SGRAかわらばん

エッセイ#128:太田美行「世界のセンターと世界の田舎者」

葉 文昌様

 

SGRAかわらばん154号「差別化問題とグローバル化」を大変興味深く拝読しました。
日本のように人的資源以外なく、国土的にも小さな国がグローバル時代にどう生きるか考える上で、国際学会の話は示唆に富んでいますね。

 

しかし、「世界のセンター」は今の時代、本当に存在しているのでしょうか?また必要なのでしょうか?7年くらい前になりますが、「米国のホワイトハウスで政策立案に携わっている」という20代の女性と話す機会がありました。その時、「米国は世界の警察としての役割を担ってきたが、911事件以来それが揺らいでいる」と言われ、「そんなことを考えているのはアメリカくらいだ」と思い、そんなことを無邪気に信じている政策担当者に腰が抜けるほど驚きました。自分の周囲のことしか知らない人のことを「田舎者」と評することがありますが、その時は正直、「なんて田舎者的発想なのだろう」と思いました。アメリカだけが自分を世界のセンターと考えているのでは?(その人が少数派であることを祈ります。)

 

では逆に「世界の田舎者」は存在するのでしょうか。ここ数週間私が抱いている疑問です。

 

日本に関して言えば、今の日本は「世界の田舎者」になりつつあるのではないかと心配しています。その理由は第一に発信力が弱いこと、第二に日本以外の他者を知ることへの探究心が弱まっているような印象を最近受けるからです。

 

一つ目の発信力に関する要素の大部分は、英語力の弱さにあると思います。日本の公立の小中学校における英語教育のあり方には目を覆いたくなるものがあります。もちろん「英語力=グローバル(ビジネス力)」ではありませんが、国際社会で共通語ができないために効果的な主張ができにくいことは確かです。そして企画力やアピール力の弱さも挙げられるでしょう。昨年シンガポールに旅行しましたが、その際、韓国観光局によるCMの多さに驚きました。日本でも良く知られた俳優を起用したCMを放送したり、伝統だけでなくエネルギッシュな韓国の「今」を紹介するCMなど大変よくできていました。恐らくテレビの放送枠を買い取って放映しているのでしょう。

 

二つ目の問題に関しては、日本人に限った問題ではなく、そして外国だけでなく自国内の問題への無関心という点で日本以外の他国の人々も同様かもしれません。以前、日本に留学していた裕福なフィリピン人学生が、スモーキーマウンテン等に象徴されるフィリピン内の貧しい人々の状況を、日本のメディアを通して初めて知ったということがありました。彼女は裕福な家庭出身のため、自国内で貧しい人たちと接点がなく、知らなかったのです。そしてその貧しい人たちに外国人が支援をしているという実態を知り、「自分も帰国したら、彼らのために何かボランティアをしたい」と話していたそうです。

 

もうひとつの例としては、私が日本語教師をしていた時、中国人学生同士でも民族が異なると、互いに全く話をしないということがありました。教科書を忘れたある中国籍の少数民族の学生に、漢族の生徒の教科書を見せてもらうよう指示したところ、お互い話もしないし(授業中なのに)すぐに自分の席に戻ってしまうのです。教師の間ではよく知られていることらしいですが、新米教師だった私には大変ショックな出来事でした。日本に住む日本人だけでなく、世界中どこでも、多数派は往々にして自己中心的になりがちなのかもしれませんね。日本に留学していたウイグル族の留学生が帰国してみたら、いつの間にか漢族の町ができていて、膨大な数の漢族が移住してきていて、自分たちの文化が消されてしまうのではないかとショックを受けていたこともありました。

 

やや話が逸れてしまいましたが、「世界の田舎者とは自分と自分の周囲のことしか見ない人」と考えられないでしょうか。では「世界のセンター」とは何なのでしょうか。経済力、政治力、そして豊富な資源や文化的な影響力・・・。思いつくままに国力の要因と考えられるものを挙げてみましたが、これだけではないでしょう。しかし本当に今でも「世界のセンター」は必要とされているのでしょうか?交通機関の発達、留学生や移住者の増加、そして何よりインターネットの登場により、個々の発信力が強まった現在において必要なのは、「もっと違うこと」ではないでしょうか。

 

自国の情報源だけでなく、各国メディアを通して自国がどのように報道されているか、そして自分は本当に自分の国のことを知っているのか、「国は」でなく、「自分は」何を知りたくて、何をすべきなのか。それらを複数のメディアを通して、それらの意図やフィルターを考えた上で自分のすべきことをすることが必要なのではないでしょうか。

 

「国単位」だけでなく、「メディア」単位でも意図やフィルターはあります。日本のテレビ局や新聞社もそれぞれ主張や傾向があります。A社のトップニュースがB社では全く扱われないということもありますし、ある有名な海外政治家の発言が新聞社の主張に合わせた形に編集されて報道されたこともあります。そうなると各メディアの比較検討が個人レベルでも必要となってくるでしょうし、現在の技術はそれを容易にしていると思います。

 

私が大学に入学した時、国際関係論の教授は学生にイギリスの経済紙「FINANCIAL TIMES」を必ず読むように指導し、それに合わせた課題も出しました。なぜ「HERALD TRIBUNE」や「THE WALL STREET JOURNAL」でないのかと学生が質問すると、「日本ではアメリカの情報を簡単に入手できます。しかし世界はアメリカだけではありません。その複数の視点を養うためにイギリスの経済紙を選んだのです。本当はフランスの「LE MONDE」が良いのですが、フランス語を読みこなせる人はあまりいないと思うので」と答えられました。そして学部付属の図書館には「FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW」を初めとするアジアの雑誌も揃えられました。身近にそうした環境が整えられていたことは大変ありがたかったものです。

 

更に重要なのは、それらから得た知識を分かち合い、議論することではないでしょうか。気に入らないサイトに対するサイト攻撃などがありますが、そのような独りよがりになることなく、互いに議論する。まどろっこしく、牛歩にも似た動きのようですが、それこそが長い目で見ると、大きな力になると信じます。国家というのは常に自国の利益を優先する存在です。もし真の他者理解や交流を図るのであるならば、私たちは常に「私」という「個」に戻る必要があるでしょう。私が大学院生であった頃、チベット仏教を研究している学生が授業で研究発表をし、その後皆で議論をしました。その時ただ一人いた中国人学生は、自分が「クラスに一人の中国人」という立場であるためか、「中国政府擁護」に終始し、その場にいた学生は誰も中国人である彼女個人を非難していたわけではなかったのですが、結局議論は噛み合わないまま終わってしまいました。外国で自国の批判をされて気持ち良いはずがありませんが、問題は彼女がチベット問題を何も知らないまま政府擁護をしてしまったことにあるように思いました。

 

今回のオリンピックの聖火リレーで中国人留学生や中国系住民が祖国の聖火リレーを応援する気持ちはとても自然なものだと思います。しかしオーストラリアで行われたリレーで見たある映像には正直がっかりし、悲しくなりました。それはテレビのインタビュアーがチベット系住民にインタビューをしようとしたところ、中国人留学生たちが中国旗で画面を埋め尽くし、「One China!」の連呼でインタビューを打ち切ってしまった出来事です。その光景は正に、数に物を言わせた暴力として私の目には映りました。もしあの場に限らず、中国人留学生たちとチベット系住民の間で議論(対話)が生まれたらとても良かったのですが。

 

チベット問題に限らず、議論の結論が簡単につくとは思いません。もしかしたら結論がつかない議論を死ぬまで続けることになるのかもしれません。しかし「話し合う」、その事にこそ意味があり、互いに学べるのではないでしょうか。その意味で、「世界のセンター」ではなく、知の発信地が世界のあらゆる所にあり、議論(対話)が無数にあることを願ってやみません。私たちの時代にはもしかしたら何も解決しないかもしれませんが、長い人類の歴史の中で少しでもそうした動きが進歩のステップになれば、それで良いのではないでしょうか?

 

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<太田美行☆おおた・みゆき>
1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
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