評議員のことば

ジャパニーズ・スタンダード

加藤秀樹

 

 国際化、国際貢献、グローバリゼーション、グローバルスタンダード・・・我々はもうずい分以前からこれらの言葉に追いたてられているような気がする。ここ20年ほどの日本くらい「国際化」を国を挙げて奨励してきた例はないのではないか。日本は、もっと国際貢献をすべきだと言う。しかし、それほど各国が国際貢献に心を砕いているのなら、とっくの昔に戦争などなくなっていてもよさそうなものだ。EUは国際的な安定に大いに寄与するかもしれない。しかし加盟国は国際貢献をしようとヨーロッパ統合を進めた訳ではあるまい。自国の長期的な利益の追求が、このような成果をもたらしたということだろう。企業でも、国の繁栄に貢献するために経営しているところはまずない。自社の将来戦略を考えた結果が地球環境や地域経済への貢献につながることになる。冒頭の言葉がジャーナリズムに舞うのを見ると、ついこんな当たり前のことを確認したくなる。

 Socio cultural eco dynamics という言葉がある。経済や政治のしくみはその国、地域の文化、すなわち生活、風習、人間関係などの上に成立し、その文化はエコすなわち風土や気候条件に依存する、という意味だと私は解釈している。ましてや人間社会ははるかに複雑だ。地球も人間ものっぺらぼうで世界中どこへ行っても同じというバーチャルワールド上でなら、経済も政治も世界中に一つのルール、しくみが成立するかもしれない。まさにグローバルスタンダードの世界だ。しかしそうはいかない。我々はリアルワールドの中に居る。大体世界中同じではつまらない。日本人はひょっとしたら世界中で最も国際的な人種かもしれない。世界中からブランド品を取り寄せ、毎日中華料理だイタリー料理だと楽しんでいる。完全なグローバルスタンダードの世界になると日本人が最もがっかりしてしまうのではないか。

 経済の話をしていると、フリー、フェア、グローバルは正しいことという前提で議論が行なわれる。しかしフリーとかフェアとか言っても国によって異なるほうが自然だ。アメリカ人がフェアだと言っても、フランス人や中国人やアラブ人は同意しないことは多い。私はこの違いはいつまでたってもなくならないし、なくなってはいけないと考えている。多様であるというこごは大変重要なことなのだ。均質な社会は活力に欠け脆くなる。最近の日本の金融業界はその見本のようなものだ。雑草には伝染病はないが単一の栽培作物がすぐやられるのも同じことだ。だからこそ生物の多様性を条約まで作って守ろうとしているのである。多様性の中にこそ、ショックや危機に対する抵抗力、回復力、そしてバランスとダイナミズムがある。だからグローバルスタンダードが行き渡り、世界中の人達が同じような行動をとるようになったりすると、人類絶滅の危機だと私は思っている。

 もちろん私は国際的に開かれた社会を否定しているのではない。むしろ開けば開くほどグローバル化が進むほど、自分自身のスタンダードを確立しておくことが大切になるということを言いたいのである。金融を筆頭に経済の世界ではまだまだグローバル化は進むだろう。そうなればビジネスの仕方や政治に関して企業間、国家間のストレスは一層高まるだろう。これを上手に処理していくには、それこそ国際的なコミュニケーションを緊密にするしかない。そのためには、まず、自国のことを充分理解し、利害をわきまえ、それを徹底して相手に伝える努力が必要になる。自分の中身を知ることと表現力の両方が求められる。その意味で不可欠なことは古典を学び歴史を勉強することだと私は思う。私を筆頭に、歴史を知らないという点では多くの日本人は「国際化」に立ち遅れているのは間違いない。海外の情報を集めることも重要だが、まず歴史を学びジャパニーズスタンダードを見つけることから始めよう。

                                                                                             (構想日本代表)