SGRAかわらばん

エッセイ123:太田美行「祖母の死」

2月下旬、私の母方の祖母が亡くなった。100歳6ヶ月。なんと一世紀以上も生きたのだ。

 

祖母はいわゆる戦争未亡人、夫が戦争で亡くなった人である。祖父は自分の兄の会社で働いていたが戦争に召集され、輸送船に乗っているところをソロモン海付近で攻撃され38歳で亡くなった。その時祖母は30代半ば、12歳の息子を筆頭に下は2歳までの、4人の子供を抱えて未亡人となってしまった。今の私と同じくらいの歳で一家を支えることになった。

 

祖父は勤め人だったが、副業として小さなガソリンスタンドを経営しており、祖母が担当していたが、それが急遽メインの商売となり、社長として運営に当たることになった。昔の人は現代の若者より成熟度が高かったといわれるが、遺体のない空っぽの棺が届き、亡くなった日も正式には不明、詳しい状況を知る人もいないといわれた、その時の祖母の気持ちを考えると、どれほどつらかったろうと胸が痛む。

 

そして追い討ちをかけるかのごとく、政府により統制下にあったガソリンは、更に統制の度合いを強められた。ガソリンスタンドは「各地域に一軒のみ」と決められた。想像がつくと思うが「女が経営する店」の立場は決して良いものではない。この時、亡くなった祖父の長兄が役所に行き、「お国に一命を捧げた勇士の遺族を、国は見殺しにするのですか」と言い、この言葉のおかげで祖母の店は「各地域に一軒」に残ることができた。もし店が閉鎖されていれば、私はもしかすると生まれていなかったかもしれない。

 

もともと頭が良くしっかり者の祖母は、新聞はもとより経済雑誌を読み、国会中継をよく見ていた。そして近所の人が驚くほどの博識だった。知識欲も旺盛で若い頃は、通信教育でローマ字を学んだそうだ。後に長男(私の伯父)が成人した後も社長として経営に当たっていた。私が子供の頃は既に仕事から引退し、庭いじり等を楽しむ日々だったが、常に時事問題をチェックしていた。

 

私の記憶にある祖母はいつもニコニコと微笑んでいて、苦労のかけらも見せない「優しいおばあちゃん」、また母方の祖母で一緒に住んでいなかったこともあり、私もそんな苦労があったとは考えたことすらなかった。しかし大人になるにつれ、母が時折語る話や、祖父の兄弟についてまとめた本などから、祖母の微笑みの裏にある苦労が想像できるようになった。また95歳を過ぎた頃、一度だけ何かの弾みで出てきた言葉の切れ端から、祖母が多くの愚痴や不満を飲み込み、自分の胸ひとつにしまっておいてきたかを知った。

 

100歳近くになって、もう周りのことがあまりわからなくなってきてから、耳元で話しかけると、「お店」とつぶやいたことがあった。祖母の中でいつまで経っても心配事だったのだろう。そう思い、すぐに「お店は息子さんたちがしっかりやっていますよ」と大声で答えたが・・・。今となってはそれが伝わっていたことを祈るのみである。祖母が亡くなる前に、こうした軌跡を知っておいて良かったと思っている。歳をとった祖母の手をなでる時、耳元で話しかける時、こうした苦労を知っていることが、愛情だけでない、何らかの尊敬の念も込めることができたような気がしたからだ。よく「老人ホームで、赤ちゃんに話しかけるような言葉で老人に話す職員がいて不快」という投書を新聞で見かけるが同感だ。今では赤ちゃんのようになってしまった人でも、かつては素晴らしい生き方をしてきたもしれないのだから。

 

私の祖母は無名の人である。何か大きな業績をあげた訳でも、大発見をした訳でもない。しかし4人の子の母として、また小さな会社の経営者として立派に生きた。戦中、戦後、祖母のような人が限りなくいたことだろう。その人たちが今日の繁栄を築いてきた。生前祖母はよく言っていたそうだ。「うちもお父さんが早くに亡くなったから、みんなこうして仲良く真面目にやってきたけど・・・、お父さんが生きていたらまた違っていたかもしれないね。」

 

「一病息災」という言葉がある。健康に自信のある人よりも、どこか病気のある人の方が健康に気をつけるので、逆に長生きすることの例えだが、「一家の主の死」という不幸をきっかけにして逆に、幸せを頑張って築いたという見方もできるかもしれない。

 

祖母の生きた時代は今と違って女性の生きる選択肢が多くなかった時代であり、また与えられた境遇は自ら選択したものでもなかった。しかしその中で祖母は「幸せ」を自ら選び、築き、自分の道をしっかりと切り開いて歩んできた。そのことに私は(身内のことで恐縮だが)限りなく尊敬の念を覚える。

 

家族とのコミュニケーションが少ないとされる現代だが、皆さんにもぜひとも自分の家族史を知ってほしい。意外な人の助けや、皆さんのご先祖のがんばりで今日の自分が生かされていることに気づくから。納棺、通夜、告別式などの葬儀一連の儀式の時、私の目の前にいたのは「優しかったおばあちゃん」というよりもむしろ、「自分の道を戦って切り開いた、尊敬すべき女性」だった。

 

—————————
<太田美行(おおた・みゆき)☆ Ota Miyuki>
1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
—————————