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エッセイ350:ジョン・ハミルトン「モンゴル旅行記」

Essay in English

 

今回のシンポジウム、並びに2009年のノモンハン事件のシンポジウムは私にとって非常に刺激的、かつ興味のあるものでした。2009年、この時、私は歌を唄う事となり、もっとカリンカ(ロシア民謡)を練習しておけば良かったと後悔しました。だから、キリル文字から英訳した歌詞をウィキペディアで知り、友人からCDを借りて、車の中で練習しました。最近、英国のサッカーチーム、チェルシーのサポーターが試合でこの歌を歌っています(このクラブのオーナー、アブラモヴィッチはロシア人です)。2万人の観衆が合唱するのでテナー歌手は非常にパワフルに歌わねばなりません。私は車の中では、かなり旨く歌えた(と、自分では思っています)が、ウランバートルでロシアの方々と歌えるチャンスがあれば、歌のレッスンを受けようと考えていました。

 

2009年のノモンハン事件のシンポジウムにはロシアの方々が多かったですが、今回はあまりいらっしゃらなかったので、カリンカを唄うチャンスはありませんでした。ケンピンスキー・ホテルでの夕食でお会いした エフゲニー・リストヴァンネィ氏はひょっとしたら、と思いましたが、翌日、彼は居ませんでした。氏はイルクーツクから来られました。そこで私は彼に車で来たのか聞きましたが飛行機との事でした。このあとシンポジウムで、イルクーツクはモンゴル語で「クリスチャン(ネストリア派)の街」と知りました。

 

今回のシンポジウムで次に準備したのは本を読むことでした。2009年のシンポジウムの前、私は姜戎の『神なるオオカミ(Wolf Totem、狼図騰)』」)を読みました。これは、文革時代、モンゴルにいた中国人の書いたモンゴル人についての本で、ベストセラーとなり、フランス人映画監督により映画化される予定です。モンゴルのインテリはこの本について、或いはここでのモンゴル人の書かれ方に非常に懐疑的ですが、私自身はここに書かれた狼について楽しく読みました。私はそのフランス人監督が良い映画を作るのは難しいと思っています。今回のシンポジウムの最後の日、我々は狼の毛皮を見ることが出来ました。

 

そう、私は狼の毛皮のコートを着た今西さんの素敵な写真を持っています。このシンポジウムの前、木村肥佐生氏の「チベットの日本人エージェント」を読みました。今は英訳されていますが、これは1943年から1945年にかけて内蒙古、チベットからインドにかけての旅行を描いたもので、読む人を楽しませ、彼が出会い、一緒に過ごしたモンゴル人、チベット人に温かい眼差しを注いでいます。私は非常に面白く読みました。

シンポジウムのための次の「準備」は思いがけないもので、非常にハッピーでした。

今年の4月、名古屋市の中央、ささしまライブ駅地区に新しく愛知大学の主要キャンパスがオープンしました。これは関係する全ての人に様々な問題をつきつけました。私は毎週月曜に4つのクラスを持ったので、火曜日の朝まで泊ろうと思いましたが、新しいキャンパスには風呂が無いのです。そこで2カ月ほど前、中村区まで銭湯を探しに出かけました。最初の「さくら湯」は丁度、閉店したばかりで、太閤通りの別の銭湯を探しました。もう夜も9時30分、知っている人は居そうもありません。すると一人の女性が暗闇から現れ「お手伝い出来る人を知っています」、そして閉店したばかりのお好み焼き屋さんのドアを叩きました。中には犬養爺さんと彼の奥さんが居て、「地蔵湯」と云う銭湯に連れて行ってくれると云うのです。迷路の様な道すがら、彼は話してくれました。1950年代に愛知大学を卒業したとか、「地蔵湯」は一番の銭湯だとか・・・。

 

以来、毎週月曜、銭湯に行く前、犬養爺さんのところで、時には友人を連れて夕食をとっています。モンゴル・シンポジウムの一週間ほど前、犬養爺さんの娘さんが、ウズベキスタンと、最近はベニンで日本語の先生をしていたKito Naomiさんを呼んでくれました。彼女はアフリカ人の夫、Adecを連れて店に来ました。Adec はフランス語しか話せません。栄でドラムを叩いています。いずれにせよNaomiさんのお陰で、モンゴル第2の都市ダルハンに住むウルズィー・オルシフ氏に会う事が出来たのです。

 

私は7月20日(金)の夜、ウランバートルに着き、空港にはウルズィーが待っていてくれました。私はモンゴル第2の都市はウランバートルに非常に近いと思っていましたが、実際は北に200マイルほど離れていました。そう、彼は遠路はるばる来てくれたのです。

 

私は彼にこの週末、2年ほど前に行ったウランバートルの観光地より、彼の住むダルハンの方がより興味がある旨を伝え、その費用として若干のお金を渡し、もし彼に時間があるなら アマルバヤスガラント寺に行ってみたいと言いました。その晩、ウランバートルでの夕食のあと、タクシーに相乗りでダルハンに戻り、家族全員と一緒のウルズィー のアパートに泊まりました。ウルズィーは良きホストでした。壁に掛かったパナソニックのテレビではNHKの英語放送を始め、英語によるインド向けのロシアの番組、フランスの番組、BBCなど豊富な番組を見る事が出来ます。道路を隔てた彼の事務所、仕事場にも行きました。ウルズィーは小さな印刷会社を持っていました。最近のモンゴルの選挙ではすべての党の選挙印刷物をコニカ・ミノルタの印刷機で印刷しました。裏手の仕事場には、大きなポスターを刷っていた中国製の印刷機と軽トラックがありました。

そのあと、そのトラックで彼の両親が住む丘の上のダーチャ (ロシア風別荘)を訪ねました。確かにダルハン はモンゴル第2の都市かも知れませんが、人口は僅か5万人です。ロシアは社会主義の時、大きな工業都市を建設しようと思いましたが、それは実現しませんでした。今日、人々はアパ-トかダーチャかゲル (天幕)に住んでいます。ウルズィーの両親は裏手に野菜畑のあるダーチャに住んでいます。彼のきれいなお母さんは刺繍をし、お父さんは野菜畑を耕します。そこにはグズベリー、ラズベリー、干しブドウ、或いはロシアから持ち込まれた豊富なジャガイモがありました。そこからマーケットに行き、素晴らしい肉屋に行き、そこのレストランで昼食をとりました。

午後、我々はウルズィーの友人バータルとその奥さんも同行し、彼の運転でアマルバヤスガラント寺へ向かいました。お寺はオルホン川の対岸、ダルハンから約2時間、西に向かったところにあります。最後の35マイルは悪路です。この地点で不幸にも雨が降り出し、道は非常に滑り易く、車は至るところで滑りました。数回に亘り、我々は車を出て押さねばならず、ある場所では車は完全に動かなくなりました。遠くで稲光が光り、雨は強くなりました。シンポジウムに参加できなくなるのでは、と本当に心配しました。しかしバータルは優秀なドライバーで、ウルズィーは全然、心配していません。それから誰かがケーブルを持って現れ、大きな四輪駆動車も来ました。我々は車を押し、四輪駆動車が引き出しました。こうして我々はやっとアマルバヤスガラント寺に着きました。

 

我々はゲルに落ち着き、ウルズィーと私が今朝マーケットで買ったマトンとジャガイモでほとんどの夕食を作り、ウオッカで流し込みました。バータルはアルコールが駄目なので、ウルズィーが、殆んど飲んでしまいました。もしかしたら、バータルと彼の妻はクリスチャンだったからかも知れません。夜中、私の耳から6インチと離れていないゲルの壁越しに馬が草を食べる音が聞こえていました。翌朝、太陽は眩しく照っていました。お寺は草原の中の大聖堂の様でした。このお寺は1727年から37年の間に満州の皇帝雍正帝により建てられ、乾隆帝により完成しました。そしてここに葬られている彫刻家ザナバザルに奉納されました。ここは牧草地の野生の花に囲まれています。どこを歩いても、そこここにタイムの香りが漂い、小さなマーモット(リス科の小動物)がちょこちょこ走っていて、エキゾチックな鳥も見られます。 私は何とか、とさかのあるHoopoe (日本名ヤツガシラ) をカメラに収める事が出来ました。ウランバートル空港の鳥の本で見たのをみつけたのです。草原には朝食に料理した野生の苺や茸もありました。日曜日、来た道はすっかり乾き、帰りは非常に楽でした。でも、また一回、我々は車から出て押さなくてはいけなくなりました。

月曜の朝バンタン・チャイ(一種のミルクテイで、前夜からの 餃子(の様なもの)と肉汁の混ざったもの)のあと、私はウルズィーウルズィーの妻オーギとサイナーと言う女性と相乗りタクシーで出かけました。二人ともKito Naomiさんの生徒でした。オーギはひと月に2回ほどウルズィーの仕事の印刷の材料を買いに中国(国境の街 エルレン(二連)のほんの先ですが)へ行きます。そこはダルハンから列車で一泊のところですが、今回はウランバートルからはるばる来てくれたのです。 サイナーには初めての中国でした。我々はダルハンで特別のポンプでLPGを満タンにしました。道端に牛の群れがいたので、運転手は尚一層スピードを上げました。スピードメーターは動かず、誰もシートベルトをしていません。事故の側を通りましたが、死者はいなかった様です。それからはずーっと足はアクセルを踏みっぱなしでした。私はモンゴルの人は勇敢だと思いました。シートベルトは運転手への信頼を欠き、神への信頼を欠く事なのか、と。

 

ともかく無事にウランバートルへ着き、彼らは私をタクシーに乗せ、オーギがiPhoneでインターネットで見つけたホテル・ミカへ向かわせました。私は旅を堪能し、ホテル・ミカに着き、風呂を探しました。するとドアのところに、スマートなスーツに身を包んだフスレ先生が居られました。彼は重要人物に会いに出かけるところでした。私はとても嬉しかった。そして言いました「良い風呂を探しています!」。彼の顔が曇りました。彼はホテルの水配管系が壊れていて、熱いお湯は出ないことを知っていたのです。結局私は冷たいシャワーを浴びる羽目にな

 

りました。そのあと翌日の為のシャツを買いにウランバートルの街に出かけました。

 

翌朝、シンポジウムはホテル・ミカの朝食時に始まりました。ほかの人達が来る前、私はNagahama Takashiro/Kimi夫妻と話していました。彼は川崎の、彼女は石川県の出身です。彼らはJICAのシニア・ボランテイア(Nagahama氏は引退したばかり)でダルハンに住んでいます。彼の主題は「品質管理」で、工科大学のManagement 部で教えようとしていました。 そこで私はUlziiを紹介し、ハガキで念を押しておきました。朝食に最初に降りて来たのは愛知淑徳大学の藤井真湖さんでした。彼女に会えて良かったと思っています。隣人に会うのに、時にははるばる長い距離を行かねばなりません。彼女は『モンゴル秘史』 (漢字で書かれた音声バージョンから作業) の真面目な学者です。

 

次に朝食に現れたのは林泉忠氏でした。彼はアモイ生まれで、香港育ち(英国籍)です。彼はハーバード(最終日、ハーバードのTシャツを着ていました)にも居ましたが、最近、長い間の東京と沖縄の生活を終え、台湾で仕事を始めたところでした。初日の朝食時、彼はAmi and Bunung の台湾のTシャツを着ていました。

 

次に来たのはソウルから来た崔佳英さんです。 彼女は5年間、東大駒場に居て人気の的でした。 彼女の美しさはシンポジウムの中でも際立っていて、後に私は韓国の儒教の力を改めて感じました。彼女が私の目の前のドアを通り抜けるのをただ見ているだけでした。最後にフスレ先生が到着しました。ただ一人、今日、お会いで出来なかったのは手術(成功したのですが)をしたばかりの田中克彦先生ですが、気持ちのうえでは我々と一緒だと思いました。

 

モンゴルの日本センターで、お湯の出でるケンピンスキー・ホテルに泊まっている今西淳子さんにお会いしました。このシンポジウムまで、私は彼女と彼女のお母さんが運営するSGRAや渥美国際交流財団が、鹿島建設(今は取り壊されていますが、愛知大学三好キャンパスを造った。)の基金によることを知りませんでした。何と、私は、ものを知らないのでしょう! いずれにせよ、私は再び彼女にお会い出来て良かったと思っています。モンゴルと日本の関係が如何に大切か、彼女の手に手を携えた様なアプローチが如何に良いものか、必要なものか。

 

次にお会い出来て良かったのはミャグマルサンボー(陸軍大佐)さんです。彼とは東京国立の一橋大学で会い、飲みました。彼とはモンゴル研究でもっと時間をとれたらなあと思っています。近い将来、多分、そういったチャンスはあるでしょう。シンポジウムの終りに彼はモンゴルの美しい写真でいっぱい本をくれました。その幾つかを写真に撮って、私のマルコポーロ講義(多分、来年)に使うと思います。

 

それからゾルボーさんです。彼とは初対面ですが、驚いたことに彼は私の17ページに及ぶ論文をモンゴル語に翻訳してくれました。これまで自分の本格的な仕事が他の言語に翻訳されたことが無いので、これを読みたい気持ちで一杯です。D.ゾルボーさんありがとう。私の「南西中国からヨーロッパにかけて広がった腺ペスト」の発表は第1日めでした。幸い、論文と一緒に、C.P.アトウッド(2009年のシンポジウムに参加) の素晴しい『モンゴル百科事典』と、カプロンスキ編集によるバータルの『モンゴル史』を持っていました。発表中にもお見せ出来たし、休憩時間にも何人かが注文するために本の写真を撮っていました。

 

その夜、ケンピンスキー・ホテルでの夕食時、私は皆さん全員を招待してくれたシュルフーさんと、大草原への遠足の時に知り合った研究所長、ハイサンダイさんの間に座っていました。私はシュルフーさんのモンゴルについての話を興味深く聞いていました。ロシア(1億4千万の人口)と中国(13億の人口)の間には3つの緩衝地帯がある。モンゴル(240万人)、内モンゴルそしてロシアのブリアート自治管区で、皆バイカル湖を囲んでいる(バイカルはモンゴル語で‘豊かな湖’を意味する。イシククル湖は別の湖)、と。夕食のテーブルの反対側にはケンブリッジからのボラグさんが居ました。 彼は12月に愛知大学に来るかも知れないと聞き興味を持ちました。孟松林さんと内モンゴルのフルンボイルから来ました。彼のアシスタントも居ました。フスレ先生曰く、孟さんのお母さんは溥儀(中国最後の皇帝)の妻婉容の親戚だと。私は何かそこに興味深いストーリーがあると感じました。

 

2日目、いろいろな興味深い発表がありました。藤井真湖さんはとても印象的でした。午後、私は、幸い殆んどの仕事をやってくれたソドノム・ツォルモンさんとセッションの司会役でした。ポンサグさんがジンギスカンの法律について良い話をしてくれました。私の頭の中では、1215年はジンギスカンが北京を征服した年は、英国のマグナカルタ(大憲章)が制定された年です。上村明さんが‘黄禍論’について、そしてドイツ帝国皇帝がこの言葉をどの様に使ったかを話しました。私は皇帝がビクトリア女王の従弟で、女王はワイト島で彼の腕のなかで亡くなった、と言う事を除いては余り多くは覚えていません。

崔佳英さんは南北朝鮮の教科書のなかのジンギスカンについての記述について話しました。彼女が北朝鮮の教科書をどうして知ったのか分かりません。韓国のSubadeの侵略にも興味があります。済州島の馬に関しても、もっと知りたいと思います。林泉忠さんは台湾におけるジンギスカンの取り上げ方について話しました。只、彼のどちらかと言えば難しい日本語は、英訳が無くて私には彼の論文が良く分かりませんでした。でも台湾の地図では外モンゴルは中国の一部と扱われている様です。そして再び教科書について、高橋梢さんから聞く時間となりました。彼女のモンゴル語はとても美しく、音楽を聴いている様でした。

 

2日目の夕食会はウランバートルホテルでした。確か、このホテルの一部は1970年代には英国大使館だったところで、当時、私の従弟、Myles Ponsonby RIPが大使でした。 夕食はすばらしいもので、私の話す番の時、すでにかなりの量のソヨンボウオッカが入っていたのですが、私はアマルバヤスガラントでの冒険について話しました。通訳のボロルマーさんが、私の日本語をかなり旨くモンゴル語に通訳してくれました。その後、私はアユシ・ボヤンテグスさんと話しました。彼は5年以上、モスクワに居て、日本語、英語をロシア語訛りで話します。

 

最後の日、お気に入りとなったハイサンダイさんと一緒に草原へ行きました。ガイドをしてくれた研究所の方は米国オハイオに居たことがあり、帰国した彼はきれいな英語を話しますが、絶対菜食主義者でアルコールは飲みません。こういうモンゴル人がいることは興味深いことです。私達は13世紀のモンゴル生活の博物館の様な所を訪れ、そこで私は私のマルコポーロ講義の為の写真を沢山撮りました。昼食は壮大なゲルで、非常に家庭的な雰囲気のなかでとりました。中に肉の入ったフラット・ジャックはとても美味しいものでした。そのあと、モンゴルのシャーマン教で聖地とされるところへ行きましたが、ゲルの中には沢山の仮面や魔法のシンポルがありました。シャーマンの占い師を通して、他の世界の人々と話をしようとするものの様です。モンゴルのシャーマンは韓国を通って日本に伝わり、神道の一部となったと私は考えます。

 

他のゲルでは馬やらくだに乗りました。ふたこぶらくだは非常に心地良く、自然の鞍の様でした。私は、らくだのこぶが宴会に供される杜甫の詩を思い出しました。最後のゲルは学校で、女性スタッフ達がモンゴル文字を筆で美しく書いていました。床には山羊の皮の敷物やヤクの皮が、椅子には豹(winter leopard) の皮がありました。

 

外は雲の影が絵の様に流れています。この日は快晴でした。

 

ウランバートルに戻った時には、皆、とても疲れていました。そしてシュルフーさん主催の素晴しい夕食でこの日を終えました。シュルフーさんは翌朝、私を空港へ送る為、ビャンバー・ツェンゲルハムさんを付けてくれました。彼女の弟は早稲田大学で国際関係を勉強していて、お兄さんはジャーナリストでロンドンのオリンピックをレポートする予定との事です。

 

機中で、先週の土曜日、北京、天津に大雨、洪水があった事を『中国日報』で読みました。その日は丁度、私がアマルバヤスガラントへのクロス・カントリーに大奮闘していた日でした。

 

(愛知大学教授、原文は英語、河村一雄訳)

 

2012年9月20日配信