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エッセイ095:孫 軍悦「一期一会」

江戸時代から関東と越後を結ぶ三国街道、現在の国道17号沿いに湯宿温泉という、開湯1200年の温泉地がある。現在八軒の温泉宿と四軒の共同浴場、それから100メートルあるかないかの散歩道が整備されている。そのなか、若山牧水などの文人墨客も多く泊まっていたのは、1867年に開業した金田屋旅館である。細心の注意を払わないとつい通りすぎてしまうほどの、文字通りの国道沿いの温泉宿である。

 

  この温泉宿に二度ほど訪れたことがあり、二度とも不思議な出会いがあった。

 

一回目に宿に到着すると、ちょうど玄関の上の部屋に通された。コタツが真ん中にすえてある8畳の明るい部屋だった。内側に面した窓からロビーで火鉢を囲みながらくつろいでいる温泉客や、てきぱき夕餉の準備をしている宿のご主人の姿を見下ろすことができる。「古き陶器の如し」と牧水が喩えた冬の三国路は、夜が更けるのが早い。山の幸がふんだんに使われた夕食を済ませ、温泉に浸かって身体を暖めた宿泊客も各々の部屋へ戻っていった。おかみさんが湯上りのお客さんのために用意した冷水筒に最後の氷水を足し、電気を消していった。外は相変わらず車の往来で騒々しいが、宿のなかは早くも静まり返った。窓際でコタツに足を突っ込みながらそれを見届けた私は百般無聊のなか、ふと階段の曲がり角に小さな書箱があることを思い出した。せっかく温泉宿に来ているのだから、温泉についての本でも読もうと思って選んだ一冊は、『つげ義春の温泉』だった。

 

本には昭和40、50年代の温泉地の写真やイラストと、つげ義春の漫画とエッセイが収録されている。まず驚いたのは、写真にみすぼらしい殺風景な温泉地ばかりが写されていることだ。まるで大地震でも起きたかのように、屋根の歪んでいる隙間だらけのバラ屋が軒を連ねている。後で分かったことだが、それはつげ義春の好みらしい。現に彼はそう書いている。「私の温泉離れも、みすぼらしい景観が少なくなったのが原因といえるかもしれない」。かといって、つげ義春も、常識はずれの物好きではなさそうだ。「黒湯・泥湯」というエッセイのなかで、彼はこう書いている。「湯ノ神温泉は温泉案内書でもめったに紹介されることはないので、俗化していない掘り出し物かもしれぬ期待もあったが、田園の中に三棟の宿舎がかたまってあるだけの、景色は平坦で平凡でまったくつまらぬ所だった。昔の木造の校舎のような湯治部屋を覗いてみると、何かの収容所のように、足の踏み場もないほど布団が敷かれ、お婆さんばかりがゴロ寝をしていた。姥捨ての光景を見るようで、とても泊まる気になれない」。やはり人の趣味は、自分が思うほど自分によって決められるものではなく、時代と境遇のほうにはるかに影響されているようだ。

 

漫画も驚いたものだ。白魚のようにするりと湯船に滑り込む少女や、あけすけに股を開いて髪の毛を洗う婦人や、魂の抜けた幽霊のような爺さんが描かれている。一度見たら忘れられないが、どんな物語だったかさっぱり忘れてしまう漫画だった。それもあとで分かったことだが、エロチシズムも、筋らしい筋がないのも、つげ漫画の特徴である。ただ一つ、覚えているどころか気になってしょうがないストーリーがある。『蒸発旅日記』というもう一冊の随想集に収録されたエッセイである。蒸発したい主人公が、面識もなく、ただ自分の漫画のファンである看護婦のいる九州へ向かう話だ。残念なのは、最後まで読むことができなくて、結末が分からずじまいだった。家に戻っても気になってしょうがなかった。それで仕方なくもう一度金田屋旅館へ行くことにした。

 

二回目に通されたのは、廊下の奥にある薄暗く湿っぽい六畳間だった。いくらつげ義春目当てであっても少しはがっかりした。とりあえず、書箱においてあるつげ義春の本を確保して、温泉に入ってからゆっくり読もうと思った。温泉は源泉かけ流しの小さな内湯である。湯船に浸かりながらぼおっとしていると、隣の60代ぐらいの女性が話しかけてきた。彼女は群馬県内で宿舎を営んでいる。主に某大学の学生たちに部屋を貸しているが、そのマナーの悪さにずいぶん頭を悩ましたそうだ。このごろ新聞でも、「マンションに外国人が引っ越してきてからごみの分別ができていない」と、当たり前のように書くのだから、彼女の話を私はむしろ一種の快さを感じながら聞いていた。長年学生宿舎に住んでいた経験からもごみの分別は決して「外国人」だけの問題ではないことがよくわかっているが、「日本人だって」という反論は、私にとって決して口に出してはいけない言葉である。どんな状況でもやはり「それを言っちゃおしまいよ」という言葉がある。それが彼女(正確に言えば、日本人の彼女)の口から批判が出てきたのは、正直に言ってやはりスカッとした気分であった。

 

それから、彼女は私にどこから来たのかと聞いた。その質問に私はいつも戸惑いを感じる。というのは、一体相手が、私の日本語から外国人だと察して私の国籍を聞いているのか、それとも、普通の日本人と同様に私の出身地を聞いているのか、あるいはただ旅人同士の会話らしく、単に常住地を聞いているのか、なかなか判断がつかないからだ。仕方なく、私は、自分が東京からやってきた中国人留学生だと答えた。すると、彼女は突然相談事を持ちかけた。話によると、このごろ40歳の長男が中国人の彼女と同棲していて、その彼女は服装が派手で、この頃高級車に乗っているようで、どうも信用できないという話だ。テレビなどでもよく外国人妻の犯罪を報じているのだから、息子には、通帳や現金をちゃんと保管して用心しなさいと注意したが、息子は彼女のことが好きで、国籍は関係ないと言っている。信用はできないが、40歳を超えてようやくできた彼女だから、分かれさせたらいつ結婚できるか分からない。中国は遠いから、こっそりとたずねて相手の家柄を調査するすべもない。でも、このまま同棲するのも相手の親には申し訳ない気持ちがある。家族に話したら余計なお世話だと取り合ってくれない。お隣さんには絶対話してはならない。ついこの間、近所のおじさんが、フィリピン人の嫁の妹が家の金を盗んだと漏らして、町の笑われ者になったのだ。ひとりで悶々としているが、どうしたらいいかわからない。そこで、行きずりの中国人の私にどう思うかと聞いたわけだ。

 

  どうも彼女は私にいい印象を持っているようだ。留学生だから、きっと大金持ちのお嬢さんだと勘違いしているらしい。もしかしたら、温泉に入ってもめがねをはずさない私のこっけいな顔が彼女には逆に上品そうに見えたかもしれない。しかし、中国人だからといってすべての中国人の素性や性格が分かるわけはない。そもそも、彼女の質問は、言い換えれば、自分自身の中国人への偏見を中国人にどう思うかと聞いているようなものだ。

 

  その「信頼に満ちた偏見」に私は実に困った。「息子さんはもう大人だから、信じてあげたら」とか、「話を聞くと、実に立派な息子さんだからきっと正しく判断できると思う」とか、結局陳腐な人生相談にありがちなことしか言えなかった。かれこれ一時間ほど話を聞いて、彼女も多少気が済んだようだ。それで互いに一通りの挨拶を交わして各自の部屋に戻った。その後、私はずっと彼女との会話を考えていた。もうつげ義春どころではなくなった。

 

  私たちは「偏見」に出会ったとき、案外洗練された対応ができないものだ。「偏見はいけない」といった正論を並べることも、どこが偏見なのか諄々と教導することもなかなかできないようだ。それは一面に偏見そのものの衝撃によるが、他方、偏見の複雑さにもよるだろう。たとえば、彼女の「偏見」は、単なる「中国人」に対する偏見ではないことは明らかだ。「中国人」という要素は、服装の派手さ、高級車を乗り回すいかがわしさ、そして40歳を超えた息子に対する愛情への不信感といった様々な要素のなかのたった一つの要素にすぎない。また、彼女の「偏見」は単なる「日本人」の偏見でもない。「日本人」という要素も、彼女の息子を思う親心、村八分を恐れる地域社会に特有の閉塞感、そしてその世代の道徳的観念といった要素のなかの一つにすぎない。もっとも、この私も彼女の目には決してただ単に一人の「中国人」ではないはずだ。なによりも、こうした一期一会ができたのは、私たちはともに女の旅人であったからだ。

 

  思えば、一体私たちは、ただ単に一人の「中国人」として、ただ単に一人の「日本人」と出会うことがありうるのだろうか。国籍はただわれわれの人間と人間との触れ合いに少しだけ加味し、ちょっぴり変形させるだけだ。厄介なのは、私たちは、その「少し」の度合いをどうしても正確に捉えることができず、つい想像のなかですべてを覆い隠してしまうほど膨らましてしまうのではないだろうか。

 

  結局、二度目もつげ義春を読み損ねた。どうやらもう一度金田屋旅館へ行かなければならないようだ。

 

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>

2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。

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2007年11月20日