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エッセイ352:孫 軍悦「人として、人と、出会いなおす」

9月16、17日に、「九一八事変」の記念日に合わせて大規模なデモが発生するという予感のなかで、日本と中国の大学で教鞭を執る約20名の中国人研究者が北京に集まり、「改革開放以来の中国と日本」と題するシンポジウムを開いた。会議において、ある研究者は、日本の町内会や自治会の経験を中国市民の自治組織の運営に生かせないかと検討し、別の研究者は、日本マルクス主義にはマルクス主義に対する独自の発展があり、その理論を以って80年代以来の中国の社会変革を解釈できると主張し、日本マルクス主義に関する著書の翻訳出版を進めている。三十年も日本に在住した学者は、会議の冒頭でまず「文人不言戦(知識人は戦を唱えず)」という立場を表明し、清の兵隊に虐殺された革命家徐錫麟の家族を救ったのは日本人であるというエピソードをあえて紹介した。清華大学中国文学部の教授は、福島原発事故が起きた後なおも原子力発電所の建設を推し進める中国の原子力政策に怒りを覚え、まったく畑違いの原発問題を一から勉強し、国民に知らせることをライフワークにしようかと語った。成功の経験のみならず、失敗の教訓も含めて、日本はこれからの中国にとっても見習うべき対象であることは、誰もが否定しない前提である。そして、中心的話題となった領土問題をめぐり、どちらかの政府の言い分を鵜呑みにするのではなく、明確な法的、歴史的根拠を専門家に教えてもらおうというのが、参加者の共通した姿勢であった。

 

幸い、日本に帰国すると、書店にはすでに領土問題を解説する書籍が並べられている。9月29日に放送された「報道特集」というテレビ番組では、日中国交正常化の交渉に当った当事者たちが、尖閣諸島(釣魚島)の問題を棚上げにしたのは事実であると証言し、同日、大江健三郎氏ら日本の知識人と市民団体約1300人が、「領土問題を論じるには、日本が先に歴史を反省しなければならない」という声明を発表した。

 

強硬論を唱える専門家によって「理論武装」された中国政府の言い分のみを報道する中国のテレビ局とは違い、日本では、政府と異なる声もはっきりと発せられている。中国のマスコミも、主権在民と報道中立を標榜するのなら、日本の学者や政治家の言論から中国政府の主張に符合する部分のみを切り取り利用するのではなく、政府の立場と異なる様々な観点を紹介し、国民に思考の材料を与え、判断を委ねたらどうだろうか。

 

しかし、たとえ各地で起きた「釣魚島」の主権を求めるデモがすべて、領土問題をめぐる歴史的経緯と法的根拠を総合的に検証したうえでの理性的な政治行動ではないにしても、愛国主義教育によって洗脳され、政府への批判が封じられたため、日本批判と愛国無罪の大義名分の下で不満をぶちまける暴行という認識は、決して真実ではない。

 

つい最近、「道徳・国民教育」という科目をすべての学校に導入するという計画を政府に撤回させた香港民衆の「尖閣国有化」に反対する声は、明らかに江沢民時代に強化された愛国主義教育の結果ではない。ニューヨークの国連本部の前でプラカードを掲げる白髪の華人・華僑たちも、その魔法の教育を受けるには年を取りすぎている。歴史教科書に日中戦争をめぐる記述が何文字増えたか減ったか、虐殺の写真が載ったか載っていないか(どんな残虐行為の写真も展示も、戦争の人間に対する全面的破壊を現し尽くせない)という問題より、物事を歴史的に認識する方法の伝授と、主体的に思考する習慣の養成に重点を置く教育をいかに実現するか、それこそ考えなければならない日中両国の歴史教育に共通する課題ではないだろうか。

 

「愛国のための行動なら罪に問われない」と本気で信じる人がいるなら、単に無知としかいいようがない。暴力行為が決して許されない違法行為であると憤慨するのは日本人だけでなく、中国の一般市民も同様である。現に、9月15日に西安で起きたデモで車や商店を壊した容疑者9名の写真が公開され、自首と情報提供が呼びかけられ、ネット上でも批判が集中している。

 

だが、暴力は、ただ法の論理をかざして糾弾すれば済む話ではない。もし暴力行為がすべて中国政府の言うように「過激で不適切な愛国感情の表現」であるなら、暴力を呼び起こす「愛国感情」のゆがみこそ、まず追究しなければならない。映画やテレビドラマに出てくる紋切型の「日本軍人」への憎悪によって喚起される「敵対感情」を「愛国感情」と混同するのは、時代錯誤も甚だしい。戦勝も敗戦も、無数の生命を犠牲にした結果であり、それ自体驕れるものは何一つない。日本の人々は、非戦の精神を社会の隅々まで浸透させ、平和憲法を守ろうという強い意志と行動を以って、敗戦の遺産を受け継いだ。抽象化された「被害感情」への惰性的執着と「富国強兵」への果てしない欲望は、逆に中国の人々が克服しなければならない戦勝の負の遺産かもしれない。

 

そもそも「感情」は理性的思考と行動の動機であって、目的であってはならない。まして歴史的事実に裏付けられていない一過性のものは単なる情緒的衝動であって、「感情」とすら言えない。歴史を扇情的物語の背景に利用する娯楽産業の政治的効果は決して看過できない。ただ、それを共産党政府の意図的プロパガンダだと決めつけるのは、中国の抱える問題を見誤るだけでなく、「われわれに共通する問題」を「中国に特有の問題」に矮小化するという、もう一つの政治的効果をもたらすのである。

 

一方、もし暴力行為が日本のマスコミの言うように「格差や腐敗といった社会問題への不満の爆発」というのなら、まずその社会問題の根源を探求しなければならない。2012年7月28日に、江蘇省南通市で、日系企業の王子製紙から排出される毎日15トンの廃水を海に流すパイプ敷設計画の取り消しを求め、漁業を主要産業とする地域住民のデモ隊が政府庁舎に乱入し、政府高官の高級酒を庁舎の外に放り投げた。9月23日米アップルの携帯電話「iPone5」の部品を生産し、シャープが資本提携交渉をしている、台湾の鴻海精密工業の、中国子会社富士康科技の工場で、従業員約2000人による騒乱が発生し、40人余りが負傷した。この会社は、二年前も若い従業員の連続自殺事件が起き、先月アメリカの非営利団体公正労働者協会の指摘を受け、労働時間の短縮と労働条件の改善を承諾したばかりだ。マクドナルドで100円のコーヒーを飲みながら、アフリカの農園で働く子供の賃金を連想せずにはいられない時代において、このような地域住民と政府当局の衝突、工場の従業員の労働問題は、中国国内で起きたからといって、我々とまったく無関係だと言えるのだろうか。グローバリゼーションは、中国人生産者と日本人消費者、あるいは中国人消費者と日本人生産者というような単純な図式では理解できない。最初の生産者と最終の消費者との間に国境を超える長い生産過程と商品の連鎖がある。その階層化された世界のなかで、末端にいる労働者、生活者の置かれる状況を顧みず、中国国内に起きる問題をすべて「中国問題」、日本国内に起きる問題をすべて「日本問題」というのは、まさに思考停止を誘発する「国境」の罠である。

 

私はここで、暴力を擁護しているのではない。ただ、卵やペットボトルを手にする群衆に、拳銃で武装された警察がなぜ取り締まらないかと憤る自らの暴力性も含めて、「暴力」を思考の対象にしようとするのである。

 

中国人に一切の言論自由がないとか、政府批判が一切許されないとかも、はっきり言って、嘘である。池上彰がテレビ番組で中国人は全員電話や携帯が盗聴されていると了解済みだと言っているが、孤陋寡聞のせいか、私には初耳である。13億人が了解済みだという調査がいかに行われたかはさておいて、現に言論自由がないとされる民衆は、政府高官や共産党幹部の腐敗と不正行為を批判し、追究し続けている。領土問題を巡るデモが発生するさなか、同じ西安において、8月26日に起きた重大交通事故の現場で陝西省安全生産監督管理局の局長の笑顔が新聞記者のカメラに捉えられた。その後、市民はその局長が巨額な資産を不正に築いた事実を突き止め、解職処分に追い込んだ。さらに、この局長に資産の公開を求め続けていた一人の大学生が、当局の不作為を訴える行政訴訟を起こす準備をしている。いま、監督体制と司法が十分に機能していない状況のなかで、メディアと民衆は、ただ共産党幹部や官僚の腐敗を批判するだけでなく、自らの力で行政を監督し、不正を匡そうと行動し始めている。たしかに、民衆の合法的、合理的要求がしばしば政府当局に跳ね返され、無視されるため、暴力的衝突が絶えない。ただ、それと同時に、いかに法律を守りながら戦うかという意識も芽生えている。インターネットを通じて情報を共有し、「散歩」という平和的方式で政府に異議申し立てするという、「ネット上で討議、ネット外で散歩」の戦術も編み出され、厦門、大連、成都などの都市で、環境を脅かすプロジェクトを政府に撤回させることにすでに成功している。環境保全運動に力を入れる、あるフリーランス作家はこう言った。インターネットにアップされたものを完全に削除することはあり得ない、ネットに発表したものは永遠に存在する、と。

 

この十年間、急速な経済成長とともに中国国内で様々な社会問題が噴出し、深刻化しているのは、紛れもない事実である。だが、それと同時に政府と民衆の意識と行動も著しく変化している。このような現実を目の前に、求心力の増強を図る共産党政権が言論統制を強化するか否か、民衆の政治的行動をいかに監視、規制するかといった政府当局の動向ばかりに神経をとがらすのか、それとも、権利意識に目覚め、政策決定と社会変革に参与する方途を模索しはじめた民衆の知恵と実践に焦点を当てるのか、それはもはや見られる側の問題ではなく、見る側の意図と視点にかかわる問題なのだ。

 

現実は、新しい見識を生み出す源泉であり、陳腐な結論を証明する材料ではない。

 

こんな小話を聞いたことはないか。ある和尚が沙弥を連れて河を渡ろうとするとき、美しい少女におんぶしてくれないかと頼まれた。河を渡ってしばらく歩くと、沙弥はとうとう我慢できず、女性に近づいてはいけない和尚がなぜ少女をおんぶしたのかと聞いた。和尚は微笑んでこう答えた。「私はもうとっくに彼女をおろしたが、あなたはまだ抱いているのか。」

 

中国共産党一党独裁の政治体制下でまったく自由意志の持てぬ、洗脳された烏合の衆という「中国人」像も、戦争責任を認めず、軍国主義の復活を図るという「日本」イメージも単なる自己欺瞞の想像的産物にほかならない。自らのナショナリズムに目を逸らすために、惰性と快感に委ね、ことあるごとにこうした幻像に抱き着く悪習を直さない限り、たとえどんなに交流が増えたとしても、どんなに相互理解を叫んでいても、我々はついに出会うことすらできないのである。

 

相手に理解してほしいなら、批判される覚悟が要る。相手を理解しようとするなら、自己批判の勇気が要る。理解は同調を意味しない。好感を抱くともかぎらない。ただ、理解を求めあう者は互いに敬意を失わず、相手の心情を汲み、その立場に立って考える努力を惜しまない。

 

地理的近さや経済的結びつきで付き合わなければならない、という消極的「友好論」を唱える人もいるが、私には首肯できない。戦略的位置や政治的、経済的利益のみで結ばれるのは、国家間の関係であって、人間同士の関係ではない。戦後日中交流にかかわった人々の書き残した書物を繙くと、最も印象に残るのは、出会った人がすべて個人名で記されていることだ。いま、国家間の関係の論理に支配された国民間の感情が、個人同士のつながりと大きく乖離し、それを蝕もうとしている。それこそ、個人と個人との信頼関係が国民間の感情に基礎づけられ国家間の関係を動かしてきた歴史に逆行する、日中関係の危機だと私は思う。

 

一体誰の利益を指すのか、つい正体不明の「国益」に翻弄されるのではなく、係争する海域を古くから生きる場とする漁民たちという当事者の利益をまず考えてみてはいかがだろうか。それとも、自然とともに生きてきた人々を、「日本人」や「中国人」という国籍を冠することによってその活動する領域を領土に編入するために、単なる手段として利用するのか。人間に蚕食されない自然のままの海と島を一つや二つぐらい、残してもいいではないか。それとも、豊饒の地球を単なる「資源」として、枯渇するまで最後の一滴を絞り出さずには気が済まないのか。

 

もし日本と中国政府に、国民国家を超える新しい理念と行動を以って世界をリードする気概が求められないのなら、せめて河野洋平氏の次の言葉に傾聴してほしい。「相手の主張に耳を傾け、学び合い、助け合っていく姿勢でのぞむこと、そして、互いに相手を尊敬し、信頼することが外交の要諦です。相手の信頼に背くことはしてはいけないです。」

 

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
学術博士。東京大学教養学部講師。2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
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2012年10月5日(金)配信