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エッセイ110:羅 仁淑「ある在日のおはなし」

昨年の暮れ、在日の方々の登山についていった。P氏(70代)と私はグループから遅れてしまい、二人きりで世間話などを交わしながらゆっくりと歩いた。P氏が身の上話を始めた。涙を浮かべて聞き入る私、目頭を濡らして遠い過去を探り出すP氏。分断国出身同士の気持ちの通じ合いだったに違いない。二人の頭には、もはや早くグループに追いつかなければ・・・ということなど完全に忘れていた。

 

波乱万丈という言葉はこういうとき使うためにあるのかもしれない。多くの在日の来日動機とは異なる理由でP氏は高校生(16歳)の時来日した。当時の朝鮮半島の状況が分からないと、氏の来日理由は理解できないかもしれない。

 

朝鮮半島の北はソ連が、南は米国が優勢な状況で、1945年8月15日、日本の植民地から解放された。同年12月、モスクワで今後の朝鮮半島問題を議論する米•英•ソ3カ国外相によるいわゆるモスクワ会議が開かれ、米国は朝鮮半島を50年間信託統治することを提案し、ソ連は朝鮮民族には自主的に独立する力量があるので信託統治は要らないと主張した。度重なる協議にもかかわらず、なかなか合意に至ることはできなかった。ソ連の強い反対にもかかわらず、朝鮮半島問題は国連に上程されることになった。

 

当時、米国の影響力が強かった国連は1947年11月14日、(1)国連の選挙委員団の監視下で1948年5月10日に人口比例による南北朝鮮の総選挙を実施する、(2)政府樹立後外国軍を撤退させる、という米国案を可決した。人口比例で国会議員を選出することは南の人口より圧倒的に少なかった北に不利な条件であった。直ちに同委員団が上陸したが、北は入国を拒否した。国連は同委員団が接近できる南だけで総選挙を行うと決定し、予定通り実施された。そして南では大韓民国(1948年8月)が、北では朝鮮民主主義共和国(1948年9月)がそれぞれ樹立された。結果的に、手紙のやり取りすらできない、もっとも敵意の強い国同士になってしまった。

 

P氏の話に戻そう。上記のように政治的・思想的に不安定な時期に、高校生だったP氏は5月10日の南だけの選挙拒否運動に参加した。南だけの選挙が強行されると、P氏は国家反逆罪に問われ厳罰を受ける身になってしまい、やむを得ず国を離れることを決心した。真っ暗闇の中で「いつまた会えるかしら」と泣きじゃくる母を背にしてP氏は生まれ故郷を離れた。

 

日本に来て大学も卒業した。結婚もした。子供ももうけた。それなりに蓄財もできた。しかし、夢でも会いたい母に会いに行くことだけはできなかった。当時、韓国は罪の責任が親戚にまで及び、出国禁止を始めとしてあらゆる行動を制約する「縁座制」の時代であった。1980年代になってようやくこの「縁座制」が廃止され、家族の出国が許された。早速母が来日することになった。母に会える喜びで夜も眠れなかった。指折りその日だけを数えた。一日に何回も数えた。そんなある日、弟から電話があり母の心臓が悪くなり来ることができなくなったと告げられた。全身から力が抜けた。そのままP氏の母はあの世へ旅立ってしまった。

 

母が亡くなって数日後、弟からの手紙が届いた。母からP氏に宛てた手紙であった。臨終間際に弟に書かせたという。「お前は親不孝者ではないんだよ・・・」。亡くなった後、親不孝者だと自責する息子を慰めるためであっただろう。どこにそんな涙が溜まっていたか分からないほど止め処もなく溢れ出た。来日後、北朝鮮籍に変えたことを悔やんでも悔やみきれなかった。

 

それから数年後、韓国政府の在日同胞帰国事業により母国訪問団の一員として50年ぶりに故郷の土を踏むことができた。故郷の空を眺めることができた。お墓の前で母と長い話をすることもできた。

 

まだ会いたくても会えない人がいるとP氏の話は続いた。1959年2月、「在日朝鮮人中北朝鮮帰還希望者の取り扱いに関する件」が日本の閣議で議決されて以来、1967年まで約8万8千人が北朝鮮に渡ったが、その時、娘は万景峰号に乗った。それ以来、会っていない。祖国統一が実現され、死ぬ前娘に会うことがP氏の唯一の願いだ。60年前、祖国の分断を阻止しようと南だけの選挙に反対したP氏の運動は、分断された国がひとつになることを祈る形で今でも続いている。
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<羅 仁淑(ら・いんすく)☆ La Insook>
博士(経済学)。専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。SGRA会員。
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