SGRAかわらばん

  • 2024.03.28

    エッセイ761:モハッラミプール・ザヘラ「文化の狭間に生きること」

    飛行機から降りると、カラッとした懐かしい空気が鼻を通る。閑散とした空港の荷物受取所に着いて辺りを見回すと、ガラス越しに手を振る父の姿が目に入った。その瞬間、ようやく故郷に帰ったという実感が湧いてきた。2022年の夏、3年半ぶりに出身地テヘランに一時帰国したのであった。日本に留学して9年が経つが、コロナ禍がやってくるまで、1年か1年半のペースで帰国していた。しかし、2020年2月に予約していたフライトがコロナの影響でキャンセルになり、それ以来日本から出られないでいた。   今回の帰国で印象に残っているのは、研究に必要な資料を入手しようと、テヘランのとある図書館を訪れた時の経験である。まず図書館に入って期限が切れていた利用証を更新し、ロッカー・ルームへ進んだが使い方が分からない。説明書きがあるはずだと思って探していたところ、突然横から聞こえた思いがけない声に驚いてしまった。   「初めてですか?」 「あ、はい…」 「あそこにある機械を使わないといけないですよ。一緒に行きましょう。やり方を教えますね」 「あ、ありがとうございます」   ロッカー・ルームにいた大学院生らしき女性に助けられた。どこにでも説明書きがあるのは、日本での常識だったと気付かされる。かばんをロッカーに入れて一息つき、検索用パソコンがあるホールに向かった。一つのパソコンを選び、検索しようとしたが、うまくいかない。周りを見渡していたところ、今度は少し離れているパソコンの前にいた女性に声をかけられた。   「使い方、大丈夫ですか」 「いや、あの…久しぶりに来たので、うまく検索できないのですが…」 「一緒にやりましょうか」 「え?いや…あの…あ…ありがとうございます」 「まずはここをクリックしてみてください」   結局その女性は、私が必要な雑誌を見つけて、利用申請するまで付き合ってくれた。その後、なんとか閲覧室にたどり着き、受付のおじさんに資料の受け取り方を尋ねたが、システムに問題があり、時間がかかるとのこと。仕方なく閲覧室にある20世紀初頭の新聞を広げて読みはじめ、時間が経つのを忘れる。受付のおじさんは待っている私を気にかけ、何度か話しかけてくれた。資料が用意された時には、1時間以上も過ぎていた。おじさんは、私を別の席に案内しこう言った。   「こんなにも待たせて申し訳ない。スマホで写真を撮るのは本当はだめだけど、今日は待たせたお詫びに、必要な個所の写真を撮ってもいいよ」 「え?…ありがとうございます」   お礼を言って、ポケットからスマホを取り出した。日本の図書館ではこれほど待たされたことはない。とはいえ、このように柔軟にルールを変更する対応を受けた記憶もない。   次の日は別の資料室に行って、資料を申し込んだ。すでにスキャンされた資料はUSBメモリに入れてくれるとのことだった。日本で使っているUSBメモリを担当者に渡したところ、彼はファイル名が漢字になっているのに気づいてこう言った。   「中国で勉強しているんですか。それとも日本ですか」 「日本です」 「本当に難しそうですね。もう全部読めるんですか」   会話は自然と数分間続いた。日本では調査先の図書館で、このような何気ない会話をする機会が少なかったことを思い出した。おそらく、図書館の担当者が研究者の個人的なファイルを目にしたとしても、それについて相手に質問することは考えられないだろう。   改めて振り返ると、日本で勉強し働くことを選択した自分は、文化の狭間に生きているように感じる。両国の文化を行き来しながらさまざまなコミュニケーションを重ね、その社会の規範に沿って「自然」に振る舞おうとするが、それが周りの人に「不自然」や「滑稽」に映る場合もある。時には、「自然」と「不自然」の境界線さえも曖昧になってくる。一時帰国をする時は、長年故郷を離れていて、もう常識が分からなくなってしまったような感覚を覚える日もあれば、一日も離れていなかったような、ずっとそこにいたかのような錯覚に陥る日もある。文化の狭間に生きることは、ぎこちなく不安定でありながらも、何度も発見を繰り返す機会を作ってくれている。   <モハッラミプール・ザヘラ Zahra MOHARRAMIPOUR> イラン出身。2022年度渥美国際交流財団奨学生。2023年7月、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻比較文学比較文化コース博士号取得。現在は、日本学術振興会外国人特別研究員(国立民族学博物館所属)。     2024年3月28日配信
  • 2024.03.21

    エッセイ760:尹在彦「東京の知られざる(?)基地問題」

    東京の西部、「三多摩」もしくは「多摩地区」と呼ばれる地域への第一印象は「異色」だった。2015年、最初に住み始めた小平市の風景は予想していた東京のそれとは違った。まず驚いたのは最寄り駅の線路が単線だったことだ。小平市を縦断する西武多摩湖線の風景は「郊外感」であふれていた。多摩地区出身の何人かの方から「都内に行く」と言われた時には違和感を覚えた。厳然たる「東京都内」なのに23区と呼び分けていたからだ。   私の生活圏である東京都立川市は近年「多摩地区の王者」とも呼ばれる。より田園風景の印象の強い八王子市からその座を譲り受けつつあるという。実際に、新しい商業施設の建設や商業ビルの建て替えがコロナ下でも盛んに進められた。人口は約20万人と、八王子市(約57万人)の方が圧倒的に上だが、交通の利便性や「都内」との距離、適度な自然と都会との調和という面で注目されている。そのためか、最近の立川市の平均地価は練馬区とほぼ変わらないという。   立川駅の北隣には広大な「国営昭和記念公園」がある。有料の庭園が有名で、バーベキューもできるため、地元だけでなく様々な地域から訪問する人が後を絶たない。花見シーズンや花火大会にはいつも混み合う。空から見下ろすと、公園はアスファルトで覆われた区域と隣接している。これは、この公園の特殊な歴史を物語るいわゆる「傷跡」でもある。形状からも推察できるように、これは滑走路の跡だ。今は陸上自衛隊立川駐屯地が位置されているが、かつては米軍の立川飛行場があり、その前には日本陸軍が同じ用途で使用していた。米軍の立川飛行場返還と共に、1983年開園したのが現在の昭和記念公園だ。それまで立川市一帯は「基地城下町」で、米軍基地拡張反対のための「砂川訴訟」(日米安保のあり方が問われる)も行われた。現在でも米兵向けの歓楽街の名残が一部地域に残っている。   昭和記念公園からもう少し北上すると、また広大な現役の滑走路が登場する。米空軍の横田基地だ。難読地名に入りそうな福生(ふっさ)市などに位置しており、基地周辺には米軍のための飲食店やバーなども散見される。この1年間、用事があって定期的にこの地域に足を運んだ。そのため、隣接している昭島市のカフェなどで時間を過ごすことが何回かあったが、偶然にも自分の記憶(トラウマ?)がよみがえる経験をさせられた。久々に飛行機(戦闘機)の爆音にさらされたのだ。おそらく、昭島に初めて来たであろうカフェのお客さんは繰り返される爆音に衝撃を受けたようだった。それもそのはず、会話が続かないため、ただ単に騒音が収まるまで待つしかない。   韓国空軍出身の私は兵役の2年間を飛行場の中で暮らした。宿舎から滑走路までは走ると10分もかからない。戦闘機の爆音は昼間だけでなく、場合によっては夕方まで続く。年に数回ある軍事演習時には特にひどくなる。大がかりな演習時には韓国軍だけでなく米軍も増派された。その大半は沖縄駐留米軍で「米韓安保と日米安保がこのようにつながっているんだ」と、実体験として理解できた瞬間でもあった。基地内には少数の米軍が駐屯しており、個人的には食べ物(とにかく安く食べ放題のアメリカンスタイルの料理が楽しめた)や図書館の利用など、お世話になったこともあった。しかし、騒音のせいで、基地周辺では苦情が絶えず住民訴訟も数回起こされた。   横田基地の騒音が気になり、昭島市のホームページを調べた。そこでは「横田基地」と「立川飛行場」の騒音や各種演習に関する情報が頻繁に発信されていた。事前に演習情報を知ったって、何か対策をとることはできない。残念ながらそれが経験からも分かる現実だ。墜落事故が相次ぐオスプレイに関する情報も載っていた。去年11月、屋久島沖に墜落した米軍オスプレイ機は横田基地所属だ。この地域住民にとって基地問題は他人事ではない。   発がん性が疑われる有機フッ素化合物(PFAS)問題は最近偶然知った。米軍基地から流出したPFASが河川に流れ込み水質汚染を起こす可能性が提起されている。ただし、まだ人体への影響は定かでないようだ。これまで沖縄でも問題になっていた。昨年、野党系国会議員が配布したチラシに多摩地区の水質汚染に関する情報が載っていた。東京新聞記事(2月3日)によると、立川市の防災井戸1か所で国の暫定基準値の9倍を超える値が市の調査から確認されたという。昨年9月の選挙で勝利した野党系の市長がPFAS問題に厳しい発言をしていたことも思い出した。その候補が市長に当選し独自調査に踏み切ったのだ。NHKニュース(2023年12月1月)では、多摩地区の住民を対象に行った専門家(京都大学大学院の原田浩二准教授)と市民団体の調査では、政府による他地域の調査結果より2.4倍の高い血中濃度が検出された。   このように、「都内」でも防衛政策に関しては地域による「二重構造」が存在しているのだ。沖縄ほどではないにせよ、同様の構図が東京でも続いている。2年間「暮らしていた」韓国の空軍基地は結局、住民の苦情や政治家の圧力により移転が決定された。現在は大邱(人口約240万人)の中心部からほど近い場所にあるが、2030年を目途に人口の少ない地域に完全に移転される。費用は1兆円以上に上ると見込まれる。それなりに思い出(?)のある場所だったが、やむを得ないと思った。もちろん、全ての基地問題が移転という方法で解決できるとは思わない。費用や地域間対立も相当なものになるはずだ。それでも基地問題に対する情報提供への積極姿勢やその透明性、住民とのコミュニケーションはある程度必要ではないだろうか。東京でも基地問題は現在進行形だ。   <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jae-un> 立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員、東洋大学非常勤講師。2020年度渥美財団奨学生。新聞記者(韓国)を経て、2021年一橋大学法学研究科で博士号(法学)を取得。国際関係論及びメディア・ジャーナリズム研究を専門とし、最近は韓国のファクトチェック報道(NEWSTOF)にも携わっている。     2024年3月21日配信
  • 2024.03.07

    エッセイ759:謝志海「米大統領選で見る政治とエンターテインメント」

    米国では今年の11月に大統領選挙が行われる。4年に一度のこの時期が近づくと、米国にはまだ自由が残っているなと思う。国内だけを見ても、人種問題、移民問題、度々起こる銃乱射事件、物価上昇に伴う経済格差が引き起こす強盗など実に様々な問題を抱えているようにしか見えないが、なにが自由かというと、まず一つはやはり国民が直接、大統領候補に投票できること。同じく民主主義の日本でも、国民が総理大臣を選ぶということがない。大統領制と議院内閣制の根本的な違いだ。もう一つは、俳優などの著名人が公に民主、共和どちらの党を支持するか、はたまた候補者の誰を支持するのか自由に発言できる環境があることだ。   国民と政治、広い意味でエンターテインメント業界と政治の近さには、中国と日本でしか暮らしたことのない私は驚いてしまう。「国のトップを決める選挙に国民が口を挟めるとは!」という感じだ。   最近では世界ツアーで来日し、4日間東京ドームを満席にした歌手、テイラー・スウィフトに、来たる大統領選を巡る「陰謀論」まで勃発、その火はまだ消えていない(陰謀論についての説明はここでは割愛させていただきたい)。あのような華やかな歌姫と政治?なにが接点?と思うが、米国では真剣に信じている人々がたくさんいるのだから不思議だ。なぜこの様な若い歌手に陰謀論がつきまとうのかといえば、やはり米大統領選は国民が参加できるからではないか。   実のところ、バイデン大統領よりもトランプ前大統領よりもテイラー・スウィフトの方が幅広い世代の支持者(ファン)を集めている。彼女の「つぶやき」が民主党を応援するものとなると、「スウィフティーズ(ファンはこう呼ばれている)」に少なからず影響を及ぼす。前回の大統領選では、テイラーはバイデン氏支持を公言した。そして大統領選の前は「みんな(選挙のための)登録に行こう!」とツイッター(現X)で呼びかけた。彼女が政治に関心を持っているのは明白だ。ゆえにテイラーをアンチ・ヒーローとする人々が彼女を危険視して、とんでもない陰謀論をでっち上げてしまうのも無理はない。   日本で言うところの都市伝説レベルの陰謀論がテレビニュースで論じられてしまうのもまた、皮肉の意味を込めて言う自由だ。歌手や俳優も自由に自分がどの党を支持するのか発言でき、ファンに「投票に行こうよ!」と呼びかける。これはテイラーに始まったことではない。これまでも多くの有名人がしていることだ。そしてそれらの意見に影響されようがされまいが国民は自分の権利を行使すべく、投票所に行く。若者の投票率も高い。   今回の大統領選に関して、テイラーはまだ何も発言していない。今は世界ツアーの真っ最中で、春には新しいアルバムがリリースされることも発表され、今は自身の評判(Reputation)を上げることに忙しいことだろう。政治的発言だけでなく、彼女の一挙手一投足に世界中が目を離せない状況はしばらく続く。一人の歌手がこれほど政治に影響を及ぼすとは!一方で民主党、共和党には厳しい夏(Cruel Summer)が待ち構えている。   <謝志海(しゃ・しかい)XIE Zhihai> 共愛学園前橋国際大学教授。北京大学と早稲田大学のダブル・ディグリープログラムで2007年10月来日。2010年9月に早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程単位取得退学、2011年7月に北京大学の博士号(国際関係論)取得。日本国際交流基金研究フェロー、アジア開発銀行研究所リサーチ・アソシエイト、共愛学園前橋国際大学専任講師、准教授を経て、2023年4月より現職。ジャパンタイムズ、朝日新聞AJWフォーラムにも論説が掲載されている。     2024年3月7日配信  
  • 2024.02.29

    エッセイ758:ナーヘド・アルメリ「シリア人の体重と健康への意識」

    健康に対する意識は近年、世界中で高まっている。科学や技術の進歩が健康の維持と意識の向上に大きな役割を果たしていることは言うまでもない。ただ、健康を巡る社会状況や意識は国によって異なる。健康と密接に関連する重要な要素「体重」の問題に対するシリア人、いや、アラブ諸国の人々の意識は低く、肥満でも体重には悩まないし、数値にもこだわらない。   家に体重計がない。人が行き来する大学の門の前や商店街などで、体重計を前に置いて椅子に座っているおじさんにお金を払い、洋服と靴のまま乗って自分の体重を知る。体重が50キロだろうが、60キロだろうが、80キロだろうが深く考えず悩まない。若い女子学生たちのグループが遊び感覚で大学前のおじさんの体重計を囲み順番に乗って、友達の体重の指数を見て、自分のを忘れたので確認しようとまた乗って、という楽しそうな体重比べの場面を見かけることもある。自分の体重を知らない人が多く、体重の話も別にタブーでもなく、わざわざ話題にするほどでもない。アラブの国に足を運べば、アラブの人は体重だけでなく、いかに自分の身体をデフォルトでネガティブに見ないかがよく分かる。しかし、残念ながらそういった体重への意識や無関心が、社会問題となっている過体重と肥満の因子、糖尿病など多くの非感染性疾患の有病率の増加に大きな役割を果たしている。   アラブ諸国では肥満率の増加が指摘されており、世界肥満観測所のデータによると、アラビア半島の国々を始め、ヨルダン、イラク、エジプトでの肥満率はほぼ3割で、これらの国々は糖尿病の人も多く、人口あたりの糖尿病罹患率が世界15位以内にランキングされている。シリアでの肥満率は上記の近隣諸国の肥満率には及ばないものの、2割5分を超える。実感として40~50代以降になると男女を問わずお腹が出ている人の割合が大きい。特に民族衣装を着ている人は身体全体がすっぽり覆われるため、シルエット的に目立ちにくいが、それでも時々、男性でも妊婦かと思うほどお腹がぽっこり出ている。シリアでは「お腹が出ていない男は家具のない家のようなものだ」という有名なことわざがあるくらいだ。   アラブ社会における肥満まん延の最大の原因が、カロリーが高いものの消費だ。シリアの食事には野菜や穀物が多く使われているが、調理過程で脂質や炭水化物が高いものに仕上げてしまう。昼食後に砂糖がたっぷりの紅茶を飲み、夕方になると糖質と脂質が高いデザートを食べたりする。オリーブオイルはコーランや聖書の中で祝福されたものとされているため、アラブ諸国の人は料理にたっぷりオリーブオイルをかけることが身体に良いことで、ごちそうだと考えている。自宅に食事に招待した時には、普段よりもたくさんオリーブオイルを加える。料理オイル、または野菜や牛のギー(バターオイル)より脂質が高い羊のギーを使ったデザートを用意する。   砂糖が入っていないお茶やジュースを出すことはあり得ない。1リットルのお湯に100グラムの砂糖を溶かし、お茶を入れる。5年前から続いている経済封鎖下のシリアの現状では砂糖の価格が徐々に上がり、今1キロが1万5千シリアポンドで、平均給与15万~20万シリアポンドの公務員にとって高価なので、食生活から徐々に砂糖の摂取量が減らされるのかと思ったが、逆に他の食料品を減らしたり、省いたりしても砂糖はやめられない。お酒を飲まない、経済封鎖でデザートやお菓子が高価すぎてなかなか買えないシリア人にとって、砂糖で飲み物を甘くすることがそれに代わる嗜好品なのかもしれない。   また、アラブ社会における運動不足は―いや、運動文化の欠如と言っても過言ではない―食生活に次ぐ肥満まん延の大きな原因だ。20年前からシリア、特に首都のダマスカスと近郊ではジム施設が増えた。施設は地下1階にあり、外が見えない、窓は地上の地面からはみ出している天井の高さに合うように壁の上部に設置されている。女性向けの1時間のエアロビクスクラスが1日に1回か2回あり、時間をずらした男性クラスのために種類も数も少ない筋トレマシンが置いてある。   ジム流行と並行して、テレビやインターネットの普及により、一般の人もスクリーン上で美しい女優やアーティストを見て、体重の問題に気づくようになった。さらに、ビデオクリップが広まり始めた時、夫は美しいスリムなレバノン人歌手を見て妻が太っていることに初めて気づき離婚したという事件もあった。スリムで美しい俳優や女優ばかりが出演するトルコのドラマが、アラビア語吹き替えでシリアでも流行し、ドラマの出演者に憧れ、体重を減らしたいと思うようになった若い女性や主婦が次々と現れた。だが、多くの女性には体重を減らすことについての知識が少なく、ジムに通えば1~2カ月でなりたい身体になれると思っており、その効果が得られないためにジムをやめてしまう。そこで、不健康な方法で食事をやめたり、空腹に耐えたり、専門家でない利益ばかりを目的とする販売業者からほとんど効果がない減量薬を無作為に選んで購入したりする。妥当な体重と健康状態は関連するものだと考えずに、ただ痩せて外見を変えたい。   3年余り前に帰国した後、数カ月ごとにジムを変えて通ってみたが、登録するたびに「細いからわざわざ時間かけて運動する必要はないよ」とどこのコーチにも言われた。一般の人だけでなく、ジムのコーチでも、運動は健康維持のためのものだというより、過剰な体重を落とす手段として考えている。月会費が高くなったので退会し、外で走りはじめたら、道を通る車の助手席やトラックの荷台に乗っている人に、笑われながら見えなくなるまで「1、2」とよく号令をかけられたりする。意地悪なことに慣れるまでは不愉快に思ったが、そのうち仕方がないことだと受け入れ無視できるようになった。   そもそもアラブ諸国では肥満が多くの病気の発症に関係しているという認識もあまりなく、肥満が外見問題に過ぎないと思われている。また、深刻な問題として考えられておらず、むしろ、年を取れば身体も衰え、肉体も横に成長し、病気する、それが当たり前のことだと思われている。   肥満で糖尿病になった40代の叔父や心血管疾患に苦しんでいる50代の旦那の友人に健康維持の話をすると、「我々にふりかかって来るものは、すべてアラー(イスラム教で万物を支配する唯一の神)が特に定め給うたものばかり。アラーこそ我々の守護者。アラーにこそ一切をお任せ申すべきだ」や「以前からある記録(アラーが定めたもの)に沿わない限り誰も長く生き続けないし、誰の命も短く切られることはない」などとコーランの教えが返ってきた。   そして、この二人だけでなく、病気している他のシリア人も薬を飲むのは基本的に辛くなるときに限ってだ。40歳を越えた女性は「もう年なので」と自分の身体のことを諦めている人が多い。妥当な体重または健康な状態を維持するために、好きな食事を制限したり筋肉を痛めて運動したりするのはばかばかしいことだ。どんなに努力しても、アラーが定めた日以外には死なない。むしろ、無理に努力しないで身体を巡ることに悩まないで、定められた人生のすべてをそのまま受け入れて生きるのが良くて幸せで元気という考えだ。   第三者の神アラーへの完全な依頼心が強く、主体性を持とうとしない。身体に関してコンプレックスを抱き悩む必要はなく、神にすべてを任せることが元気なのだ。それが精神的な健康の在り方の一つでもあると考えても良いかもしれない。長い時間をかけて内在化した考えからは簡単に抜け出せるものではなく、場所も生活スタイルも違えば価値観も違う。良い悪いも単純に判断できるものではない。しかし、「体重は単なる外見の問題だけではない。未病で健康な身体を守ろうと努力し様々な制限を設けることにも人生のまた別の幸せと楽しみ方がある」という考えがアラブ一般の人に広まっていく時が早く訪れてほしいと思う。   <ナーヘド・アルメリ Nahed ALMEREE> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。シリア出身。ダマスカス大学日本語学科卒業。2011年9月日本に留学。2013年4月筑波大学人文社会科学研究科に入学。2020年3月博士号取得。博士論文「大正期の童謡研究――金子みすゞの位置づけ」は優秀博士論文賞を受賞。2020年11月『金子みすゞの童謡を読む――西條八十と北原白秋の受容と展開』港の人から出版。2021年、第45回日本児童文学学会奨励賞受賞。現在、ダマスカス大学文学部日本語学科教員。       2024年2月29日配信  
  • 2024.02.23

    エッセイ757:朴峻喜「新しい研究と挑戦」

    日本に留学するとは夢にも思っていなかった。釜山国立大学博士課程の学生で、2018年春に埼玉大学に交換留学に来たことがきっかけとなった。日本に来てからは、自分の世界がひどく狭かったことに気づいて衝撃を受け、心身ともに不調な日が続き、腸炎にも苦しめられ、痩せてしまった。当初私の日本語は初歩的な水準で、解釈するのが毎日大変だった。日本で生活するのがとてもストレスだった。   幸いだったのは、留学先である埼玉大学が私にはとてもよい環境だったことだ。日本語が得意でなくても配慮してくれる研究会の雰囲気があり、私の専攻である労使関係で、日本国内で一番の専門家の先生方や多様な分野で活動している大学院生の同僚たちが私を支えてくれた。日本語ができないことが苦しかったりもしたが、一方では温かい雰囲気で研究でき、新しい未来も夢見ることができた。当時の夢は日本語が少しでもうまくできるようになること、労働と関連した博士論文を完成させること、その過程で査読付き論文を3本書くこと、そして、できれば就職もしてみることだった。   まだ信じられないが、この4年間は本当に耐えながら博士論文を書いた。大変だったが、3本の査読論文も掲載できた。運良くアカデミアに就職することもできた。努力した以上の良い結果が出て過分な状態で、これ以上望むことはないと思ったし、こうなればもう大変なことはないだろうと思っていた。   ところが博士論文を書き終えた後、目の前が閉ざされたように感じた。これから何を研究すればいいのか、どんな先生になればいいのか、元々のテーマを発展させていくべきなのか、それとも全く新しいテーマを探すべきなのか、学生たちと楽しく交流する先生になるべきなのか、それとも自分の研究に集中して著名な研究を行う先生になるべきなのか、悩ましい問題が出てきた。日本語は以前よりも上手になったとはいえ、相変らず満足できない。ミスをするとさらに恥ずかしく感じられた。   いつか人生で悩みがなくなる時があると思ったが、それは幻想だったようだ。仕方なくもう一度夢を考えざるを得なくなった。今は博士課程のような5~7年間やりたい研究ではなく、人生全体にわたる研究について考える時であると思った。どんな研究者になりたいのか、どんな人間になりたいのか、どんな言葉をどんな言い方で話す人になりたいのか、そしてそのためにはどのような計画と努力が必要なのか、長期的に考える必要性を感じるようになった。   今はまだ、何か社会に役立つ研究をしたい、そして労働研究において不平等問題を解決できる何らかの研究をしたい、という漠然とした考えしかない。もう一度、このような漠然とした考えを基に、博士課程の時のように研究体系全体を具体的に描いていかなければならないだろう。こういうことをやり直さなければならないと思うと、時に力が抜ける時もあるが、それでもやり遂げた時間を振り返ってみれば良い結論にたどり着くはずだと、少しの希望を持っている。そして、いつかこのような悩みを、同期奨学生だったラクーン同志たちと共に分かち合いたいと思っている。   <朴峻喜(パク・ジュンヒ)PARK Joon-hee> 2022年度渥美奨学生。2023年3月埼玉大学人文社会科学研究科で経済学博士号取得。現在、立教大学経済学部助教。労働経済や労使関係を研究。     2024年2月23日配信  
  • 2024.02.15

    エッセイ756:譚天陽「留学を通じて実現した夢」

    初めて日本に来たのは大学3年生の時です。大学の派遣留学プログラムを通し、鹿児島大学に留学することができました。   鹿児島大学では半年くらいの生活しか送りませんでしたが、とても印象深く、今でも忘れてはいません。その頃、初めての留学生のほとんどは日本語授業を中心に勉強していましたが、私は法学部の授業を積極的に取りました。そのおかげで、日本の法律はどのようなものなのかということに触れることができました。特に中国の法学部にはないゼミナールという授業形式に参加することで、グループワークや議論の大切さを初めて認識。そして、レポートの提出を重ねることによって、先生たちとの関係も深まりました。   帰国後、大学4年生になり卒業論文の執筆を始めました。日本と中国の法律の比較研究に先立ち、日本語論文の文献調査が必要でしたが、鹿児島大学でお世話になった先生から、貴重な情報を提供していただき先行文献を手に入れ、卒業論文を無事に完成することができました。母国では、一人の先生が担当する学生が多いため、丁寧な個人指導やゼミで議論してくれたり、帰国後もメールで親切に対応し調べてくれたりする先生はなかなかいません。   卒業論文を経験することで、さらに研究しようという意欲が生まれ、卒業後、日本へ再び留学することを決めました。研究生の半年間と修士課程の2年間を終え、修士論文が完成。日本文化をさらに理解し、研究を深めることができた2年半でした。学校でティーチングアシスタントなどを担当し、学会へ参加し、数々の学者の先生方と交流することで、日本の文化だけでなく、自分が目指すべき方向を見つけることができました。さらに奨学金を通じて財団の関係者及び先生、他大学の優秀な研究者と交流し、国際交流の大切さを認識することができました。感動と感謝の気持ちでいっぱいです。   留学生にとって、日本人と同様に学会へ参加し、懇親会などで先生たちと交流したり、ゼミで外国人でありながら後輩をサポートしたり、そして学校及び財団から経済的な支援を受けたりできたことはとても貴重でした。昨今、日本はたくさんの海外留学生を受け入れ、どの分野においても優秀な研究者が存在しています。自分も日本だけでなく各国から来日した優秀な研究者たちと深く交流することで、国際的な水準に達する研究を目指していきたいと思って、さらに博士後期課程に進学しました。   修士課程では、母国の中国と日本の比較研究だけだったのに対し、博士論文では世界の複数の国・地域での関連法制度を検討の材料にすることができました。さらに、海外の学会に参加して現地の学者と交流したり、学会のみならず、実務家の方とのつながりを深めたりすることで、博士論文だけでなく、人生の見方にも深く影響を与えてくれました。   修了後、私は日本の大学で研究を続ける予定です。この数年間を振り返ってみると、夢が次から次へと実現できました。学部時代は海外で学位を取得すること、修士課程の頃は研究者になることが夢で、博士後期課程では、これらの夢を実現することができました。今の夢といえば、自分の研究が世界に影響を与えることで、夢がかなうよう頑張っていきたい。   <譚天陽(たん・てんよう)TAN Tianyang> 早稲田大学比較法研究所助教。2022年度渥美国際交流財団奨学生。2023年3月一橋大学大学院法学研究科博士号(法学)取得。知的財産法(特に著作権法)の研究をしている。     2024年2月15日配信    
  • 2024.02.08

    エッセイ755:近藤慎司「アカデミア研究者になるという人生の選択」

    2023年3月、無事に博士の学位を取得し、アカデミア研究者としてのキャリアをスタートする事が出来た。 少なくとも大学に入学した10年前の私は、こんな人生を歩むとは全く思っていなかった。振り返ると昔から明確な夢はなく、小学生の卒業文集に載せる将来の夢には「サラリーマン」と書いたほどである。大学の進路では、数学が好きだったために理系と決めたものの、興味のある専門はなく、周りの友人に化学科志望が多かったために「流されて」出願した記憶がある。   明確にやりたい事が見つからず、漠然とした将来を描いていた私にとって、人生で初めてのめり込んだのが大学での基礎研究だった。思い返すと、当時の先輩や指導教官のモチベーションの上げ方が非常に上手だったおかげかもしれない。いざ研究に没頭するとあっという間に時は過ぎるもので、修士2年になった。ここで博士課程への進学か就職かの選択に迫られるわけだが、周囲に流されてきた私にとって、いくら研究が好きとはいえ、博士課程の厳しさ・経済的不安を知っていたため決心がつかず、就職を選んだ。人生、所々に岐路があるわけだが、ここで就職を選んだことが結果的にアカデミック研究者という道に進む大きな分岐点になった。   企業での仕事は充実しており、電気自動車の制御部品の一部であるコンデンサーの材料開発だけでなく、量産化に向けた技術課題の解決や、品質管理部門との折衝など実用化に向けたプロセスを任せてもらっていた。製品として社会を豊かにするモノづくりの一端を経験させてもらう中で、将来どのように社会に貢献していきたいか改めて考えるようになった。そこで心残りであった博士課程に初めは社会人枠として入学し、企業の業務と大学の研究活動の両立に努めてきた。当時は自宅の大阪、時には出張先の佐賀から横浜の大学に土日だけの研究活動のために往復3~4万円の交通費を払って通った。   今考えると非効率的であり、根気があったなと思う。しかし、両方の活動をしてきたからこそ、長年の基礎研究の成果が既存技術の限界をブレークスルーし、革新的な製品を生み出すことに大きな魅力を感じ、アカデミック研究者になりたいと決意できた。当時25歳にして初めて人生の夢ができたわけである。決意したからには企業を退職、博士課程1本に絞り研究に没頭してきたおかげで今日を迎える事が出来ている。   こうした人生の選択は、もちろん自分だけでなく会社の上司や大学の指導教官、友人などの周囲の支えやアドバイスがあったおかげであることは間違いない。特に博士課程に進んでからは、国際学会で出会った人や渥美財団の奨学生たちとの交流を通して、自分の価値観や選択肢が大きく広がった。4月からオーストラリアの大学で研究を行えることになったのも間違いなく昔の私なら考えられない事である。今後も様々な人生の岐路があると思うが、どの選択をしても後になって悔いが残らないよう常に自分を見つめ直し、努力していきたい。   <近藤慎司(こんどう・しんじ)KONDO_Shinji> 2022年度渥美国際交流財団奨学生。2023年3月、横浜国立大学大学院理工学府博士号(工学)取得。現在はオーストラリアのDeakin大学JSPS海外特別研究員として、次世代リチウムイオン電池に向けた材料研究を行っている。     2024年2月8日配信  
  • 2024.02.01

    エッセイ754:尹在彦「小説『1984』を読み直す」

    ジョージ・オーウェルの小説『1984』は近未来の監視社会を背景としている。作中のロンドン近郊は、至る所に「テレスクリーン」が設置され、暮らしている人々は常に「見えざる目」に監視されている。これは現在においては技術的に無理のない設定なのだが、小説が発表された1949年には想像もつかないことだった。英国の未来の帝国として想定される「オセアニア」は監視により人間の自由が極限まで限られている空間として描かれる。   『1984』に登場する監視社会の支配者が「ビック・ブラザー」だ。作中でビック・ブラザーが実在するか否かは明示されない。主人公のウィンストン・スミスは、仕事や健康体操の手を抜くたびに厳しい声でテレスクリーンのビック・ブラザーに叱られる。このような設定から『1984』は現代のデジタル監視社会を予言した小説として高く評価されている。現時点で小説のオセアニアを彷彿とさせる国々も実際に少なくない。小説が必ずしも預言書になる必要はないのだが、『1984』はその点で示唆に富む作品でもある。   私は『1984』を契機にオーウェルの有名な作品を読み漁った。『動物農場』や『カタロニア賛歌』、『ウィガン埠頭への道』等がそれで、どの作品を読んでも刺激を受けることができた。全体主義を批判的に描いた『動物農場』、スペイン内戦への従軍経験を基にした『カタロニア賛歌』、英国の炭鉱労働者の過酷な労働環境を生々しく表現した『ウィガン埠頭への道』は非常に印象的だった。彼が小説家でありながら、ジャーナリストとしても活躍していたことを知らされた。批判力だけでなく「人間愛」も感じられた。ジャーナリストを志した時期に、オーウェルの一生はモデルにも映った。   それでも誰かに「ジョージ・オーウェルを代表する一冊を選べ」と言われたら、私はためらいなく『1984』を選ぶ。ただし、その理由は前述した監視社会への洞察力とは異なる。個人的にオーウェルが『1984』から訴えたいと思ったのは「監視社会の恐怖」だけでない気がしたからだ。私は「人間個々人の政治体制に包摂されない自主性」を『1984』に隠されたテーマとして捉えている。   『1984』の主人公は体制側の人間だ。オセアニアでは誰かが反体制派として粛清対象になると、その人物に関する記録は全て抹消される。その記録を営々と機械的に焼却するのが主人公の仕事だ。検閲官ともいえる。オセアニアの国是は「過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配する者は過去を支配する」で、まさに過去の記録の抹消と現体制の統治手法が結びついている。そこから「言語的矛盾」を内包した訓示、「戦争は平和なり、自由は隷従なり、無知は力なり」が個々人に疑われることなく刷り込まれる。北朝鮮では未だにこのような「記録抹消刑」が行われているというから、相当現代的設定ともいえるだろう。   小説の展開のポイントは、主人公と監視社会の関係に亀裂が生じてから見られる。主人公は監視体制の隙を突き多くの「反逆行為」を敢行する。監視の目を何度もくぐり抜け、スラム街で密会を楽しみ、許可のない遠出の旅行も辞さない。その相手は偶然出会った自分と同様「体制側の人間」とみられた人物だった。   密会は結局摘発されてしまう。二人を待っていたのは数々の拷問や洗脳教育だった。「体制を愛する」までその教育は施される。それを担当する役所が「愛情省」というのも納得のいく設定だ。最後の場面で小説は、二人の自主性が必ずしも完全には抹消されていないことも暗示しながら終わる。   ここまで小説『1984』のことを延々と書き連ねたのは、2023年12月に伝えられたカナダからのニュースに驚いたからだ。香港で社会運動の急先鋒だった周庭(アグネス・チョウ)が突然亡命を申請したというニュースだった。刑務所から出所して以降、目立った活動もなかったため、個人的には静かに生活していると思っていた。報道によると出所後、愛国教育等を受けたという。   学部時代、「社会構造と行為」という授業で聞いた教授の話を思い出す。教授は社会構造が個々人に対し圧力をかけても、人間の自主性の可能性を忘れてはならないと強調した。教授は1987年に着任し、当時の学生らに同様の説明をしたが、授業中に強烈な反論に会ったという。当時は学生運動の最盛期で、社会構造(=独裁体制)の変革こそが至上課題であり、個々人の自主性を強調すると、学生運動の動力がそがれる可能性が懸念されていた。それでも時代は変わり、むしろ個々人の行為が社会変革の発端となるといわれている。   私は香港問題の両側(中国/民主派・欧米)の考えをそれなりに理解しているつもりだ。英国の帝国主義の矛盾や、中国社会の香港への厳しい目線を否定するわけにはいかない。それでもカナダからのニュースは、近年の香港問題が簡単には終わらないということを教えてくれた。   <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN_Jae-un> 立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員、東洋大学非常勤講師。2020年度渥美財団奨学生。新聞記者(韓国)を経て、2021年一橋大学法学研究科で博士号(法学)を取得。国際関係論及びメディア・ジャーナリズム研究を専門とし、最近は韓国のファクトチェック報道(NEWSTOF)にも携わっている。     2024年2月1日配信  
  • 2024.01.18

    エッセイ753:ナーヘド・アルメリ「変わってくれた夫」

    「不思議だね。私と同じように大きな大人で、手も2本あって、しかも55年間の人生を生きているのに、こんな簡単なこともできないなんて本当にかわいそう」、「コーラン(イスラム教の聖書)のどこかの章に家事は女性の義務だと書かれてあったかしら」、「私は人生がまだ33年しか過ぎていないのに、仕事も家事もちゃんとできて。世話してくれる妻や母がいなくて一人になったら、男は子どもみたいになって、生活能力がなくてかわいそう。だから男性の方がぼけやすいんだ!」等々、皿洗いや掃除をしながら、夫に聞こえる声で、独り言のように、心配しているかのような優しい口調で文句を言う。   3年あまり前に日本で博士号を取得して帰国し、留学する前から付き合っていた人とすぐに結婚した。大学での仕事も始まり、通勤は往復で5時間もかかり、時間にほとんど余裕がない。夫は勤続年数が満了したため、私が帰国する1年前に退職した。シリアでは、特に都市に住んでいると、仕事以外にも男がしなければならないこと多い。例えば、パンや食糧の購入、給水タンクの水位の確認、電話代や電気代などの支払い。だが、私の勤務時間と通勤時間を比べれば、それほど長い時間がかからない。   帰宅すると、夫はだいたいリビングでごろごろしていて、私がご飯を作るのを待っている。食べ終わったら、夫は食卓に座ったままで、私が皿洗いを終えるまで待っていることが多い。皿洗いを終えたらお茶を2人で飲んでから、私がまだ終わっていない家事や仕事を続ける。そのように半年くらい経つと、もともと出ていた夫のお腹(おなか)も少し大きくなり、物忘れもするようになった。「大変ですね、おばさん。妊娠何カ月ですか?」などとおなかをなでながら冗談のように意地悪いことを言う。そして、子どもがほしいと頻繁に頼む彼に、「もう既に大きな子どもが一人いますよ!」とまた優しい口調で意地悪い返事をしたりする。   夫はもともと公安部隊ダマスカス(シリアの首都)支部の人。黒帯5段の空手家なので、支部全体のトレーニング担当が主務だった。師範として人気もあって他の地区の警察トレーニングのために地方に派遣されることもよくあった。だが、退職して、トレーニングどころか、身体を動かすことすら少なくなった。   このままでは夫は年を取っていくだけだと最初から目に見えていた。しかし、結婚したばかりのころは、退職後の不安や寂しさも溜まっているだろうと思い、大好きで尊敬している夫に何も言えなかった。夫に聞こえるように意地悪い独り言や返事ができるようになるまで1年あまりかかった。   大学時代からジムに行くことを日常生活の基本の一つにしている私にとって、帰国して、段々と高くなる月々のジム代が1年後に払えない金額になり、ジムをやめて、家の周辺を散歩し、簡単なトレーニングをすることにした。家から1キロくらい離れたところに車や人の行き来も少ない通りを発見し、ジョギングに使うことにした。特に夏は朝の爽やかな風が気持ちよいので、週末や学校の仕事が休みの日に、朝早い時間に起きてジョギングしている。「行ってきます!」と一人で出ていたが、そのうち夫を一緒に出させるようにした。   少し早歩きして屈伸をして、身体が温まったら走り始める。すると、夫が息苦しくなり足も痛くなるので、ジョギングをさぼる。さぼっている夫の姿が面白くて可愛いと思ったが、「誰が長い間空手師範をしていたのかしら?」などと冗談風に言いながら、夫の速さに合わせて走って3分ごとに呼吸を整えるため1分間休むように工夫した。何十キロも続く県道を公安部隊のメンバーと走っていた30~40代の時の夫には全くかなわないと十分に分かっている私にとって、退職後の夫の男女役割分担に加えて自らの生き方についての認識に変化を起こしたかった。   結婚1年半後に夫は皿洗いをしたり、家具の表面にたまったほこりを拭いたり、私の帰りが遅い時や仕事が忙しい時にご飯を作ったりするようになった。最初はあまり上手ではなかったが段々とできるようになった。そして、現役の時のボスに連絡して、公安部隊でバイト契約ができた。物忘れも少なくなり、腹筋も出た。   最初は、「若い娘と結婚したからしょうがない」、「困った娘と結婚してしまった」などの文句を素直に受けたが、夫は本当にそう思っていたのかもしれない。しかし、日常生活では、仕事やトレーニングだけでなく、家庭のことから始めて責任感を持ち、受け身から能動的な存在に変わってほしいと思っていた。夫はきっとその成果が身に沁みたので、変わり続けてくれた。だが、何よりそれを可能にしてくれたのは、夫婦としての愛情と信頼感なのだと思う。   思い出すのは、母の家事に対する自分の子どもの性差意識と教養のことだ。保守的で伝統的な家庭に育った両親は2人とも「男は外で働き、女は家事や育児」という意識が強い。女3人の次に男3人を生んだ母は、長女の私と妹2人ばかりに家事を手伝わせた。弟たちは成長しても遊んでいるばかりで家事に手を借りてはいけなかった。私と妹が大学に入り家から離れると、母の負担は大きくなった。祝日で帰省したある日、家事で大変そうだった母に、弟たちに家事を教えて手伝わせるよう提案をした。「でも、男だから」と違和感を表す母に、「このままでは、弟たちはわがままばかりでお母さんはどんどん辛くなるだけよ。男も女と同じ人間だから、家事をさせていけないことはないよ。教えてあげれば息子も娘と同じことができる。将来一人暮らしになった場合の息子のためでもあるから。お母さんに頼まれたらきっと素直にやってくれる」と説得した。弟たちは最初嫌がっていたが、母から頼まれているのでだんだんと家事を手伝わなければという意識が生まれた。   2番目の弟は結婚してダマスカスに住んでいて、2歳の娘がいる。休みの日には娘のおむつ替えまで手伝っている。家族で集まる時には、夫と弟も当たり前のように自発的に私たちと一緒に行動する。だが、家族でない人がいると夫や弟に家事を頼めない。残念ながらシリアはまだまだ男優位の社会で、男が家事に手を貸すなんてとんでもないと思われているからだ。   恥ずかしいけど、身内の「男女の役割分担」をめぐる意識について日々の生活断片を明かした。ここで男女平等の必要性を唱えているわけではない。男女平等の課題は時代遅れだと思っている。21世紀の進展とともに女性の社会進出が進んでいるものの、男女の役割分担についての社会通念・習慣・しきたりなどが世界的に見ても残念ながらまだまだ根強いのが現実なのだ。自分には性別による役割分担の意識が無くても、親や周囲から固定観念を押し付けられることで制限を受け、能動的に生きることを阻害されてしまう。むしろ、男性の生きる能力を妨げている男性優位の既存の区分を超えて「個人」としての意識を発展させることが、各家族を始め社会全体としての家庭問題の解決や個人の前向きな生き方へとつながり、よりポジティブな社会の在り方が芽生えてくるだろう。そして、それは社会の責任であるが、母親たちの役割も大きいと思う。   <ナーヘド・アルメリ Nahed ALMEREE> 渥美国際交流財団2019年度奨学生。シリア出身。ダマスカス大学日本語学科卒業。2011年9月日本に留学。2013年4月筑波大学人文社会科学研究科に入学。2020年3月博士号取得。博士論文「大正期の童謡研究――金子みすゞの位置づけ」は優秀博士論文賞を受賞。2020年11月『金子みすゞの童謡を読む――西條八十と北原白秋の受容と展開』港の人から出版。2021年、第45回日本児童文学学会奨励賞受賞。現在、ダマスカス大学文学部日本語学科教員。     2023年1月18日配信  
  • 2023.11.30

    エッセイ752:尹在彦「被害者救済という難題」

    国内外の紛争や環境問題、政策等により多くの被害者が発生することがある。ただし、その被害者に対する救済はなかなか容易ではない。救済が進んでいない状況では被害及び加害の当事者に加え、支援者や政府、政治(政党・政治家)が絡み合い「解決」をより困難にする。後から「被害者」を名乗る人々が新たに出てくることもよくある。そのため、「いつまで、そしてどこまで救済すべきか」というのは被害者救済の最重要課題になる。救済の手法に対しても論争は起こり得る。金銭的な補償と加害者もしくは政府の反省的態度は救済のカギになる。   場合によっては国内問題にとどまらず国際問題に発展することもあり、それこそが両国関係を規定し得る。日韓関係や日中関係、日朝関係にはその被害・加害の問題が深く根付いており、それ抜きには語れない。人々のアイデンティティーがその問題に結びついている場合はなおさらだ。   今年9月27日、注目すべき判決が大阪地裁で下された。水俣病被害を受けたと訴える原告128人が国や熊本県、加害企業チッソを相手に起こした訴訟で全面勝訴した。まだ一審判決で、被告側が控訴したため、最終的な結果は見通し難いが、少なくとも同判決で「水俣病の被害ってもう歴史の話じゃない?」と驚いた人も少なくないはずだ。   1956年、熊本県水俣市で同病が初めて公式確認されて以降、被害者やその支援者、チッソ、政府、政治は対立と妥協を何度も繰り返してきた。1970年を前後として公害問題が拡散する中で、水俣病被害者への金銭的補償(主にチッソによる)や環境庁(後に環境省の前身)を中心とした制度的枠組み(行政認定制度)は確立したが、被害を訴える数多くの人々は取り残されたままだった。水俣病被害者として公式認定される基準は複雑で、それを満たさない人々への救済策はなかった。そこで始まったのが日本全国各地の裁判闘争だったが、国の法的責任が最終的に認められたのはなんと2004年の最高裁判決だ。何十年もの時間を要したのだ。   1990年代に入り政治改革が叫ばれ、政府は初めて水俣病被害者との政治決着を試みる。村山政権期の「政治解決」がそれで、約1万人が新たに救済された。当時の村山富市首相は談話を発表する。水俣病を「公害の原点」に位置づけ「当事者の間で合意が成立し、その解決を見ること」ができたと評価した。「率直に反省しなければならない」とも述べた。ただし、法的責任は回避された。これが大阪で起こされた国家賠償請求訴訟が続く背景となり、2004年に国が全面敗訴する。このように水俣病被害者は比較的症状の重い「認定患者」と相対的に軽症の「政治的に救済された水俣病被害者」に分類される奇妙な「二重構造」が出来上ったのだ。   最高裁の確定判決は2000年代に入っても水俣病被害が決して「解決されていない」ことをあらわにした。1995年に救済されなかった約3000人の被害者は新たに訴訟を起こす。「第1次ノーモアミナマタ訴訟」だ。政府は確定判決にも関わらず新たな救済の枠組みは設けなかったため、また新しい裁判闘争が始まる。   被害者救済への議論が進み始めたのは政治の変化があってからのことだ。政権交代を目前にして与野党が2009年7月に「水俣病特措法」(「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」)に合意する。水俣病被害者を救済するための戦後初めての立法措置だった。「2012年7月」という期限が設定された点は救済措置が一時的であることを示していた。同法の前文にはこうある。「地域における紛争を終結させ、水俣病問題の最終解決を図り、環境を守り、安心して暮らしていける社会を実現すべく、この法律を制定する」。つまり、この法律の制定こそが「最終解決」になるとの思惑が反映されていた。約5万人もの被害者が特措法により新たに救済される。2010年5月、鳩山由紀夫首相は政府の代表として戦後初めて水俣市の慰霊式に出席し「被害拡大を防止できなかった責任を認め、衷心よりおわびする」と謝罪した。   ところが、特措法による救済措置の終了後、またもや新しい訴訟が提起された。それが冒頭で紹介した裁判、「第2次ノーモアミナマタ訴訟」だ。「終わった」とされた水俣病問題が裁判での勝訴判決から再度注目されている。半世紀以上にわたる水俣病とその被害者の歴史は、救済や問題解決がどれほど困難かを物語る。金銭的補償や政府代表の謝罪・反省が行われたにも関わらず、被害者救済に関する議論は70年を経た現在も続いている。少なくとも問題の解決策(=救済策)を一時的な措置に留まらせないことが大事だ。     英語版はこちら     <尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jae-un> 立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員、東洋大学非常勤講師。2020年度渥美奨学生。新聞記者(韓国)を経て、2021年一橋大学法学研究科で博士号(法学)を取得。国際関係論及びメディア・ジャーナリズム研究を専門とし、最近は韓国のファクトチェック報道(NEWSTOF)にも携わっている。     2023年11月30日配信