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エッセイ013:羅 仁淑 「10年経てば山河も変わる」

1984年に来日した。韓国には「10年経てば山河も変わる」ということわざがあるが、確かにその時と変わった。それもそのはず。山河が2度変わって余る年月が過ぎたもの。

 

4年間だけのつもりで日本留学を決めた。経済大国ってどんな感じだろう!生まれて今まで見たことのない華やかな街並み、人々の身なりしか頭に浮かばなかった。夜に着いた。早く見たい日本。逸る気持ちを抑えて迎えた翌朝、自分の国でも見られなくなった質素で地味な日本が目の前に広がった。がっかりした。日本のお金はみんなどこに集まっているのかしら。その答えは生活大国という形で生活の中から徐々に一つ、また一つと出てきた。

 

韓国にいる時、医療保険って聞いたこともなかった。後から知ったことだが、あることはあったらしい、名前だけは。病院に行くと患者の状態がどうであれ、夜であれ、昼であれ、予め保証金を入れないと診てもらえなかった。「明日銀行が開いたら・・・」など通用しない。当直しかいなくてとかなんとかで門前払いを食わせる。次から次へと病院の門を叩くがもちろん結果は同じ。結局手遅れで大事に至る。その反面、金持ちの行く手を阻む税金など厄介ものは少ない。金持ちの富は雪だるま式に膨らんで行く。資本主義の影と光、自由と自己責任の展示場のようだった。それが紛れもない当時の韓国だった。その中で育った。

 

医療保険というものを知った時それは素直に感動した。平等主義日本が眩しかった!生活大国日本に私の心は虜になった!大学を卒業した。帰らなかった。

 

最近マスコミでよく耳にする「格差社会」って本当?それ本当。所得分布の集中度とか不平等度とかあるいは所得分布の格差とも言うが、それを表す指標のひとつにジニ係数(Gini’s coefficient)というのがある。話がいきなり堅くなった?まあまあせっかくだから最後までお付き合いくださいな。

 

貧困には絶対的貧困と相対的貧困がある。絶対的貧困とは低所得、栄養不良、不健康、教育の欠如など人間らしい生活から程遠い状態を指すが、幸い、日本は絶対的貧困が問題になることは多くない。かかる格差問題も相対的概念に根差している。わざと「相対的」をつける必要もない。

 

ジニ係数ももちろん相対的な概念に基づいたもので、完全平等状態の時0、不平等度が最も大きい時1になる。格差が小さいほど0に近く、大きいほど1に近いということだ。来日した1984年から2005年までのジニ係数の推移を5年刻みに並べてみるとそれぞれ0.252、0.260、0.265、0.273、そして0.314である。平等主義がかなり緩くなってきていることは一目瞭然だ。

 

昨年のOECD25カ国のジニ係数を高い順に並べると、メキシコ(0.467)、トルコ(0.439)米国(0.357)、イタリー(0.347)、ニュージーランド(0.337)、英国(0.326)、そして日本の0.314が次ぐ。抜群に高いメキシコとトルコを除いてみると、日本の所得格差の大きさが一層浮き彫りになる。かつては「一億総中流」と言われたのに、10年余りの間に驚異的に貧富の格差が拡大した。

 

所得格差って悪いの?とかく格差は悪で平等は善と考えやすい。しかしその反対かも知れない、「適当」という条件が付いてさえいれば。競争原理をばねとする資本主義だもの、差が付くのは当たり前だ。昔の韓国のような社会が良いとは決して言えない。しかし、平等分配の社会(実際には存在しないが)ほどつまらなく効率の悪い社会もないだろう。旧ソ連をはじめ社会主義諸国の崩壊や中国の市場経済化がそれを証明しているのではないか。

 

調査対象に特定の傾向がある場合には、ジニ係数が1に近いからといって必ずしも不平等が悪いとも限らないし、どれくらいで大きく、どれくらいなら許容範囲かを判断することも難い。しかし0.2から0.3が資本主義の通常の配分型だと言われている。その基準からして昨年の「0.314」は「通常」を超えている。とはいうもののまだ深刻とも言えない。

 

新保守主義(Neo-conservatism)だの、新自由主義(Neo-liberalism)だの、第三の道(The third way)だのの嵐が世界中を吹き荒れている。その渦巻きの中で全力疾走している日本の格差社会化。着地はいずこ?それが気になる。来日当時、まさか日本の所得格差を憂える日が来るとは思わなかった。

 

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羅 仁淑(ら・いんすく)博士(経済学)。SGRA研究員。
専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。
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