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エッセイ363:韓玲姫「福島原発事故の予言と警鐘」

12月8日、私は「原子力をめぐる文化表象」というシンポジウムに参加した。今回のシンポジウムは、長年にわたって原発や放射能をテーマに研究を続けてきた日本大学の宗形賢二教授、松岡直美教授、植竹大輔准教授、安元隆子教授による講演であった。

 

そもそも、原子力は私にとってはるか遠い存在であった。いや、それよりも無関心であったとの言い方がもっと適切かもしれない。中学校の歴史授業で習った1945年8月6日の広島原爆、9日の長崎原爆は遠い昔のことであり、今の平和な世界ではあり得ないことだと思い込んでいた。

 

しかし、このような原子力に対する認識が覆されたのは、まさに3.11東日本大震災であった。その日、私はたまたま自宅で後輩たちと談笑中に大地震に襲われた。窓や家具がガタガタ音を立て、テレビ、冷蔵庫がだるまのように大きく前後に揺れた。書棚から何冊か本が落ちたのか、トーン、トトーンという音がした。日本に住んで長年経っているが、このような大地震に遭うのは初めてだった。しばらくして大きな揺れが落ち着き、「早く外に出よう!」と話しかけてきた後輩の一言で、慌てて外へ逃げ出した。家の前の広場にはすでに住民たちが集まり、ざわざわしていた。必死に電話をかける人、ラジオを聴いている人……みんなの顔には不安が漂っていた。その中に交って私たちもそれぞれ携帯を手に取るが、まったく電話がつながらなかった。不安が募るばかりだった。しかし、ぼーっとしている場合ではなかった。早速、私は車で片道30分のところにある、当時1歳の娘が通っている保育園に向かった。住民たちの緊張とはうらはらに、道路はいつもと変わらず、平然と車が流れていた。ただ、車窓から眺める空はなんとなく不気味な感じがした。

 

娘と息子を無事引き取り、家に着いてやっと安堵してテレビを付けた瞬間、わたしは唖然とした。大地震による想像を絶する津波の到来とともに一瞬にして消え去ってゆく村全体、全滅してしまった家屋、田んぼ……その信じられない光景に私は言葉を失った。家屋や車を丸ごとに呑みこんでゆく大津波は、まるでそれまでの鬱憤を晴らす悪魔のようだった。これは現実ではない、悪夢だ、いや、ハリウッド映画のワンシーンだ、と私は心の中でつぶやいた。が、確実にこれは夢でもなく、映画でもなく、現実であった。全身が震えた。心臓がバクバクした。涙が止まらなかった。大津波の残酷さはとうてい言葉では表せない悲惨そのものだった。

 

大津波で一晩中悲しみと恐怖に包まれた震災の翌日、世界に衝撃を走らせる出来事が起きた。福島第一原発の1号機と3号機で炉心熔解が発生し、水素爆発が起きたという。原子炉建屋が吹き飛ばされ、大量の放射性物質が漏洩した。「ふくしま」は、ただちに全世界にその名を知らされた。「広島原爆」、「長崎原爆」はもう歴史のできごとではなかった。舞台は変ったが、形は違うが、まったく同じ被害となり、歴史が再演されたのである。広島、長崎の被爆者とその子孫達が今まで背負ってきた精神的、肉体的苦痛を、66年経った今、同じく日本という国の福島の被爆者達が一生背負って生きていかなければならなくなるということは、いかにも皮肉なことである。

 

福島第一原発から半径20km圏内は今も尚立入禁止区域とされている。また、福島災害対策本部「平成23年度東北地方太平洋沖地震による被害状況速報(第736報)」によると、避難生活を余儀なくされている自主避難者は2012年10月1日時点で11,919名であり、県外への避難者は60,047名だという。事故当時の放射性物質の飛散により内部被爆、外部被爆をされた避難者数を合わせると、いかに被害が大きかったかが想像できる。福島原発事故の影響を受け、マスコミでは原子力発電所の増設計画や原子力発電所の再稼働などに対する議論を大きく取り上げた。

 

問題が起きてから慌てて行動する。これはいつものパターンだ。とは言え、なぜ地震国である日本が、過去にも大地震、大津波の歴史的教訓があったにもかかわらず、今回の原発事故を事前に防ぐことができなかったのか。この疑問が何度も脳裏をよぎった。これは私だけでなく、日本人を始め、世界の多くの人々の素直な疑問であるかもしれない。大震災から一年半あまり抱いていた疑問を、私は今回のシンポジウム、特に国際関係学部の安元隆子教授の「チェルノブィリ原発事故はいかに描かれたか」という講演を通して、やっと悟ることができた。

 

安元教授は、チェルノブィリ原発事故がいかに文学者や映画の中で描かれているかについて考察し、その中で、チェルノブィリを通して「福島」を予言した日本の詩人・若松丈太郎の視線について検討した。安元教授が提供した資料の中に次のような文章がある。

 

チェルノブィリ周辺住民が強いられている事態と同様の事態が私たちの生活域で起きうることであることと、そしてそれによって私たちの生活がどう変わらざるをえないかということとを想像することは、私たちが想像できる範囲を超えているだろうという趣旨のことを、先に私は書いた。(略)しかし、最悪の事態とは次のようなものも言うのではなかろうか。それは、父祖たちが何代にもわたって暮らしつづけ、自分もまた生れてこのかたなじんできた風土、習俗、共同体、家、所有する土地、所有するあらゆるものを、村ぐるみ、町ぐるみで置き去りにすることを強制され、そのために失職し、たとえば、10年間、あるいは20年間、あるいは特定できないそれ以上の長期間にわたって、自分のものでありながらそこで生活することはもとより、立ち入ることさえ許されず、強制移住させられた他郷で、収入のみちがないまま不如意をかこち、場合によっては一家離散のうきめを味わうはめになる。たぶん、その間に、ふとどきな者たちが警備の隙をついて空き家に侵入し家財を略奪しつくすであろう。このような事態が10万人、あるいは20万人の身にふりかかってその生活が破壊される。このことを私は最悪の事態と考えたいのである。
(1994年9月10日、『福島原発難民』所収)

 

この文章を読んで私は目を疑った。これは福島原発事故後に書いたものなのか。いや、そうではなかった。確実に事故発生より17年も前に書いたものであった。一瞬ぞっとした。彼が描いた光景は現実と怖いほどマッチしているのである。さらに、若松氏が書いた詩の中に次のような内容がある。

 

原子力発電所中心半径30kmゾーンは危険地帯とされ
11日目の5月6日から3日のあいだに9万2千人が
あわせて約15万人
人びとは100kmや150km先の農村にちりぢりに消えた
半径30kmゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町 冨岡町
楢葉町 浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村 小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約15万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
(1994年 『神隠しされた街』より)

 

これも福島原発事故の17年前に書いた詩であるが、チェルノブィリから福島を想像して描いた光景には、福島原発後の苛酷な現実がありありと映されているのである。

 

広島、長崎の原爆、チェルノブィリ原発事故の影響を受け、多くの被爆者、文学者、そして民間団体が原爆の恐ろしさ、残酷さを伝えてきたにもかかわらず、なぜ同じことが繰り返されるのであろう。私はやっと答えを見つけた。それは原爆に対する認識不足ではない。想定外の自然災害、人為的ミスでもない。それは若松氏が指摘したように、最悪事態に対する想像力の欠如であった。

 

若松氏の予言は福島に対する警告であった。しかし、その声は東電や日本政府には届かなかった。そこまで的中したのになぜ?と問い質したい気持ちがいっぱいだ。でもいまさらその責任を追及しても問題解決にはならないだろう。それよりもっと大事なのは、若松氏が描いたのは福島の現実そのものだけでなく、それは未来の日本、ひいては世界に向けての警鐘でもあることを認識してもらいたい。

 

神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
(1994年 『神隠しされた街』より)

 

広島、長崎、チェルノブィリ、福島の被害はまだまだ終わっていない。いや、もっと進行している。しかし、人間の記憶力は流れる歳月とともに衰退し、当時の恐怖感は次第に薄くなり、いよいよ忘れ去ってゆくのである。そして、また新しい神隠しの街が増えていく。このような神隠しの街を増やさないために、今私たちにできることは、原子力を再認識し、広島、長崎、チェルノブィリ、福島の真実を知り、永遠に語り継ぐことではなかろうか。

 

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<韓玲姫(カン レイキ ☆ Lingji Han)>
中国吉林出身。延辺大学外国言語学及応用言語学修士号取得。現在筑波大学大学院図書館情報メディア研究科博士後期課程在籍。2012年度渥美奨学生。研究分野は比較文化、比較文学。
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2013年1月16日配信