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エッセイ136:李 垠庚「あらためて死刑制度を考える~光市母子殺害事件の教訓~」

ある日、テレビをつけると、レギュラー番組が中断され、裁判所の前でレポーターが叫ぶように何かを伝えていた。

 

「元少年に死刑判決が下されました。あらためて申し上げます。死刑判決が下されました」

 

1999年山口県光市で起きた、いわゆる「光市母子殺害事件」の判決に関する報道であった。前後のストーリを知らないで見たら、まさに死刑を待ち焦がれていたかのように見える場面であるが、事実は少し複雑である。母子を殺害した当時18歳の元少年に対し、一審・二審で無期懲役判決が下されたが、最高裁は死刑を回避するに足る事情があるのか、という理由で、それまでの判決を破棄し差し戻していた。実は私も以前、興味深く注目していたことがある。それは、事件から10年近く経っているにもかかわらず、事件当時の怒りと悲しみをあらわにしていることもさることながら、30歳くらいの若さで、いつも力強い語調で大勢のメディアの前でもひるまず堂々と訴え続けている遺族(夫)の様子があまりにも印象深かったからである。事件自体よりも、裁判に臨む遺族の姿勢と言葉に引き付けられたのは私だけではなかろう。しかし、死刑を伝える速報を聞いた瞬間は、言葉で表現し難い複雑な気持であった。

 

実は、この事件は、死刑制度の存廃問題とも繋がるものである。この問題については私も昔から考えて来たものの、今でも自分の立場を決めきれていない。廃止の立場に立つのが宗教的な信念に基づいて説明しやすいし、周りの進歩的な知人たちにも理解されやすい。にもかかわらず、私にはまだ決断できない。以前、私が「死刑廃止論を完全には支持できない」と言うのを聞いた時の、目を丸くして驚いた後輩の表情を今でも覚えている。「死刑は結局、もう一つの殺人に過ぎないと思わない、ということですか」。その答えに詰まりながらも、完全廃止は時期尚早という立場に立たざるを得ないのは、量りしれない悲しみを抱いている被害者家族を考える時、簡単には「死刑廃止」という言葉を口に出せないからである。

 

もし私が被害者の立場であるならば、失った命の価値を甦らせるためでも、犯人の死刑よりは他の方法を探すだろうと思ってはみるが、それも結局は一つの仮説に過ぎない。しかも、他人にまでそれを要求するほど冷静にはどうしてもなれない。人間の命を救うためである「死刑廃止」が、すでに家族を失って悲しみに沈んだ被害者家族に、かえって再び悲しみを強いるのではないかという迷いもある。死刑に値する犯罪が相次いでいる昨今、死刑が廃止されることは辻褄が合わない気もする。しかし、一方では、その悲しみがいかに深かろうが、他人の命を奪って得られるものが何かあるだろうかという疑問も感じる。

 

このような私の中途半端な態度が、韓国における死刑制度の現状とも酷似しているのは偶然ではないだろう。韓国の場合、法律上では死刑制度が存続しているものの、10年以上死刑が執行されていないのが現状である。従って、実質的には死刑制度の廃止国と見なされている。ところが、最近、前代未聞の連続殺人事件や幼児・子供を狙った凶悪犯罪が相次ぎ、再び死刑の執行が始まるのでは、という噂や、さらには執行しなければならないという世論が沸きあがっている。約50%であった死刑賛成派が最近60%台にまで上昇し、強く死刑の執行を訴える政治家の発言が、慎重で理性的な意見より言論と世論の注目を集めているのも日本と同じである。それでも、どちらかというと、韓国は死刑問題についてまだ模索中であり、世論も(私の感じる範囲に限って言えば)賛否両論分かれている。

 

それに比べると、日本の世論は死刑制度の存続の方へより傾いている。死刑が執行されたというニュースもしばしば耳にするし、死刑の存続を支持する世論は80%を上回っている。このような数値は、すでに死刑を廃止した国はともかく、死刑制度が存続する他国と比べても圧倒的な支持率である。わずかな反対論者について言えば、法律を勉強しているか、少なくともかかわっている人々が多い。こうした現実で、日本は来年から一般市民が裁判と判決に直接に加わる裁判員制度の施行を導入する予定である。そのことを考えてみても、今回の光市事件にかかわる一連の出来事は、軽く見過ごすことは出来ないのである。

 

今回の事件に限って言わせてもらえば、メディアはずっと被害者の立場に目線を合わせ続けていた。犯人の少年は、前例を破って死刑に処するほど残酷で更生の可能性がなく、弁護団は話題性ある事件にしがみついて死刑廃止を主張している荒唐無稽な言動をする変人のように取り扱われていた。主張の是非はともかく、数十年以上、法律を専門としてきた何十人の弁護士がそれほどの愚か者扱いされていること自体、腑に落ちないところがある。事実関係を別して、裁判に先立って世論が暴走しているのではないかと息苦しささえ感じた。さらにメディアは、この事件を「死刑廃止論者」と「死刑存続論者」の対立として取り上げながらも、廃止論者の主張の論拠をまともに取り上げようとはしなかった。そうした風潮の中、人間の手でもう一人の命を絶つことになったという事実に対する悲しみや熟慮を期待するのは無理であろう。

 

こうした現象は、メディアが日頃から、毎日のように残酷な犯罪を取り上げながら、いつあなたが犯罪の被害者になるかわからないと言わんばかりに、恐怖心を煽って来たという状況の延長線上にある。この数年間、日本における殺害などの凶悪犯罪の発生件数が減少している事実はほとんど知られず、メディアにより恐怖心をかきたてられてきた視聴者は、いつの間にか自分も潜在的な被害者であると思い込み、一人の犯罪者を社会から永遠に排除できたという安堵感を覚えかねない。人間の手により、もう一人の人間の命を絶つことに対して真摯に悩む姿勢は微塵もうかがえない。このような風潮を見ていると、今後の裁判員制度の時代が少し不安になる。

 

「漫画<デス・ノート>は、こうした日本社会の風潮から生れたものですよね」。最近、はじめて日本の雰囲気がわかったという知人がこのようにつぶやいた。デス・ノートとは、それに名前を書くだけで、直接に手を出さずに人を殺すことが出来る特別なノート。正義だけの社会をつくりたいという熱意に燃えてそのノートに数多くの犯罪者の名前を書き込んだ主人公は、まだ人生の経験や理解が浅い若者であった。極端な例ではあるが、今日の日本社会に漂う空気は、忘れていた<デス・ノート>の内容を、時々思い起こさせる。

 

しかし、実際の日本社会はこの漫画に描かれた社会より遥かに成熟しており、日本のメディアは青二才に与えられた<デス・ノート>ではなかろうと信じたい。そして、今回の光市の事件は、被害者の粘り強い訴えによって死刑判決を導いた快挙としてではなく、裁判員制度の導入を控えた日本社会に対して、一人ひとりが法と命の問題を身近に感じ、真摯な姿勢で向き合うように、その契機になる問いを投げかけた事件として、記憶と歴史に残ることを期待する。

 

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<李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong>
韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中
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