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エッセイ112:包 聯群「母語の喪失(その2)」

黒龍江省は中国の最北東に位置し、面積は46万平方キロメートル、2000年の統計によると、人口は3,689万人で、漢民族のほかに、モンゴル族、満洲族、朝鮮族、回族などの民族がいます。黒龍江省にはおよそ15万人のモンゴル族が居住していますが、これは黒龍江省における総人口のわずか0.4%ではあるものの、他の少数民族より多く、漢民族、朝鮮族に次ぐ第三位であります。ドルブット(杜爾伯特)モンゴル族自治県には黒龍江省のモンゴル人の三分の一を越える4万人以上が居住しておりますが、それはドルブットモンゴル族自治県総人口の18%にすぎません。ドルブットモンゴル族自治県は黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県です。また、モンゴル語で授業を受けられる唯一の地域でもあります。

 

これ以外に、黒龍江省のゴルルス(肇源)県、チチハルの泰来県にそれぞれ1万人以上のモンゴル族が居住しており、富裕県、チチハル市郊外、大慶市市内などにもそれぞれ数千人のモンゴル人が暮らしています。しかし、これらの地域で暮らしているモンゴル人の多くは母語であるモンゴル語を話すことができなくなっています。モンゴル人が比較的に集中している村では、モンゴル語を第二言語として教えていますが、学校教育は当然中国語で行われています。これらの地域では、モンゴル人であってもモンゴル語を学ばない人が多く、モンゴル語を学んでいたとしても、それは教室だけで学ぶ「外国語」のようになっています。日常生活で、子供たちは、お互いに中国語のみでコミュニケーションを取っているのが現状です。ドルブットモンゴル族中学校・高校のモンゴル語で授業を受けているモンゴル人の生徒さえ学校の外へ一歩踏み出せば、中国語のみが共通語となっています。

 

なぜ、このような状態になったかを考えてみると、そこにはこの地域のモンゴル語教育の歴史的背景があったと思われます。

 

黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県であるドルブット地域では、黒龍江省教育委員会の決議によって、1984年9月から、モンゴル人が比較的多く住んでいる地域で中国語ではなく、モンゴル語による教育を実験的にスタートしました(中国語以外の科目)。これによって、ドルブット地域では、断続に行われてきたモンゴル語教育が再開されることになりました。なぜ、断続的に行われたかというと、そこにはそれなりの理由がありました。黒龍江省のドルブット地域には、もともとモンゴル人のみが居住していました。しかし、後に清朝が実行する“蒙地開放”政策などにより、ドルブット地域の人口が徐々に増えはじめました。モンゴル人は相対的に少なかったのですが、1910年に3,561人、1928年には6,635人に達し、総人口の27.7%しか占めていませんでした。モンゴル語を学ぶ時は、最初は「私塾」(主に『モンゴル語字母』、モンゴル語に翻訳した『百家姓』、『三字経』などの典籍を教科書として使用していた)から始めるか、あるいは家庭教師を招いて学ぶ方式でした。

 

中華民国元年(1912)になると、私塾は8ヶ所まで増え、1930に、バヤンチャガン学校は唯一の公立蒙文官学でありました。加えて、ドルブット地域には中華民国時代に仏教寺院が9ヶ所あり、そこに居た425人のラマ僧はモンゴル語を学び、仏教活動に携わっていました。1940年に学校の数は28校となり、そのうち、モンゴル人が通う学校は11校でした。

 

しかし、全員がモンゴル語で学べていたわけではありませんでした。新中国が誕生して以来の1952年に当地域のオリンシベ(敖林西伯)モンゴル族小学校でモンゴル語による教育を実験的にスタートしました。児童は29人しかいませんでした。しかし、それもそれほど長く続けられませんでした。さらに中国は1966年から文化大革命の政治混乱に陥り、政府が教育を軽視する時期が10年間も続きました。その後、1984年9月からスタートしたモンゴル語による教育も、12年経った1996年8月に地元政府の判断により小学校からのモンゴル人児童の募集を停止しました。残った2、3学年の児童も中国語のクラスへ切り替えさせ、ほかの学年が卒業するまで、そのまま維持するという方針でした。この時期はちょうど中国全土が市場経済を重視しはじめた時期でもあります。

 

このようにモンゴル語による教育が波瀾万丈の歩みを経て、そのまま終止符が打たれたと思っていたころ、モンゴル語による教育の小学生の募集が停止されてから10年目の2005年9月に、モンゴル語による教育の中学校生募集が急遽始まりました。これは言うまでもなく、モンゴル語教育にプラスになりますが、あまりにも突然のことで、教育の理屈にも合わないし、生徒にも負担がかかるに違いありません。この時期は中国経済の高度成長期にあたり、中国政府は危機に瀕する少数民族の言語、文化などの保護を重視しはじめた時期でもあります。

 

しかし、それにしてもモンゴル語による教育を受けていたモンゴル人児童・生徒の数が限られており、地域に住むモンゴル人全員がモンゴル語による教育を受けたわけではありませんでした。依然としてモンゴル語を学ばない、あるいは学べない様々な(言語生活、言語環境などの)理由がありました。モンゴル人の子供の多くは母語であるモンゴル語を失いつつあります。(続く)

 

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<包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。
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