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エッセイ497:朴源花「いくつかの問い」

(『私の日本留学』シリーズ#1)

 

両親の事情により幼い頃から韓国と日本を行き来する機会があった。年数自体はあまり長くなかったのだが、当時両国の関係は領土問題や教科書問題をめぐって劣悪な状況にあったため、子どもなりに思うところがたくさんあった。

 

当時私は小学生だったのだが、いかに両国のマスメディアの情報が現実をゆがめているかをうすうすと感じていた。将来専門的な知識をもって、韓国と日本の友好関係に貢献したいという願いを漠然と抱くことになった。

 

それから十数年、大学院に進みアカデミズムの世界を少し体験する立場になってから痛感したのは、研究者であれ完璧な代案を提示することは到底できないということであった。時には研究者が現実をゆがめることに加担したり、事実としては正しいことを言っているのだけれども、その主張が不本意なかたちで利用されてしまったりする。

 

私の研究テーマである「マイノリティの社会統合」の問題においても、そのような危険性に気付かされることがたびたびある。

 

まずは研究内容以前の問題として、現場の状況に対する研究者の配慮が十分でなく、フィールドを研究の「手段」とみなしてしまうケースである。実際私がフィールドワークを行なっている際、今まで出会ってきた研究者たちがいかに「自己中心的であったか」を訴える現場の人々は少なくなかった。インタビューを行なった後、結局その回答がどう扱われたのか事後報告もないということは良く聞く話である。もちろん、ほとんどの研究者は「現場を知りたい」「問題を改善したい」という問題意識から現場に出ているに違いないのだが、時間の制約だったり、研究者自身の性格だったりが原因で、現場との意思疎通が必ずしもうまくいかないことがある。

 

次に、研究者としては全くそのようなつもりがないにも関わらず、自らの研究がかえって新たな問題を発生させるということがある。

 

マイノリティ研究において良くありがちな失敗は、研究者のマイノリティ集団に対するグルーピングがかえって彼らを周縁化してしまうケースである。例えば、あるマイノリティ集団に対して、彼らが「いかに長年の差別と困窮に喘ぎ、社会から排除されてきたか」を叙述したとする。彼らがいかにかわいそうで支援されるべき存在かという側面が強調されすぎると、そのマイノリティ集団がもつ主体性、能動性が看過され、「マジョリティ側が与えるべき存在」という従属的な構図が出来上がりやすい。

 

だからといって、マイノリティ集団の主体性にのみ焦点を当てるとどうなるか。「現実の困難はあまり彼らにとっても障害となり得ず、彼らは彼らなりの方法で幸せに暮らしている」と肯定的な側面に注目した場合、それは今までマイノリティ集団に行なわれてきた社会的抑圧や差別構造を赦免する結果を招きかねない。

 

つまり問われるはバランスであり、研究者自身の姿勢なのであろう。ここでの「バランス」とは、全ての事象を相対的に扱うという意味ではなく、結局自分がこの研究を通して、「誰」に「何」を伝えたいのかという「価値判断」と研究における「学術性」の均衡を指す。

 

研究におけるこれらの難しさに加え、日本という地域性の中で研究をどう位置づけていくかということも、私にとっての重要な問いである。 グローバル化が進み、多くの共通する社会問題を抱える韓国と日本はこれからより多くの場面で協力を必要としていくだろう。両国が諸問題を共に解決していく中で、より相互の「対話」の機会が開けていくことを信じている。

 

幼い頃に経験した日本、そして留学のため再び訪れた日本において、これからも日々の問いを大事にしていきたい。時間をかけてゆっくり向き合いながら私なりの応答を試みていければと思っている。

 

<朴源花(パク・ウォンファ)Park_ Wonhwa>
2015年度渥美奨学生。韓国出身。2010年早稲田大学卒業。2012年東京大学総合文化研究科にて修士号取得。現在同大学院博士課程に在籍中。関心テーマは韓国の「多文化主義」および日本の「多文化共生」をめぐる言説、マイノリティに対する排外主義、メディアなど。

 

 

2016年7月14日配信