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エッセイ309:オリガ・ホメンコ「私のなかのチェルノブィリ事故」

3月、日本に地震や津波があって福島の原発事故が起きた時、最初は本当に信じられなかった。まさか日本でもチェルノブィリみたいな事故が起きるとは。ありえないと思った。チェルノブイリの事故はやはり人間のミスという要素が大きかったようだが、きちんとしている日本でまさか事故が起きるとは。

 

ウクライナにいて福島からのニュースを毎日テレビで見ながら、思い出したくなくても、どうしても25年前のチェルノブイリのことを思い出していた。そのときの思い出が痛いほど目の前を流れていた。私はまだ十代前半で中学生だった。事故があった朝に知り合いがたくさんいた父親に電話がかかってきた。何かが起きているという話だった。だが両親はそのときはよく分からなくて、知り合いの物理学者に電話したという。そして何か大変なことが起きてしまったと分かったようだった。子供だった私たちにはしばらく何も話さなかったが、話してもらえなくても、やはり何か起きているなと感じた……。

 

5月1日、キエフでは毎年のように自転車レースが行われた。ちょうどマロニエの花が満開で、その下を自転車が走っていた。事故から5日後だったが、レースは中止にならなかった。メインストリートでメーデーのパレードも行われた。今から考えると、それは本当に許せないことだった。事故から3週間くらいは、不安ばかりの日々を送っていたことを覚えている。ラジオで解説していた医者たちは、外から帰ったらまずは靴のうらを洗うことが必要だと言っていた。そして建物の中にいるときに窓を全部閉めるように、学校へ行く時にはスカーフをかぶるように、と。だが十代の子どもたちは年寄りのおばあちゃんみたいにスカーフをかぶって学校に行くなんてちょっといやだと思って、家から出るときはスカーフをかぶっていたけれど、家から少し離れるとみんな外していた。格好悪いから、クラスの男の子に見られたら恥ずかしかったから。 その年の5月はじめの3週間の味も、今でも覚えている。紅茶に医療用ヨードを5滴くらい入れて飲まされたから。そうすれば放射線が身体につきにくくなると思われていた……。

 

後になって、必要なのはそれとは違うヨードだったということが分かった。だが、そのときには誰も知らなかったし、そんなヨードはキエフになかったかもしれない。 そしてやっと20日くらいたって、学校ごとにチェルノブィリとは反対の南の方に避難させられた。それも一生忘れられない経験だった。「キエフから避難します。簡単な荷造りをしてきてください。みんなで保養地へ行きます。子供だけです。学校の先生と一緒に」と言われた。はじめて両親と離れるので、とても不安だった。しかも生徒の間に、もうキエフに戻れないかもしれない、もうキエフという町が存在しなくなるかもしれないという噂が流れていた。悲しくて悲しくて、先が見えなかった。毎日悲壮感にかられて、泣いていたこともあった。

 

ただ両親には涙を見せなかった。親も心配していたし、しかもこれから避難生活がはじまるので、今さら両親を悲しませても意味がないと思った……。 そして避難する日が来た。学校の前にバスが20台くらい来た。わたしの通っていた学校には、当時1500人くらいの生徒がいた。高校や中学校の生徒は残された。期末試験があったり、卒業だの入試だのがあったからだった。年がそんなに離れていないのに、それだけの理由で残された。両親と離れ離れになるのはとても悲しかった。泣いていた子も結構いた。ちょっと戦争になったみたいな感じだった。

 

キエフ駅に連れられて行って、汽車に乗って、昔から子供の保養地のキャンプがたくさんあった南部の方に運ばれていった。その汽車の移動もとても印象的だった。子供ばかりの汽車だったのでちょっと不思議な感じだった。そしてそこで3カ月すごした。 クラスの仲はあまりよくなかったけれど、保養地のキャンプで一緒に暮らして、みんなお互いによく助け合うようになった。女の子で集まって男の子のTシャツを洗ってあげたり、泣いている同級生を一緒に慰めたりしていた。とても強くなった。

 

キャンプに着いたとき、現地の人は最初「あら被爆者が来た! 気をつけましょう」という反応だった。わたしたちにはそれが不思議な感じだった。第一にチェルノブィリから180キロも離れているキエフの出身だったし、首都のちゃんとした学校の生徒たちだったので、プライドもなかったわけではなかった。現地の人にそういわれて結構怒っていた。それでも時間がたてばたつほどお互いによく知り合うようになって、仲よくなった。地元の人たちもあまりにも心配で、どう反応すればいいか分からなかったみたいだった。

 

その時のもうひとつの思い出。毎年、夏の間に両親と一緒に海に遊びに行くのをとても楽しみにしていた。5歳の時に海に連れていってもらいたくて、頑張って自分でアルファベットを覚えて読めるようになった。読めるようになったら海に連れていってあげると両親に言われたからだった。それぐらい海を見たかった。でも、事故があった1986年の海の味は、とてもしょっぱかった。毎日砂浜へ行って、海を眺めながら「キエフの家に戻れるかな」と思って寂しかったから。海の塩と涙の塩の味を混ぜた味だった。

 

8月末にキエフに戻ることになったときは、どれだけ嬉しかったか! また両親と一緒の家に住めるし、好きな学校にもいけるし、みんなで授業を受けられるし、遊べることがとても嬉しかった。キエフに戻ってから、ずっと残って仕事していた父親の話を聞くと、その3ヶ月の間のキエフはとても奇妙だったらしい。掃除の車が1日3回道に水を流して、町には子供が一人もいなかったという。大人ばかりの町。とても妙な雰囲気だったらしい。

 

キエフの人は普通はチェルノブィリ事故の話をあまり思い出したがらない。外国人から見たらおかしく見えるかもしれないけれど、それにはいろんな理由がある。一つには、その時に受けたショックが今でもどこか心の中に眠っている。そして事故の後しばらくしてソ連は崩壊してしまい、ウクライナも独立した。そのあとは経済発展を目指して、細かいことを気にしなくなったと言っていいかもしれない。こんな言い方はひどいかもしれないけれど、チェルノブイリより多くの経済的な問題を解決しなければならなかったというのが実情だった。そしてもうひとつには、あんな大きな事故にあって、やはりショックから立ち直れない部分がどこかある。ただ被害者意識を持っているだけだと何も新しいものが作れないから、まずはそれを乗り越える必要があった。無理やりにでも、何もなかったというふりをしてでも、一生懸命……。

 

家庭のレベルでは、多くの家でガイガーカウンターを持つようになった。万が一のために。事故の後は食料検査も行われたし、チェルノブィリ近辺の森も赤くなったし、変わった魚や動物が生まれているというニュースも結構流れた。だからやはりそれを自分で確認しないと落ち着かないという人もたくさん現れた。それにはガイガーカウンターが便利だった。まあ、計ってみて、もしだめだったらどうすると聞かれたら、それはまた別の話……。どうするか分からない。逃げるしかないのかもしれない。それでも放射線は見えないので、やはり機械があると少し安心できる。 あとになって分かったのは、事故からの直接的な被害より、直接的でない精神的な被害の方が大きかったということ。放射線は見えないから、本当に自分の家に住んでも安全なのだろうか、畑で実ったものを食べてもいいのか、不安に思う人も少なくなかった。

 

それでも結局時間がたてばたつほど、「まあいっか。何とかなる」という考え方になった人が多かったかもしれない。抜けられない緊張感に疲れたのか、飽きたのか……そこはよく分からないけれど。 ただ、その時にいくつか体で覚えたことは、今でも忘れられない。まずは公園や森を散歩するときには、深い草の中にはいかないこと。秋の落ち葉の中では遊ばないこと。放射線が高いかもしれないから。キノコ狩りは避けた方がいいと言われた。牛乳もしばらく気をつけていた……。 去年の秋に25年ぶりにラトヴィアに遊びに行ったときに、友達にキノコ狩りに誘われた。森にいくと、まず私の頭の中に「草に入らないほうがいい」という信号がついた。ちょっと笑った。まさか、今でもそんなふうに反応するとは思わなかった……。ちなみに、ラトヴィアの森で放射線量を測ったら、ものすごくきれいなものだった。そこでとったキノコもとても美味しかった。久しぶりだったからかもしれないけれど。

 

ここ数年は、チェルノブィリへの観光ツアーが流行している。私の外国の友達は結構それに興味を持って、私も何度か誘われたけれど、行かないようにしている。安全かどうかはまた別問題として、やはり子供の頃に感じた「チェルノブィリの恐ろしさ」は今でもどこか記憶に残っている。見たくないし、思い出したくもないし。あれだけの経験をすると、原子力に反対するようになる。やはり人間には自然の力を抑えることは無理だと分かる。チェルノブィリの近くにあった美しい森、川、池の昔の写真を見ると、ものすごく悲しくなる。あれだけの美しい土地を一瞬で使えないものにしたのだから……悲しい。

 

最近仕事で、事故当時ラジオでいろんなアドバイスをしていたお医者さんに会った。会う前は、結構複雑な気持ちだった。あれだけ微妙な情報を伝えていた人の目をのぞいて見たかった。会ってみると、もうおじいさんだった。話をしてみると、そのお医者さんの発言についての見方が少し変わった。事故の当時は、放射線や核の問題について知識が不足していただけではなく、大変な政治的プレッシャーもかけられたようだった。それでも人々に情報を伝え、何らかのアドバイスをした方がいいとその医師は思ったようで、自己責任で発言したようだった。ラジオでのアドバイスはほとんどそうで、結構勇気ある行動だったのだと思った。その仕事で、キエフの子供たちを避難させる決定はキエフの女性政治家が強く押したものだったということを知った。モスクワからはこうした方がいいという話はいっさいなかった。ひどい言い方かもしれないけれど、事故現場から千キロも離れているので、どうでもよかったのかもしれない。 事故当時、さかんにアドバイスをしているその医者は冗談で(ウクライナ人は冗談が好きですから)「チェルノブイリの鶯」と呼ばれた。鶯はきれいな歌をうたう鳥だけれど、本当かどうか誰も分からない……。今回会ってみて、大変な人生を歩んできた人だと思った。あんな厳しい状況の中でも、自分の医者としての誓いを破らなかった。できる限りのことをした人だったと思った。外見で人を判断してはいけないと、また思った。

 

25年前のことは、あまり思い出したくなかった。あまりにも寂しくて、その時に受けたショックが大きかったからかもしれない。しかし何年過ぎても、やはりその事故の影響を感じてもいた。学校では甲状腺の病気の子も出たし、白血病で急死した人もいるし、いろんな病気も発生するようになった。直接関係あるかどうか誰もいえないけれど……。人々が元気を取り戻すのに、かなり時間もかかった。 この事故のことを、多くの人は忘れてはいけないと思っているけれど、毎日は思い出したくないという微妙な感情を持っている……。それが今回の福島の事故で、本当に昨日あったことのように、フラッシュバックして目の前に現れた。やはり核は非常に危ないものであると感じた。そして福島近辺の人々の気持ちは、誰よりも分かると思った……。 一日も早く状況が安定することを祈ります。こんな事故は二度と起きないことを祈ります。生活のありかたも変わると思いますが、心だけは大事にして、落ち込まないことが大事です。前向きに歩いていくしかないから。 ウクライナから愛を込めて……。

 

*本稿は、群像社の「群」に掲載された記事を、著者の承諾を得て転載しました。

 

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<オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko>

キエフ生まれ。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。現在はキエフでフリーのジャーナリスト・通訳として活躍。2005年には藤井悦子と共訳で『現代ウクライナ短編集』を群像社から刊行した。

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2011年9月28日配信