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エッセイ489:李鋼哲「『孫中山』の名前の不思議」

孫文といえば、中国でも日本でもまた東アジアや世界でもよく知られている歴史上の人物である。しかし、その名前(呼称)は面白くて不思議である。

 

先週、台湾の高雄市にある文藻外語大学でワンアジア財団の講義を依頼され、久しぶりに台湾旅行を堪能した。石川県の小松空港から台北桃源空港まで直行便が週に5便あり、とても便利である。金沢や北陸地方は台湾の観光客に人気で旅行者が多い。ちなみに石川県は保守的な風土があり、嫌中親台の傾向も強いので、大陸より台湾訪問者の方が多い。

 

ところで、ここで私が読者に伝えたいのは、「中華民国の国父」と言われる孫文の名前についてである。台北や高雄に行くと、「中山公園」、「中山路」、「中山大学」など、「中山」(Zhongsan)という名前の付いた地名が多くみられる。中国大陸にも同じように「中山」という名前の大学、施設や道路などがたくさんある。大陸では孫文を「国父」とまでは言わないが、「近代革命の先駆者」として特別な扱いをし、共産党中国は孫文の未亡人である宋慶齢女史を「国家副主席」にまで格上げし、死の直前には「中華人民共和国名誉主席」の称号まで与えた。孫文は、中国を清朝満州族の手から約270年ぶりに漢民族の手に取り戻し、「中華民国」を作り上げたので、国民党も共産党も孫文を「国父」や「先駆者」と崇めるのは当然のことであろう。

 

しかし、その名前の呼び方が「孫中山」となっていることは不思議だ。台湾や中国の皆さんは聞き慣れているからなんとも思わないだろうが、日本や外国では一般的に「孫文」または「孫逸仙」、英語では「Sun Wen」または「Sun Yat Sen」と呼ぶ。

 

ウィキペディアでは次のように紹介している。「孫文:譜名は徳明 、字は載之、号は日新 、逸仙 (Yìxiān) または中山 、幼名は帝象 。他に中山樵(なかやま きこり)、高野長雄(たかの ながお)がある。中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙の広東語のローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる」。「号の由来:孫文が日本亡命時代に東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主人は貴族院議員の中山忠能である」。

 

つまり、「中山」は紛れもない孫文の日本名「ナカヤマ」である。一般の人が、自分が好きな名前を付けたりするのは特に問題にならないし、それには何の不思議もないが、「国父」、「先駆者」という特別な扱いをされ崇められる人物に「中山」(ナカヤマ)という外国の号を公式名称として使うことについて「不思議」に思うのは私だけだろうか?

 

大陸でも台湾でも、大学や施設や道路に「中山」を使って来ているが、なぜか「孫文大学」や「孫文路」などは見当たらない。それは日本に親しみを持っているからなのか、それとも別の理由があるのだろうか、私は孫文研究の専門家ではないので、その理由がわからない。

 

日本に親しみを持っているのであれば、国民党からも共産党からも「親日派」として批判されても不思議ではない。かつて孫文は日本を中国革命の根拠地として頻繁に出入りし、日本人の友人や支援者が多く、大月薫という日本人女性と駆け落ち結婚もして、子孫まで残しているという。彼の後を継いだ蒋介石も2度も日本に留学し、日本の高田砲兵隊に2年間勤務したので、「親日派」と言っても不思議ではないだろう。

 

また、中華人民共和国の創設者である毛沢東は日本留学の経験はなかったが、かつて1950年代に日本の社会党代表団が訪中し、毛沢東に会見した時、「日本は中国を侵略し多大な迷惑をかけた」とお詫びしたら、毛は冗談半分で「何をおっしゃっているのですか?我々は日本軍に感謝しています」と答えたという。「日本の侵略戦争があったから、中華民国の国民党の手から政権を奪うことができた」という意味で、日本に感謝するとまで言ったという。毛沢東の右腕であった周恩来首相も日本留学経験者であるのは周知の事実である。毛沢東や周恩来の時代には反日キャンペーンなどなかったのである。その後の鄧小平の時代もほとんど同じであった。

 

確かに、近代日中関係はいろいろ複雑な側面はあると思うが、台湾では比較的「親日的」(哈日)

な傾向があるのは間違いなく、また、大陸でも1972年の日中国交正常化以降から1980年代まではかなり「親日的」であった。こういうことを今の中国人や日本人は忘れているように感じる。特に若者はそうである。北陸大学には中国からの留学生が多く、講義の時に「かつて80年代、私が大学生の頃は、親日ムードが凄かったよ!」というと、「え?そんな時期もあったんですか?」と中国人や日本人の学生たちはびっくりする。それも不思議ではない。彼らが世間を知り始めてから現在までは「日中関係は悪い」、「中国人は反日」という印象しかないのだから。

 

私が中国で世間を知り始めた10歳ころ、朝鮮族の有名な画家(かつて日本留学者)のご家族7人が「文化大革命」のために村に下放されて来たが、その画家の奥さんが日本人であった。末子は私の同級生だったので、その一家と仲良くしていたが、ちょうど日中国交正常化の時期ということもあったからか、村の誰一人も「日本人」だからと言って憎んだり虐めたりすることなく、親しく付き合っていた。私の日本語勉強は、その同級生のお母さんに教えてもらったのがきっかけであった。

 

それから1980年代末ころまでは、日中関係は基本的に友好的なムードであったことは疑いのない事実である。大学生の時代にはキャンパス・コンサートでも日本の歌を熱唱し、多くの若者が日本のドラマと映画に夢中になっていたのである。また大勢の若者が日本に留学に来たのである。つまり、中国には「親日的」(または「日中友好」)な要素がたくさんあるし、日中関係の未来にそれを生かすことができると信じている。また、それを今の若者に伝えるのは我々の責務であり使命でもあると思われる。

 

「孫中山」が「ソン・ナカヤマ」だったということも世の中に、特に若者に伝えることは中国人の日本理解を深め、対日観を変えていくためにはとても大事なことである。

 

<李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>

1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。北東アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて――新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。

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