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エッセイ129:キン・マウン・トウエ「初めてのサイクロン経験」

誰でも皆、忘れられない思い出がたくさんあると思います。良いこともあるし、悪いこともあるでしょう。私の人生の中で一生忘れられない思い出ができました。2008年5月2日にヤンゴンで経験した、風速190~220キロの暴風が吹き荒れた大きなサイクロンです。ナーゲッ(Nargis)という名前がつけられました。こんなに大きなサイクロンがヤンゴンに来ることは珍しく、97歳の私の祖母にとっても初めての経験でした。

 

5月1日の夜11時ごろ、自宅へある軍情報局関係者から電話があり、明日ヤンゴンにサイクロンが来ると知らされました。しかし、こんなに大きなサイクロンになるとは全く考えませんでした。4月28日ごろ、ベンガル湾で小さなサイクロンが生まれました。ベンガル湾では5月は一番サイクロンが多い時期です。しかし、海中で発生してもそのまま消えていく、または、インド側へ移動していくことが普通です。ですから、今回も海中で無くなると予測していました。確かに、今年は例年と違っていて、サイクロンの影響で、ヤンゴンの雨季が少し早く始まりました。この日、ナーゲッはだんだん大きくなりながらヤンゴンの方向へ移動していたのです。時速約25キロという、かなり遅い速度で移動していました。

 

5月2日の午前中、ヤンゴンは曇り後雨でした。風もなく、普通の雨季の雨なので、昨日の情報が間違いだと思いました。しかし、午後になると空の色が変わってきました。いろんな方からサイクロンの情報の電話が何度もかかってきました。一方、国営テレビからもサイクロンに関する情報が流れています。しかし、ヤンゴンはそんなに影響が無いようです。ベンガル湾側のビーチにホテルを持っている友人へ電話したら、彼らのところには大きな影響がなく、被害も無いようでした。しかし、ナーゲッは、予測ルートからはずれ、ベンガル湾とアンダマン海の間、ミャンマーのハイージー島方面から、午前11時に上陸しました。風速は上陸時の約130~160キロからさらに強くなり、約200キロ前後になりました。サイクロンの半径は320キロもありました。この頃から電話が全く鳴らなくなり、正しい情報がヤンゴンに伝達されなかったため、ヤンゴンの人々は普通の小さなサイクロンだと思い、何の準備もしませんでした。国営テレビは何も報道しなかったので、サイクロンのことを知らない人も多かったのです。午後9時頃になって、やっとハイージー島の被害情報が伝わりましたが、準備をするのには遅すぎました。

 

午後10時半にヤンゴン市全体が停電し、風も強くなりました。速度がかなりゆっくりだったので、12時半になってから、本当に大きな暴風雨がやってきました。私は、家の中から、激しい雨と風の状況を見ていました。映画で見たり本で読んだりしたことあるような風の音が聞こえました。大きな木やココナツなどが風によって大きく揺れていました。そのうち、ガラスが割れる音や屋根が飛ばされる音が、風の音に混じって聞こえました。私も日本で台風を経験したことがありましたが、今回は、それよりはるかに強いものでした。午前3時ごろなると、風の方向があっちこっちに変わっています。サイクロンは暗い真夜中のヤンゴンの街の中心を、ゆっくり移動しています。午前4時半になると風はもっと強くなり(後で風速約190~220キロと知りました)、暗い街のあっちこっちで屋根などが大きな鳥のように飛んでいます。がんばっていた大きな木もほとんど倒されてしまいました。電線が切れ、電話回線が使えなくなりました。強い風は、午前11時ごろまで続きました。おかげさまで私の家は、風向きの反対側にあり、近くに大きな木も無かったので、大きな被害はありませんでした。

 

3日午後2時、やっと外へ出られる状況になったので歩いて行って見たら、ヤンゴンの街は大変でした。車はとても使えません。大きな木、電線、家の屋根など、いろいろなものが飛び散っていました。町中停電です。水道も来ない、電話回線もインターネットもダメ、このままでは、いつ回復するのかも予測できない状況で、ヤンゴンは全滅かと思いとてもがっかりしました。

 

サイクロンの影響を一番受けたエーヤーワデイ管区のいくつの村は、全く無くなってしまいました。水位が7メータぐらい上がりました。ハイージー島の80%は、存在しない状態です。ボカレー町の95%も壊滅的な状況です。政府の発表によれば、この台風の影響で本日(11日)までに、亡くなった方は2万8千人以上、行方不明の方は4万人以上です。実際はこの数字を上回るはずです。2004年12月にタイのプーケットに起きた津波よりももっと大きな被害です。

 

ヤンゴンでは、物価が上がり、特に食べ物に大きく影響しています。たとえば、以前一個100キャト(10円)だった卵が、現在300キャト(30円)です。交通機関にも影響が出ています。毎日停電です。発電機の値段も2倍ぐらい上がり、燃料費も大変です。2日後、水の配給が始まりましたが、停電はまだ続いています。ヤンゴンは、緑が多い町と言われていましたが、今は大きな木はほとんど残っていない状況です。いつになれば、元のヤンゴンのようになるでしょうか?いくつかの写真を下記URLよりご覧ください。

 

http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/

 

私の場合、停電なってから発電機の生活でしたが、おかげさまで8日の夜から一番早く一般の電気配給が部分的に得られるようになりました。現在に至るまで、停電している地域が多いです。しかし、ヤンゴンから80キロ離れたところにある弊社が所有する100エーカーの農園は大きな被害を受けました。

 

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<キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>
ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。