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エッセイ416:解 璞「共有しないイメージを伝えるということ」

食べ物の話から始めたいと思う。 5 年余り前、ある日本の友人と食事した時に、こんなことを聞かれた。「中国の饅頭は、本当に餡がないのか」、と。中国語を勉強したことがある方なので、おそらく「饅頭(マントウ)」という単語を勉強していた時に、日本の饅頭と中国の饅頭とは、餡や具があるか否かという点で異なっていると教えられたのではないかと想像した。

 

そのような「分かりやすい」説明に、薄々抵抗を感じながらも、その時の私は、確かに中国の饅頭には餡がないし、味付けもされないから、小麦粉そのものの味で、ちょっとだけ甘いとしか答えられなかった。友人も、なるほどと納得したようで、ネイティブの人に確かめてよかったというような笑顔になってくれた。

 

ところで、数年後のある日、その友人が中国の饅頭は餡がないから、生地がきっと日本の饅頭の皮の部分より甘いよねと言ったのを聞いて、はじめて以前の答えのいい加減さに気づいた。

 

確かに日本語の「饅頭」という言葉と、中国語の「饅頭」という言葉は、餡や具の有無という点で異なっているが、似たような食べ物を指している。つまり、言語の面だけを考えると、同じ表記の「饅頭」であるが、日本と中国とでは、少し異なるイメージを持っている。これは、間違いない事実だ。しかし、これだけでは、不完全な理解、あるいは勘違いさえされてしまうと考えた。

 

なぜならば、例えば日本で小豆などの餡が入った饅頭は、中国では「豆包」と言い、日本で肉などの具が入った肉まんは、中国では「包子」と言い、また、餡や具はないが、甘く味付けされた日本の饅頭とほぼ同じ大きさの小さい饅頭は、中国では「金銀饅頭」と言い、饅頭と同じように味付けされない蒸しパンのような食べ物は「花巻」と言うのが普通だし、逆に、ご飯や蒸しパンのかわりに食べる饅頭というものは、管見によれば、日本にはないからだ。

 

つまり、日本と中国の饅頭は、餡や具の有無という点で異なっているのではない。そうではなく、日本でいう饅頭は、中国語で「豆包」「包子」あるいは「点心」などの別の言葉で表され、一方、中国でいう饅頭は、日本にはめったに見られないと言うべきなのであろう。

 

このように、同じ漢字という言語の表記を共有したからといって、日本と中国は、同じイメージで世界を見ているのではなく、相互理解がよりスムーズになるわけでは決してない。むしろ、日本と中国では、「言語の表記が似ているから、互いに理解しやすいはずなのに」というような安易な先入観があるからこそ、かえって誤解やすれ違いを招きやすいのではないだろうか。

 

実際、外国人同士ではなくても、このような勘違いやすれ違いがよく起きている。たとえ同じ国の人の間でも、あるいは何十年も一緒に暮らしている家族の間でさえも、こちらの口から発した言葉のイメージと、相手の耳で受け取った言葉のイメージとは、つねに一致しているわけではない。否、つねに一致し、完璧に理解し合えるということは、ほとんど奇跡に近い不可能なことではないだろうか。

 

さらに、自分自身の中でさえ、一致しているとは限らないのである。私は、時々、口頭発表の前に、発表ノートを音読して録音してみる。すると、自分の口から発した言葉のイメージと、自分の耳で受け取った言葉のイメージの間にも、時々ギャップが生じていることがわかる。こんな意味を伝えるつもりは毛頭なかったのに、こう発言したら誤解されてもしようがないな、というように、自分の口で音読して自分の耳でもう一度確かめなければ分らないものがある。自分自身の中でさえ、「口」と「耳」の間には理解のギャップがあるのだと、はじめて気づかされる。

 

普通にコミュニケーションを行えば、このような勘違いや誤解が、常に付きまとっている。だからこそ、自分が伝えたいイメージと、相手が受け取ったイメージの間のズレを意識し、両方が伝えたいことを我慢強く、確認し続ける包容力が、どうしても必要であろう。でなければ、「饅頭」一つさえうまく説得や理解ができないのである。

 

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<解璞(かい・はく) Xie Pu> 日本近代文学専攻。2014年早稲田大学大学院文学研究科日本語日本文学コースにて博士号取得。現在、夏目漱石の作品および文学論の中国語訳について研究調査している。2013年度渥美奨学生。

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2014年7月9日