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エッセイ010:ボルジギン・フスレ 「15年ぶりのウランバートル」

1991年7月、わたしは、モンゴル人の唯一の国であるモンゴル国の土地を踏むことができた。青空、草原、人、馬、悠々と流れる麗しいメロディー、大空を自由に飛翔する鷹・・・、待ちに待ったはじめてのモンゴルの旅、国境に分断された同じ民族の人々とのはじめての出会いで得た感動はいまだに残っている。15年の後、モンゴル建国800周年の今年8月、わたしは再びモンゴルに行った。今回は、2つの国際シンポジウムに参加し、資料調査をおこなうという目的であったが、民主化運動の15年後の、今日のモンゴルはどのようにかわっているのかを、切実に知りたかったのである。モンゴル建国800周年なのに、中国の内モンゴル自治区では何の記念行事もおこなっていない。それと対照的に、モンゴル国では、あらゆることを「800周年」と結びつけて記念行事をおこなっていた。

 

最初のシンポジウムは、国際モンゴル学会(IAMS)主催の、「大モンゴル国成立800周年記念、第9回国際モンゴル学者会議:モンゴルの国家像――過去と現在――(Ninth International Congress of Mongolists Devoted to the 800th Anniversary of the Yeke Mongol Ulus -The Mongolian Statehood: Past andPresent)」(8月8~12日)である。このシンポジウムはアメリカ、日本、ドイツ、カナダ、ハンガリー、イタリア、フィンランド、モンゴル、ロシア、中国、韓国など25ヵ国から480人あまりが参加し、名実相伴う大規模な国際会議となった。もう1つのシンポジウムは、「大モンゴル国成立800周年記念」の名も借りた、「ムンフテンゲル研究国際学術大会(Devoted to the 800th Anniversary of the Yeke Mongol Ulus ―International Conference of Munkhtenger Studies)」であり(8月13~18
日)、モンゴル、日本、ロシア、中国など7ヵ国から90人あまりが出席した。

 

会議のかたわら、わたしは、ウランバートルの本屋をまわり、資料収集をおこなったほか、国際モンゴル学会(IAMS)からの紹介状をもらって、モンゴル国立中央文書館(The National Central Archives)にて、資料調査をおこなった。しかし、こちらは、清朝時代の文書群が主であり、内モンゴル現代史とかかわる文書は、主にモンゴル人民革命党文書館(Archives of Mongolian People’s Revolutionary Party)に保存されていると、事務の方が教えてくれた。

 

夏休みのため、当初はモンゴル人民革命党文書館での資料調査は不可能だと聞いて、とても残念な気持ちだったが、東京外国語大学教授二木博史先生の紹介で、同文書館の館長の特別許可を得て、二木先生と一緒にまる4日間、文書館に入って、資料を読むことができた。文書館の入り口には、警備員がいたが、館長の特別許可があったお蔭なのか、出入りはわりに自由で、身分証明書も見せる必要がなく、閲覧証すら作らずにすんだ。私がもっとも嬉しかったのは、同文書館では、1920~40年代の、内モンゴル革命に対するモンゴル人民共和国からの援助、内モンゴル人民革命党の活動、モンゴル人民革命党と中国国民党・共産党との関係などに関する資料が、大量に残されており、しかも閲覧やコピーが、わりに自由だったということである。これほど詳しく記録された資料を、これほど自由に閲覧することは、中国では想像もできなかった。

 

モンゴルに行く前、ウランバートルの社会治安状況などについて、さまざまな噂を聞いた。ウランバートルに着いた後も、「財布をきちんと管理してね」「一人で出かけないでね」など、まわりの人から忠告された。しかし、現在のウランバートルを見たいという気持ちはおさえがたく、翌日から、毎日一人で出かけるようになった。泊まったホテルから、スフバートル広場、百貨店、日本大使館・・・、第13区の商店街まで、まわってみた。15年前のウランバートルの街は、奇麗に整備されていて、人はそれほど多くはなかったし、郊外からやってきた鹿が、住宅街を自由に歩いている姿すらあった。しかし、現在、ウランバートル市の人口は100万人まで倍増し、街には
埃が吹き、果物やティッシュを売る、あるいは電話機を賃貸する(公衆電話)子供の姿がどこでも見られる。さまざまな店があらわれ、商品の種類は15年前よりも大幅増えているが、物価の高騰も事実である。

 

街を走る車のなかで、もっとも多かったのは中古のトヨタ、日産、ホンダ、三菱などの日本車である。そして、毎日交通渋滞。余裕を持って出かけないと、遅刻するのは日常茶飯事である。日本の企業は、モンゴルの電力、通信、金融などの分野に進出しているそうで、空港には、日本料理店「さくら」、市内にも「東京ホテル」がある。さらに、空港に行く途中、日本・モンゴル親善協会の植林の看板も目を引く。日用品のなか、もっとも多かったのは中国製品である。空港やホテル、公的施設の便器、乾燥機なども中国製、そのメーカーや説明文はほとんど中国語で書かれ、モンゴル語・英語の表記はなく、多くは壊れている。こちらも韓流ブーム。街には、韓国語の看板と国旗がよくみられる。バスの自動ドアにも韓国語、そして韓国人経営のマンション(不動産)・ホテル・レストランなど少なくなく、デパートやレストランの中でながれているのも韓国の音楽だ。

 

15年前、ウランバートルの料理店は、モンゴル料理以外、ロシア料理、中華料理、西洋料理などだったが、今は、韓国料理・日本料理などさまざまがある。「db」という、アメリカ系といわれているレストランのバーベキューのバイキングもたいへん印象に残った。15年前には、ビールを買うために、列をつくって並ぶ人の姿をよく見たが、今、ウランバートルでは、モンゴル製のビール以外にも、ドイツ、アメリカ、韓国、中国製のビールもたくさん売られている。

 

相撲は確かに人気がある。コマーシャルだけではなく、街にも朝青龍、白鵬の絵が掲げられている。この旅の前に、モンゴルでNHKの放送がみられると聞いていたが、ウランバートルに着いたら、実際、NHKだけではなく、アメリカのCNN、イギリスのBBC、韓国のKBS、香港のスターTV、中国のCCTV、内モンゴルのNMTVなど、さまざまな国や地域のテレビ局の放送も見られるということがわかった。この面での自由は、中国も、日本も及ばない。

 

モンゴルは、市場経済の波に乗って、完全に私有化がすすみ、都会の人も利己主義になっていると感じる。しかし、日本に戻る際、ウランバートルのボヤントオハー空港で、偶然、一面識もなかったG.オチルバト氏と出会ったときには、モンゴル人の伝統的な素朴な性格を再び感じた。蜂の研究を専門にしている64歳のオチルバト氏はすでに定年になっているが、モンゴル科学アカデミーとウランバートル大学で働きつづけている。彼は話好きで、空港のレストランでお茶をご馳走してくれ、蜂や、モンゴル人民共和国のかつての指導者ツェデンバルについていろいろ話してくれた。

 

その日の夜零時になって、10時間も出発が遅れた中国国際航空CA902便が、この日は飛ばないという情報を知り、オチルバト氏は、わたしと二木先生を自宅に泊まらせ、その晩だけではなく、翌日の昼ご飯まで、ご馳走してくれた。そして、再び空港に行く時に乗ったタクシーの68才の運転手もたいへんやさしかった。彼はかつてモンゴルの映画製作の美術の仕事に携わり、奥さんはモンゴルの勲功女優であったが、今、年金だけで生活するのは難しく、やむを得ず自分の古い車でタクシーの仕事をしている。空港まで一番安い料金で送ってくれたが、料金をもらう際、恥ずかしそうな表情をうかべた。

 

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ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。SGRA研究員。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。

 

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