SGRAかわらばん

エッセイ114:李 垠庚 「知る権利、知らない権利」

日本に住む外国人が、来日直後に困惑する理由の一つは、毎朝生々しく報道される「殺人事件ニュース」ではないだろうか。最初は、自分が日本に来たちょうどその時、たまたま稀代の殺人事件でも起きたのかと思ってしまう。ところが、時間が経つにつれ、殺人事件の主人公が変わるだけで、殺人事件の報道が毎日続くことに気付くようになる。事件の報道はあまりにも詳しく、おかげで事件の手口を教えられるのは勿論のこと、被害者の人柄や日常生活までわかるようになり、さらには友だちや遺族の肉声まで聞かされる。犠牲者になった子供がどれほど親の言いつけに従い、勉強熱心で、友達の面倒見が良かったかを繰り返し聞いているうちに、もし両親に逆らい、不勉強で人見知りでもあった子供なら、被害にあっても良いというのだろうかという反発心さえ浮かんでくる。あらためて根掘り葉掘り聞き出さなくても、人間の命それ自体が貴重であることを、むしろ忘れているのではないか。

 

危険なのは朝の時間帯だけではない。地上波だけでも毎晩平均一本以上、2時間のサスペンスドラマを放映している。他の種類のドラマの中にも、殺人事件をあつかう刑事ドラマが多い。日本語の勉強という名目でサスペンスドラマを見始め、そこで犯罪の類型や手口を習得してからは、朝の殺人事件ニュースを見ながら犯人探しに没頭するようになる。更に、自ら完全犯罪のマニュアル、少なくとも密室殺人のトリック一つくらいは作らなければ、という義務感さえ感じ始め、それこそが、自分が日本に住んだ甲斐のある仕事ではないか、とすら思えてくる。

 

それからまた時間が経つと、自分の情緒不安定とわけのわからない不快感は、残酷な殺人事件報道に無防備でさらされていることと無関係ではなかろうと、突然気付き始める。その対策に腐心し、サスペンスドラマ一切を避けること(昼にも再放送があるので要注意!) 、ニュースは時間が短くて割合にあっさりした夜のニュース、あるいはNHKのニュースを見ること、朝の情報番組や主婦番組を見る時は、アイドルスターの熱愛報道やグルメガイドに続き、突然殺人現場にまで引きづられるかもしれないので、いつもリモコンを握ったまま見ること、などの要領を覚えてくる。(残念ながら、留学生活末期は、古いテレビのリモコンも壊れがちであるが・・・)

 

次の新たな事件が起きるまで、視聴率を支えている毎日の殺人劇は、すでに日本経験者のあいだでは忘れられない日本生活の思い出(?) という風評である。一般の被害者をめぐる日本の加熱報道が、外国人の目にどれほど不可解に映るか、よもやメディア自身がわかっていないわけではないだろう。それでも、長い放送時間を埋めるためには決して捨てられない大事なネタとして、全国民の同意を得ているのだろうか。そして、殺人事件の被害者になった途端、全国民の「知る権利」の範囲に入る「公人」になるという、暗黙の了解でもあるのだろうか。もしかしたら、それを「知る権利」と主張する人がいるかも知れない。芸能人のプライバシーなら楽しみとも言えるが、悲惨に殺された人のプライバシーを掘り出してほしい、国民の私にはそれを「知る権利」があると唱える日本人がどれほどいるのか疑わしい。例えそうした人がいるとしても、それが望ましいとは言えない。情報にも、共益にもならない死にいたるまでの人間同士の揉め事を、それほど必死に掘り出すのは、まさか娯楽のためではないだろう。

 

公的立場の責任ある人が関係していたり、事件自体が国民の注目に値するほど社会的な意味合いを持つものでない限り、殺人事件は(裁判は民事ではなく刑事事件として扱かわれると言えども)個人的な問題として扱かわれるべきだと思う。残酷な事件の犠牲者になったという理由だけで、何の抵抗も出来ず、異を唱えることも出来ない死者のプライバシーや事件の状況を暴くことはやめてほしい。犯罪の予防に力を尽くすべきなのは当然であるが、犯罪被害者を二度目の被害にさらされないようにするのも必要ではないか。それは、被害者や遺族のためでもあるが、何気なくテレビをつけた人が、生きていたら自分とは何の関係もなかったはずの誰かの殺害事件について、そこまで詳しくは「知らない権利」を保護するためでもある。日本は世界で犯罪発生率がもっとも低く、犯人の検挙率も最も高いにもかかわらず、犯罪に対する恐怖心はどの国より強いと報じる記事を読んだ記憶がよみがえる。

 

————————————-
<李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong>
韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中。
————————————-