SGRAかわらばん

エッセイ124:マックス・マキト「前世から託された課題」

今、僕は社会科学を専門としている。でも、数年前から、以前専門としていた工学を凄く恋しく感じるようになった。その理由の一つは、やはり、ものづくり大国の日本に長年住んできたことにあるだろう。これって、厳しい冬の寒さの後に待ち受ける花粉症のように、長く東京に住むとかかってしまう病気なのかもしれない。

 

僕はフィリピン大学の機械工学部を卒業してエンジニアになった。卒業後数年間、フィリピンのものづくりの現場である国営の造船所で働いた。家族が住むマニラから離れた、道路などのインフラが乏しい田舎にある造船所で、自然と海に続いている土地だった。東京人のように歩く習慣のないマニラ人にとっても、歩いていける距離に宿舎があり、何かあるとすぐに呼びだされた。エンジニアの生活はキツイとしばしば感じた。溶接の火花が飛び散ったり、何トンもの機材を運ぶ重機が移動したり、吸い込みすぎると毒性のある塗料や化学薬品の蒸気が満ちていたり、エックス線による船体の検査が外野で行われたり、船底塗料の準備工程で高圧の砂吹きが行われたりする危険な職場だった。錆びだらけの、または油でぬるぬるした船内の奥隅まで入り込まなければならないこともあり、そんな時には体中がむずむずした。寝る前のシャワーが毎日の小さなお祭と感じさせるような実に汚い仕事であった。

 

だけども、幼いころからエンジニアという夢をみていた僕にとっては、その血が騒ぐ現場でもあった。フィリピンで当時初めての最大級の船の建設にも関わったこともあり、非常に誇りに思った。この現場で人生を過ごすという覚悟もした。土地の娘と結婚して家族を設けても可笑しくない時期に、工学ではなく社会科学を学ぶ機会を提供する奨学金を得ることになった。そして、経済学の道を歩みはじめるために、造船所を去って都会に戻ることになった。それから更に日本に渡って経済学を研究することになり、現在に至る。工学から足を洗った数年後、あの造船所はシンガポールの造船会社に買収されたと聞いた。

 

しかし、冒頭に述べたように、数年前からエンジニアの血がまた騒ぎ始めた。どんな形でもいいからまた船づくりと関わりたくてたまらない。あの手この手で探ってみた。先ずは日本のいろいろな門を叩いてみた。大学の休みの間に研修させてくれませんか?数ヶ月かけて造船工学を復習して資格を取得できないでしょうか?無視、無理。ああそうだ、経済学から攻めてみたらどうでしょう。そのうち、ある日本の造船大手企業がフィリピンに進出していることがわかった。東京にある窓口と連絡を取ったら丁寧に応対してくれたが、研究の許可はおりなかった。それならば、ちょうどフィリピンの製造業系の経済特区について研究しているから、どこかで接点があるのではないか。調べてみたら、日本、韓国、シンガポールの企業が3社、フィリピンの経済特区に造船所を建設する許可をすでに得たか申請中だということがわかった。そこで、今までの経済特区の研究でお世話になった認証機関の政府管理局に相談したところ、ぜひ研究してほしいと歓迎された。しかし、その後何度も連絡してみたが、なんだかの理由で相手にされず、「まさかここでも無視か」とがっかりした。

 

そうこうしているうちに、ほとんどが日系企業のフィリピンの自動車産業から熱い研究依頼がきた。こちらはSGRAの共同研究プロジェクトとして進行中である。フィリピンの自動車産業は、東アジアで進行している自動車産業の分業化で大変悩んでいるらしい。そのときに気がついた。もしかしたら、今フィリピンの造船業は栄えていて大きな悩みがないから研究の必要性があまりないのではないか。

 

更に調べてみると、前述の3社の造船企業のうち、日系企業と韓国系企業の造船所だけでも、なんとフィリピンの造船産業を日本、韓国、中国についで世界第4位にするほど大きなものであるという記事を見つけた。しかも、昔僕が誇りに思った最大級の船の10倍以上性能を備えた船を作っている。凄い!更に調べてみると、アメリカで教育を受けた、あの造船所の元幹部のS氏のウェブサイトに辿り着いた。S氏は韓国系大手造船所が位置する経済特区の会長兼フィリピン造船所の副会長として勤めている。連絡しても無視されたのは僕の研究を危険と感じたのではないか。彼らの防疫線を突破するのも難しいかもしれない。

 

その経済特区は1992年まで米海軍の基地だったが、比米の基地協定が終了したあと、フィリピン政府に返還されたスービックというところにある。SGRAフォーラムにも参加してくださったフィリピンアジア太平洋大学のヴィリエガス先生の評価によると、シンガポール経済の原点ともいうべき戦略的な立地にある港の3倍の面積を有するという。その場所を厳選した米海軍が撤退したあと、地域経済はドンと低迷したが、経済特区としてその戦略的な要素を生かした政策によって、スービック地域は再び栄え始めているようである。

 

日本に長く住んでいると東アジアの奇跡とも呼ばれる「共有型成長」の原点はものづくりだとわかってきた。最近の日本はその原点を忘れかけているように見受けられるが、それでも、それは、フィリピンがまだ体験したことがない奇跡なのである。前述のように、エンジニアだった僕は造船所で限界を感じ社会科学に移った。その限界というのは、ものづくりに対する当時のフィリピンの資源不足だったと思う。エンジニアたちがさらに勉強できるような支援がほとんどなかったのはそのひとつの例である。エンジニアとしての僕は、フィリピンの発展に貢献するという使命感を果たせなかった。しかし、今、ものづくり(船づくり)によって、いかに母国にも念願の共有型成長を実現できるかを追究することが、エンジニアの僕から経済学者の僕に託された課題だと感じている。

 

昨日、やっとあの元幹部からの返事がきた。いつでもスービックに大歓迎だという。SGRA日比共同研究をするために、今度の春休みに帰国したら必ず尋ねて僕の原点に戻りたいと思う。

 

————————–
<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
————————–