SGRAかわらばん

エッセイ127:徐 景淑「文化は力‐茶の湯」

日本には他国にはない文化がある。それは茶の湯という飲茶の儀式とそこから生まれた侘び寂びの美意識である。茶の湯は分かっても、「侘び寂び」という言葉の意味については理解に困る。

 

私のような外国人には当然のことで、日本人でさえよく分かっていない気がする。私は正式にお茶を習ったことはない。研究対象が茶道具であるから茶道に興味がある程度であるが、「侘び」と「寂び」については今もたくさん考えさせられる。

 

鎌倉時代に中国から禅宗の飲茶法が導入されてから千利休(せんのりきゅう)の生きた安土・桃山の時代まで、美意識は、豪華で耽美的なものであったが、その反面、単純美を否定し、時を経て傷んだわびしい状態の美を肯定する精神的な美意識もあった。「侘び」とは広辞苑によると「①わぶること。わびしいこと。思いわずらうこと。②閑居を楽しむこと。また、その所。③閑寂な風趣。茶道・俳句などでいう。さび」とある。この説明では「侘び寂び」が何の意味かますます分からなくなる。基本的に「侘び」とは侘しい(わびしい)「寂び」とは寂しい(さびしい)という意味で捉えられる。

 

「寂び」は「錆び」とも書き、時間の流れによって古くなる様子、それが完全な美しさに到達していない、ある趣の美である。これには村田珠光の「草庵の茶」という新しい試みがあり、茶道具を通して形象化されたのである。草庵の茶とは四畳半という狭い空間で、飾り付けも少なくし、道具も歪みや不正形の、完全には物足りない道具で茶を点じることである。その後、紹鴎が踏襲し、ついにその弟子千利休が侘び茶を大成したのである。完全たる形、概念、日常、常識を超えて、あえて汚す、歪む、散らす美である。

 

それでは、日本でなぜ侘び・寂びの美意識が生まれたのか。武士政権が主導する日本とは違って王権政治をした朝鮮半島の例をみるといい。ごく簡単にいうと、政治面で日本は藩間の戦争が耐えることなく続いていたのに比べ、朝鮮は中央集権体制のもとで国内での戦いがなく、両班(文班と武班の貴族)のうち、文班(文臣)が権力を握るときが多かった。宗教面では、日本が華麗な仏教を中心にしたのに比べ、朝鮮時代は質素な儒教を支持していた。朝鮮でも飲茶の風習は古代からある。先祖に祭る祭祀を「茶禮」といい飲茶の痕跡は度々見られるが、茶室という特定の場所を設けてはいない。戦争のない平和な時代に茶室などは必要なかっただろう。

 

日本の場合は、江戸時代に入るまでは緊張を緩めることができない時代であった。俗世から離れて安らぎを求めるため、時には敵同士で非武装して向き合うため、ある時は仲間との親交の場として四畳半の空間はとても適したと思われる。生きるか死ぬか、勝つか負けるかの厳しい現実で、失敗は許されなく、全て完璧さが求められたに違いない。その現実において、四畳半の窮屈な茶室で完全とはいえない茶碗でお茶を飲む。これこそ究極の安らぎの空間であり、自分を見極める瞬間であっただろう。そして、こういう時代であったからこそ生じた茶の湯の文化、侘び寂びではないかと思われる。

 

茶の湯は今の日本を豊かにしたといっても過言ではない。茶の湯が残した数多くの美術品は人々の心を豊かにし、それを求めて各地を巡った商人の活動は日本が経済大国になる基礎になったのではないかと考える。文化は力なり。茶の湯は日本の大きな力となった大事な文化であるといえよう。

 

——————–
<徐 景淑 (ソ・キョンスク) ☆ Seo Kyoung Sook>
韓国釜山の東亜大学芸術学部工芸学科(陶磁工芸専攻)卒。現在、慶応義塾大学大学院文学研究科(美学美術史学専攻)博士課程で高麗茶碗の研究をしている。SGRA会員。
——————–
*このエッセイは、2006年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。