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エッセイ382:崔 勝媛「日本の科学、そして世界化について」

私は日本に来る前から日本の科学文化に興味をもっていた。日本に旅行で来て訪れたさまざまな博物館、韓国でも翻訳されている科学教養書、そしてニュートンのような科学雑誌など、日本のノーベル賞受賞者たちの名前を挙げなくても、日本は十分に日本独自の科学文化を形成している。

 

しかしながら、日本に来た2009年のある事件により、私は日本の科学について深く悩み始めた。それは新しく生まれた民主党政権による「事業仕分け」だった。一時期「1位じゃないとダメでしょうか」というセリフが流行ったぐらいに事業仕分けは熱い話題だった。それに反対する科学系の人々の声が高まる中、東京大学の小柴ホールで科学系のノーベル賞受賞者による記者会見が行われた。ノーベル賞受賞者が6人も集まって自分の声を発する科学系の環境に私は迫力を感じたが、彼らの発言は結局「いつかは役に立つ。そして1位を目指さなければ、2位もない。だから支援を続けるべきである」というのが結論だった。私はこの発言に違和感を覚えた。私たち科学者は本当に「いつか役に立つため」に研究を続けているのだろうか。国民の莫大な税金で行われる科学の研究に関して、研究者はもちろんその研究の青写真を国民に提案する義務はある。しかし研究者に研究し続けさせる原動力は、純粋な好奇心から出るものである。物事の根本に対する深い考えがあってからでこそ、横への広がりも生まれてくると思う。浅く掘った穴は大雨ですぐ埋められてしまう。今すぐ必要とされるものは、すぐにその必要性を失ってしまう。それをノーベル賞の受賞者の方々から聞けなかったのは非常に残念なことであった。

 

私はこれをきっかけに「科学とはなにか」について悩み始めた。そして西洋文化である科学を日本はどう取り入れ、科学先進国になったのかということに興味を持ち、色々な文献を読んだ。その中で一つ得た答えとしては、明治時代に科学を日本に取り入れる時の「専門用語の漢字語への翻訳過程」が非常に大事な段階だったということだった。何かに新しく名前を付けるには、対象の特徴を理解し、それをもっともうまく表現できる字を深く考察する必要がある。今存在する科学系の専門用語は明治時代の日本が作った漢字語である。私はこの過程が日本の学者たちに科学を深く考えさせる哲学と文化を生み出したと思っている。同じ漢字圏である韓国と中国は、科学を取り入れる時に日本が作った漢字語をそのまま取り入れたため、最初の考える段階が欠けてしまった。そして当時の科学は強国になるための手段であったので、先進国の科学知識と技術を急いで追いかけるだけで精一杯だった。私がこう考え始めたのが2011年ころである。日本の様々なメディアでは日本の世界化に関する話を良く取り上げていた。多くの大企業で全社員を対象とした英語コミュニケーションを推進したり、大学は世界の大学に合わせるため、9月に学年を始める案を検討したりしていた。現在の日本が世界化を念頭に入れるのは当然だと思うが、それを実現させるための案は他の国のマネのようなものがほとんどだ。大企業は、今、世界でもっとも多い売上を達成しているサムソンのシステムを学ぼうと叫び、大学は欧米の教育システムを取り入れようとしていた。

 

しかし今の日本に必要なのは他国のマネではない。これからの先を考えるため最も必要なのは、最初に科学用語を作り上げた時のような物事への深い考えなのではないだろうか。それが日本だけの突破口を見つける一番の近道だと私は思っている。

 

その頃、留学生として私の興味を引く話があった。文部科学省の「留学生30 万人計画」だった。日本学生支援機構による2012 年5 月1 日現在の留学生数は約13 万7 千人。2020 年までに今の留学生数の2 倍を超える30 万人の留学生を日本に招くということだ。国際化社会の一国として力をつける為、世界各地の優秀な人材を積極的に集めるという趣旨だ。天然資源に限界があり、人材が最も大事である日本という国で、海外からの人材の輸入は大事な戦略であることは確かだ。しかしその戦略の焦点が、単なる数に当てられているのはどうだろうか。

 

科学系でも似たような話がある。1990 年代日本政府は、日本の科学技術立国を実現する為、研究者の数を増やすべきだと判断し、理系の大学院生の数を増やすことに力を入れた。しかし、学生の数だけが増えても、その人たちを受け入れるポストが限られていた為、日本政府は、今度は、1996 年から2000 年までの5 年間の「ポスドク1 万人計画」をたて、大学及び研究機関に雇用資金を配布するに至る。しかし尚残る問題は、ポスドクを得た後の安定した職場の状況が全然改善されていないことだった。安定したポストを得る為の競争の時期が、博士号取得の直後からポスドクの契約期間が終わった後に延長されただけで、むしろ人の数が多くなり競争がもっと激しくなる一方であった。

 

日本で勉強する留学生の環境を改善し数を増やすことは、もちろん世界の中の日本の立場の上昇に寄与するに違いない。しかしそれは入学の時期を9 月にずらし、授業の言語をすべて英語に切り替えるなど、形だけの変化で叶えられるものではない。日本が留学生を増やそうとしていたのは今だけの話ではない。30~40年も前から、日本には、他のアジアの国に比べて、沢山の留学生が存在してきた。またその人材を育てる重要性もわかっていたはずだ。それなのになぜ今まだ日本は、日本が望む世界化にはなってないのだろうか。そこには様々な要因があると思うが、私は日本が英語中心の世界化だけに注目しているからだと思う。日本に留学する学生の出身地に注目する必要がある。日本学生支援機構の統計によると日本の留学生の8 割を占めるのが中国と韓国だ。それ以外のアジアの国を合わせると9 割に至る。英語は大事な共通言語にもなりうるが、その英語は西洋中心的な考えだけで、アジアの国への深い理解は欠けていると感じられる。日本は日本なりの世界化を考える必要がある。日本政府と大学は、世界の中のアジアの位置づけやその役割を深く考えるべきではないだろうか。

 

日本は、今までの日本、そしてこれからの日本、それを深く考えて日本なりの答えを見つけてほしい。その議論がまた日本内だけに縛られることなく、日本に住む外国人とも広く考えてほしい。人が持つ行動の力は、人と人の間で生まれてくる。良い留学生を、また研究者を増やすだけで、世界化、また科学立国になるわけではない。人と人の交流なしでは、人はただすれ違っていくだけだ。これからは多様な人たちの自由な混ざり合いから様々な答えが探れる社会になると思っている。これからも日本で科学を続ける研究者として、私は、日本の社会が、また科学が、どういう答えを見つけていくのか、その答えを周りの人たちと共に探し続けていきたい。

 

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<崔勝媛(チェ・スンウォン)、Choi, Seung-won>

東京大学理学博士。現在理化学研究所特別研究員。専門は植物の分子生物学。現在は植物免疫研究グループで植物が病原菌にどう対応するのかを細胞レベルで検討する研究をしている。今の人間社会で科学が持つ意味についてもずっと考察中である。2012年度渥美奨学生。

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2013年8月7日配信