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エッセイ224:範 建亭「日本留学の回想」

この夏の2ヶ月間の日本研究訪問が終わった。今回の短期滞在は6年ぶりの日本生活となり、思った以上に充実したものであったが、どのような研究成果があったのか、自分自身もまだよく分からない。2ヶ月は短いようで長かった。生まれたばかりのわが娘から離れることは非常に辛かった。

帰国の日がやってくると、家族を思う気持ちが一層強くなる。一刻も早く家族に会いたい。羽田空港へ向う京浜急行のスピードはいつもより遅く感じた。上大岡、横浜、鶴見、電車がこれらの懐かしい駅を次々と通り過ぎると、昔の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡る。なぜか、胸が一杯になり涙が滲んできた。

19年前に来日した僕は、自分の人生に不満だらけで、祖国の前途にもほぼ絶望的であったから、逃げるような気分で出国した。だが、日本で何かをしようというはっきりした計画を持ち合わせていなかった。

僕は上海生まれ、上海育ちであるが、スラムのような下町で育てられ、勉強嫌いで大学にも進学できなかった。日本の留学生活は日本語学校からスタートしたが、人生をやり直す気持ちで猛勉強した。その調子で学部から博士号を取得するまで進んだが、アルバイトで学費を稼ぎながらの生活が長く続いていたので、とても辛かった。それをなんとか乗り越えたが、それまでは実に沢山の方々にお世話になった。

滞在中に、友達を連れて横浜中華街で食事した。日本に来る時にはなるべく中華料理を食べないことにしているが、今回はどうしても会いたい人がいた。店に入った瞬間、奥様と娘さんが一斉に僕の名前を呼んだ。十年ぶりの再会にもかかわらず、名前まで覚えてくれて、とても嬉しかった。調理場から出てきた店のオーナーも驚きながら歓迎してくれた。

その店は中華街で一番古い店の一つであり、外見と内装は今も十数年前とほとんど変わらなく素朴な雰囲気である。その店で僕は4年間ぐらいアルバイトをしていた。来日したばかりで日本語があまり話せない僕を雇ってくれた上に、大学の保証人までなってくれた恩は、言葉では言い尽くせない。

「彼はそこまでできるとは思わなかったよ」と、オーナーは僕の友達にそう言った。正直に言って、僕はいまも自分が成功していると思っていないが、十数年の留学生活を終えて、結局大学の先生になるなんて夢にも思わなかった。

来日した1990年ころは、日本はまだバブル経済を謳歌していた時期であり、その「金持ち国」としての繁栄ぶりに驚いた。一方、当時の中国経済については、中国人さえ自信を持つ人はあまりいなかった。今の発展ぶりを想像できた人は恐らく存在しないと思うが、中日両国の巨大な経済格差は、逆に留学生が頑張る原動力となっていた。

僕の日本での最初のアルバイトは横浜中華街の米屋であった。毎日朝7時ころ、20キロの米を肩で担いでレストランに配達していた。今思えばとても辛い仕事であったが、当時はそう思わなかった。時給は1200円もあったから、一時間働けば、当時の中国人の平均月収分の収入がもらえた。このように、金銭に対する貪欲、豊かな暮らしへの夢、そして明るい未来への憧れは、異国での留学生活を支える源泉であった。

その後、日中経済は正反対の動きをみせた。日本国内で最近行ったある調査によると、「今後の生活が向上する」という回答が過去最低という結果が出た。逆に、「発展完了」の日本から「発展途上」の中国に視線を移せば、「明日の暮らしはきっと今日よりよくなる」と信じる人が圧倒的に多いに違いない。そのような信念は意外と重要かもしれない。特に若者にとってはなおさらだ。

成熟社会で育てられると、自立精神とタフさがだんだんと薄れる恐れがある。短期滞在中に通っていた母校の関東学院大学は、十数年前に僕が学部に通ったころに比べて、キャンバスがずいぶん綺麗になっている。いくつもの立派な高層ビルが建てられ、校門前の駐輪場も整備された。路上禁煙も徹底的に実施された。

しかし、変化はそれだけではない。タバコを吸う学生、髪を染めた学生が多いことは以前も同じであるが、学内にいくつかの「学生支援室」が設けられたことに驚いた。関係者に事情を聞くと、最近では人間関係のストレスや生きる悩みを抱えている学生が増えているから、「一人暮らし講座」や「日常生活の悩み相談」など、様々な支援を考えたという。日本の若者は中国に比べて精神的に弱くなったのではないかと思った。

不況の影響で日本の生活レベルは低下しつつあるものの、中国はまだその足元にも及ばないと思う。いつも日本から中国に戻ってしばらくの間は、日本の静かな環境、清潔な街、快適な交通、サービスや治安の良さなどがとても懐かしくなる。中国の生活環境はそれとまるで別世界であるが、その一方で激動する国であるからこそ、その変化と成長を楽しむことができる。それに比べて、日本社会の変化は乏しい。

帰国前の送別会で、元指導教官の恩師に「今回の短期訪問で最も印象に残ったことは何ですか」と聞かれたが、僕はしばらく考えても答えられなかった。かつて日本に十数年も住み、帰国後も年に一回くらい来日しているから、目に慣れてしまった環境にはその変化を感じ取りにくい。

逆に、今回の滞在で「変わってないな」と感慨することのほうが多かった。たとえば、銀行の暗証番号は相変わらず四桁、テレビの番組は相変わらずお笑い系の芸人が独占(日本人がこんなに真面目なのに)、古本屋には相変わらず漫画本ばかり、交番の前に張ってある指名手配の犯人顔は十数年前と同じ、などなどである。

日本は好きか。そう聞かれたら僕はすぐには答えられないと思う。日本のことについては、好きという言葉が軽く感じられる。青春時代をすごした町、そしてわが人生をやり直すことができた国には、それ以上の感情がある。

そう書きながら、上海の虹橋空港がもう空から見えはじめた。我が家のぬくもりがもう目の前だ。果たして6ヶ月になる娘が笑顔で迎えてくれるのか。ノートを閉じて、目を閉じると、わくわくと胸が高鳴る。

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<範建亭(はん・けんてい)☆ Fan Jianting>
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院准教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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2009年11月11日配信