ラクーン、石巻へ



2011年9月19日。大震災の後、6ヶ月と8日が過ぎた日。
その日の朝、私は東京駅から仙台駅に向かう初発の新幹線はやてを待っていた。
石巻の子供達に対するインターナショナル炊き出しと被災地視察の日程、
料理には実力より意欲が先で、いつも失敗する私でもあり、なんとなく被災地視察の方に気が向かうことに微妙な罪悪感を感じながら、新幹線に乗った。
仙台までかかった時間は2時間余り、近いと言えば近い距離であった。東京の天気は晴れだったが、北の方に行くにつれて悪くなり、仙台に着いたら雨だった。それにまた寒かった! 炊き出しが無事に行われるかどうか心配になった。
仙台駅から石巻まではさらに2時間くらい。今西さんが直接運転される車に乗って移動した。ありがたいばかり。運転できない自分自身が恥ずかしくなった。それに比べ、帰りに乗せてもらった同期のゴックさんの素晴らしい運転実力に感嘆。
あけぼの集会所に着き、他の方より遅くなった済まなさに、活発に動こうとしたが、やはり予想どおり、料理実力の大不足。韓国からの奨学生、金銀惠さんと朴准儀さんにすべてを任せたまま、野菜を洗い、お湯を沸かすのを手伝ったが、結局退出(?)させられた。 (役に立たなくてごめんなさい!)
12時30分から料理を出し始めた。プロフェッショナルな各国留学生達の間でチヂミを作り始めたが、やはり情けないその動きに我慢できなくなった地元のお母さん達に助けられる事になってしまった。大きな鉄板に起し金を使って大量生産を始めたが、その方法はかなり印象的だった。綺麗な円形を作るためにはフライパンがいいが、多く作り出すためには鉄板に起し金という組み合わせもいいと思った。 起し金は他の料理にもなかなか有用だろうと思い、韓国への帰国前、ダイソーで一つ買った。これもある意味での文化交流の出発点だろうか。まもなく、 金さんと朴さんが作ったチャプチェが出された。列に並んで美味しく食べる子供達の姿を見て、胸が温かくなった。
炊き出しが終わり、暫く休憩の後、開発禁止区域に指定されている被災地に向かった。30分程度の距離の海辺だった。丘の上で被災地を見下ろした後、皆の意見が一致し、直接被災地を歩いてみることになった。同じ目の高さで被災地に接すると、その時の惨状が肌で感じられるようになった。巨大な瓦礫の山と壊れた車、土台だけのこった建物。津波に打ち抜かれた後、建物に残された生々しい穴。深く傷ついた石巻の海辺は、針の落ちる音が聞こえるほど静かだった。そして、私はそこに立って、生と死の間は細い線に過ぎないということを切実に感じた。その細い線がまさによく見えたので、さらに怖く、胸が痛かった。
しかし、そこでは、また、生が始まっていた。土地の血管とも言える道路が造られていた。黙々と、決意を固めた表情で道路を造っている人たちの姿は印象的だった。また、次の日に接近が予想される台風に備え、海を監視していた人たち、傷ついた建物の中で動いていた木材工場の人たち、そして、楽しく、美味しく、料理を食べていた子供達の明るい姿に、また咲き始める希望が感じられた。

当日の写真をご覧ください。


(文責:金キョンテ)