹いてくる風がささやいている。そのささやきが聞こえる人がいるだろうか。1人でもいれば、話し合いたい。そのささやきを叫びにするために。

 

<マックス・マキト ☆ Max Maquito>

SGRA日比共有型成長セミナー担当研究員。SGRAフィリピン代表。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication (CRC:現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、アジア太平洋大学にあるCRCの研究顧問。テンプル大学ジャパン講師。