仏教とエコロジー

ダンカン・ウィリアムズ

 

 


ウイリアムズと申します。2年前、日本に来て大学の近くを歩いていたとき、「草木仏性あり」という看板を見つけました。私が研究している曹洞宗の開祖、道元禅師の言葉がどうしてここにあるのか、と興味を引かれた私はその看板の隣にお寺を発見し、訪ねて事情を聞いてみることにしました。すると副住職さんが教えてくださるには、このお寺を囲む森が何百年にもわたって、私たちに数知れない恩恵を与え続けてくれたのに、それを無視して乱雑な自然破壊が行われようとしている。それをどうにか防ぎたいと思い、昔から仏教にある言葉「草木仏性あり」、すなわちどんなもの、草でも木でも仏の心があるというスローガンを掲げ、近隣の住民とキャンペーンをしている、ということでした。

 

 今まで仏教の研究を10年以上続けていましたが、環境問題と仏教とは何らかの関わりを持っていることに気が付いたのは、この時が初めてでした。それ以来、仏教とエコロジーに関する資料を集め始めました。そして皆さんのお手元にあるレジュメの裏側に、その代表的な日本語での研究資料の一覧を載せてありますので、興味のある方は後で読んでみてください。

 

 それで私なりに、今までの研究資料から仏教とエコロジーの接点を次の3点に絞って考えてみました。まず最初のテーマとして、環境問題は単にテクノロジー、政治、科学、あるいは産業といった問題だけではなく、根本的に概念の問題だと私は思います。天然自然の乱開発の根本的な問題は、私たちと自然界との関係を間違って認識することから生まれてきたと思います。では仏教が教えてくれる私たちと自然界の関係の正しい認識は何でしょうか。簡単に言うと、それは仏教用語で言う「無我」という思想です。「無我」というのはエコロジー的に解釈すると、本来、自分が自然の中の単なる1構成分子に過ぎないという思想です。

 

この「無我」というものをもう少し身近なものを使って説明したいと思います。例えば皆さんが手にお持ちのレジュメの紙、その紙を例としましょう。その紙は字を書いたり、ものを包んだりする機能的なものとしての見方をされるのが普通です。しかし「無我」の認識方法から見れば、私たちはこの紙の中に森から生産された木が見え、あるいは紙の中に雲を見ることもできるでしょう。雲がなければ雨も降らず、雨も降らなければ木が育たない、木が育たないと紙も作ることができない。このように、この一つの紙が他のあらゆるものから切り離せない存在であるように、私たち人間も私たち以外のあらゆるものなしでは存在できないものです。これがいわゆる仏教の「無我」という思想です。

 

 この「無我」という思想を基にして、鶴見にある曹洞宗の総本山である総持寺では千年の森プロジェクトを行っています。千年の森プロジェクト、人間と自然が切り離せない、切り離しては存在できないという考えから、お寺の境内に延々と続く森を作り始めています。苗木から育てることによって強く豊かな森を作っていこうとしています。檀家さんの人々に苗木1本を1000円で買ってもらうことによって、この運動への参加を呼びかけ、この森を自分たちで育てていくという認識を持ってもらうようにしています。

 

 この総持寺千年の森プロジェクトは、一つの例であり、曹洞宗全体としてグリーンプランという、人間と自然との共存を目指したキャンペーンを展開しています。全国に1万5000ある曹洞宗寺院の一つ一つが、このキャンペーンを始めることによって、どれだけの大きな森が育っていくのか、皆さん想像してみてください。この「無我」の思想を通しての自然とのかかわりに関する新しいビジョンが、仏教とエコロジーの接点の第一のテーマです。

 

 仏教と環境保護の二つ目の接点は、この新しいビジョンから発生する倫理観であります。今までの倫理観は自然破壊の上に成り立っていた私たちの社会経済活動を受認するものでありましたが、これからの社会においては、自然とのかかわり合いを無視して生きることは新しい倫理観に全くそぐわないということが言えます。新しい仏教環境倫理というのは、絶対的な命令ではなく、私たちが向かうべき方向を示すある種の指標なのであります。

 

例えば「殺すべからず」という仏教の第一戒律を「できる限り生命を保護すること」というような言葉に置き換えれば、私たちは倫理と実際の生活における必要性を両立できるわけです。すなわちそれはできる限りリサイクルを実行したり、エネルギーの効率化を促したりすることです。

 

 仏教国のタイでは、このような「できる限り生命を保護する倫理」をベースにして、森に木を植えると同時に、さらに特殊な活動を行っています。図1では、タイの僧侶が破戒直前の森で木に仏教戒律を授け、木の回りに朱色の衣を巻き付けています。これをシンボルとして木に対して出家得度式を行い、その木が僧侶としての魂を持つことを表すということです。木の上のほうにタイ語で「森を守ることは生命を守ること」と書かれたサインが貼られています。仏教徒として信心深いタイの人は、朱の衣を巻かれて僧侶になった木に斧を振るうことは絶対にしないのです。この運動が一つの自然を守る新しい仏教的倫理観の表れであることは言うまでもないでしょう。

 

 最後に仏教と環境問題の第3の接点は、今まで述べてきた仏教的ビジョンと倫理に基づいたエコロジー・コミュニティ作りにあります。国を超えた今のグローバルな世界では、日本あるいはアジアからの仏教思想がヨーロッパやアメリカにでも盛んになってきました。図2は米国カリフォルニア州サンフランシスコの近くにあるミル・バレイです。この山の向こう側にたどると、突然、有機栽培の畑が見えてきます。畑の近くには地蔵堂が見え、これはどこだろうと思うと、Zen Center Green Gulch Farmといった禅宗の修行道場ならびにオーガニックファームであります。この正面に見える座禅堂で座禅の修行を行ったり、畑での修行として有機農業を行っている仏教のコミュニティです。ここで作られた野菜はサンフランシスコでトップファイブに入る有名レストラン「ザ・グリーンズ」という菜食主義レストランに持っていかれます。

 

 このような地球に優しい生き方、ビジネスのあり方が21世紀に必要なエコロジー・コミュニティと社会ではないでしょうか。親鸞上人の「自利他利円満」という言葉がありますが、自分の利益、つまり人間の利益ですね、が他、つまり自然の利益にもなるような新しいコミュニティ作りが21世紀の課題であるのではないでしょうか。

 

 今日の話の締めくくりに当たって、もし仏教とエコロジーとの対話から学ぶことがあるとしたら、それは次の2点にあると思います。一つは環境危機は単にテクノロジーや政治という分野の危機ではなく、同時に概念や倫理的価値観の危機であると考えられることです。これからの21世紀のグローバリゼーションの一つのチャレンジとしては、グローブ、即ち、地球自体を宝物として扱うことではないでしょうか。

 

 さらに仏教というのも日本の一つの宝物であり、この日本の仏教から生み出される新しい、けれども伝統のあるビジョン、新しい、けれども伝統のある倫理、新しい、けれども伝統のあるコミュニティを、世界に広げていくのが日本のすべきグローバリゼーションのための大切な行動ではないでしょうか。今日はどうもありがとうございました。(拍手)

 

Duncan Williams (ダンカン・ウィリアウムズ)

Trinity College助教授(内定)

ポートランド市リードカレッジ卒。ハーバード大学Divinity School修士。同宗教学研究科博士課程。上智大学大学院比較文化研究科研究員。同非常勤講師。駒沢大学文学部研究員。博士論文「Re-presentations of Zen: A Social and Institutional History of Soto Zen Buddhism in Edo Japan」(執筆中)2000年9月よりTrinity College助教授内定。渥美財団1997年度奨学生。

 

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