SGRAかわらばん

エッセイ491:顔淑蘭「私が見た中国の日本文学研究の現状」

 

先日、中国国内のとある大学で日本文学コースの学生たちに文学理論の話をする機会があった。日本文学史あるいは自分の研究内容について話そうかとずいぶん迷ったが、自分の学生時代の状況を鑑みて、やはりこれまで学生たちが触れることの少なかったであろう文学理論の話をした方が、学生たちにとって得るものがあるように思って試みにしてみたのである。

 

と言っても、ただ単に文学理論の話ではなく、日本の有名な文学作品の分析と結びつけながら、それに関連してそれらの文学作品をめぐって研究史でどのような議論がなされてきたのかも合わせて話した。

 

そうしたら、講義の後、そこに来ていたひとりの先生に、「そのような研究方法だと、中国では読者がいない、もう少し自分が中国人であることを自覚したほうがいい」と言われた。

 

その先生の言うことが分からないわけではない。日本人の研究方法を追っているだけではなかなかそれを越えることが難しいから、もっと日本人のできないようなことをやりなさいということだ。それについて、私はまったく異論がない。私自身のこれまでの研究もむしろそうだったから、もちろん学生たちにもできるだけ自分の長所を生かしてほしい。また、中国文学と日本文学の研究方法が違っていて、後者の方法がどれだけ前者に応用できるのか、というその先生の疑問にもうなずけるところがある。

 

しかし、だからと言って、中国の日本文学コースの学生が、日本の研究方法を知らなくて本当にいいのだろうか。ましてや日本文学、あるいは中日比較文学の研究者が。もちろん、その先生は別の専門で、もともと近現代文学とはかなり異なる研究方法を持っていると思うから、あまり反論する必要がないかもしれない。が、両国の日本文学研究の現状がいかにかけ離れているのかということについて、中国国内の研究者たちにより正視してほしい。それだけでなく、文学理論は中国文学研究の方にも多く取り入れられているから、よけいに比較文学研究の研究者たちが取り残されたような感じがする。

 

あの日学生たちに話した研究方法が中国できちんと受け入れられるかどうかということについて、それまで私はほとんど問題にすることはなかった。博士後期課程の4年間、あまりにも慣れてしまったせいか、むしろそれが当たり前のように思っていた。しかし、思い返してみると、博士課程に進学した当初、ゼミの議論で多くの文学理論が飛び出てくることに私自身も結構戸惑っていた。もちろん、ある程度はそれが私の属していた研究室の特殊なところでもあって、あまり一般化することはできないが、4年間の訓練を経て、私自身の視野が広げられただけでなく、文学研究も今まで以上に面白くなってきたから、同じ日本文学を勉強する学生たちにもぜひ知ってもらいたいと思った。

 

かつて多くの中国知識人が海外留学で得た考え方や価値観をもって中国国内の状況を批判して、オリエンタリズムの内面化だと批判を浴びせられたことがある。そういったことを研究してきた人間として、日本だからなんでもいいといったようなものの見方や日本かぶれには警戒してきた。日本にいる4年間、中国と中国人に対する日本人の偏った見方に眉を顰めてもきた。しかし、あるいはだからこそというべきかもしれない、より多くの中国人に日本のいいところを学んでほしいと思う。

 

日本においても中国においても常に不満を感じている自分を反省するのを忘れない一方、これが文化を跨って生きる人間の逃れられない使命でもあるように思う。たとえこれからの道がまだまだ険しいとしても…

 

<顔淑蘭(イェン・シュラン)Yan_Shulan>

渥美国際交流財団2015年度奨学生。厦門大学(学部)と北京師範大学(修士課程)を経て、2012年4月から早稲田大学教育学研究科に在籍。2016年1月に博士号を取得。現在は中国で就活中。

 

 

2016年5月12日配信