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エッセイ402:相川雅弘「一庶民として最近思っていること」

私は知識層でも富裕層でもない、どこにでもいるごく普通の日本人、男性、60歳です。ちょっとだけ「ごく普通」でないとすれば、少し英語をしゃべること、学生時代にフィリピンに1年間だけ留学していたこと、仕事で外国、特に中国に行くことが多かったことぐらいでしょう。それとノンキャリア公務員の父の転勤で日本国内いろいろなところで育ったせいで「ふるさと」意識がどこにもない、つまり何かに帰属しているという意識がきわめて低いこともそのひとつかもしれません。

 

初めての海外経験は1973年の夏、インターナショナル・ワークキャンプで韓国のウォンジュからバスで入った山村で過ごしたひと月でした。貧乏学生だったのでアルバイトで貯めたお金で関釜フェリーに乗って玄界灘を渡り鉄道でソウルに移動、そしてキャンプ地にたどり着きました。(滞韓中に所謂「金大中事件」が起こりました)釜山に着いて町に出た時、深い考えがあったわけではないまま、自分が日本人であることを恥じるような気持ちで、うつ向きに歩いたことをはっきり憶えています。幸いその後韓国人をはじめとする外国の友人にも恵まれ、そういう思考停止状態から解放されて今に至ります。

 

冒頭で申しましたように中国での仕事が多かったものですから、そこに登場した「なんだか行儀の悪い中国人」に会う機会も多くありました。日本でよく言われる「けたたましく喋る」「自分のことばかり主張する」「ルールを平気で破る」という印象を中国人に持っているということも正直に申し上げておいた方が良いでしょう。この点においても私は「ごく普通」の日本人です。

 

しかし最近メディアがこれでもかというほど嫌中、嫌韓をたれ流していることには途轍もない恐ろしさを感じています。明らかに意図的に世論を煽っているとしか思えないのです。(中国、韓国から話は逸れますが、北朝鮮に関する報道で流される悪意に満ちた日本語訳などそのわかりやすい例かもしれません)一昨年入院した時、平生は見ることのないワイドショーで「政治問題」が井戸端会議のように語られているのには唖然としました。ワイドショーでは有名人の「不倫問題(?)」と同列に「政治問題」が伝えられるのですね。

 

そういう世間の空気を背景に(その「背景」が先なのか、先に意図的に「背景」が作られたのかはこの際おいておきますが)日本の政治家たちの発言、行動も日に日に好戦的になってきているのを実感しています。「話せば真意はわかってもらえる」と最近首相、政治家のみならず各方面の公人たちが口にするようになりました。彼らがわかってもらえると思っている「真意」とはいったい何なのでしょうか。もしも「真意」があるのなら問題となって初めてそれを口にするのではなく、最初から「正確な言葉」で「真意」を伝えるのが基本であって、その能力がないのなら「公人失格」と言わざるを得ません。(「あくまで個人の感想です」とエクスキューズするサプリメントのコマーシャルみたいですよね)

 

国際問題に限らず「個人」が背負っている背景もひとりひとり異なります。「正確な言葉」を使うことがコミュニケーションには不可欠だと思います。そのたいせつさを今こそ再認識する必要があると痛感しています。「異なる」ことを理解するには「正確な言葉」で自分=「個人」の感じ方(気分)を検証することから始めなくてはならないと思います。その「気分」は自分が実際に感じたことなのか?たれ流されているものに「つられて」はいないか?と。

 

話はあちこちに飛びますが、テレビのバラエティ番組では笑い声がやたらに強調されています。さほど面白くない出演者のジョークに視聴者が「つられて」笑うのを期待してでしょう。確かに効果はあるようです。この「つられて」は世間に蔓延していて、例えば居酒屋などで「つられて」嬌声を上げているグループをよく見かけます。「つられて」をしないと親しく話せないのかなと思いながら、ひたすらそのグループが店を去るのを待つか、こちらが店を出るかでその場をしのぎます。これがビジネス接待や合コンの場面なら、今までもどこでも見られた、自分も混じっていたかもしれない光景だと理解できますが、政治、国際問題となると話はちがいます。「つられて」中国が嫌い、韓国が嫌い。もっと言えば「つられて」「戦争準備態勢をとるのは当然だ」という世論の流れが出来つつあるのだとしたら本当に恐ろしい。

 

だからこそ感覚的、抽象的、文学的で“わかりやすい”政治的な、あるいは公的な発言は警戒すべきだと思いますし、それが「正確な言葉」かどうか、「真意」はどこにあるのかを嗅ぎ分ける力が「ごく普通」の人間にも求められているのだと強く思います。さきほど「その背景が先か、先に意図的に作られたものか」と申しました。世間の空気の一部は「自分」が担っているという自覚がなければ、嫌中、嫌韓がなだれ込んでしまうかもしれない深刻な事態に対して、あまりにも無責任だと考えます。現在の国際関係はどういう経緯をもとに成立しているのか、その基本的な歴史認識は「それがルール」と知っておくべきでしょう。「あの時は相手だって悪かった」では通用しないという「ルール」であるということを。60歳の私はその「ルール」を元に豊かになっていった日本で育ち60年間暮らしているのですから。

 

先述しましたように、引越し族の子供だったせいか、私には「ふるさと」帰属意識が希薄です。日本は生まれて以来ほとんどの期間を暮らしている場所ですし、外国語もそんなに得意ではないので海外から帰ってきた時など日本語が通じることにほっとします。それに当然のことですが、友人、たいせつな人たちに占める日本人比率は圧倒的に高い。しかしこれは「日本人が好き」とか「日本が好き」というのとはちょっとちがいます。私にとっての「ふるさと」はたいせつな人のいる心地よいところ、というほどの意味しか持ちません。そして、そんなにたくさんではないけれど、たいせつな友人には韓国人、フィリピン人、アメリカ人、ボリビア人、タイ人、ヴェトナム人、ラオス人などが含まれています。(親しい中国人は今のところまだいませんが、そのうち出会うでしょう)

 

日本の文化はその中で育ったので概ね心地よく、大げさな言い方をすれば「愛して」いますが、ことさら強調されて使われる「愛国心」は私の中には見あたりません。そういう「愛国心」に基づいて、たいせつな人たちがいる国と嫌い合う、その先に戦争になってしまう、もっとはっきり言ってしまえば、殺し合うのは絶対に嫌です。私にとって「国家」より「個人」の方がずっとリアリティのある対象だから当然です。そういうたいせつな「個人」を、そんなに多くではないけれど、外国人にも持っている「個人」として、“「つられて」嫌中、嫌韓”が招いている(あるいはそれを利用している)戦争準備状態的な時代気分に飲み込まれるつもりはありません。思考停止しないよう自分を見張って、できるだけ「正確な言葉」で「異なる」もの、人、文化と鷹揚にお付き合いしていきたいと思う所以です。新しいともだちを得るのはとても楽しいことですしね。

 

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<相川雅弘(あいかわ・まさひろ) Masahiro Aikawa>

1953年生まれ。小学生で3回転校し、17歳の時ミュージシャン活動を開始。その後国際基督教大学入学。大学3年時にフィリピン、アテネオ・デ・マニラ大学に1年留学。大学院修士過程(比較文化研究科)を中退して再び音楽の世界に戻る。10年前レコード会社を退職した後は細々とプロデュース、作詞、作曲、ピアノ弾き、雑務、家事をしています。

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2014年3月12日配信