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エッセイ118:金 政武「私の日本ドリーム」

日本の先進技術と豊かな文化を求め、1998年既に31歳になっていた私は、人生を日本で再スタートする気概で、東工大の博士課程に入学した。そして、大学院では一緒懸命に研究に没頭した。月20万円の渥美奨学金を貰うまでの2年間は学習奨励費の月7万円くらいで生活していた。(奨学金を提供してくださった日本の諸機関には深く感謝している。)その最初の2年間は、日本のあらゆる種類のインスタント・ラーメンを食べ尽くした。月末になると、たまにはお金が無くて1、2日間何も食べられなかった事もあった。それでも希望を持って、一生懸命に私の「日本ドリーム」に向かって突撃してきた。その後、国立の研究所などを経て、日本のある大手電気メーカに入社し、普通のサラリーマン生活を送るようになった。

 

来日して10年間、私は日本で結婚し、日本で子供を育てた。私にとって、人生の一番重要なイベントが全て日本で起こった。日本はもう私の故郷であるように感じた。そして、自分も普通の日本人と何の変わりも無いようになって、私の日本ドリームがつい実現したかのように思っていた。そして、此処日本と今の会社を自分の家だと思って、仕事に一層励んできた。

 

来日して10年が過ぎたし、年を取って病気療養中の母と一緒に住まないといけなくなった事もあって、永住権か国籍を申請した方が良いのではと思い、先日入国管理局と法務局に行って関連規定を聞いた。答えは見事にノーでした。つまり、日本は非移民国家なので、人道的配慮から子供の同居は認めるが、帰化しても両親との永住同居は認めないとの事だった。ショックだった。このような規定になった理屈は十分理解できるものの、感情的にはどうしても受け入れられなかった。このような規定に関しては早めに確認しておいた方が良かったと後悔の気持ちで一杯だった。

 

そして、どうがんばっても日本は私を受け入れない事を悟った。腹が空いても希望を持って徹夜しながらがんばっていたのは何のためだったのか、会社の仕事が忙しくて、父の最期を看取ることができなかったのは何の、誰のためだったのか、がんばって来た10年間が空しく感じて仕方が無かった。入国管理局からの帰り道に、わざわざ桜木町駅で降りて、海の方へ足を運んだ。周辺の夜の景色は素晴らしいものだったが、自分とは何の関係も無いと感じた。

 

何時ものとおり、その夜、一人で生活している母に電話した。母の蒼老な声に心が強く打たれた。今まで感じた事の無い何かが心の中を走った。涙が止まらなかった。実質両親を捨てたような形で、夢中にひたすら日本のドリームを求めて来た自分と家族の10年間はあまりにも空しく感じた。

 

ベランダに出て、タバコに火をつけた。外では小雨が降っていた。静かな夜景は奇麗だった。仕事から遅く帰宅する人たちは小雨の中で急いで各自の家に向かっていた。でも、全ては自分とは無関係に感じた。静かに降っている小雨は私のノスタルジックな気持ちを一層寂しくした。薄く空に舞い上がっているタバコの煙は、私の日本ドリームのように何処かへ無言で消えて行った。もう帰る時だ。一人で寂しく老後を送っている母が待っている。母と日本、私は母を選ぶ事にした。

 

追記:
私のようなケースは決して稀ではないと思う。このような問題を適切に解決する方法がないと、先ず優秀な人材が日本に来ない。また、来たとしても、何時か仕方なく離れる事になる。人材を日本に招く努力をすると同時に、彼らをどう引き止めるかをも考えないと、結局マイナス効果になるに間違いない。

 

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<金 政武(きん・せいぶ)☆ Jin Zhengwu>
中国吉林省出身。1993年華東理工大学で工学博士号取得。2001年東京工業大学理学博士。国立研究所などを経て、2003年~現在、日本某大手電気メーカ社員。
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