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エッセイ492:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「『競争』が大嫌いな理由:一人の人間として、文学部の学生として」

「競争」というものは、「比較」というものを大前提とする。人を競争させるためには、何らかの形で人を「比較」しなければならない。人を比較するためには、簡単には測定できないその奥深い中身―その人が持つユニークな内面性、事情、人としての成長、物語など―を、測り易く表示しやすいものに変換しなければならない。要するに、「数字」に還元しなければならない。

 

ここで、疑問。

 

「人」を比較し競争させる際、元々「質」の次元に所属している「内面性」などのような、奥深く簡単には測定できないものを、元々「量」の次元に所属している「数字」のような、測り易く表示しやすいものにどこまで変換し還元させていいのだろうか。そしてそれを前提に、人に対して何らかの価値判断をどこまで下していいのだろうか。

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特に、人間の最も奥深いところを次世代に伝える使命にあるはずの文学部に当てはめていいのだろうか。しかし、これは、世界中の大学の文学部で起きているらしい。判断基準はだんだん、「今まで出した論文数はいくつか」とか、「何年で修士論文や博士論文を出せたか」になろうとしている。結局、「量」的なものばかりではないか。ところが今、むしろそれこそ「成果」と評価されている。いったい何時から世界中の文学部が、このような非常に感情のない数式による「合理的な」仕組みに巻き込まれてしまったのだろうか。

 

私は、より「正確な」判断基準を提案する立場にもなく、どのケースにも楽に使えそうな方法も知らない。だが、文学部の学生として、そしてなによりもユニークな内面性、事情、物語などを持っている一人の人間として、「何かがおかしい」「何かが根本的にずれているのではないか」と感じている。一人の人間として、自分と他の人間の内面性などの、不可侵で測り知れない価値を訴えたくなる。「我々は今、何か大事なものを見失っているのではないだろうか」という気持ちになる。

 

もう一つの疑問。

 

「知識」と、単なる「情報量」との違いとは何か。また、その根本的な違いは、近ごろ文学部の中でも行われる、数字ばかりを用いた比較と競争の様々な仕組みと、どう関わってくるのか。

 

プラトンが教えている。「情報量」とは、ただのデータの集まりであり、未活用のものであると。「知識」とは、人の幸福や繁栄のために活用された情報量であると。要するに、「情報量」は人の幸福と繁栄のために活用されることで、初めて「知識」と成り得るのだと。しかし、数字ばかりを用いた比較や、それを大前提とする激しい競争や、弱い人間同士の席取り競争には、最後の最後までなんとしてでも自分だけを押し込まなければならないところもあるから、そこで「人のため」とか、自分も含めて「みんなのため」という部分は見事に除外されてしまうのではないだろうか。そしてそれによって、我々の教育機関も、「知識の場」ではなく、ほぼ完全に孤独な「情報収集の場」へと化してしまうのではないだろうか。我々の「知識」は少しずつ、ただの未活用の「情報量」に逆戻りしてしまっているのではないだろうか。

 

以上、昨今の私の疑問です。

 

<エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Giglio,_Emanuele_Davide>

渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を経て、2008年4月から東京大学大学院インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。現在は博士後期課程に在籍中。身延山大学・東洋文化研究所研究員。

 

 

2016年5月19日配信