SGRAかわらばん

エッセイ445:太田美行「選ぶ-第8回SGRAチャイナ・フォーラム-に参加して-」

これだけ近い国だというのに中国へ行くのは初めてである。そういう訳で空港からのタクシーの中では念願の中国をよく見ようと、ひたすら車窓に張り付いていた。大陸の広さを感じた。何よりも建物の一つひとつが大きく、隣の建物との間が広い。そして道路はひたすら真っすぐだ。東京に生まれ育った身としてまず感じたのがこの空間感覚の違いである。ここから中国の人たちとの間に何となく感じる感覚の違いの背景に納得する。フォーラム会場の中国社会科学院文学研究所から天安門まで官公庁が並ぶ、中国で最も広いであろう通りを歩いた時は都を訪れる遣隋使はたまた遣唐使の気分で、「威容」が与える心理的効果についてしばし考えた。こうして私の中国訪問とチャイナ・フォーラムは幕を開けた。

 

第8回チャイナ・フォーラム初日の中国社会科学院では佐藤道信先生が「近代の超克-東アジア美術史は可能か-」で「ヨーロッパ美術史」が存在するのに対して日本、中国・台湾、韓国に同様の広域美術史がなく、一国美術史が中心となっている現状と課題について、木田卓也先生は「工芸家が夢みたアジア:<東洋>と<日本>のはざまで」の講演で中国へ渡った近代日本の工芸家について講演をされ、2日目の清華大学では「脱亜入欧のハイブリッド:『日本画』『西洋画』、過去・現在」を佐藤先生が、「近代日本における<工芸>ジャンルの成立:工芸家がめざしたもの」で木田先生が近代日本と中国の美術・工芸のあり様について講演をされた。フォーラムの詳細は林少陽氏の報告書でご覧戴いたと思うので、ここでは私がフォーラム及び参加者との交流で感じたことを、広域史を中心にご紹介したい。

 

フォーラムは近代日本と中国、東アジアの美術・工芸のあり様と関わりを丁寧に、そして学術的に掘り起こし、整理していくものだった。私たちが当たり前にとらえている美術史が当時の時代背景と(恐らく)必要性や気運によってどのように「作られていった」のかを佐藤先生は「自律と他律の自画像」という言葉を用いながら、木田先生は工芸家の足跡をたどりながら、それぞれ明らかにした。

 

歴史というものは事実、起きたことの単なる集合体ではなく、どの「事実の集合体」を掘り起こして、どの角度から光を当てるか、それをどのように取り扱っていくのかの意図によって異なる意味をもってくる。その観点からすると今回のフォーラムでは、多くの事柄から「東アジア美術史」、「広域史」、「影響し合う」を選び、未来に対して前向きな意欲が感じられる発表と議論の場だった。一方で佐藤先生は「新しい基軸を作ることは新しい誤解を作ることになるのかと思う(こうした研究をするのは)自分がどこに立っているのか知りたい、それだけ」と語る。佐藤先生の指す「新しい誤解」への懸念はよくわかるものの、ある基軸を知ることで自分を取り巻く世界の構成が、成立の過程が、見えてくる。ひとつの基軸を知ることは他の基軸を感じ取る手がかりとなる。だから私はこの新しい基軸を積極的にとらえたい。

 

10年以上も前に「ワールド・ミュージック」が流行していた頃、確か音楽家の坂本龍一が雑誌の対談か何かで「今のワールド・ミュージックを語ると沖縄民謡のような民族音楽を語ることになってしまい、ワールドではなくなってしまう」という趣旨のことを言っていたのを思い出した。確かに当時彼が発表した音楽は沖縄民謡のアレンジ曲だった。同じように広域史を論じると自国史や「個」はどうなるのだろう。実際その点への心配の声が会場にはあった。しかし広域史を語ることは個や独自性を否定するものではないはずだ。独自性とは何か。人で考えた場合、個人の性質や能力、教育、経験の積み重ね、取り巻く環境とその歴史(国家だけでなく家族、友人、民族も含む)などから育まれ、磨かれたものではないか。ならば他との関わり(広域史)の中にある自己(自国史)を見出し、自己(自国史)の中に他(広域史)を見出すことはごく当たり前のことだ。自分の立っている場所を検証し続け、考えることこそが必要である。

 

もし自分の頭で考え物事を選ぶことをやめたら、すべてが曖昧なまま流されてしまいかねない。私たちは考え、掘り出し、そして選ぶ。その先にあるのが未来だ。何かを選ぶ時点で既に自らの態度を表明しているともいえないか。「東アジア美術史」、「広域史」、「影響し合う」を選ぶのは「影響し合う」未来を前向きなものにしたいからである。一見すると今回の講演は学術的で地味なものだろう。しかし、とかく考証の怪しげな歴史小説やドラマが溢れ、熱気を帯びた雰囲気や流れに足元をすくわれかねないような昨今、一つひとつを丁寧に掘り起こし、検証しつつ事実を浮かび上がらせることには大きな意味がある。

 

講演後の質問では少なからず論点から外れたというか、一足飛びのものがあったり、若い日本研究の学生と話していて意外にも現代日本の作家が読まれていないことに驚いたこともあった。(中国にも多数いるという村上春樹ファンはどこにいるのだろう?) それも事実なら、会場に大勢の学生が来てくれたこともまた事実だ。彼らの中に今回のフォーラムが種となり、芽吹く日が来ることを願っている。

 

木田先生は1920~30年代の「新古典派」を「懐古趣味的な保守反動勢力でなく、新しく東洋趣味的な工芸を作り出そうということを目指していた」、「『日本の近代』は、いかにあるべきか?、さらには『アジアの近代』はいかにあるべきかという問いが含まれていたと思われます」と語る。その頃の日本が発信する「東洋」と今の日本や他国がいう「東アジア(あるいは東洋)」では異なる点は多いだろう。だからこそ日本からだけでなく、その他の国から、人からの「東アジア広域史」を論じる声を聞き、共に今と未来とを選びたい。

 

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<太田美行(おおた・みゆき)>
東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通などを経て2012年より渥美国際交流財団に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。

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2015年1月15日配信