■特別寄稿 ――――――――――――――――――――――――――――――――――

家族で過ごした軽井沢

こう  とくしゅん
洪 徳俊
国立中央大学経営学部副教授
神戸大学 博士(経営学)
阪神大震災被災特別奨学生
在台湾台北市

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 1998年長男が小学校を卒業しましたが、この時に彼は一人前の鉄道ファンになっていました。そのため夏休みを利用して渡日し、一家で4枚のJRのチケットを買って日本全国の電車に乗りまわりました。また、この機会を利用して私も日本各地の温泉をめぐり、年末に開館する「北投温泉博物館」の資料集めもしました。同時にこの機会に渥美国際交流奨学財団の夏の軽井沢旅行にも参加しました。

 渥美財団は1995年より関東地方に住む留学生に奨学金を提供していますが、1995年には神戸での大震災で被害にあった留学生にも特別に奨学金を贈りました。幸運にも私はこの奨学金を受給することができました。ガレキの中での奨学金は私を暖かく支え、そのおかげで念願の博士号の学位を取得することができ、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。9年の留学の過程を振り返って、私は本当に恵まれていたと思います。最初の2年は交流協会奨学金、続いて2年間のロ−タリ−、3年間の日本生命財団、最後は渥美国際交流奨学財団の奨学金を頂くことができました。これらの団体の提供する奨学金なしでは、とても経済的基盤のない学生が安心して研究、学業に打ち込むことはできなかったでしょう。奨学金は見えざる手のように、留学生に博士への道を歩ませてくれました。

  さて、2週間かけて日本を巡る電車の旅を終え、最後に軽井沢で下車しました。たったひとつのトンネルをくぐりぬけただけで、あたり一面霧の世界に包みこまれ、こんなにも世界が違うのかと驚かずにいられませんでした。タクシ−に乗って森の中を突き進み、ようやく鹿島建設の軽井沢研修センタ−に到着し、3日間にわたる渥美財団の集いが始まりました。参加メンバ−の各国の留学生は、理事長の渥美伊都子さんの歓迎のことばで迎えられました。その親切で暖かな感じはとても印象に残りました。食事の後、みんなで屋外に移動し、子供も一緒に花火をしたりスイカ割りをしたりして充分に楽しみました。翌日は理事長の別荘でバ−ベキュ−パーティーが開かれました。テニスをしたり、子供達とフリスビ−をして遊んだり、様々な活動を通じて、皮膚の色は異なり、言葉も異なれど、参加者は日本語や英語でコミュニケ−ションをとりあいました。3日目には皆で森を散歩しました。雲場の池にはたくさんのアヒルがいました。パンをちぎって投げると、あるアヒルは飛び付いてきましたが、別のアヒルは泳いで近づいたりとなかなか面白いものでした。

 渥美財団の軽井沢旅行は今日で終わりでしたが、私達は残って森林の別荘にもう一週間泊まりました。軽井沢の別荘地は100年前にイギリス人が日本での避暑用にと開発したものです。森林の中の小屋に住み、夜に夫婦で理事長の家を訪れました。理事長は70才を超えているとは思えない程肌つやがよく、威厳に満ちあふれていました。私達と一緒にお茶を飲む時も、決まって両手で湯のみを持って飲まれ、刹那、礼儀作法が私達とは全然違うのだなと思いました。特にバ−ベキュ−の時、皆カンパイをした後ひたすら食べるのですが、理事長の場合はゆっくりと一切れずつ切った後、少しずつ味わいながら召し上がるのです。ふとお部屋の壁を見わたすと「命有死生、軽流物不」との掛け軸ありました。確かにこの哲学通り、物事に永久というものはないと思います。

  軽井沢の森の空気は透き通っていて水分と栄養に満ちあふれているので、じっくりと深呼吸をすることができます。昼間、森林の中で自転車をこぎ、あちことめぐりました。車も少なかったので自由自在にまわることができました。次男の日記にはこう書いてあります。「ぼくたちは山谷に着き、石の間からあふれる泉の水を飲んでみましたが、それは冷たくひんやりとしていて、また水の中には魚が泳いでいたりと、100年前と全く同じままで環境が全く破壊されていません。その後ぼくたちは、再び自転車に乗り、落葉松の並木に着きました。沢山の落葉松が河のほとりにあり、ここでお父さんが100年前の詩人、北原白秋の有名な落葉松の詩を読んでくれました。その意味は大まかこんなものです。『私達はよく山川の声を聞かなくてはならない。落葉松の風はごみごみした世間に比べるとずっとすっきりしているものだ。』雨が降ってきたので、ぼくたちはそこに座って待つ他なく、雨の音と水の流れる音を聞いていました。」

  夜になると、子供達は疲れで早いうちに眠りに着き、私達夫婦は虫の鳴き声と電燈のあかりの下、理事長が私達に貸して下さった4冊の本をわくわくしながら読んでいきました。家内は歴史の角度から、私は経営の角度から鹿島守之助氏や渥美健夫氏の豊富な人生経験の世界に入っていきました。鹿島建設は創業して158年の歴史がありますが、内にとどまることなく、常に建設業を拡大しています。明治初期は国家の近代化に沿って鉄道、ダム、洋風家屋などの建設に関わっていました。台湾の鉄道の半分以上と日月潭のダムは第二次世界大戦の前に鹿島建設によって建てられたものです。戦後、鹿島は超高層ビル、高速道路、工場、海外への発展と業績をのばして日本一の座に着き、国際的な大企業へと変貌しました。鹿島建設の成長の過程は、日本が戦後いかにして立ち直ったのか、また、日本の戦後40年の発展をそのまま反映しています。

 鹿島は創業以来から「革新」を強調しています。例えば、1931年、台湾の日月潭ダムの建設の際、その地形ゆえ、工事は困難を極めましたが、鹿島は空中吊り橋式を新しく試み、問題を克服しました。また、霞が関で超高層ビルを建設する時にも、初めてコスト管理を導入し、建設業界はコストをコントロ−ルできないという「常識」を破りました。鹿島は時代の流れに乗り、会社は一部上場にも名乗りをあげ、経営理念の革新など、建設業の近代化に非常に大きく貢献しました。交通と通信がますます便利になり、情報が瞬時に伝わる今日において、経営者は距離(地理)と時間の観念を改めて考え直さなければ、急速に変化する時代に取り残されてしまいます。1970年代、社長だった渥美氏は、この新しい観念をすでにもっていました。そして国際化が始まりつつある頃には、すでに率先して海外へと進出していました。1970年、台湾の曽文ダム建設の際、鹿島は技術指導をほどこしましたが、これなどはよい例です。渥美氏のようなリ−ダ−は本当に尊敬に止みません。

  軽井沢は日本で最も有名な避暑地で毎年800万人の観光客が訪れますが、ここも107年も前に鹿島建設が開発にたずさわっています。鹿島が開発に乗り出した時、自然をそのまま残すために様々な工夫をこらしました。道路は可能な限り小石や石の塊を用い、別荘との境界も土で小さな囲いを作った程度のものです。別荘地は個人や企業に分割して売買されましたが、土地と土地のしきりにははっきりとした壁などなく、そのため一見すると大森林そのままの状態で、観光客は自由に自転車であちこち乗り回すことができます。「軽井沢百年写真集」でも、今と変わらぬ景色を見ることができ、本当に驚かされます。

   5千坪の渥美家の別荘、軽井沢の夜、子供達はぐっすり眠ってしまいましたが、電燈の下、私は渥美氏と鹿島建設の本を読み、そこからの豊富な人生をゆっくりと味わい思考しましたが、それらは本当に充実したものを与えてくれました。