SGRAイベントの報告

第1回SGRAスタディツアー「飯館村へ行ってみよう」報告

今回のSGRAフォーラムは、スタディツアー(福島被災地訪問)という特別プログラムとして、2012年10月19日~21日(2泊3日)に行われました。東京から貸切のマイクロバス1台で約4時間かけてJR福島駅に着き、そこで東京からの田尾陽一さんと金沢から来た私(李鋼哲)が合流し、車内で弁当を食べながら、さらに2時間近くかけて相馬市に行きました。

 

参加者はSGRAらしく、韓国からわざわざ来日した2名、シンガポール、ノルウェイ、台湾、中国出身の会員、渥美財団関係者など総勢14名でした。「構想アジア」研究チーム(チーフ:李、顧問:平川均名古屋大学教授)が形式的にではあるものの本企画を担当することになりました。

 

今回のスタディ・ツアーは、「ふくしま再生の会」理事長の田尾さんのご協力を得て、福島県相馬市と飯館村を主な訪問地としました。同会は東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故によって破壊されてしまった被災地域の生活と産業の再生を目指すボランティア団体として、昨年6月の設立以来、飯舘村に活動の拠点を設け、被災者とともに知恵を出し合いながら再生へ向けた各種のプロジェクトを推進しています。

 

「ようこそ!福島へ」とは言われても、原発事故で放射能被害が深刻な福島に足を運ぶのはなかなか勇気が要るものです。私も「参加する」と答えたものの、「放射能は大丈夫だろうか」と不安を感じました。妻は「遺言書でも残していってらっしゃい」と冗談半分で言いました。

 

福島駅のバス停留場で、田尾さんより放射線量計測器(自己開発制作したもの)を配っていただき、駅周辺の放射線量を測ったら、0.28マイクロ・シーベルトでしたが、この線量がどの程度のものであるのかさっぱり分からないのでドキドキしました。田尾さんは物理学が専門であり、かつて広島で被爆した経験があるだけに、理論的にも実践的にも放射線の人体に対する影響などに非常に詳しい方なので、彼が案内するところだったら大丈夫だろうと思いました。

 

福島駅から相馬市に向かってバスで走行する途中、休憩所で地元名物のアイスクリームをみんなで食べながら、草の生えているところで放射線量を測ったら、なんと最高は(福島駅に比べると10倍以上も高い)3.2マイクロ・シーベルトまで上昇し、みんな一瞬緊張が高まりました。ちなみに、国際基準では、「事故などによる一般公衆の1人の年間被曝量は1ミリ・シーベルト=1000マイクロ・シーベルトを超えないように」となっており、実はほとんど影響がないそうです。

 

バスは引き続き走り、相馬市に着きました。相馬市は海岸地域であるために地震と津波の被害を受けましたが、福島原発からは約50キロ離れており、放射線の影響はそれほどなく、原発避難指定地域から大勢の避難者を受け入れていました。

 

相馬市で我々を迎えてくれたのは、「おひさまプロジェクト」代表を務める大石ゆい子さんでした。元気ハツラツな方で、被災者達を支援する活動をしている小さなアパートの事務所に我々一行を案内してくれました。そこは被災者達に元気になってもらうための教室で、様々な活動をしているということでした。

 

そこで橋本経子さん(ホリスティック・アドバイザー)が、自分の病弱体験を踏まえて避難生活者達に行っている心理的なケア活動について紹介してくれました。橋本さん自身が、被災者達の辛い立場を十分理解し、命の危険を冒してまで、避難地域の被災者の自宅まで一緒に立ち入り、必要な家財の整理や墓参りなどを手伝ったとの、感動的な物語を聞かせてくれました。そこは放射線量が80マイクロ・シーベルトの危険地域だったとのことでした。避難した人たちは家族がばらばらになって県内や県外で避難生活を送っているケースが多く、「一日も早く復興して帰郷したい」という気持ちだということがよく分かりました。この教室で約1時間半、地元の人々のお話を聞き、質疑応答もしました。

 

その後、またバスに乗って海岸地域の被災地を見学しました。地震や津波被害で多くの建物は破壊され、流されたその惨状は目を覆いたくなるひどいものでした。テレビで見るのとは違い生々しい光景で、それを見ていた参加者の心情を想像していただけるでしょう。

 

夕方まで見学した後、バスに乗って隣の伊達(だて)市霊山(りょうぜん)の山中にある「福島ふるさと体験スクール」に向かいました。この施設は子供達に自然と農業、伝統的な生活体験をさせる目的で、2年前に東京の高校の校長をしていた酒井徳行さんが私財を投げ打って作ったのですが、原発事故で子供達が来られなくなり、我々「大きな子供」達が泊まることができたのです。

 

心をこめて用意された美味しい夕食を食べながら交流会が行われました。大石ゆい子さんと河北新報編集委員の寺島秀弥氏さん駆けつけて夕食懇親会に参加しました。自己紹介の後、大石さんが「おひさまプロジェクト」について紹介してくれました。

 

このプロジェクトは、「健康や癒し」をキーワードに食事や運動とグリーン・ツーリズム、エコ・ツーリズムを取り入れた体験滞在型の「までい流ヘルス・ツーリズム」構築を目指し、新しいライフスタイルの振興を行うことで、QOL(生活の質)の向上を図ることを目的としています。健康、食、環境が共存できる広域的で新鮮な地域活性化事業に取組み、地域が自立できる<場>を構築し、活力ある地域社会を実現するために、同じ志を持った仲間で立ち上げたものです。

 

飯舘村の人々は原発事故の被害に立ち向かって一所懸命闘っています。彼らは「までいの力」(「までい」とはこの地方の方言で、「両手を動かして頑張れば、いかなる困難も乗り越えられる」との意味)を発揮し、「までいの精神」でふるさとの再建に立ち向かっています。その精神に感銘を受けました。

 

翌朝、宿泊施設を後にして飯舘村に向かいました。途中で飯舘村農業委員会会長の菅野宗夫さんが乗車し、我々を案内してくれました。最初に被災者の仮設住宅(福島市松川工業団地敷地内)を訪問しました。仮設住宅に住んでいるのは、ほとんどシルバーの方々で、老人村のようでした。避難した人々はここで一応安定した生活を送っているようですが、精神的・心理的にはますます不安な状況とのこと。これからどうなるのか?ふるさとに戻れるのか?など心配する毎日を送っているとのことでした。

 

そこで数名の方から避難生活に関するお話を聞きました。「いいたてカーネーションの会」というNGOの代表佐野ハツノさんは地元で被災者支援活動、心理的なケア活動を精力的に行っている様子を聞かせてくれました。住民のおばあさんたちが、寄附してもらった着物の生地を使って、洋服や様々なグッズを作って販売しています。この事業によって、おばあさんたちの目が輝くようになったとのことでした。

 

しかしながら、地元の皆さんの訴えの多くは、「国や政府が充分な対応をしてくれない」、「世間はもう自分達のことを忘れている、報道にも出ない」、「早くふるさとに戻って平常の生活をしたいのに、何も起こらない」などでした。政治家、官僚やマスコミに対する怒りがかなり貯まっている様子でした。

 

気持ちが重くなる言葉を心に刻みながら、我々はバスで全村計画的避難区域の飯館村に向かいました。この地域は、住民は昼は入ることができますが、泊まることはできません。線量計の放射線量は徐々に上がりました。飯館村の南にある立ち入り禁止区域の前のゲートまで行き、そこで全員バスから降りました。周辺の放射線量を測ったら最高31マイクロ・シーベルトまで上がりました。皆さん少し緊張した表情をしながらも、写真を撮ったり、警備員に話しかけたり、平静な雰囲気を演出していましたが、バスに戻ってそこから離れると皆ほっとした表情で、「ここまで来たのだからもう怖くない」という感じでした。現場を体験すると勇気も倍増するようでした。

 

引き続き飯舘村役場近くにある特別養護老人ホーム「いいたてホーム」に行きました。そこの休憩室で弁当を食べ、施設長の三瓶政美さんのお話を聞いた後、施設見学と隣接している役場見学をしました。80名あまりの老人が介護施設に入っており、避難指定地域ではあるが、地元の行政の判断と国の許可を得て全員避難せずにいるとのこと。従業員は施設や近くに住むことができず、全員が避難地域外から車で長時間をかけて毎日出勤せざるを得ない、という厳しい状況でした。

 

最後の訪問地は菅野宗夫さんの自宅がある山村でした。宗夫さんの自宅は「ふくしま再生の会」の現地事務所になっています。近くの田圃や畑には田尾さん達が作った飯舘村再生モデル事業の「イネ栽培実験田」があり、実験用で栽培した稲が田圃に干されていました。この稲は放射線量がたくさん含まれているので、「一粒とも残さず国に納めよ」という国の指示があるそうです。サツマイモの実験畑も見学しました。このモデル事業は、田圃や畑などの放射線量を常時計測しながら除染作業を進めていき、何年かかるかは分かりませんが、村人達が戻って来て自分の家と土地でかつての平穏な生活と農業ができることを目指しているとのことでした。

 

宗夫さんの自宅は、事務所としてだけではなく、線量計設備(田尾さん達が手作りした)が配置され、簡素な設備ではあるが立派な実験室のようでした。そこで色々なデータを計測し、データ分析する大学や、国内外に向けてインターネットメディアを通じて発信しています。そこで我々はこたつを囲んでお茶を飲みながら宗夫さんのお話を聞きました。理路整然と被災地の現状、国の対応、地元の対応などについて説明してくれました。「原発事故は福島だけのことではない、日本のことであり、アジアのことであり、全世界のことである」、「この事故で世界が教訓を汲むべき」と強調しました。だからこそ、地元の現状を常に世界に向けて発信することが必要なのです。

 

「我々SGRAのメンバーとして、福島被災地のために何ができるのか」、参加者は皆、見学しながら常に考えていましたが、「世界に向けて日本に向けて発信して原発事故を忘れさせない」、「原発事故の被害について考える」ことが我々の役割ではないか、と考えるようになりました。

 

飯舘村を後にして、バスは宿泊地の霊山紅彩館に向かいました。立派なリゾート宿泊施設で、霊の宿る山の中にありました。入浴後、2回目の夕食と懇親会がありました。菅野宗夫さんも後を追って参加してくれました。ここでも宗夫さんと田尾さんのお話を聞き、参加者全員が感想発表をしました。2日間、参加者は貴重な体験をしながら、地元の人々や支援者達のお話を聞き、強く胸を打たれました。「福島を永遠に忘れることはできない」というのが参加者共通の思いでした。

 

翌朝は宿泊地を後にして、伊達市保原歴史文化資料館を見学しました。東北の藩主伊達家の歴史について勉強するよい機会でした。養蚕で財をなした旧亀岡家住宅も大変素晴らしく、東日本大震災でもほとんど無傷だったという明治時代の洋風建築に見とれました。1時間ほどの見学後、バスは福島を後にして東京に向かいました。

 

「福島よ、忘れさせない!」

 

スタディ・ツアーの写真

 

(執筆および文責:李鋼哲 [SGRA構想アジア研究チームチーフ、北陸大学教授] )

 

 

 

2012年11月7日配信