SGRAかわらばん

エッセイ371:洪ユン伸「ダルウィッシュ・ホサムさんの講演を聞いて」

「シリアの料理は美味しいです。イタリアやスペイン料理のように。イタリア料理を 食べながら懐かしいと思う時もあります。オリーブオイルをたくさん使ったもので す。安定したら是非、皆さんも!・・・でも安定しないかもしれない・・・」

 

去る3月23日、「アラブの春とシリアにおける人道危機」をテーマに開かれた第3回 SGRAカフェは、シリア料理の話から始まった。

 

SGRAカフェは講演、質疑応答、懇親会を合わせた3時間に及ぶ「議論の場」である。 20人ほどの少人数であったが、日本、アメリカ、韓国、中国、トルコからの会員等が 集まり、シリアの情勢について議論した。講師のホサムさんは、シリア出身で、日本に留学して以来、ここ日本で祖国シリアに思いを寄せている研究者である。2010年に東京外国語大学大学院地域文化研究科平和構築・紛争予防プログラムより博士号を取得、現在、アジア経済研究所中東研究グループ研究員を務めている。SGRA会員でもある。

 

「安定しないかもしれない・・」という言葉を何度も聞いたためであろうか。ホサムさんは時々笑いを取りながら、終始冷静を保ちつつ、静かに、しかしながらはっきりした口調で話しを進めたが、それがむしろ、私を不安にさせた。そして、報告書を書いている今、ホサムさんの冷静な声と、繰り返される言葉が持つ不安定さの間の「揺れ」のようなものこそ、多くのことを伝えていたように、私は思う。そこで、本報告 は、私が感じたこの「揺れ」を伝えるため、まず、シリア情勢をめぐるホサムさんの冷静な講演内容を伝えた上で、SGRAカフェならではの講演会後の議論の内容を含むものにしたい。

 

【「西洋の期待」を裏切った独裁者とその妻】

 

シリアは、地理的な重要性からエジプト、アッシリア、モンゴル、オスマントルコ、英国、フランスなどの帝国がその支配をめぐって抗争を続けてきた地域である。1946年フランスの委任統治終了後は25年近く軍事クーデターが繰り返された。1963年「単一のアラブ民族」を掲げたバース党によるクーデターが成功し、バース党政権が樹立される。その国防相を務めたハーフィズ・アル=アサドは、1970年クーデターを成功することにより、それまで繰り返されてきたクーデターに終止符を打ち、大統領にまで登り詰めた。独裁者ハーフィズ・アル=アサドの時代に、国家としてのシリアが形成されていった。

 

ハーフィズ・アル=アサドの次男こそ、現在のアサド大統領である。彼がイギリスに留学していたことや、留学中に出会った妻アスマー・アル=アフラスが、「中東のダイアナ」と呼ばれていたことは、日本でもよく知られている。SGRAカフェで、ホサムさんは、アサド一家の家族写真の説明から始め、シリアの歴史を紹介していった。

 

「西洋で教育を受けたから民主化するだろうと、『西洋人』は期待したようですね」と語るホサムさん。そもそも政治に関心もなく、イギリスに留学、眼科医としての道を選ぼうとした次男アサドは、後継者であった兄の急死により政治の道に入った。西洋で学んだ大統領の誕生であった。しかし、西洋育ちのアサドは、父より残酷な人権蹂躙の道を選んだ。それは2011年の民衆蜂起に対する弾圧に現れている。

 

【シリアにおける民衆蜂起・ダマスカス(Damascus)という都市】

 

民衆蜂起は、2011年3月にダマスカスに近い、シリア南部の都市ダラアー(Daraa)で起 こった。私が個人的に最も興味深かったのは、一体、何故、蜂起がここから起きたかという点にあった。ホサムさんの報告を聞いて初めて、ダラアーの蜂起には、民主主義への強い熱望だけではなく「文化」という要素も深く関わっていたことを知った。

 

「ダマスカスから少しだけ離れると、貧しい地域が広がっています。それに比べればダマスカスは金持ちの町で、政権に比較的好意的な人々が多い地域です。」シリアは中心と周辺で、経済格差や、地域性、教育の程度などが異なる。若者の失業率は中東のなかでも最も深刻な状況にある。研究者としてホサムさん自身も、経済的な不満から「アラブの春」の波がシリアにも押し寄せると予測していた。しかし、それがダラアーで起こり、あっという間にダマスカスに広まるとは思わなかったという。

 

事件は、「アラブの春」に触発されたダラアーの子どもたち(当時11歳から16歳まで)の落書きを政権が許さなかったことから始まる。警察は学校の壁に反政府的な落書きをした子どもたちを逮捕、爪を剥ぐなどの拷問を行う。釈放を求める母親たちに対して、「もう子どもは釈放できない。子どもをつくり直した方がよい。出来ないならつくってあげようか」などと言い返したという。ホサムさんによると、ダラアーは都市とはいえ、まだ部族的な文化や風習が根強い地域であるようだ。拘束された子どもたちの親たちは親戚同士であったり、近所の住民たちとも親族のようなコミュニティを形成したりしている。「新しい子どもをつくれ」などの侮辱的な言葉が導火線となり、一瞬にして部族的なダラアー社会全体の怒りに広がり、その抗議の波は全国に広がっていく。

 

かつてアサド大統領の父ハーフィズ・アル=アサドは、ハマーという地域で蜂起がおこると、部落全体を虐殺し葬り去ることによって政権の危機を免れた。1982年のことである。しかし、2011年のダラアーの子どもの落書きと親たちの反発から始まった抗議デモは、おさまらなかった。シリアでは葬式に死者の棺を担いで町を行進する風習があるが、ダラアーのデモで殺された人々の葬式行列は、政権反対デモ行進となった。葬式行列に警察が発砲し新たな死者が出ると、その怒りが火花となり、もっと大きな葬式の行列が出来る。こうして、葬式、発砲、行列が繰り返された。毎週金曜日の礼拝後に抗議デモが起こる。2011年に始まった抗議活動は、現在でも拡大していくばかりだ。

 

参考映像

 

1982年と違って、アサド政権のいうイスラム原理主義者たちの鎮圧のためにという名目も、宗派の間の紛争という建前も説得力を失った。ホサムさんはその原因を、第一 に、今度の蜂起は宗派との戦いとは言えないほど一般市民が抗議デモに参加していること、第二に、軍が情報を統制することもできなくなったこと、第三に、抗議の拡大により、今や、抗議が単なる政権交代の要求だけではなく、シリアにおける新たなアイデンティティの模索にまで広がっていることを挙げる。

 

特に、新たなアイデンティティの模索の兆しとして、抗議運動のために新たな「国旗」が提示されている現状を説明した。今までシリア政権が公式に掲げてきた国旗は、支配党バース党が定めたもので、赤・白・黒の水平三色の帯に、中央の白帯のところに2つの緑の星があるデザインである。しかし、抗議の行列に加わった人々が掲げた国旗は、かつてフランス委任統治から解放された時の国旗だ。緑、白、黒の帯にしたもので、中央の緑の星は消えている。その代わり、中央にはっきりと刻まれているのは、3つの鮮明な赤い星である。人々は、独裁政党・独裁大統領から「解放」され、自由なシリアを訴えている。(当日発表資料参考:スライド10~12)

 

2011年、「21世紀的」な革命のように見えた「アラブの春」の感動を覚えている私にとって、こうしたシリアの動きは、たとえ現在厳しい状況が続いていても、確実に「革命前夜」が訪れているかのようにも思えてくる。しかし、ホサムさんの言葉は、むしろ冷静だった。ホサムさんにとって困窮するシリアの情勢は、「人道危機」そのものであるからだ。

 

【人道危機と「100年後」のシリア】

 

現在、国民のライフラインはアサド政権自らの手で断絶されている。抗議運動が起こる地域は次々と孤立させられ、住民は周辺へ周辺へと国内・外を彷徨っている。アサド政権は「私か、破壊されたシリアか」を見せしめるかのように、町を破壊し続けており、病人はモスクや地下で手当てを受け、集団虐殺が続けられている。2013年1月だけで死者の数は5000人以上、これまでに8万人以上が亡くなったとされるが、政府軍の弾圧を恐れ、被害を登録していない数を合わせると、死者の数は2倍になる見込みだそうだ。冷凍倉庫には、もはや葬式すら出来ない状況のため、数千の死者が保管されている。

 

 

参考映像

 

国内には約200万人の人々が避難先を求め逃げまどっている。アサド政権の弾圧に抗するために立ちあがった人々は「自由シリア軍」と呼ばれているが、組織化された指導部をもつものではない。アサド政権を支援するシリア軍、民兵、治安部隊に加え、長年のアサド独裁政権と利害関係のある国々との外交関係が複雑に絡み、国連の支援も期待できない状況である。海外に逃げた人々は、トルコ、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトに分散し「難民」となった。登録された海外への難民数は70万人に上る。国連によると、2013年末までにシリア難民は3倍に達する見込みで、人口の4分の1が難民になる危機にさらされているという。

 

「アラブの春の意味」「蜂起の特徴」「国際社会の介入」などについて様々な質問があったが、もっと心に残る質問は全ての講演が終わって、食事会に入った際、静かにホサムさんのそばに来て尋ねた渥美伊都子理事長の問いであった。

 

「ホサムさん、どうしても聞きたいことがあります。それであなたの家族はどうしていらっしゃるの?」 「弟はマレーシアに逃げるようにアドバイスして、まだ連絡が取れていた時期で、幸いマレーシアに。でも親戚の多くはまだ残されています。今日一緒に来たもう一人のシリア人の親戚はアサド政権の発砲で亡くなりました。別に蜂起に加担したわけではないです。町を無差別に攻撃しているからですね・・・。トルコ、レバノン、ヨルダン・・・逃げた人々は皆、難民収容所で毎日戦争の話を聞いています。今日は誰が死んだのか、何処が破壊されたのかなど。」

 

理事長と落ち着いて答えるホサムさんとの会話を隣で聞きながら、「アラブ」の春に感動した私が、シリアの現状や今出来る「人道支援」というものよりも、シリアの未来に「民主化されたシリア」を夢みたいという欲望が先立っていたことを認めざるを得なかった。私は、困難なシリアの今に「不安」を感じるよりも、「革命前夜」を想像することで冷静でいられるのではないか。冷静なのは、ホサムさんではなく、むし ろ、私/私たちではないか。それは、「冷静」というよりむしろ「無関心」という言葉が適しているかもしれない。しかしながら、「日本が出来ることはいっぱいありますよ」というホサムさんの高まった声に、どのように答えればよいのか、言葉が見つからなかった。

 

懇親会の議論の時に、「ホサムさん、今は困難でも100年後、こういう動きがあったことを誇らしく思う時期がくるかもしれません」と、「100年後のシリア」という話があった。「でも、その時にシリアは、昔、昔、シリアという国がありましたとなる可能性だってあるんですよ」。ホサムさんの声はやはり冷静であったが、ほとんど手を付けていない彼の皿に目が届くと、胸に迫るものがあった。

 

当日の発表資料(PPT)

 

当日の写真

 

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<洪ユン伸(ホン・ユンシン) Hong Yun Shin>

韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士修了後、同大学アジア太平 洋研究科「国際関係学」博士号取得(2012年4月)。学士から博士課程までの専攻 は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。 フェミニズム批評理論など。博士過程では「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄 戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに研究。現在青山学院大学非常 勤講師。編著に『戦場の宮古島と「慰安所」-12のことばが刻む「女たちへ」』な ど。SGRA会員。

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2013年4月12日配信