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エッセイ346:韓 京子「2012年夏の文楽騒動」

「二度と見に行かない」「古典として守るべき芸だということは分かったが、ラストシーンがあっさりしていて物足りない。演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」「人形劇なのに人間の顔が見える。見えなくていい」

 

財団法人文楽協会への補助金の全額カットを打ち出している、橋下徹大阪市長の言葉の数々である。文楽が二度と見たいと思わせないほど魅力を感じさせないことは改善すべき問題であり、市として市の補助金が無駄に使われることのないよう、真摯に検討することは重要である。

 

だが、市の長としての意見ではなく、ただ「つまんな~い。お金もったいねえな」という小学生っぽいおじさんとしての意見に見えてしまう。橋下市長のもっともらしい意見は大阪市のホームページから確認することができる。

 

大阪府知事時代、文楽なんて二度と見ないと言い切った橋下徹氏が、市長になってから、この7月にまた観劇した。これに前後し数々の聞き捨てならない発言が続く。「能や狂言が好きな人は変質者」とおっしゃったらしいが、観劇は個人の趣味なのに、古典芸能の鑑賞が趣味というだけで変質者呼ばわりされるのはあんまりである。

 

「文楽はつまらない」。現代の多くの人にとってはそうかもしれない。専攻した私にとっても4、5時間の観劇がつらいこともある。また、家族やまわりの人を宣教しても、文楽の魅力を伝えることができなかった。今はやっと学生を洗脳し、「先生!日本に行って直接文楽をみてみたいです」と言わせるのに成功した。

 

専攻している者からすれば、「ラストシーンがあっさりしている」、「昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」云々の市長のコメントは、「それはね」と説明したくなる。市長が見たのは、近松門左右衛門の『曾根崎心中』である。ラストシーンがあっさりしているという印象を受けたのは理解できる。それは、300年前に書かれた近松の脚本のままでないからである。個人的な考えでは、近松の脚本のままがいい。ラストシーンに込められた近松の思いが、1955年に復曲された現行の脚本では削られているからだ。

 

心中物のラストシーンは、心中、すなわち男が女を殺し、自殺する場面で終わる。現行の台本では、男(徳兵衛)が女(おはつ)を殺害する際、「馴染み重ねて幾年月いとし可愛としめて寝し、今この肌にこの刃」を当てることができないが、覚悟を決めたおはつに促される。その後、遠くのお寺から念仏が聞こえるという形で終わる。市長の言うとおり、あっさりすぎる。近松は、おはつを刺せないでいる徳兵衛を詳細に描く。徳兵衛は「まなこも暗み、手も震い、弱る心を引き直し、取り直してもなお震い」、おはつの喉の急所を何度もはずす。やっと急所を刺せた徳兵衛が、喉笛を「刳り通し、刳り通し」たところ、おはつは両手を伸ばし断末魔を苦しみ、力が抜けていったと、表現する。さらにそれで終わらず、徳兵衛は自分も遅れまいと「剃刀取って喉に突き立て、柄も折れよ、刃も砕けとえぐり」、目をまわし苦しみながら死んでいく。心中する二人を容易に死なせては、近松のメッセージが伝わらない。そのため、現行のものは、もの足りないものになったといえる。生々しい殺害の場面こそ、強い余韻が残るのである。それは「死」を通じて「生きる」ことの意味を考えさせるのである。日本古典芸能の魅力がここにある。

 

そして、近松は『曾根崎心中』の中で、大阪の都市案内書の様な要素を盛り込んでいる。こうした近松の大阪への思いまで汲めというのは、橋下市長には酷かもしれない。

 

人形遣いの顔が気になるのは、作品世界に入り込めてないからだろう。この、いわゆる「出遣い」も時代の流れによって出てきた演出である。どれもこれも、知識のない市長にそう思われても仕方ないとは思う。私がラグビーに興味を持てないのと同じであろう。

 

「観客が入らない」と言われるが、東京ではいつも満員である。東京にいく際にはいつも予約をするが、席が残っていることは非常に少ない。ということは、大阪で観客が入らない原因を考えなければいけないのではないか。

 

市長はファン開拓のため脚本や演出を現代風にアレンジするなどの工夫を求めている。歌舞伎が古典そのままではない脚本、演出が可能なのは、文楽とは違い役者を見せる舞台であるということもある。昔から役者に合わせてアレンジされてきた。

 

また、歌舞伎や狂言が若者にも人気を得ることができたのは、役者の他ジャンル(映画やドラマ)などへの進出や、人気脚本家の宮藤官九郎や串田和美、蜷川幸雄などの演出家との共同作業の結果でもある。これが可能なのも、役者のほとんどが、生まれる前から歌舞伎に浸っているからである。役者に基本芸があってこそ可能なのである。

 

ところが、文楽は古典芸能の中では珍しく世襲制ではない。一家の人々に囲まれ3歳で初舞台を踏む他の芸能とは違う。文楽は研修生から始まる。募集要項を見ると、中学卒業以上で応募でき、2年の研修期間を経て、人形遣いか三味線か太夫になることができる。一般的に足遣い10年、左手遣い10年、そして、首と右手を操る主遣いへの修行が続く。技芸員の数が少数であり、東京、大阪、その他の地方を巡回公演する状況で、新しい試みをするのは容易ではない。

 

そうした中、市長のいう「面白さ」の要求に呼応したかのように、三谷幸喜が文楽を手がけた。『曽根崎心中』の後日談として、8月に東京PARCO劇場で『其礼成(それなり)心中』が上演される。
橋下市長と懇談した文楽三味線の鶴沢藤蔵は「橋下さんは、面白いものを作ったらお客が来る、と言っておられますが、それもどうかな」と話したという。新作が好評を得たとしても、大阪文楽劇場の観客動員数の増加に繋がるかは疑問である。しかし、このような試みの積み重ねは、未来の観客確保のためにも重要である。

 

橋下市長は「特権意識にまみれた今の文楽界を守る必要はない」「文楽協会に『直接意見交換したい』と言ったが、拒否してきた。市長に会う会わないに関係なく『補助金はもらえるもんだ』と勘違いしている。恐ろしい集団だ」「大衆文化が特権になってしまった。こういうところに衰退の原因がある」などと激しい語調で述べた。また、急病(脳梗塞)で入院した文楽太夫の人間国宝、 竹本住大夫に対し、「心からお見舞い申し上げます。文楽協会の一件で、心身ともに多大なご負担をおかけしたことも要因になったのではないかと案じております」とコメントした。そのとおりだろう。

 

1926年生まれで、戦時中から養父のもとで太夫修行(食べていけないことから、太夫になることを反対されていた)をしていた竹本住大夫は、誰よりも文楽の過去を見てきた人物であり、未来を案じる人物であった。住大夫は技芸員とともに、文楽の普及のため、大学などの数々の講座(例えば、大阪市立大学企画の<上方文化講座>)に積極的に参加している。その講演の記録を読めば、住大夫の努力の一端が窺える。住大夫には、文楽が世界無形遺産に指定されたことさえ、単純に喜べず責任の重さにストレスがたまる一方だったらしい。「特権意識にまみれた集団」の代表者とされてしまっているが、東京と違い大阪の劇場に観客が少ないことも悩み、そのような時代に大きな劇場を建ててもらい長期公演ができることにも感謝している。もちろん、商工会議所、関西経済連合会、大阪市職員(関淳一市長当時;関市長は「文楽デー」を制定)にも。「新作もしなきゃいけない」と言っている。高齢にもかかわらず、今に安住していない。自分の位置をわきまえ、感謝する心を忘れず、文楽の未来のために行動するその姿勢に私は敬意の念を抱く。

 

江戸時代、文楽(当時は人形浄瑠璃)興業は京都が優勢だった。それを、道頓堀を芝居の町として活性化させるために、地元の有力者が道頓堀の興行界と版元(出版社)とともに戦略を練り、京都にいた近松門左衛門を巻き込んだ結果、「大阪=文楽の本拠地」としての位置を築くことができたのである。少なくとも関市長在任時には、これと似たような、経済界、行政、文楽協会、研究業界(大学)の協力が得られていた。

 

橋下市長は、文楽協会や大阪フィルハーモニー協会への補助金カットだけでなく、市音楽団の廃止、中之島図書館の廃止を目指しているという。国の重要文化財に指定されている府立中之島図書館については、廃止後の活用策に関し「美術館なんかがいい。その方が建物の雰囲気に合う」と言われたという。貴重な古典籍が所蔵されており、お世話になっている中之島図書館まで、建物の雰囲気で美術館にされちゃ困ります。そもそも美術館の建物の雰囲気って、何ですか。大阪市と大阪府は、中之島図書館や、隣接する中央公会堂が立地する地域を文化芸術の重点地域としてブランド化する方針だというが、彼らの感覚からすると、非常に不安である。

 

観客動員数が少ないことからの、文楽協会や大阪フィルハーモニー協会への補助金カット。他人事ではない。日本国内においては日本古典文学が危機的状況である。韓国の大学においては、日本古典文学はいうまでもなく、日本関連学科(大学院も含め)自体が学生動員数の減少に悩まされている。就職に役立たない人文系の非人気学科はその存続すら危ぶまれている。橋下市長の論理では、古典芸能であれ、学問であれ、図書館であれ、お金にならなければ、保護しなくてもいいのことになる。さらに、「僕が直接選挙で選ばれているので最後は僕が民意だ」という。大阪の文化が危うい。

 

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<韓 京子(ハン・キョンジャ)☆Han Kyoung ja>
韓国徳成女子大学校化学科を卒業後、韓国外国語大学校で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、慶熙大学校外国語学部日本語学科助教授。SGRA会員
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2012年8月23日配信