SGRAかわらばん

エッセイ228:シム・チュン・キャット「日本に『へえ~』その3:みんな、えがおで、げんきよく!」

 
標題の「みんな、えがおで、げんきよく!」というフレーズは別に北朝鮮の人々がマスゲームを踊るときにお互いにかける合言葉ではありません。日本の小学校の教室の壁に貼ってあって、よく見かける典型的な標語の一つなのです。似たような標語として「みんな、あかるく、たのしく!」「みんな、にこにこ、たのしそう!」「友だちさそって、みんなでわいわい、なかよくあそぼう!」「みんな、なかよし、キラキラえがお!」などもあります。どれもご尤もでとても素晴らしい言葉だと僕も思いますが、このように文字が飛び出してきそうな、元気いっぱいな標語が「みんな」が見える場所に大きく貼ってあるのを目にすると、つい「う~ん」と首を傾げたくなるのは僕だけでしょうか。

先に断っておきますが、日本の小学校教育は世界的に評価が高く、諸外国が見習うべきところがいっぱいあるので、僕もよくシンガポールの視察団を日本の小学校へ案内したりします。そのたびに、日本の小学生たちも実に元気がよく、楽しそうに勉強しているようで、先生が質問すれば本当にみんなが手をあげて「はい!はい!はい!」と大きな声で質問に答えようと競う場面もたくさん見てきました。標語の文字通り、児童たちは本当に仲よさそうにみんな笑顔でキラキラと明るいのです。

でも、ちょっと待ってよ。もし「今日ちょっと元気がないなぁ」と思う子がいるとしたら?もし普段から笑うことがちょっと苦手な子がいるとしたら?昨夜お父さんとお母さんが喧嘩して今日ちょっと落ち込んでいる子がいるとしたら?これらの子にとって標語のあの踊り出そうな文字群が逆にプレッシャーになりやしないかと考えてしまう僕はひねくれ者でしょうか。僕が特に気になるのが「みんな」という言葉です。個性重視の教育政策が提唱される昨今、「みんな」ほどその政策にそぐわない言葉はないのではないかと思います。笑いたい子が笑えばいいし、無表情で物事を考えたい子はそうすればいいのです。笑顔までみんなで一緒に作らなくてもいいと思います。
 
僕がその昔、東京都の某小学校で講演をしたある日のことです。「はい!シンガポールがどこにあるか知っている人!」と僕が聞いたら、クラスの全員がすぐに手をあげて例の「はい!はい!はい!」という大合唱を始めました。「じゃ、君!」と僕が三列目に座っていて、あまり目立たなかった一人の子を指名して答えを求めると、「……」なんとその子は困った顔になったのです。あれ?手をあげたのに、答えを知らない…?その後、僕がいろいろと「明確な」ヒントを与えたため、ようやくシンガポー
ルの位置を世界地図の上に一応だいたいのところで示してもらうことができましたが答えを知らなくても手はあげる児童もいるのだと、そのとき初めて気づきました。おそらくその子は取りあえず「みんな」と一緒に手をあげて「はい!はい!はい!」と元気な声で僕の質問に応じただけだったのですね。
 
みんなで何かをやることにあまりこだわりすぎると、「出る杭は打たれる」ことを恐れ(否、上の例だと「出ない杭は踏まれる」と言ったほうがいいかもしれませんが)、ついほかのみんなと横並びする態度や傾向を助長してしまうのではないでしょうか。ネクラな子や「みんな」とちょっと違う子がいじめの対象になりやすいとよく聞きますが、どうもそれも「みんな、えがおで、げんきよく」という標語と無関係ではない気がしてなりません。僕だったら、「みんな、みんなをわすれて、でるくいになれ!」と言ってしまいたい気分ですが、そういう僕こそ先に打たれてしまうかもしれませんね。

みんなさんはどう思いますか。

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<シム・チュン・キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。現在は、日本学術振興会の外国人特別研究員として同研究科で研究を継続中。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)、『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。
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2009年12月23日配信